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キリスト教を問いなおす (ちくま新書 425) 新書 – 2003/8/1
土井 健司
(著)
- ISBN-104480061258
- ISBN-13978-4480061256
- 出版社筑摩書房
- 発売日2003/8/1
- 言語日本語
- 本の長さ213ページ
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2003/8/1)
- 発売日 : 2003/8/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 213ページ
- ISBN-10 : 4480061258
- ISBN-13 : 978-4480061256
- Amazon 売れ筋ランキング: - 73,177位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 25位神学 (本)
- - 73位キリスト教入門
- - 123位キリスト教一般関連書籍
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年5月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
人間イエスが語った「隣人愛」とは何か、「非暴力・愛敵」とは何かなど、本質的な問題を説得的に解説していると思います。キリスト教は世俗的になり過ぎて堕落したともいわれる現代において、再度の宗教改革が必要だと考えさせられました。
2019年7月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は手放しで誉めることができるような本ではない。色々な面での著者の拙さ、思慮のいたらなさが鼻につく。
著者が本書の中で言っていたのだが、自分の授業では学生たちに、「キリスト教の悪口を書け」と言うそうだ。でもそれはきっと、耳を傾けるためではなく、論破するために書かせているのだろうなあ。そんなふうに思わせる何かがこの著者にはある。
本書の中で、キリスト教の悪口に対しては、その悪口を細かく刻んで検討し、一部分当てはまらないところを見つけだし、それをもとに全体的な反論をする。あるいは、「そんなキリスト教は本当のキリスト教ではない」といった話に持ち込み、キリスト教の弁護をする。
そのくせ、日本のことに関しては「侵略戦争」などという言葉を、歴史の事実をよく知りもせず、きちんと考えもせず安易に使ってしまう。
そんなことを言うのなら、中国の人権蹂躙や韓国の二枚舌のことにも触れてみてはいかがか。
国際的な問題に触れるつもりではないというのなら、日本のことも不用意に触れてはいけない。
また、キリスト教信者の頑なな日本文化拒否(たとえば、元号を使わないだけでなく、他人にも使わせない人がに多くいる)についても触れてみてはいかがか。
と、こう反発していた。だが、よく考えてみると、こういう著者はなかなかいない。貴重だなと評価を変えてみたい。
だって、たいがいの人は、もっとズルく立ち回り、こういう本は書かないものだ。
著者は、「嫌われてもしかたない、それでも書かざるを得ない」という内的要因が、熱くたぎっているのだろう。
その意味でこの著者は誠実である。わざわざワキの甘さをそのままにして出版しているところからもそれがわかる。
この本は、中盤あたりから良書の気配を漂わせてくる。すなわち、「隣人」「私とあなた」をテーマにしたあたりからだ。
人の認識の特長は、世界を二人称と三人称に分けるところにある。そこから考えられる哲学的考察を深めてくれるのを期待して読んでいったが、本書ではそれが一向に深まらず、もどかしい気持ちになった。
あーあ、最後まで来ちゃった、とガッカリしかけた残りわずか8ページのところで、著者は逆転の一打を放っ。
我と汝に関しては、哲学よりも信仰のほうにウェイトを置いた展開をしていた。なるほどね。そうなのか。
難解なブーバーの提案したテーマについて、著者は今ではどのような意見を持っているのか、最新の考えを読んでみたいなあと思っている。
