著者の里中さんは鋭い視点・思想の持ち主。
そしてユーモアもある。
私の中でふわっとしていた考えを明快に言語化してくださっている。
この価値観を見倣いたい。
非常に示唆に富んだ一冊で、何度も立ち返りたくなる私の教科書です。
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まともな男になりたい (ちくま新書 592) 新書 – 2006/4/1
里中 哲彦
(著)
- 本の長さ221ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2006/4/1
- ISBN-104480062947
- ISBN-13978-4480062949
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2006/4/1)
- 発売日 : 2006/4/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 221ページ
- ISBN-10 : 4480062947
- ISBN-13 : 978-4480062949
- Amazon 売れ筋ランキング: - 512,386位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2010年9月8日に日本でレビュー済み
おじさんが好きな本から色々と引用しつつ、自分の理想を語る本。
本人が何1つ成し遂げていないところと、ふざけて見せたりどのくらい真剣に
語ってるかが伝わってこないところが残念でした。
本人が何1つ成し遂げていないところと、ふざけて見せたりどのくらい真剣に
語ってるかが伝わってこないところが残念でした。
2006年4月8日に日本でレビュー済み
書いていることは実に「まとも」で、それ自体は嫌いではない。
しかし、内容、構成、文体どれをとっても勢古浩爾の丸写しである。勢古の読者ならすぐにそのことに気づくはず。
文中では勢古を褒めちぎっているが、オマージュと呼ぶにはあまりに芸がなさ過ぎる。
タイトルも『こういう男になりたい』をもじったものであることが明白なのに、あとがきで「この本にふさわしい、ただひとつある書名」と語っている。
河合塾の先生らしいけど、一体何がしたいのか。
しかし、内容、構成、文体どれをとっても勢古浩爾の丸写しである。勢古の読者ならすぐにそのことに気づくはず。
文中では勢古を褒めちぎっているが、オマージュと呼ぶにはあまりに芸がなさ過ぎる。
タイトルも『こういう男になりたい』をもじったものであることが明白なのに、あとがきで「この本にふさわしい、ただひとつある書名」と語っている。
河合塾の先生らしいけど、一体何がしたいのか。
2006年6月3日に日本でレビュー済み
40歳=不惑なんて一体誰が考えたやら。
本書冒頭里中氏の40過ぎても「ワクワクしっぱなし」、はドキドキワクワクの「ワクワク」じゃなく「惑惑」だったって。噴き出してしまいました。
全編通して著者の思う「まともな男」像を追い求めますが最後は労働者であり哲学者であったエリック・ホッファー登場!「惑惑」ぶりもここに極まれりなのですが、ぼくも他人のことは言えない。
みんなそうなんだあ、とある意味安心できる本。
本書冒頭里中氏の40過ぎても「ワクワクしっぱなし」、はドキドキワクワクの「ワクワク」じゃなく「惑惑」だったって。噴き出してしまいました。
全編通して著者の思う「まともな男」像を追い求めますが最後は労働者であり哲学者であったエリック・ホッファー登場!「惑惑」ぶりもここに極まれりなのですが、ぼくも他人のことは言えない。
みんなそうなんだあ、とある意味安心できる本。
2006年4月17日に日本でレビュー済み
題名に惹かれて買って読んでみたが、イマイチだった。普通こういう内容の本は、著者がなかなかなるには厳しい「まともな男」像を描いて見せ、それでも著者は結構そのまともな男に近いんだろうな、と思わせるか、もしくは著者が「なりたいがなれない」と嘆いて見せながら、それでも著者は結構なれてるんだろうな、と思わせるものだ。しかし、読んでみてそういう感じは受けず、愚痴を並べているだけのように感じる。感想を一言で言えば、「じゃあ、なれば良いだろ」といった感じだ。
