竹田先生の現象学序説とも言うべき壮大な内容です。
まず、フッサールの現象学の概要と意義について。科学的な素朴な実在論を一旦括弧に入れて、今意識内で現象している内容から確信の信憑構造を明らかにします。通常と反対をする訳です。そうすると素朴実在論のように認識の真理性を主観と客観の一致と考えることから離れ、他者との間主観性において一般的に合意が成立する事と、宗教的信条のようにそのような合意の成立し得ない内容が仕分けされる事になります。そのプロセスを経ることにより、他者との間に自由の相互承認をもたらそうとする構想です。その事によって、ポストモダンに至り互いの小さな差異に拘っている間に、お互い何をしているのか見えなくなって来ている思想的な言説空間を蘇生させることを目指しているのです。
この現象学の特徴はあくまで認識論の次元に於いて諸思想を捉える事、そしてヘーゲルやハイデガーと異なり、超越項を持たない事だと思います。その為、竹田現象学は価値中立的に諸思想を統合的に捉えて行く為のプラットフォームになる可能性を秘めていると思います。
さらに竹田先生はその現象学の方法論、本質観取を実際に諸思想に適用しバサバサと整理してみせます。言語哲学、フロイト、ラカン、メルロ=ポンティ、ハイデガーなど。そうして竹田先生の頭脳の中で諸思想が見事に相互に自由を承認しながら統合されているのを見るのです。
竹田先生は佐藤優氏が書評で紹介していて知りました。この本の前書きでは竹田先生の現象学の理解を共有しているのは西研氏だけだ、と言っていますが今は日本の知的な言説空間ではかなり市民権を得て来ているのではないでしょうか。西研氏は田原総一郎と対談本を出したりしておられます。佐藤優氏は哲学の取っ掛かりには現象学が良い、と言っていますがその理由は本書を読むことによって納得できます。
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現象学は思考の原理である (ちくま新書) 新書 – 2004/1/10
竹田 青嗣
(著)
- 本の長さ264ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2004/1/10
- ISBN-104480059938
- ISBN-13978-4480059932
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2004/1/10)
- 発売日 : 2004/1/10
- 言語 : 日本語
- 新書 : 264ページ
- ISBN-10 : 4480059938
- ISBN-13 : 978-4480059932
- Amazon 売れ筋ランキング: - 120,435位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2022年5月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
フッサールセレクション(平凡社ライブラリー)を読んでいますが、この本(現象学は思考の原理である)で言っていることとフッサールが言っていることは少し違うと感じました。
2019年4月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
現象学的還元で現実的な対立を解決できるとは思えなかったが、本としてはよく書けており現象学の概要が理解できた。
2014年3月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「よみがえれ哲学」(NHKブックス)を読んで、もう少し現象学を勉強したいと思い、本書を購入しましたが、私にはあまりわかりやすい内容ではありませんでした。
2008年1月5日に日本でレビュー済み
本書は、『はじめての現象学』と同様、次の2つの流れを念頭に置けば理解は容易になります。
1)客観(自然物α)⇔(生理的)身体(知覚直観:存在)⇔主観(自然物の像α’)
2)客観(事柄β)⇔幻想的身体(本質直観:意味や価値)⇔主観(事柄の経験β’)
上記⇔が全て→ならば自然的な(i.e. 客観論的・実在論的な)見方、←ならば現象学的還元の見方です。なお、客観≡事物(の存在確信)を「超越」(確信の像)と呼び、主観≡経験(i.e. 還元された意識体験)を「内在」(確信の条件)と呼びます。この「内在」は、共通了解の成立領域Xと不成立領域Vi(i=1,2,3,…)に区分されます。ここで、領域Xとは基本的ルールが設定できる公共的な領域のこと、領域Viとはルール設定が不可能な個々人の領域(人生観、価値観、生活信条、宗教、趣味など)のことです。また、1)を論理だけで限定すれば「理念的な世界」となり、言語の場合は「一般意味」となります。同様に、2)を生活経験の価値生成で拡張すれば「相対的な世界」となり、言語の場合は「企投的意味」となります。
