若い人には辛い本かもしれない。1989年には完全に崩壊してしまったが、かつて人文主義的な教養の伝統というやつがあったのだ。その重みを知る人にとっては、じつに面白い一冊。
おそらく著者は教養に憧れ、人文的教養人への道を歩いてきたのだろう。大人になって中に入れば、教養もきれいなものではなかったこともわかる。その道の途上で教養主義は息の根を止められ、時代とのズレは決定的となった。
本書は、教養主義をグロテスクだったと断罪するが、それは著者にとって過去の自分の否定でもある。多くの評者が「コップの中」と書いているとおり、本書は構造的に矛盾を孕んでいる。
「上にのぼったから投げ捨てるべきハシゴ」とすら言い得ない教養。のぼった先は望んでいたようなところではなかった。しかし、それは若いころの自分を魅了し、とらえて放さなかったのだ。そんな中年女性の自己憐憫がなんともいい。
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グロテスクな教養 (ちくま新書(539)) 新書 – 2005/6/6
高田 里惠子
(著)
- ISBN-104480062394
- ISBN-13978-4480062390
- 出版社筑摩書房
- 発売日2005/6/6
- 言語日本語
- 本の長さ253ページ
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2005/6/6)
- 発売日 : 2005/6/6
- 言語 : 日本語
- 新書 : 253ページ
- ISBN-10 : 4480062394
- ISBN-13 : 978-4480062390
- Amazon 売れ筋ランキング: - 431,046位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2020年6月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
①何と言ってもニューアカデミズムの論著が編集者のグロテスクなアレンジの成果であると論定する。編集者が出版事業によって作り出した出版ブームだと言うである。
②浅田彰の『構造と力』の影響があまりに大きい。出版元の勁草書房は上野千鶴子の『構造主義の冒険』も出版し、ニューアカブームを牽引した。アカデミズムの牙城岩波書店はこのブームに便乗せずに、厳密な学術書を出版した。
③しかし、ニューアデミズムが編集者による作られた出版物に過ぎないものなのであろうか?現代フランス思想(構造主義、ポスト構造主義)をいち早く摂取し、分かりやすく日本に紹介した功績は否定出来ないなのではないか?浅田彰のデリダやドゥルーズ理解、上野のジュリア・クリスティヴァ理解は、卓越していた。そして、こうしたニューアカブームの出版物は、バブル崩壊により急速に消えていった。
③浅田彰は『逃走論』を著し、ニューアカブームからいち早く撤退したのは賢明であったが、その後の著作はほとんどなく、文明(音楽)評論家になっている。
結局、ニューアカブームとは、ポップカルチャーの打上花火で終わったのではないか?
④その後、東浩紀の『存在論的・郵便的』(新潮社)や千葉雅也の『動きすぎてはいけない』(河出書房新社)等が出版され、現代思想(ポストモダン)ブームが期待されたが、ニューアカの再来にはならなかった。これらは、ポップカルチャーの線香花火の一本で終わった。こうした動向を見ると、優れた編集者の不在も大きく影響しているようだ。
ハイデガー全集やウェーバーの著作を出版し、人文・社会科学系大手の創文社が倒産した。
出版不況が続く今日、旧き良き時代は懐古趣味でしかないのであろうか?
お勧めの一冊だ。
②浅田彰の『構造と力』の影響があまりに大きい。出版元の勁草書房は上野千鶴子の『構造主義の冒険』も出版し、ニューアカブームを牽引した。アカデミズムの牙城岩波書店はこのブームに便乗せずに、厳密な学術書を出版した。
③しかし、ニューアデミズムが編集者による作られた出版物に過ぎないものなのであろうか?現代フランス思想(構造主義、ポスト構造主義)をいち早く摂取し、分かりやすく日本に紹介した功績は否定出来ないなのではないか?浅田彰のデリダやドゥルーズ理解、上野のジュリア・クリスティヴァ理解は、卓越していた。そして、こうしたニューアカブームの出版物は、バブル崩壊により急速に消えていった。
③浅田彰は『逃走論』を著し、ニューアカブームからいち早く撤退したのは賢明であったが、その後の著作はほとんどなく、文明(音楽)評論家になっている。
結局、ニューアカブームとは、ポップカルチャーの打上花火で終わったのではないか?
④その後、東浩紀の『存在論的・郵便的』(新潮社)や千葉雅也の『動きすぎてはいけない』(河出書房新社)等が出版され、現代思想(ポストモダン)ブームが期待されたが、ニューアカの再来にはならなかった。これらは、ポップカルチャーの線香花火の一本で終わった。こうした動向を見ると、優れた編集者の不在も大きく影響しているようだ。
ハイデガー全集やウェーバーの著作を出版し、人文・社会科学系大手の創文社が倒産した。
出版不況が続く今日、旧き良き時代は懐古趣味でしかないのであろうか?
