本書では、タイトルではわかりにくいですが、「人間は自由だ」「主体的な個人による自由意志」などといった言説を疑い、その神話の作られた背景を探っていきます。
最近でも、自由意志に基づく治療だからと、インフォームドコンセントはされたからと、一応自分で承認はしているが、ほとんど医師の言いなりといった治療はよくあります。
そうしたときに、どこまで人間は自由なのか、は考えてみる必要があります。
リバタリアニズムな人も、保守的な人も、読んでみるといいでしょう。
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「不自由」論: 「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書 432) 新書 – 2003/9/1
仲正 昌樹
(著)
- 本の長さ215ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2003/9/1
- ISBN-104480061320
- ISBN-13978-4480061324
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2003/9/1)
- 発売日 : 2003/9/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 215ページ
- ISBN-10 : 4480061320
- ISBN-13 : 978-4480061324
- Amazon 売れ筋ランキング: - 314,900位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
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2023年1月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
多岐にわたる話題。特に興味を感じたのは、イマジナリーな領域の権利の話題
自由とは、自己決定できることだとして
この自己を自己決定する権利の話題。
まさに自分の問題意識。
デュルシラ・コーネルが参照されている。
あと、アーレントとハバーマスのコミュニケーション。
違いは経済活動の捉え方。
アーレントは、自己の利害などが入ったコミュニケーションは否定するが、ハバーマスは肯定。
アーランは、ポリス、西欧的な出自を持つコミュニケーションの限界を意識している?
正義なりを確信したときの排他性。
悪の本質とは、自分で考えることをやめたこと
自由とは、自己決定できることだとして
この自己を自己決定する権利の話題。
まさに自分の問題意識。
デュルシラ・コーネルが参照されている。
あと、アーレントとハバーマスのコミュニケーション。
違いは経済活動の捉え方。
アーレントは、自己の利害などが入ったコミュニケーションは否定するが、ハバーマスは肯定。
アーランは、ポリス、西欧的な出自を持つコミュニケーションの限界を意識している?
正義なりを確信したときの排他性。
悪の本質とは、自分で考えることをやめたこと
2007年1月9日に日本でレビュー済み
読んでいくうちに個々の事象を論っては、細かく分析してあるので、
内容に関しては説明が要らないと思います。ただし、それでは何が纏めとなるか、やっぱり判らなくなってしまうんですね。
そこは己れの脳味噌と相談しながら進めていくしかないでしょう。
しかしまあ、「自己責任」とか、「自己決定」とか、流行ったけど、本書がよく書けてると思います。
内容に関しては説明が要らないと思います。ただし、それでは何が纏めとなるか、やっぱり判らなくなってしまうんですね。
そこは己れの脳味噌と相談しながら進めていくしかないでしょう。
しかしまあ、「自己責任」とか、「自己決定」とか、流行ったけど、本書がよく書けてると思います。
2004年11月23日に日本でレビュー済み
デリダの「音声中心主義」批判を軸に、「自由な主体」をめぐる議論を展開する。説明は平明でわかりやすい。かといって、議論のレベルは決して低くない。リベラリズム・リバタリアニズム・コミュニタリアニズムの議論をきちんとおさえておきたい者にとっては、良い入門書・解説書となるだろう。
