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神国日本 (ちくま新書 591) 新書 – 2006/4/1
佐藤 弘夫
(著)
- 本の長さ232ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2006/4/1
- ISBN-104480062955
- ISBN-13978-4480062956
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2006/4/1)
- 発売日 : 2006/4/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 232ページ
- ISBN-10 : 4480062955
- ISBN-13 : 978-4480062956
- Amazon 売れ筋ランキング: - 296,624位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2019年10月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
古代から近世に至る我が国の神国思想が如何に誕生し、変遷してきたか、その歴史的概観、文化やその時代時代の背景などがよくわかる良書だと思います。右にも左にも偏ることなく、淡々と資料を元に事実を積み重ねているところに好感が持てます。江戸時代の神国思想の変遷はあまり詳しくありませんが、新書というスペースが限られていることや、江戸時代の思想に深く立ち入ること自体、それだけで本一冊の分量になるでしょうからやむをえないのでしょうね。でも、欲を言えば、宋学との関係も叙述してほしかったと思いました。ただ、中世の記述が主となるので、当時の歴史や時代背景が詳しくないと、入ってきにくいかもしれませんね。網野善彦「無縁・公界・楽」や、伊藤正敏「自社勢力の中世」などを併せて読まれることをお勧めします。
2013年2月13日に日本でレビュー済み
書名から右翼アジテートの本かと思う人もいるだろう。最近新書の質が落ち、有名出版社のものでもトンデモ本があったりするから。
本書は逆である。右翼思想の裏付けを本書に期待した人は怒りに震えて投げ出すこと請合い。手堅い実証的な論述で、しかも学界の常識を破る新鮮な知見も多く説得力がある。
中世の神国思想は、絶対天皇制・神道主義・排外主義的ナショナリズムに彩られた昭和ファシズム期のそれとは全く異なることが論述されている。仏教に対する劣勢を逆転させたい神道側のイデオロギー反撃、蒙古襲来を契機にした初期ナショナリズム高揚の産物、太古以来の自国認識が連綿と続いている、排外主義的な自民族優位論だなどといった一般人のみならず学界まで風靡している神国思想をめぐる「常識」を史料に基づき反駁する。現人神の天皇が統治するから神国だとする古代の神国思想に対して中世のそれは本地垂迹説が前提となっており反仏教的どころか仏教なくしては成立しないこと、律令国家の財政危機から国家保護が受けられなくなった寺社が私的荘園経営に乗り出し所領や信者獲得に狂奔(それを著者は寺社の自由競争時代の到来と呼ぶ)し、悪僧強訴など支配秩序をイデオロギー的に支えるはずの大寺社が相争う無政府状態が現出する院政期から神国思想が唱えられ始め、専修念仏宗弾圧の思想的根拠にも使われたことを挙げ、この思想は蒙古襲来の如き対外危機(実はこの時期、所領の庶子分割相続による体制の弱体化と所領争奪という対内危機が同時進行しており、蒙古危機をテコに国内結束による支配層の状況打破が図られた側面が見逃せず単純に対外危機とは言えない)を含めた中世支配体制崩壊の危機に呼応して現れるとし、中世神国思想は太古からの民族的遺産でも神道優位論でもなく、その成立についても蒙古襲来や初期ナショナリズムは直接的な契機でないとする。
