本書は、仏教思想が題材となっておりますが、内容的には、むしろ、現代思想の本というのが適切です。
著者は、「他者」と本当に理解し合い、関係を持つためには、いわゆる、「人と人との間」の関係を取り持つ「倫理的な考え」ではなく、「人の世界」を逸脱しうる可能性を持つ「宗教的な考え」を取り入れなければならない、とします。
そして、「宗教的な考え」の具体例として仏教思想を取り上げ、それらが、どのように「他者」との関係を規定しようとしたか、現代仏教はどのように「他者」と関係を取り持つべきかについて、説明されています。
ただ、本書では、個々の仏教思想の内容そのものについては、ある程度読者が理解しているという前提で議論が進んでいるので、仏教思想について基礎知識のない方がいきなり本書を読むのは、難しいかもしれません(私も難しかったです)。
同じ著者の、「仏典をよむ−死からはじまる仏教史」(新潮社)を先に読んだ方が、理解が深まるかもしれません。
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仏教vs.倫理 (ちくま新書 579) 新書 – 2006/2/1
末木 文美士
(著)
- 本の長さ252ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2006/2/1
- ISBN-104480062874
- ISBN-13978-4480062871
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2006/2/1)
- 発売日 : 2006/2/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 252ページ
- ISBN-10 : 4480062874
- ISBN-13 : 978-4480062871
- Amazon 売れ筋ランキング: - 748,322位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2009年11月17日に日本でレビュー済み
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2006年3月20日に日本でレビュー済み
ある事実を賞賛したかと思えば次の章では批判の対象になっている。
それの繰り返しで内容が進むが、主張していることは要約すれば
・生きる環境と経験による共通理解の拡大の必要性
・自他共(内面と外面・自分と他人)の宗教への無知(歴史含め)の克服
・日本仏教の「(思想的基盤を持った)葬式仏教」としての再出発
・死者を代表する超倫理と人間の倫理との緊張関係における宗教という位置づけと展望
知識の獲得としては有りかなという内容です。末木さんは近代の日本思想をもっと深く研究されていますので、興味のある人は見てみるのもいいかもしれません。
それの繰り返しで内容が進むが、主張していることは要約すれば
・生きる環境と経験による共通理解の拡大の必要性
・自他共(内面と外面・自分と他人)の宗教への無知(歴史含め)の克服
・日本仏教の「(思想的基盤を持った)葬式仏教」としての再出発
・死者を代表する超倫理と人間の倫理との緊張関係における宗教という位置づけと展望
知識の獲得としては有りかなという内容です。末木さんは近代の日本思想をもっと深く研究されていますので、興味のある人は見てみるのもいいかもしれません。
2006年4月9日に日本でレビュー済み
「人間」のルールである倫理だけでは回らなくなっている現代、死者という他者を媒介にして超・倫理を模索する試み。
……と書くと何やらオカルティックだが、亡くなった家族や知己のことを思い出して、自分の生き方に何らかの指針を与えるということは、多くの人がしていることだろう。物言わぬ故人は、その沈黙によって我々に行動を迫るのである。死者を排除してドツボにはまる現代、この効用をもっと活かすべきであるとする。
筆者はこの態度に根拠を与えるものとして、『法華経』を提示する。法華経では釈尊が過去から未来にかけて他者として関わり続ける死者として捉えられ、菩薩を媒介にして我々衆生に関係を迫る。