お勧めの一冊だ。
2005年6月9日に日本でレビュー済み
教養と名のついた書物はできうる限り取り上げている。福沢諭吉から宮台真司、竹内洋から大西巨人の「神聖喜劇」まで(どこかで見たようなラインナップ)。引用された本はどれも面白そうで手にとってみたいと思った。
著者のスタンスは香山リカに近いといえるのかもしれない。似たような書物としては「大学"象牙の塔"の虚像と実像」というのがあった(これも著者は女性だ)。
著者本人としては教養に復活してほしいなぁ、でもダメかなぁという錯綜した感じ。ただご本人かどうかということは今ひとつ明瞭でなかった。
参考文献は学術文献と教養書と分けられているから意外とフツーの感覚の持ち主なのかもしれない。
著者のスタンスは香山リカに近いといえるのかもしれない。似たような書物としては「大学"象牙の塔"の虚像と実像」というのがあった(これも著者は女性だ)。
著者本人としては教養に復活してほしいなぁ、でもダメかなぁという錯綜した感じ。ただご本人かどうかということは今ひとつ明瞭でなかった。
参考文献は学術文献と教養書と分けられているから意外とフツーの感覚の持ち主なのかもしれない。
2009年11月13日に日本でレビュー済み
1.内容
教養論を見ることによって、日本の教養、教養主義がどのように形成されたかを明らかにした本。教養というのは差別化を伴うもので、もともとは旧制高校のエリートたる男子が、受験以外の学力を身につけるものだった。そんな教養も、その時々の社会情勢で価値が変わる(就職時には価値がないが、戦争時には価値が高まる)。戦後は、岩波書店をはじめとした出版社から出された人文書で教養を身につける風潮が隆盛を誇り、そのせいか大学の講義より重視された。しかし、高等教育も多くの人が受けられるようになり、教養の価値も没落したが、それによる試練の最前線にいるのが女性である。
2.評価
(1)教養を扱う文献では私が見たことのない(p237〜の引用文献・参考文献を全部読んではいない人が言うのもナンだが)ジェンダーの視点が入っている、(2)著者の専門分野であるドイツとの比較が参考になる、(3)出版元の筑摩書房に気を遣っているなど(p26、143)、随所に面白く読ませる工夫があること、など、教養の歴史について知ることができ、面白い本なので、星5つ。
教養論を見ることによって、日本の教養、教養主義がどのように形成されたかを明らかにした本。教養というのは差別化を伴うもので、もともとは旧制高校のエリートたる男子が、受験以外の学力を身につけるものだった。そんな教養も、その時々の社会情勢で価値が変わる(就職時には価値がないが、戦争時には価値が高まる)。戦後は、岩波書店をはじめとした出版社から出された人文書で教養を身につける風潮が隆盛を誇り、そのせいか大学の講義より重視された。しかし、高等教育も多くの人が受けられるようになり、教養の価値も没落したが、それによる試練の最前線にいるのが女性である。
2.評価
(1)教養を扱う文献では私が見たことのない(p237〜の引用文献・参考文献を全部読んではいない人が言うのもナンだが)ジェンダーの視点が入っている、(2)著者の専門分野であるドイツとの比較が参考になる、(3)出版元の筑摩書房に気を遣っているなど(p26、143)、随所に面白く読ませる工夫があること、など、教養の歴史について知ることができ、面白い本なので、星5つ。
2008年11月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本は明治以降の教養論を分析することにより「教養」の本質を明らかにした本です。
結論としては、教養とは基本的に(とくに戦前は)一部の特権的な地位にある男性のものであり、内面的な自己形成や修身のために学ぶのではなく、むしろ外面的な他者との闘争や差別化のために学ばれてきた、ということのようです。
結論はある程度納得できるのですが、この本はとにかく読みにくいです。話を詰め込み過ぎで焦点がぼやけている上に、回りくどい文章で読みにくさが倍増しています。ただ、買って損をするような本ではないと思います。
結論としては、教養とは基本的に(とくに戦前は)一部の特権的な地位にある男性のものであり、内面的な自己形成や修身のために学ぶのではなく、むしろ外面的な他者との闘争や差別化のために学ばれてきた、ということのようです。
結論はある程度納得できるのですが、この本はとにかく読みにくいです。話を詰め込み過ぎで焦点がぼやけている上に、回りくどい文章で読みにくさが倍増しています。ただ、買って損をするような本ではないと思います。
2007年5月14日に日本でレビュー済み