また本書は中世神国思想の基底に本地垂迹説があるとし、その説を分析することを通して、神国思想のみならず本地垂迹説についての有益な理解をもたらしてくれる。仏教を通して「日本は辺土粟散(仏国土インドから遠く隔たった粟のような小島群)」といった日本優越論とは真逆の自国認識が浸透していた。ときに末法の時代に突入、いよいよ辺土に住む日本人の救済は絶望的だと当時の人々は考えたという。それはさておき、このような品格下劣な辺土だからこそ日本には仏そのものではなく劣位な神として垂迹(現出)したと、これまた自虐的な自国認識が生まれた。仏を宇宙的真理とするなら釈迦はインドに降臨した最高の垂迹、ついで孔孟や老荘は中国における仏の垂迹、日本の神は三国中最下位の垂迹と位置付けられていたという。中世の神国思想は、このように普遍宗教である仏教に圧倒的優位性を認めその垂迹の有り様を規定したにすぎない。日本の神が劣位な垂迹と見られたように、ここに排外思想や自民族優越論は含まれようがない。
さらに垂迹説は神道の諸神だけでなく、仏教寺院の側でも仏像や仏具も垂迹として拝礼の対象とする理論的根拠となった。専修念仏のように寺院の仏像や聖具を媒介にせず直接に阿弥陀仏や法華経に救いを求める新仏教に対して行われた呵責のない執拗な旧仏教側の弾圧は、寺院や宮社を媒介とする信仰によって信者と寄進を得ることが経済的に必要であった大寺社にとって専修念仏は経済基盤を脅かす危険な存在であるからであった。その寺院や宮社を媒介とする信仰の理論的な根拠が垂迹説であり、だからこそ弾圧に際して神国思想が持ち出されたのであった。
さらに中世天皇制についても論じ、たしかに中世的支配秩序崩壊の危機に際し神国思想と共に神胤である天皇も持ち出されたが、幼童天皇の存在や治者としての徳は求められなかったことからみて、その血統は相争う権門勢家の一時的協調のシンボルであっても個々の天皇については不適格者は容易に引きずり降ろせる相対的なものであった、しかし垂迹説のおかげで圧倒的な支配宗教である仏教の信認を神道の神々が得ていたため、その司祭たる天皇位存続が可能であったのだと論は進み、天皇制存続の謎に迫る。いわゆる権門勢家学説の延長であるが、その学説の宗教的な側面を照射した点で注目されるし、一般の権門勢家学説支持者が言うような民衆に対する支配の正統性を証するための天皇制存続ではなく、支配体制諸勢力に対する協調シンボルに役割を限定した点も記しておきたい。
本書の詳説は鎌倉時代までで、天皇制に関して興味のある南北朝や足利義満は飛び越え、織豊時代から近世の神国思想に触れ、強烈な仏教の彼岸性が薄れて神仏ともに現世利益的な信仰の此岸性が増すなか、仏教コスモロジーの制約を離れた神国思想は自民族中心主義に急速に傾いていくとする。国学勃興をはじめとする大陸思想からの自立を基調とする近世思想界。やがてくる明治絶対天皇制の助走期と言えるであろうか。
本書は昭和ファシズム期の『国体の本義』に引用された「大日本国は神国なり」で始まる『神皇正統記』に須弥山を中心とした仏教的世界観の記述や悪政のため地獄で呻吟する諸天皇たちが登場するのはなぜか、という疑問から始まっている。私は戦前の経緯から、何となく『神皇正統記』を忌避し原典を読んでいない。私も「戦前的なるもの」を毛嫌いする最近急速に落ちぶれた「左翼リベラル派」の最終ランナーかも知れない。折口史学が太古と近代を直結させ「永遠の日本的なるもの」を仮設する誤りを現代の学者さえ犯している(著名なUという哲学者が「平和は日本の伝統」とした新聞の記事を読んで私は唖然とした)のと真逆の誤りを私も犯しているのかも知れない。その解釈が自明とされる古い思想や観念が実は歴史的変遷のなかで様々な意味合いを持ち歪められつつ現代に伝世されており、その変化様相を知らなければ軽々に論じられないことを本書は教えてくれる。ある書によれば昭和ファシズムの草の根イデオローグは中等教育まで受けた小学校教員や村長などの中途半端なインテリ郷紳層であった。