でも話は仏教を信じれば万事解決ということでは決してない。現状肯定によって社会差別や戦争参加を促してきた本覚思想を批判し、大乗仏教の説く慈悲にも満幅の信頼を寄せず、「死者を食い物にする」ような現状のままの葬式仏教も否定する。仏教もまた、問題を洗い出し鍛え直さなければならないのである。
日本において死者と長い間向き合ってきた仏教にとって、葬式仏教自体は決して否定されるものではないという。むしろ死者の声を聞きとり、生者との共同できる体制を作るためにきちんと考え直し、哲学を打ち立てることが大切であると。
理念だけではない、実現可能な方策を、釈尊を含むあらゆる権威を排しながら謙虚に、しかし強かに考究する態度は引き込まれる。また論考の途中で言及される清沢満之、毎田周一、高木顕明、島地黙雷、田辺元など、あまり知られていない近代の仏教思想家・哲学者の思想と活動、広範な経典や禅語の引用、神道や戦争問題とのかかわりも興味を喚起され勉強になった。現代仏教学は多岐な分野にわたる学際的なものだと思うが、ここまで幅広くできる人はそういるまい。
仏教学者にとっても、僧侶にとっても、読んだら何かせずにはいられなくなるような、刺激に満ちた本である。
……と書くと何やらオカルティックだが、亡くなった家族や知己のことを思い出して、自分の生き方に何らかの指針を与えるということは、多くの人がしていることだろう。物言わぬ故人は、その沈黙によって我々に行動を迫るのである。死者を排除してドツボにはまる現代、この効用をもっと活かすべきであるとする。
筆者はこの態度に根拠を与えるものとして、『法華経』を提示する。法華経では釈尊が過去から未来にかけて他者として関わり続ける死者として捉えられ、菩薩を媒介にして我々衆生に関係を迫る。
でも話は仏教を信じれば万事解決ということでは決してない。現状肯定によって社会差別や戦争参加を促してきた本覚思想を批判し、大乗仏教の説く慈悲にも満幅の信頼を寄せず、「死者を食い物にする」ような現状のままの葬式仏教も否定する。仏教もまた、問題を洗い出し鍛え直さなければならないのである。
日本において死者と長い間向き合ってきた仏教にとって、葬式仏教自体は決して否定されるものではないという。むしろ死者の声を聞きとり、生者との共同できる体制を作るためにきちんと考え直し、哲学を打ち立てることが大切であると。
理念だけではない、実現可能な方策を、釈尊を含むあらゆる権威を排しながら謙虚に、しかし強かに考究する態度は引き込まれる。また論考の途中で言及される清沢満之、毎田周一、高木顕明、島地黙雷、田辺元など、あまり知られていない近代の仏教思想家・哲学者の思想と活動、広範な経典や禅語の引用、神道や戦争問題とのかかわりも興味を喚起され勉強になった。現代仏教学は多岐な分野にわたる学際的なものだと思うが、ここまで幅広くできる人はそういるまい。
仏教学者にとっても、僧侶にとっても、読んだら何かせずにはいられなくなるような、刺激に満ちた本である。
2010年8月15日に日本でレビュー済み
「『人の間』で成り立つ倫理は今日壊滅状態にいたっている。生者の世界だけで考える倫理至上主義は間違いである。道徳倫理を越え、超・道徳倫理の立場に立たなければならない。『人の間』の倫理を逸脱し、それではとらえきれない他者・死者と直面し、われわれの存在を根源的に揺さぶられ、生者であるわれわれの弱さを徹底的に思い知らされたところから出発しなければならない。」(P224)
超・道徳的倫理とは、即ち宗教である。しかしながら、現代において倫理がダメだからといって、だから宗教を無批判的に肯定するというのではない。形骸化した仏教を賦活して、真に死者を敬虔な存在としてとらえ、生者の驕りを諌める。個々の仏教者の著作を読むと、それなりにすばらしい経験や教えが開陳されているけれども、やはり一般読者、つまり凡夫からすると、理想を述べていることが多いのかもしれない。かつてあった美しい姿、あるいはもはやない姿を懐かしむ懐古趣味に流れているのが、現代仏教のあり様なのかも知れない。