著者が本書の中で言っていたのだが、自分の授業では学生たちに、「キリスト教の悪口を書け」と言うそうだ。でもそれはきっと、耳を傾けるためではなく、論破するために書かせているのだろうなあ。そんなふうに思わせる何かがこの著者にはある。
本書の中で、キリスト教の悪口に対しては、その悪口を細かく刻んで検討し、一部分当てはまらないところを見つけだし、それをもとに全体的な反論をする。あるいは、「そんなキリスト教は本当のキリスト教ではない」といった話に持ち込み、キリスト教の弁護をする。
そのくせ、日本のことに関しては「侵略戦争」などという言葉を、歴史の事実をよく知りもせず、きちんと考えもせず安易に使ってしまう。
そんなことを言うのなら、中国の人権蹂躙や韓国の二枚舌のことにも触れてみてはいかがか。
国際的な問題に触れるつもりではないというのなら、日本のことも不用意に触れてはいけない。
また、キリスト教信者の頑なな日本文化拒否(たとえば、元号を使わないだけでなく、他人にも使わせない人がに多くいる)についても触れてみてはいかがか。
と、こう反発していた。だが、よく考えてみると、こういう著者はなかなかいない。貴重だなと評価を変えてみたい。
だって、たいがいの人は、もっとズルく立ち回り、こういう本は書かないものだ。
著者は、「嫌われてもしかたない、それでも書かざるを得ない」という内的要因が、熱くたぎっているのだろう。
その意味でこの著者は誠実である。わざわざワキの甘さをそのままにして出版しているところからもそれがわかる。
この本は、中盤あたりから良書の気配を漂わせてくる。すなわち、「隣人」「私とあなた」をテーマにしたあたりからだ。
人の認識の特長は、世界を二人称と三人称に分けるところにある。そこから考えられる哲学的考察を深めてくれるのを期待して読んでいったが、本書ではそれが一向に深まらず、もどかしい気持ちになった。
あーあ、最後まで来ちゃった、とガッカリしかけた残りわずか8ページのところで、著者は逆転の一打を放っ。
我と汝に関しては、哲学よりも信仰のほうにウェイトを置いた展開をしていた。なるほどね。そうなのか。
難解なブーバーの提案したテーマについて、著者は今ではどのような意見を持っているのか、最新の考えを読んでみたいなあと思っている。
2007年10月23日に日本でレビュー済み
キリスト教がほかの宗教よりもはるかに多くの流血と暗黒の時代を作り出したのはなぜなのか。全く答えていない。また、著者はキリスト教とキリスト教徒を区別して、悪をなしたのは後者である説いている。しかし、ヨーロッパの歴史はカソリックによる宗教裁判、魔女狩り、十字軍、そして宣教師による帝国主義の尖兵としての役割、その後のプロテスタントによるドイツ農民運動への対応や、恐怖政治(カルヴァン)は、すべてキリスト教の名の下に行われた。これらはキリスト教を代表するものではないのか。著者の立場はまさに護教論にしか思えない。区別されるべきは、むしろイエスとキリスト教ではないのか。それに「眼でみること」を隣人愛と言うが、それでは、福祉も、国際貢献も、ユニセフもキリスト教とは無縁というしかない。
2020年5月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
キリスト教について理解を深めたい気持ちは前々からあり、ときどき解説本を読んだり、福音書を読んだりしていました。本書はキリスト教について、学生からの素朴な疑問なども取り上げながら、著者ならではの率直で真摯なキリスト教観を展開しています。全体的に好感が持てる内容ではありましたが、同時にもの足りなさも感じました。全体は4つの章からなり、それぞれの内容は端的に言うと、「十字軍とかのキリスト教の負の歴史と本来のイエスの教え」、「境界を排した隣人愛」、「(あなた)としての神」、「(理不尽な世における)祈り」、といったところでしょうか?著者は専門家ですので、キリスト教の文献や史実を交えて丁寧に説明を展開しているものの、その要点は、現代の我々が持つ倫理的な観念と大して変わらないレベルのような気がします。特に3,4章は説明としては筋が通っているように感じるものの、あまり深みが感じられないというのが正直な印象です。愛、神、祈りについて、どんな説明をしてもらえるかと期待したのですが、ちょっと残念でした。もしかすると、こういう話は学者よりも、真摯に教えを実践しているような人にしか書けないのかもしれません。