彼らは幼い学童や無学な村民を「教導」することで小っぽけな優越感に生き、アカに染まりがちな帝国大学出身者には反感を持ちながら上位者に阿諛追従する人々だった。『国体の本義』を見せられながら上長から「学童や村民を正しく教導せよ」と言われたとき、原典は読んでいないが北畠親房や『神皇正統記』の名は知っていた彼らは「親房ほどの人物が書いた言葉だから誤りはなかろう」として、上長への追従を乏しい知識で正当化する。時代の磁場が変化するのが予感される昨今の状況下、私も「亡国に加担したエセインテリ」と指弾される存在になるかも知れないと、ひそかに恐れ、自戒する。
ともあれ、本書は中世の思想と社会について、そしてその時代の日本人の在り様について、いろいろ考えさせてくれる良書である。ナショナリズムや世界観の衝突が人間の宿業であると戦後の半睡から覚めはじめた昨今の状況にあって、アクチュアルな関心を呼び覚ませてくれる本の一つである。
本書は逆である。右翼思想の裏付けを本書に期待した人は怒りに震えて投げ出すこと請合い。手堅い実証的な論述で、しかも学界の常識を破る新鮮な知見も多く説得力がある。
中世の神国思想は、絶対天皇制・神道主義・排外主義的ナショナリズムに彩られた昭和ファシズム期のそれとは全く異なることが論述されている。仏教に対する劣勢を逆転させたい神道側のイデオロギー反撃、蒙古襲来を契機にした初期ナショナリズム高揚の産物、太古以来の自国認識が連綿と続いている、排外主義的な自民族優位論だなどといった一般人のみならず学界まで風靡している神国思想をめぐる「常識」を史料に基づき反駁する。現人神の天皇が統治するから神国だとする古代の神国思想に対して中世のそれは本地垂迹説が前提となっており反仏教的どころか仏教なくしては成立しないこと、律令国家の財政危機から国家保護が受けられなくなった寺社が私的荘園経営に乗り出し所領や信者獲得に狂奔(それを著者は寺社の自由競争時代の到来と呼ぶ)し、悪僧強訴など支配秩序をイデオロギー的に支えるはずの大寺社が相争う無政府状態が現出する院政期から神国思想が唱えられ始め、専修念仏宗弾圧の思想的根拠にも使われたことを挙げ、この思想は蒙古襲来の如き対外危機(実はこの時期、所領の庶子分割相続による体制の弱体化と所領争奪という対内危機が同時進行しており、蒙古危機をテコに国内結束による支配層の状況打破が図られた側面が見逃せず単純に対外危機とは言えない)を含めた中世支配体制崩壊の危機に呼応して現れるとし、中世神国思想は太古からの民族的遺産でも神道優位論でもなく、その成立についても蒙古襲来や初期ナショナリズムは直接的な契機でないとする。
また本書は中世神国思想の基底に本地垂迹説があるとし、その説を分析することを通して、神国思想のみならず本地垂迹説についての有益な理解をもたらしてくれる。仏教を通して「日本は辺土粟散(仏国土インドから遠く隔たった粟のような小島群)」といった日本優越論とは真逆の自国認識が浸透していた。ときに末法の時代に突入、いよいよ辺土に住む日本人の救済は絶望的だと当時の人々は考えたという。それはさておき、このような品格下劣な辺土だからこそ日本には仏そのものではなく劣位な神として垂迹(現出)したと、これまた自虐的な自国認識が生まれた。仏を宇宙的真理とするなら釈迦はインドに降臨した最高の垂迹、ついで孔孟や老荘は中国における仏の垂迹、日本の神は三国中最下位の垂迹と位置付けられていたという。中世の神国思想は、このように普遍宗教である仏教に圧倒的優位性を認めその垂迹の有り様を規定したにすぎない。日本の神が劣位な垂迹と見られたように、ここに排外思想や自民族優越論は含まれようがない。