また、この本を読んで、思想の力を改めて知った。本書は、教育を初めとするアクチュアルな議論にも積極的に踏みこんでおり、単なる空理空論に終始していない。もし、社会思想を難解で退屈なものと思い込んでいる方がいるなら、ぜひ一読してみてほしい。(ただし、結論部の「非主体的な主体としてのマルチチュード」は、やっぱり具体性に欠けるかな。)また、社会政策・教育政策に関心のある方にも、ぜひ一読をお勧めしたい。本書は、そうした現場の問題に対しても、有効な答えを導き出すためのよい指針となるはずである。逆にいえば、本書を読むと、思想のない政策論議がいかに無意味なものか痛感することになるだろう。
また、この本を読んで、思想の力を改めて知った。本書は、教育を初めとするアクチュアルな議論にも積極的に踏みこんでおり、単なる空理空論に終始していない。もし、社会思想を難解で退屈なものと思い込んでいる方がいるなら、ぜひ一読してみてほしい。(ただし、結論部の「非主体的な主体としてのマルチチュード」は、やっぱり具体性に欠けるかな。)また、社会政策・教育政策に関心のある方にも、ぜひ一読をお勧めしたい。本書は、そうした現場の問題に対しても、有効な答えを導き出すためのよい指針となるはずである。逆にいえば、本書を読むと、思想のない政策論議がいかに無意味なものか痛感することになるだろう。
2005年7月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
露悪的自己言及が鬱陶しい。
かと思えば論点の展開の部分では他者の言説の紹介が多く、自分の言葉で語っているように思えない。
この本で著者は結局何も言っていない。
なぜなら、いまさら何ゆえに哲学なのか?という根本的な疑問を気付かないかのように回遊しているから。
それから、この著者の文章は分かりにくい。自分の頭で考えることはもともと困難なのはわかるが、人にわかりやすく説明するスキルというものもあって、その努力をないがしろにするのはちょっと違うのではないかと思う。1+1=2と言えばいいところを、1.789-0.788-0.001=2+789*0 と言っているような感じ。
私の読み方がずれてるのかなあ?
かと思えば論点の展開の部分では他者の言説の紹介が多く、自分の言葉で語っているように思えない。
この本で著者は結局何も言っていない。
なぜなら、いまさら何ゆえに哲学なのか?という根本的な疑問を気付かないかのように回遊しているから。
それから、この著者の文章は分かりにくい。自分の頭で考えることはもともと困難なのはわかるが、人にわかりやすく説明するスキルというものもあって、その努力をないがしろにするのはちょっと違うのではないかと思う。1+1=2と言えばいいところを、1.789-0.788-0.001=2+789*0 と言っているような感じ。
私の読み方がずれてるのかなあ?
2021年8月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は理系出身のためか、哲学法学専攻の人の言っている言葉に、時にわかったようなわからないような気分になることがよくあります。この理由は「コトバ」にあるように感じることが多い。
例えば、戦後の多くの人達の語った「平和」は長い年月を戦い、すぐ身近に極めて多くの犠牲者を出し、悲惨な多くの苦しみが日常となってしまった時代を実際に経験した背景を持った人達の、現実に即した感慨が籠っていたでしょう。しかし、それから長い年月を経過して、必然的に、戦いの現場の感覚は薄れてゆき「平和」な時代に生きていれば、彼らの語る「平和」という同じコトバが、戦争体験者のコトバと同一あるだろうか?
理系では使用される専門用語は、きちんと定義されているのが通常で、その上で議論されますが、文系の場合は、からずしもそうではないか、もしくは用語を定義するにしても、あるいは説明するにしても、読む側に、それなりの「資格」が要求されているように(あるいは経験が要求されているように)感じられます。この辺りのことを説明してもらえることは、読者としてありがたいことです。
実際、本文に“自分自身の「物の見方」が全然変わらないまま、哲学のエクリチュールが「分かる」ということはありえない”という記載がありますが、ではどうすれば変わるのでしょうか?いろんな人と議論してということかもしれません。私の経験では、議論だけでなく、頭も体もとうした、体得というものが必要なのではないだろうかと感じます。
例えば、戦後の多くの人達の語った「平和」は長い年月を戦い、すぐ身近に極めて多くの犠牲者を出し、悲惨な多くの苦しみが日常となってしまった時代を実際に経験した背景を持った人達の、現実に即した感慨が籠っていたでしょう。しかし、それから長い年月を経過して、必然的に、戦いの現場の感覚は薄れてゆき「平和」な時代に生きていれば、彼らの語る「平和」という同じコトバが、戦争体験者のコトバと同一あるだろうか?