2009年8月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
一言でいえば、誠実な内容の本です。別の言い方をすれば、「期待外れで期待通りの本」といえるでしょう。
この手の本の読者は、各宗教を俯瞰したデータブックに近い宗教論を読みたいのではなく、キリスト(教)を信仰している人間の内実を客観的に読みたいと思っているのだと思います。そのような意味では確かに、至らないところが目立つ本ではあると思いますし、まったく期待外れの本です。
けれども、読者の期待を裏切ったからといって読む価値がないかというと、決してそうではありません。実用書や学術書ならそういえるかもしれませんが、心的事実を客観視する書物では、読者の期待に応えたかどうかという評価軸そのものが絶対ではありませんし、そもそも信仰の内実を客観視するという考え方そのものが、矛盾しているうえに傲慢なのです。私はそう思います。
このような書物は期待して読むものではありません。受け入れて読むものだと思います。「わたし」が本の中にいる「あなた」を読むかどうか、それを問われます。そのような意味では期待通りの本です。
この手の本の読者は、各宗教を俯瞰したデータブックに近い宗教論を読みたいのではなく、キリスト(教)を信仰している人間の内実を客観的に読みたいと思っているのだと思います。そのような意味では確かに、至らないところが目立つ本ではあると思いますし、まったく期待外れの本です。
けれども、読者の期待を裏切ったからといって読む価値がないかというと、決してそうではありません。実用書や学術書ならそういえるかもしれませんが、心的事実を客観視する書物では、読者の期待に応えたかどうかという評価軸そのものが絶対ではありませんし、そもそも信仰の内実を客観視するという考え方そのものが、矛盾しているうえに傲慢なのです。私はそう思います。
このような書物は期待して読むものではありません。受け入れて読むものだと思います。「わたし」が本の中にいる「あなた」を読むかどうか、それを問われます。そのような意味では期待通りの本です。
2013年2月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
結局は、問い直すというよりも、あらたな解釈でのキリスト教擁護にほかならない。筆者自身がキリスト信者であるようだが、その彼自身が公平な立場で、真摯な姿勢で、今一度キリスト教を問い直したいという思いは、歴史認識においてすべてをさらけ出しキリスト教の負の部分も認めていこうという姿勢から理解できる。しかし、キリスト教が起こった背景やイエスの存在・復活という、キリスト教という宗教の起源という根本的な謎めいた核の部分にメスを入れず、イエスありきである。また聖書に書かれたことに疑いを持たず、絶対的な真理としてとらえる記述方法に強い疑問を投げかけざるを得ない。この問題に明快な解答を示さなければ、本質的な部分からキリスト教がどういう宗教か、またはこれからどうあるべきかを問い直すことは難しい。例えば、反キリストで有名なニーチェの著書を読まれれば、筆者が示しきれていない、また語ることが困難なもう一方の側面がいかなるものであるか理解できるはずである。
残念なことに、この著書では、ニーチェの示すキリスト教の全容に明快な答えを与えることは不可能である。結局は問い直すのではなく、とらえかたを改めてみようというものであり、彼の姿勢は、まるで戦後レジュームから脱却できていないアメリカの犬のような政治家がとる憲法9条へのそれと同様のものである。
私がこの小著のタイトルから望んだのは、キリスト教の教義の真偽を根底から見直すような、大きなパラダイム変換を目指すようなものであったが、私の勝手な思い込みであった。
残念なことに、この著書では、ニーチェの示すキリスト教の全容に明快な答えを与えることは不可能である。結局は問い直すのではなく、とらえかたを改めてみようというものであり、彼の姿勢は、まるで戦後レジュームから脱却できていないアメリカの犬のような政治家がとる憲法9条へのそれと同様のものである。