さらに垂迹説は神道の諸神だけでなく、仏教寺院の側でも仏像や仏具も垂迹として拝礼の対象とする理論的根拠となった。専修念仏のように寺院の仏像や聖具を媒介にせず直接に阿弥陀仏や法華経に救いを求める新仏教に対して行われた呵責のない執拗な旧仏教側の弾圧は、寺院や宮社を媒介とする信仰によって信者と寄進を得ることが経済的に必要であった大寺社にとって専修念仏は経済基盤を脅かす危険な存在であるからであった。その寺院や宮社を媒介とする信仰の理論的な根拠が垂迹説であり、だからこそ弾圧に際して神国思想が持ち出されたのであった。
さらに中世天皇制についても論じ、たしかに中世的支配秩序崩壊の危機に際し神国思想と共に神胤である天皇も持ち出されたが、幼童天皇の存在や治者としての徳は求められなかったことからみて、その血統は相争う権門勢家の一時的協調のシンボルであっても個々の天皇については不適格者は容易に引きずり降ろせる相対的なものであった、しかし垂迹説のおかげで圧倒的な支配宗教である仏教の信認を神道の神々が得ていたため、その司祭たる天皇位存続が可能であったのだと論は進み、天皇制存続の謎に迫る。いわゆる権門勢家学説の延長であるが、その学説の宗教的な側面を照射した点で注目されるし、一般の権門勢家学説支持者が言うような民衆に対する支配の正統性を証するための天皇制存続ではなく、支配体制諸勢力に対する協調シンボルに役割を限定した点も記しておきたい。
本書の詳説は鎌倉時代までで、天皇制に関して興味のある南北朝や足利義満は飛び越え、織豊時代から近世の神国思想に触れ、強烈な仏教の彼岸性が薄れて神仏ともに現世利益的な信仰の此岸性が増すなか、仏教コスモロジーの制約を離れた神国思想は自民族中心主義に急速に傾いていくとする。国学勃興をはじめとする大陸思想からの自立を基調とする近世思想界。やがてくる明治絶対天皇制の助走期と言えるであろうか。
本書は昭和ファシズム期の『国体の本義』に引用された「大日本国は神国なり」で始まる『神皇正統記』に須弥山を中心とした仏教的世界観の記述や悪政のため地獄で呻吟する諸天皇たちが登場するのはなぜか、という疑問から始まっている。私は戦前の経緯から、何となく『神皇正統記』を忌避し原典を読んでいない。私も「戦前的なるもの」を毛嫌いする最近急速に落ちぶれた「左翼リベラル派」の最終ランナーかも知れない。折口史学が太古と近代を直結させ「永遠の日本的なるもの」を仮設する誤りを現代の学者さえ犯している(著名なUという哲学者が「平和は日本の伝統」とした新聞の記事を読んで私は唖然とした)のと真逆の誤りを私も犯しているのかも知れない。その解釈が自明とされる古い思想や観念が実は歴史的変遷のなかで様々な意味合いを持ち歪められつつ現代に伝世されており、その変化様相を知らなければ軽々に論じられないことを本書は教えてくれる。ある書によれば昭和ファシズムの草の根イデオローグは中等教育まで受けた小学校教員や村長などの中途半端なインテリ郷紳層であった。彼らは幼い学童や無学な村民を「教導」することで小っぽけな優越感に生き、アカに染まりがちな帝国大学出身者には反感を持ちながら上位者に阿諛追従する人々だった。『国体の本義』を見せられながら上長から「学童や村民を正しく教導せよ」と言われたとき、原典は読んでいないが北畠親房や『神皇正統記』の名は知っていた彼らは「親房ほどの人物が書いた言葉だから誤りはなかろう」として、上長への追従を乏しい知識で正当化する。時代の磁場が変化するのが予感される昨今の状況下、私も「亡国に加担したエセインテリ」と指弾される存在になるかも知れないと、ひそかに恐れ、自戒する。
ともあれ、本書は中世の思想と社会について、そしてその時代の日本人の在り様について、いろいろ考えさせてくれる良書である。ナショナリズムや世界観の衝突が人間の宿業であると戦後の半睡から覚めはじめた昨今の状況にあって、アクチュアルな関心を呼び覚ませてくれる本の一つである。
2013年12月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