僧侶ではない仏教学者である末木氏が提示するのは、死者との関わりであろう。仏教の再生があるとすれば生きている者がいかに死者と向き合い、黙せる言葉をいかに真摯になって聞き取るかにかかっている。
死者とは、生者から逸脱する意味では他者でもある。そうした他者とはまた仏でもあるという。しかしわれわれ生者はいつかは死者となるし、したがって仏にもなる。われわれの中には他者がおり、仏がおり、死者がいる。こうした関係性を突飛なものと一笑に付すのではなく、真面目に受け止めることが重要なのだ。
葬式仏教と揶揄されている現代仏教だが、もちろん風化しつつある仏教を蘇生させようと励んでいる住職さんたちもいるが、とりわけ死者との関わりをもつのは、こうした葬式仏教であり、末木氏はその役割の重要性を指摘している。死者の声を聞くこと、そして対話すること、それは、いつかは生者も死者となって、また生者との語りを永遠に続けることになる。こうした自覚こそ仏教蘇生の一歩となるにちがいない。
超・道徳的倫理とは、即ち宗教である。しかしながら、現代において倫理がダメだからといって、だから宗教を無批判的に肯定するというのではない。形骸化した仏教を賦活して、真に死者を敬虔な存在としてとらえ、生者の驕りを諌める。個々の仏教者の著作を読むと、それなりにすばらしい経験や教えが開陳されているけれども、やはり一般読者、つまり凡夫からすると、理想を述べていることが多いのかもしれない。かつてあった美しい姿、あるいはもはやない姿を懐かしむ懐古趣味に流れているのが、現代仏教のあり様なのかも知れない。
僧侶ではない仏教学者である末木氏が提示するのは、死者との関わりであろう。仏教の再生があるとすれば生きている者がいかに死者と向き合い、黙せる言葉をいかに真摯になって聞き取るかにかかっている。
死者とは、生者から逸脱する意味では他者でもある。そうした他者とはまた仏でもあるという。しかしわれわれ生者はいつかは死者となるし、したがって仏にもなる。われわれの中には他者がおり、仏がおり、死者がいる。こうした関係性を突飛なものと一笑に付すのではなく、真面目に受け止めることが重要なのだ。
葬式仏教と揶揄されている現代仏教だが、もちろん風化しつつある仏教を蘇生させようと励んでいる住職さんたちもいるが、とりわけ死者との関わりをもつのは、こうした葬式仏教であり、末木氏はその役割の重要性を指摘している。死者の声を聞くこと、そして対話すること、それは、いつかは生者も死者となって、また生者との語りを永遠に続けることになる。こうした自覚こそ仏教蘇生の一歩となるにちがいない。
2006年7月5日に日本でレビュー済み
この本の書評を書こうとしたら「キャバンクラブ」(←団塊の世代?)さんが、ある程度書いてくれてあった。
仏教と倫理とは、たとえ「超」が付いても比べることのできない全く位相が違う事実ではないか。これを比べようとすることは、著者に「存在驚愕(タウゼマイン)」(古東哲明)を体験してないからではないか。いくら知識が深く・広くてもこの一点の欠如は、宗教を専門にする知識人にとって決定的である。
しかし、その他の事項については一読に値する。高校時代に見せた態度とは全く違った筆致で書かれてあることは嬉しい。
仏教と倫理とは、たとえ「超」が付いても比べることのできない全く位相が違う事実ではないか。これを比べようとすることは、著者に「存在驚愕(タウゼマイン)」(古東哲明)を体験してないからではないか。いくら知識が深く・広くてもこの一点の欠如は、宗教を専門にする知識人にとって決定的である。
しかし、その他の事項については一読に値する。高校時代に見せた態度とは全く違った筆致で書かれてあることは嬉しい。
2006年2月15日に日本でレビュー済み
良くも悪くも観念的。「哲学・倫理学」なのだから「観念的」に成功していればよいではないか、という言い分は通用しない。著者は、人間が正しく幸福に生き死ぬために必要とされる「宗教」を語りたいのであり、であれば「観念」にも実感的なリアリティが不可欠であるからだ。