書いてあることは至極ごもっともなので、何故そう感じてしまうかというと、受け売りばかりで著者の意見に見えないのが原因だろう。また、引用(特にまともなことが書いてあるほうの文献)が、この本の価値でもあるはずだが、少ないと言わざるを得ない。もともと誰もまともなことを言っているなどと思わないような評論家の文章を、おおげさに嘆いてみても感心はしないし、それに対して出してくる「まともな」文章が少数の回り持ちでは、またかと思うだけでなく、著者がこれしか読んでいないのではないかと疑われかねない。
「まともな男」についていろいろな本を読み、いろいろ考えたならば、もっと、いろいろな「まともな」著書の引用を数多く取り上げ、それを解説するような形にすれば良かったのではないかと思える。
書いてあることは至極ごもっともなので、何故そう感じてしまうかというと、受け売りばかりで著者の意見に見えないのが原因だろう。また、引用(特にまともなことが書いてあるほうの文献)が、この本の価値でもあるはずだが、少ないと言わざるを得ない。もともと誰もまともなことを言っているなどと思わないような評論家の文章を、おおげさに嘆いてみても感心はしないし、それに対して出してくる「まともな」文章が少数の回り持ちでは、またかと思うだけでなく、著者がこれしか読んでいないのではないかと疑われかねない。
「まともな男」についていろいろな本を読み、いろいろ考えたならば、もっと、いろいろな「まともな」著書の引用を数多く取り上げ、それを解説するような形にすれば良かったのではないかと思える。
2007年3月12日に日本でレビュー済み
約10年前に予備校で著者の授業に心酔した一人です。数々の雑談からにじみ出ていた教養への誘いを鮮明に覚えています。
昔の記憶を大きく裏切り、本著の骨子は極めて保守的と言っていいものだった。政治色は少なく、教養がちりばめられた道徳論という点ではPHP新書かと思うほど。若干政治色を帯びるのはいわゆるバックラッシュに属する主張で、フェミニズムの評価については運動とその理念とを混同している面があると思えた(フェミニズムへの評価がこの本の主旨では全くないのだが)。上野千鶴子や小倉千加子の言葉遣いや品位のなさをあげつらうのは、自身の感性を女性一般の感性に押し拡げそれを根拠に柳沢大臣の発言をやり玉にあげる女性論者の思考にも似てしまう。批判はもっと上野個人の思想や小倉個人の思想へ向けて行わなければなるまい。自分と異なる主張を持つ者に対してこそ、その思想の根幹へ向けて批判を行うべきではないか、というのが10年前の師に送る言葉である。
しかし実際の氏の人柄を(本当に僅かだが)知る者にとっては、いわゆる骨の随からの保守思想とは最終的には相容れないようにも思える。敵が同じであるからといって同質とはならないのが思想であろう。批判の中心となる軽薄短小な面白主義というのも多くは著者自身へ向けられた言葉であり、自らの実感に依拠するという方法は、じつは極めて個人主義的なものだ(日本の社会では実感がそのまま「公」たりえてしまう場合も多いが)。日本社会に批判的でかつ非常に個人主義的な方向を押し進めた先にある保守思想という点では、小林よしのりなどとも近いものも感じる。
昔の記憶を大きく裏切り、本著の骨子は極めて保守的と言っていいものだった。政治色は少なく、教養がちりばめられた道徳論という点ではPHP新書かと思うほど。若干政治色を帯びるのはいわゆるバックラッシュに属する主張で、フェミニズムの評価については運動とその理念とを混同している面があると思えた(フェミニズムへの評価がこの本の主旨では全くないのだが)。上野千鶴子や小倉千加子の言葉遣いや品位のなさをあげつらうのは、自身の感性を女性一般の感性に押し拡げそれを根拠に柳沢大臣の発言をやり玉にあげる女性論者の思考にも似てしまう。批判はもっと上野個人の思想や小倉個人の思想へ向けて行わなければなるまい。自分と異なる主張を持つ者に対してこそ、その思想の根幹へ向けて批判を行うべきではないか、というのが10年前の師に送る言葉である。
しかし実際の氏の人柄を(本当に僅かだが)知る者にとっては、いわゆる骨の随からの保守思想とは最終的には相容れないようにも思える。敵が同じであるからといって同質とはならないのが思想であろう。批判の中心となる軽薄短小な面白主義というのも多くは著者自身へ向けられた言葉であり、自らの実感に依拠するという方法は、じつは極めて個人主義的なものだ(日本の社会では実感がそのまま「公」たりえてしまう場合も多いが)。日本社会に批判的でかつ非常に個人主義的な方向を押し進めた先にある保守思想という点では、小林よしのりなどとも近いものも感じる。