理系では使用される専門用語は、きちんと定義されているのが通常で、その上で議論されますが、文系の場合は、からずしもそうではないか、もしくは用語を定義するにしても、あるいは説明するにしても、読む側に、それなりの「資格」が要求されているように(あるいは経験が要求されているように)感じられます。この辺りのことを説明してもらえることは、読者としてありがたいことです。
実際、本文に“自分自身の「物の見方」が全然変わらないまま、哲学のエクリチュールが「分かる」ということはありえない”という記載がありますが、ではどうすれば変わるのでしょうか?いろんな人と議論してということかもしれません。私の経験では、議論だけでなく、頭も体もとうした、体得というものが必要なのではないだろうかと感じます。
2004年10月11日に日本でレビュー済み
今の時代だからこそお勧めです。
自分の中で何が自由で何が不自由か、そして世の中で真剣に生きていくためには何を考えるべきか、いろんなことを真剣に考え、よく悩むきっかけになると思います。
自分の中で何が自由で何が不自由か、そして世の中で真剣に生きていくためには何を考えるべきか、いろんなことを真剣に考え、よく悩むきっかけになると思います。
2011年5月6日に日本でレビュー済み
「今現代思想に求められているのは「自由な自己決定」あるいは「非主体的な主体性」への強制からの”自由”について、じっくり考えることではないだろうか」
昨年(2010年)のサンデルの講義NHKオンエアー、ロールズ「正義論」新訳出版等、今、「正義(社会思想)」が注目されている(と思います)
本書は2003年の著作ですが、「自由」および「主体的に決定すること」についてホッブス、ルソーの時代から現代までの歴史的変遷、および現代における「たち位置」を提案しています。
その「たち位置」を要約すれば、「自由な主体」になることは、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズム他、どのような立場に立っても困難であり、無理に「自己決定の自由」による立場を表明すれば、どこかしら矛盾が出る。だから資本主義が突きつけてくる「迅速な決断」に安易に応じることなく、ちょっと落ち着いて考えよう、という辺りでしょうか。
確かに、本書にあるように、デリダを初めとするフランスポスト構造主義「亡き」後、アメリカ思想界が世界の中心であることは、今(2011年5月)でも本書が書かれた頃と変わっていないと思います。しかし、だからといって、自分の思想的立場を「アメリカ的」に軽々に変える必要はないし、自分は「●●主義だ」などと簡単に言ったり、他人を決め付けたりしなくても良いと思います。
ちょっと落ち着いて考えようや、ということかな?(無論、目の前の緊急の課題は解決しなくてはいけませんが)
昨年(2010年)のサンデルの講義NHKオンエアー、ロールズ「正義論」新訳出版等、今、「正義(社会思想)」が注目されている(と思います)
本書は2003年の著作ですが、「自由」および「主体的に決定すること」についてホッブス、ルソーの時代から現代までの歴史的変遷、および現代における「たち位置」を提案しています。
その「たち位置」を要約すれば、「自由な主体」になることは、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズム他、どのような立場に立っても困難であり、無理に「自己決定の自由」による立場を表明すれば、どこかしら矛盾が出る。だから資本主義が突きつけてくる「迅速な決断」に安易に応じることなく、ちょっと落ち着いて考えよう、という辺りでしょうか。
確かに、本書にあるように、デリダを初めとするフランスポスト構造主義「亡き」後、アメリカ思想界が世界の中心であることは、今(2011年5月)でも本書が書かれた頃と変わっていないと思います。しかし、だからといって、自分の思想的立場を「アメリカ的」に軽々に変える必要はないし、自分は「●●主義だ」などと簡単に言ったり、他人を決め付けたりしなくても良いと思います。
ちょっと落ち着いて考えようや、ということかな?(無論、目の前の緊急の課題は解決しなくてはいけませんが)