分厚い苅谷夏子氏の大村はまの評伝に、感銘を受けて、教職とは無縁の私だが、自分が就いている職業における姿勢を改めて問い直す契機となった。その後、本書を手にした。本書は、一章から四章までは、大村はまと苅谷夏子の対談が続き、五章では、社会学者の苅谷剛彦氏の論考が掲載されている。
大村氏と苅谷夏子氏との対談では、大村はまの教育実践の実相が語られているのだが、実践の記録やメモワールは、当事者の記憶に基づいているので、主観的な見方に陥りやすい。社会学者の苅谷オックスフォード大学教授の視点が加わることで、究極の国語教師の実践の正統性と効果性が、歴史の中で、正当な位置を獲得することができたような気がした。
文部省の折々の文教政策によって、学校も、教師も、児童生徒や保護者も翻弄されてきた。いっとき、ゆとり教育が声高に叫ばれ、教え込みを排除する風潮が教育界を席巻した。だが、本書を通じて、生徒や学生に対しては、考えを深めるための思考の深化のための実際的な方法を教えている。方法論を、身をもって伝授することができなければ、師表と仰がれる資格はないのではないか、と思えてくる。
本書のタイトルは『教えることの復権』である。本書は二十年前に、大村が存命の時に、出版されている。日本の教師が、教えなくなり始めた頃の、教育界の大きな課題を憂いている書である。苅谷教授がオックスフォード大学で、教育についての社会学を学生に教授する、実に具体的な、指導法が開陳されていて、興味深い。決して、学生の自主性や主体性に全てを委ねて、学生の調査や論述の過程を傍観してはいないことに驚きを覚えた。
私も、人生において、数名の心に残る教師に出会い、影響を受けてきた。予備校の英語の教師であったり、都立高校に社会科の指導にやってきた東京教育大学の院生であったり、社会人院生として、契約を学んだ時に受講した英米法の教師は、特に忘れがたい。共通していることは、彼らが、テーマの選定においては、私の自主性を尊重しながら、資料の渉猟、論述の作法、思考の深化における方向性など具体的な指導を惜しまなかった点である。
中学生の前田夏子（共著者の旧姓）に対して、大村が、カードには一つの事柄しか記入しないようと指導したという。若いビジネスマン時代に川喜田二郎のK J法を実践した私には、このやりとりの意味の重要性がよくわかる。こうした一見小さなことの伝授が教育における最も重要なことなのではないか、と読者に問いかけているような気がした。教えることが復権しなければ、日本の凋落は防ぎようがない。目から鱗の最近の日本の教育に対する警告の書である。
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