本文中に頻出する表現を使えば、実に「いやったらしい」本だと思う。これは確信犯的に盛り込まれた「いやったらしさ」であり、それはこんな本を読もうと思った読み手自身の似姿である。
だいたい、「教養」に縁もゆかりも興味もない人間は、こんな本を読もうとするはずがない。これを読んで「いやーな気分」にさせられたり、「何じゃこりゃ!?」と批判したくなるのは、あなたがここで描かれている「哀れに滑稽な世界」と無関係に生きてはいないからだ。
この手の本には、無理して高みに立ってエラそうな御託を並べるよりは、マゾヒスティックにみっともなくニヤついてるほうがまだマシな気がする。
別にええがな、干潟のムツゴロウのようなダサダサの教養主義者でも。
だいたい、「教養」に縁もゆかりも興味もない人間は、こんな本を読もうとするはずがない。これを読んで「いやーな気分」にさせられたり、「何じゃこりゃ!?」と批判したくなるのは、あなたがここで描かれている「哀れに滑稽な世界」と無関係に生きてはいないからだ。
この手の本には、無理して高みに立ってエラそうな御託を並べるよりは、マゾヒスティックにみっともなくニヤついてるほうがまだマシな気がする。
別にええがな、干潟のムツゴロウのようなダサダサの教養主義者でも。
2005年7月20日に日本でレビュー済み
本書と『文学部という病』を併せて
今世紀のキーワードは「階級」というものへと回帰しつつある。元来エロ・グロ・ナンセンスは、階級を無力ながらも異化する可能性を持ち得たものであったが、止めどなき経済主義への没入は、貨幣的な差異への希求のみが猖獗し、異化などという作用はことごとく灰燼へと帰した。
価値観は、戦後一貫して一元化してきたというのが真相なのであって、「私の心は多様」だという勘違い・幻想を抱かされ、セラピーだとか、世界の中心だとか、自己実現だとか、願望を紙に書いていれば実現するだとか、ともかく様々、多種多様な代替宗教が「一見」多様であったというに過ぎない。商品の百科全書的知識を溜め込んだ消費者なんてものは、誠に熱心な信者というわけだ。
本書の読後感は、我が邦では教養なるものが如上の反知性主義に稼働されたものなのかというものだ。
サボー・イシュトバーンというハンガリーの映画監督の作品に『メフィスト』という佳作があったが、このそねみに倣えば「僕はただのドイツ語教師なのに」ということになる。
高橋健二は日本のフルトヴェングラーなのだ。ただし、フルトヴェングラーが、ナチス荷担を疑われるまでに音楽への知性を狂信と言えるほど信じたのに対し、高橋はそうした覚悟を持たず、結果として文学を出世の具とした。「文学者の戦争責任」追求は高田女史によって、継続されている。遅ればせとはいえ、これは注目すべき仕事である。
皮肉な文体は悪意すら感じさせる、久々に人の悪い・素晴らしい書き手が現れたものだと感嘆させるに十分である。
斎藤美奈子といい、笙野頼子といい、批評も女性の方がラジカルだ。
今世紀のキーワードは「階級」というものへと回帰しつつある。元来エロ・グロ・ナンセンスは、階級を無力ながらも異化する可能性を持ち得たものであったが、止めどなき経済主義への没入は、貨幣的な差異への希求のみが猖獗し、異化などという作用はことごとく灰燼へと帰した。
価値観は、戦後一貫して一元化してきたというのが真相なのであって、「私の心は多様」だという勘違い・幻想を抱かされ、セラピーだとか、世界の中心だとか、自己実現だとか、願望を紙に書いていれば実現するだとか、ともかく様々、多種多様な代替宗教が「一見」多様であったというに過ぎない。商品の百科全書的知識を溜め込んだ消費者なんてものは、誠に熱心な信者というわけだ。
本書の読後感は、我が邦では教養なるものが如上の反知性主義に稼働されたものなのかというものだ。
サボー・イシュトバーンというハンガリーの映画監督の作品に『メフィスト』という佳作があったが、このそねみに倣えば「僕はただのドイツ語教師なのに」ということになる。
高橋健二は日本のフルトヴェングラーなのだ。ただし、フルトヴェングラーが、ナチス荷担を疑われるまでに音楽への知性を狂信と言えるほど信じたのに対し、高橋はそうした覚悟を持たず、結果として文学を出世の具とした。「文学者の戦争責任」追求は高田女史によって、継続されている。遅ればせとはいえ、これは注目すべき仕事である。
皮肉な文体は悪意すら感じさせる、久々に人の悪い・素晴らしい書き手が現れたものだと感嘆させるに十分である。
斎藤美奈子といい、笙野頼子といい、批評も女性の方がラジカルだ。
2005年7月23日に日本でレビュー済み
同じような評価を避けようとして、それに失敗している。種族として絶滅しないグループ、若手お笑いブームを支える層が表で、こっちが裏のような時代だけれど。