「観念」のレベルでの仏教論としては、現代でも最高の水準に達していると思う。「人のあいだ」で生起する言葉や行為やルールとしての「倫理」を超えて、現代思想風の「他者」、つまり自己の了解を常に逃れ出る存在に向き合う態度を、あくまでも「仏教」の立場から思考していく。最大の「他者」としての「死者」に対する態度を、『法華経』の理説を参照しながら哲学化していく著者のスタイルには、これまでの「仏教学者」にはない斬新さがあっておもしろい。
だが、そのような日本の「死者」に対する態度の、「仏教」の側からの対応については、これまで、いわゆる「仏教民俗学」の仕事がきわめて具体的な資料と解釈の積み重ねにより、深く厚く思考してきたところである。そして、それ相当の思索の言葉を残してきている。それらの言葉ついての言及がなく、柳田国男のごく一部の仕事に軽くふれ、それが「仏教」を排除しているから問題だ、などと不勉強な発言をするのは、あまりにも不誠実である。
そういう「具体」の世界への知見が不足しているから、その仏教論は浮き足立った観念論に聞こえるのである。
「観念」のレベルでの仏教論としては、現代でも最高の水準に達していると思う。「人のあいだ」で生起する言葉や行為やルールとしての「倫理」を超えて、現代思想風の「他者」、つまり自己の了解を常に逃れ出る存在に向き合う態度を、あくまでも「仏教」の立場から思考していく。最大の「他者」としての「死者」に対する態度を、『法華経』の理説を参照しながら哲学化していく著者のスタイルには、これまでの「仏教学者」にはない斬新さがあっておもしろい。
だが、そのような日本の「死者」に対する態度の、「仏教」の側からの対応については、これまで、いわゆる「仏教民俗学」の仕事がきわめて具体的な資料と解釈の積み重ねにより、深く厚く思考してきたところである。そして、それ相当の思索の言葉を残してきている。それらの言葉ついての言及がなく、柳田国男のごく一部の仕事に軽くふれ、それが「仏教」を排除しているから問題だ、などと不勉強な発言をするのは、あまりにも不誠実である。
そういう「具体」の世界への知見が不足しているから、その仏教論は浮き足立った観念論に聞こえるのである。
2006年2月20日に日本でレビュー済み
末木文美士という人は、東大大学院教授にして日本仏教史研究の第一人者であるのだが、どうもなかなかその枠に納まってはいられない人のようである。豊かな仏教思想の蓄積を糸口としつつも、それらはあくまで「方法としての仏教」という位置づけでしかない。明らかにこれは、徹底して現代思想の本である。
この現代において私たちは、ノスタルジックにでもなく、退嬰的にでもなく、仏教といかに向き合い、自らの思索の糸口にし得るのか。末木氏は、仏教を縦糸に、倫理を横糸にしつつ、〈人間〉あるいは〈生者と死者〉について思考をめぐらす。
たいへん僭越な話ではあるが、いささか場違いとも思える場で「近代における死」についてもそもそと思索している身としては、末木氏が田辺元や渡辺哲夫氏の著作に巡り会ったときと同様の心強さを感じた。同じような関心を持っている人にはぜひ一読を勧めたい一冊である。
この現代において私たちは、ノスタルジックにでもなく、退嬰的にでもなく、仏教といかに向き合い、自らの思索の糸口にし得るのか。末木氏は、仏教を縦糸に、倫理を横糸にしつつ、〈人間〉あるいは〈生者と死者〉について思考をめぐらす。
たいへん僭越な話ではあるが、いささか場違いとも思える場で「近代における死」についてもそもそと思索している身としては、末木氏が田辺元や渡辺哲夫氏の著作に巡り会ったときと同様の心強さを感じた。同じような関心を持っている人にはぜひ一読を勧めたい一冊である。
2006年2月23日に日本でレビュー済み
むずかしい。仏教哲学を倫理という切り口で解体すると これほど難しくなるものでしょうか。
思想や哲学は大きな全体像をとらえてから部分に切り込んでいかないと、…
「木を見て森が見られない」、「解剖したパーツから全体像は想像できない」…ような気がします。
仏教哲学の全体像がわかっている方は読み解けるかもしれません。
思想や哲学は大きな全体像をとらえてから部分に切り込んでいかないと、…
「木を見て森が見られない」、「解剖したパーツから全体像は想像できない」…ような気がします。
仏教哲学の全体像がわかっている方は読み解けるかもしれません。