神国思想と聞けば、誰しも自民族中心主義のナショナリズムを連想するが、そのような神国思想は江戸時代以降の近世になって生まれたもので、中世においては時代や国境を越えた「宇宙の普遍的な共通の真理」が実存するという認識(インターナショナルとしての神国思想)があったとする著者独自の論説が、多くの史料を引用しつつ紹介されている。その「宇宙の普遍的な共通の真理」は、本地垂迹説から生まれた日本独自の神国思想であるとするが、世界宗教とよばれるキリスト教・仏教・イスラム教などが広まった地域でも、前近代の一時期、神国思想と同様な普遍主義的な世界観が主流を占める段階があったとし、神国思想の研究の延長線上で、世界各地域における「普遍主義」と「自民族中心主義」の発生メカニズムを解明することができるのではないかという期待をもたせている。ことによると、不統一で混乱状態と見なされてきたアジアの神々の構造において、実は共通の根元神のようなものが存在していたのではないかという宗教の本質が明かとなり、アジアの国々の絆を強めることになるのではないかと期待できる。特に領土問題と靖国問題を抱える我が国において、神国思想のみならず中華思想も含めた歴史的変遷の内実とその真理を、「宇宙の普遍的な共通の真理」を基軸に、活発に論議することは極めて有益なことではないかと思う。本書が一人でも多くの日本人に読まれることを期待する。
2010年9月7日に日本でレビュー済み
タイトルがなんか危ない本に思えるし、実際政治的にホットだからということで筆者もあえて狙っているのだろうけど、中身はタイトルから予想されるような危ない本ではない。
古代から中世にかけて、神仏習合前後で「神国思想」がどのように展開してきたか、を丹念に調べた歴史の良書である。
本書のメインメッセージをまとめると、「神国思想は、本地垂迹説における仏教優位を逆転させるために生まれた」という認識は誤っている、となるだろう。
むしろ神国思想と本地垂迹説は相補的であるというのが本書の結論だ。
本地垂迹説では、神というのは、日本が辺境の地なので仏法への導きのために現れたものだとされる。
日本は辺境なので、他の地域に比べても強力な導きが必要であり、そのため「神」となったのである。
当然、神道と仏教は相互に協力し合う関係にあり、例えば当時は神道で葬式を上げたりさえした。
そして神国というのは、「導き手が「神」として現れた地域」程度の意味しか最初はなかったのである。
日本のみが神国なのは、日本以外の地域では「神」以外の導き手、例えばインドなら釈迦、が現れるからである。
ゆえに、神国と優位性は別段の関係はないのだ。
天皇も、古代はそれ自体崇高な神であったが、神国思想では「導き手の一人」に格下げされてしまう。
そのため、不適切な天皇は排斥されていったし、それも可能になったのである。
読み物として読んでいて普通に面白い。おススメ。
古代から中世にかけて、神仏習合前後で「神国思想」がどのように展開してきたか、を丹念に調べた歴史の良書である。
本書のメインメッセージをまとめると、「神国思想は、本地垂迹説における仏教優位を逆転させるために生まれた」という認識は誤っている、となるだろう。
むしろ神国思想と本地垂迹説は相補的であるというのが本書の結論だ。
本地垂迹説では、神というのは、日本が辺境の地なので仏法への導きのために現れたものだとされる。
日本は辺境なので、他の地域に比べても強力な導きが必要であり、そのため「神」となったのである。
当然、神道と仏教は相互に協力し合う関係にあり、例えば当時は神道で葬式を上げたりさえした。
そして神国というのは、「導き手が「神」として現れた地域」程度の意味しか最初はなかったのである。
日本のみが神国なのは、日本以外の地域では「神」以外の導き手、例えばインドなら釈迦、が現れるからである。
ゆえに、神国と優位性は別段の関係はないのだ。
天皇も、古代はそれ自体崇高な神であったが、神国思想では「導き手の一人」に格下げされてしまう。
そのため、不適切な天皇は排斥されていったし、それも可能になったのである。
読み物として読んでいて普通に面白い。おススメ。