さて、釈尊の瞑想法と現象学の比較が有用です。釈尊は人間世界を凡夫世界と聖者世界(四沙門果の世界)に分け、凡夫が聖者に成るための瞑想法として四念処観(ヴィパッサナー瞑想)を独創しました。パーリ経典では、「身念処観(身体と呼吸体を瞑想)」→「受念処観(感情を瞑想)」→「心念処観(心を瞑想)」→「法念処観(四聖諦などの法を瞑想)」と進みます。哲学との比較では、「身念処観」では「存在論」から、「受念処観」では「価値判断」から、「心念処観」では「主体論」から自由になることのようです。現象学が重視する「意味」と「価値」は「受念処観」の瞑想対象であり、「貪・瞋・痴」(三毒煩悩)と深く関係します。「痴」があれば、真・善・美を好む「貪(むさぼり)」と、偽・悪・醜を嫌う「瞋(いかり)」が思考に伴います。従って、凡夫が共通了解に向けて努力しても、好悪(執着の感受性)の多様性が障碍となり、好悪(快・不快)の程度が一定の範囲になければ共通了解は困難になります。一方、「痴」が無ければ「貪」も「瞋」も消えるため、善・悪や美・醜や真・偽の判定から好悪が消え、「執着の無い感受性」(それこそが、究極の『ほんとう』)が確立します。つまり、聖者なら完全な共通了解に近づくことが容易になります。
このように釈尊によれば、『思考の原理』の“思考”を浄化することが先決のようです。
1)客観(自然物α)⇔(生理的)身体(知覚直観:存在)⇔主観(自然物の像α’)
2)客観(事柄β)⇔幻想的身体(本質直観:意味や価値)⇔主観(事柄の経験β’)
上記⇔が全て→ならば自然的な(i.e. 客観論的・実在論的な)見方、←ならば現象学的還元の見方です。なお、客観≡事物(の存在確信)を「超越」(確信の像)と呼び、主観≡経験(i.e. 還元された意識体験)を「内在」(確信の条件)と呼びます。この「内在」は、共通了解の成立領域Xと不成立領域Vi(i=1,2,3,…)に区分されます。ここで、領域Xとは基本的ルールが設定できる公共的な領域のこと、領域Viとはルール設定が不可能な個々人の領域(人生観、価値観、生活信条、宗教、趣味など)のことです。また、1)を論理だけで限定すれば「理念的な世界」となり、言語の場合は「一般意味」となります。同様に、2)を生活経験の価値生成で拡張すれば「相対的な世界」となり、言語の場合は「企投的意味」となります。
さて、釈尊の瞑想法と現象学の比較が有用です。釈尊は人間世界を凡夫世界と聖者世界(四沙門果の世界)に分け、凡夫が聖者に成るための瞑想法として四念処観(ヴィパッサナー瞑想)を独創しました。パーリ経典では、「身念処観(身体と呼吸体を瞑想)」→「受念処観(感情を瞑想)」→「心念処観(心を瞑想)」→「法念処観(四聖諦などの法を瞑想)」と進みます。哲学との比較では、「身念処観」では「存在論」から、「受念処観」では「価値判断」から、「心念処観」では「主体論」から自由になることのようです。現象学が重視する「意味」と「価値」は「受念処観」の瞑想対象であり、「貪・瞋・痴」(三毒煩悩)と深く関係します。「痴」があれば、真・善・美を好む「貪(むさぼり)」と、偽・悪・醜を嫌う「瞋(いかり)」が思考に伴います。従って、凡夫が共通了解に向けて努力しても、好悪(執着の感受性)の多様性が障碍となり、好悪(快・不快)の程度が一定の範囲になければ共通了解は困難になります。一方、「痴」が無ければ「貪」も「瞋」も消えるため、善・悪や美・醜や真・偽の判定から好悪が消え、「執着の無い感受性」(それこそが、究極の『ほんとう』)が確立します。つまり、聖者なら完全な共通了解に近づくことが容易になります。
このように釈尊によれば、『思考の原理』の“思考”を浄化することが先決のようです。
2014年10月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
価格の割にきれいであった。前から読んでみたかった種類の本である。
2010年5月23日に日本でレビュー済み
本書はフッサール現象学の解説書としては、画期的にわかりやすいものだが、タイトルの<思考の原理>は<至高の原理>であるというふうに読めてくる。
認識論は人間認識の道具であったか? 思考原理の実体化が危ういと思わせる。
フッサール解説としても、はるかに生硬で難解な新田義弘のものを評者は信用したい。
認識論は人間認識の道具であったか? 思考原理の実体化が危ういと思わせる。
フッサール解説としても、はるかに生硬で難解な新田義弘のものを評者は信用したい。
2004年5月15日に日本でレビュー済み
私は竹田さんのかなり熱心な読者です。竹田さんの言うことが、最終的に正しいか否か、ちょっとわからない。けれども、私の人生によい影響を与えてくれたのは、間違いありません。本書は「言語的思考へ」に続く、竹田さんの新たな展開だと思っています。
私の感じでは、現象学の正しい理解という事が肝心なのではなく、
その考えを使ってどれ程、人生の了解が得られ、生きる根拠になり得るか、という事がカナメなのです。竹田さんは正にその事を目指して書いている。他の著者たちの現象学理解では、どうもそこがはっきりしない。そして、使いものにならない。我々素人は哲学的知識を増やすため
に、読むのだろうか?
竹田さんの考え
私の感じでは、現象学の正しい理解という事が肝心なのではなく、
その考えを使ってどれ程、人生の了解が得られ、生きる根拠になり得るか、という事がカナメなのです。竹田さんは正にその事を目指して書いている。他の著者たちの現象学理解では、どうもそこがはっきりしない。そして、使いものにならない。我々素人は哲学的知識を増やすため
に、読むのだろうか?
竹田さんの考え