私がこの小著のタイトルから望んだのは、キリスト教の教義の真偽を根底から見直すような、大きなパラダイム変換を目指すようなものであったが、私の勝手な思い込みであった。
2010年6月23日に日本でレビュー済み
読み始めは面白い。ほとんど信心を待たない学生たちにキリスト教に対する忌憚のない意見、悪口を述べさせて、それについて真摯に答えようと努力しているところに好感と期待感をもつ。しかし、後半にいたると次第に雰囲気があやしくなってくる。著者の護教論的な側面が前面に出てきてしまうのだ。
もともと著者はプロティスタントの牧師の資格を持つ人間である。その著者が間違っても口に出来ない言葉とは「神は存在しない」なのである。逆に言えば「神は存在する」は彼にとって絶対に譲ることの出来ない大前提であり、縛りである。著者は内心、この拘束に苦しんでいるに違いない。学生たちの言葉のほうに理(ことわり)を感じているからだ。著者自身、理に忠実たらんとして果たせない。
後半、著者が展開しているのは単なる観念論であり、鋭敏であるはずの著者がそれに気づかないはずがない。しかしクリスチャンである以上、どうして絶対的大前提にそむく事が出来るだろう?そむけないのだ。したがって、ロゴスではなくレトリックを駆使して大前提を護ろうとする以外、著者の進む道はなかった。
イエスは素晴らしい奴で、人類史上最高のスーパースターであることに疑う余地はない。しかし、キリスト教はまた別物だ。その教えに合理性はない。合理性というなら、マルキオンの教えの方がよほど合理的
であるだろう。
もともと著者はプロティスタントの牧師の資格を持つ人間である。その著者が間違っても口に出来ない言葉とは「神は存在しない」なのである。逆に言えば「神は存在する」は彼にとって絶対に譲ることの出来ない大前提であり、縛りである。著者は内心、この拘束に苦しんでいるに違いない。学生たちの言葉のほうに理(ことわり)を感じているからだ。著者自身、理に忠実たらんとして果たせない。
後半、著者が展開しているのは単なる観念論であり、鋭敏であるはずの著者がそれに気づかないはずがない。しかしクリスチャンである以上、どうして絶対的大前提にそむく事が出来るだろう?そむけないのだ。したがって、ロゴスではなくレトリックを駆使して大前提を護ろうとする以外、著者の進む道はなかった。
イエスは素晴らしい奴で、人類史上最高のスーパースターであることに疑う余地はない。しかし、キリスト教はまた別物だ。その教えに合理性はない。合理性というなら、マルキオンの教えの方がよほど合理的
であるだろう。
2010年10月10日に日本でレビュー済み
筆者は私の大学院のゼミ指導教官であり、2世紀から4世紀のギリシャ教父の思想を専門とされています。あとがきにも書かれているように人間についての「もっとどろどろした関係」については書かれていない本であると反省されています。宗教批判をたずねてこの本を読む人にとっては期待外れな内容かもしれません。しかし考えさせられる個所もあるように思えます。先生は親切にも専門外の近現代のキリスト教に関する事柄を提示しつつ書かれていますし、聖書学の知識をも踏まえて丁寧に解説されているので、「キリスト教全体」を新書に纏めるという無理な仕事をしたといってもいいでしょう。だからキリスト教を知りたいと思う人にとっては親切な本であり、そして先生の厳密で手堅い研究に実際触れたものとして言えるのは、先生の得意とするところをあえてあまり書かず、一般の人が日常的に感じる感覚を大切にし、それに答えようとする姿勢で書いておられ、さまざまなエピソードがキリスト教に関することに限らずに提示されているので(勿論的確に)それが不満な読者も多いように思われます。それゆえにレビューの評価もいまいち低いことになっているのではと思わずにおれません。これを読まれて不満が残る方、そして宗教批判をたずねて読まれるかたには著者の専門的著作を読むことをお勧めいたします。特にオリゲネス研究の著作『愛と意思と生成の神』など。キリスト教の源泉である古代教父の著作から考察することは自分にとって何か非常に大切な気がしてならないのです。この研究が日本でほとんど不毛地帯であることは残念な現状だと言えましょう。