2008年7月23日に日本でレビュー済み
神国思想が論じられる場合、それを容認するか否定するかというスタンスが先
にたち、読む前から話が見えている著作が多く、しかもあまりにも底が浅く、
客観的情報が少ないことから、この手の書籍を手に取ることはありませんでした。
しかしかく云う私自身も日本=神国の主張が実際いかなる論理構造、歴史的背景
についての知識は皆無でした。
本書は神国思想をあれこれ評価する以前に、神国思想そのものの内容分析に、
腰をすえて正面から取り組んだ意欲作です。本書の下敷きとなったのは著者に
よって1995年に発表された論文だそうです。切り口としては今読んでも斬新で、
多くの示唆に富んでいると感じたのですが、当時の専門の研究者からは完全な
無視と黙殺をもって迎えられたそうです。その話だけでも自国の思想・文化史に
ついて日本の研究が停滞していることが窺われます。これは研究者たちの果たす
べき役割を放棄した怠慢ともいえるのではないでしょうか。
内容は、停電で真っ暗な部屋でいきなり蛍光灯がついて目の前が開ける感じです。
日本の神々と仏教、儒教の関係性が実に分かりやすく論じられている反面、
ハードカバーの学術書にしても遜色のない密度をもっています。もしあなたが
日本人と神の関係性について一歩引いて、冷静に考えてみたいと思うなら必読の書です。
にたち、読む前から話が見えている著作が多く、しかもあまりにも底が浅く、
客観的情報が少ないことから、この手の書籍を手に取ることはありませんでした。
しかしかく云う私自身も日本=神国の主張が実際いかなる論理構造、歴史的背景
についての知識は皆無でした。
本書は神国思想をあれこれ評価する以前に、神国思想そのものの内容分析に、
腰をすえて正面から取り組んだ意欲作です。本書の下敷きとなったのは著者に
よって1995年に発表された論文だそうです。切り口としては今読んでも斬新で、
多くの示唆に富んでいると感じたのですが、当時の専門の研究者からは完全な
無視と黙殺をもって迎えられたそうです。その話だけでも自国の思想・文化史に
ついて日本の研究が停滞していることが窺われます。これは研究者たちの果たす
べき役割を放棄した怠慢ともいえるのではないでしょうか。
内容は、停電で真っ暗な部屋でいきなり蛍光灯がついて目の前が開ける感じです。
日本の神々と仏教、儒教の関係性が実に分かりやすく論じられている反面、
ハードカバーの学術書にしても遜色のない密度をもっています。もしあなたが
日本人と神の関係性について一歩引いて、冷静に考えてみたいと思うなら必読の書です。
2006年6月2日に日本でレビュー済み
「神国」というのは、古代史に端を発すると見るのか、蒙古来襲に端を発するのか、意見はあろうが、近代の一時期に盛んに使用されたイデオロギーとは別の素朴な、日本人の心情に基づいていることが分かる。
確かに、神道という宗教を別にしても、日本人にか、山や川、木々やこずえに「神が宿る」という素朴な心情を持って生活して来た。今はなき祖父母の話などには、イデオロギーとか、国家とは別の自然に対する信仰心があったと思う。
そうした素朴な心情が元になっていることを踏まえて「神国」としての日本を論じている。天皇制との関係に強く言及していないのも、そうした素朴な日本人の心情に配慮してのことと思う。
題名だけ見ると、右翼の本と思われそうだが、そうではない。
素直に溶け込める本である。
確かに、神道という宗教を別にしても、日本人にか、山や川、木々やこずえに「神が宿る」という素朴な心情を持って生活して来た。今はなき祖父母の話などには、イデオロギーとか、国家とは別の自然に対する信仰心があったと思う。
そうした素朴な心情が元になっていることを踏まえて「神国」としての日本を論じている。天皇制との関係に強く言及していないのも、そうした素朴な日本人の心情に配慮してのことと思う。
題名だけ見ると、右翼の本と思われそうだが、そうではない。
素直に溶け込める本である。