結局重要なことは、私たちが今「生きている」ということだな、と気づかされました。
そこにアプローチするために、「病人の生」という概念を用いています。
とにかく読んで見るべきです。
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病いの哲学 (ちくま新書 593) 新書 – 2006/4/1
小泉 義之
(著)
- 本の長さ236ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2006/4/1
- ISBN-104480063005
- ISBN-13978-4480063007
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2006/4/1)
- 発売日 : 2006/4/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 236ページ
- ISBN-10 : 4480063005
- ISBN-13 : 978-4480063007
- Amazon 売れ筋ランキング: - 660,320位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年1月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
病人プラトンと健康なソクラテスという対照から起こして、様々な哲学者へと繋げていく手腕はスリリングかつ巧みである。自己の移植に伴うナンシーの思考も改めて読むと病者の哲学という観点で興味深い。
2006年8月10日に日本でレビュー済み
哲学には伝統的に、死を見つめ、死に意味を見出し、「善き死」や「美しい死」を考えようとする傾向があるように思う。それは、つまりは生を見つめ、生の意味を考え、「善き生き方」を問いたいからだ、と言うこともできるだろう。だが、死と対局にあるのは必ずしも「健全な生」「全き生」だけではないことに、気付く必要があるだろう。「死へ向かおうとする生」「病人の生」を見つめ直すことの必要性だ。尊厳死が言われ、脳死が問題になる現代では、尚更のことだ、とも言える。
脳死状態、植物状態、末期状態について考えるとき、死に魅了される哲学は、死ぬことに意味を与え、死によって生を照らし出すことで、生に救いをもたらそうとして来た。しかし、そこで取り逃がされて来たのは、「病人の生」「死へ向かおうとする生」だ。ここに必要なのは、死と対局にある生ではなく、「病人の生」「死へ向かおうとする生」を肯定し、擁護することではないか。
尊厳死が言われるようになったが、「死ぬ権利」に対比されるのは「生きる権利」ではなく、「権利を喪失したと見なされる生」「生き延びるに値しない生」であり、「死ぬ自由」に対比されるのは「生きる自由」ではなく、「自由を喪失した生を生かされる不自由」だ。死ぬ自由を言い立てることは、不自由な生を死へと廃棄することを含意していることに気付かねばならない。
筆者は言う。「生の終わりは瞬間でも境界でもない。起こっていることは、生と死の浸透、生への死の分散、死への生の分散である。(中略)だから、病人の生を肯定し、擁護することは、生そのものの肯定と擁護に繋がるのである」
「死へ向かう者を、どうして少しばかり待てないのか」と筆者は言う。尊厳死、脳死状態、植物状態、末期状態について「提出されてきた理屈は知っているつもりだが、どれもこれも到底納得できるものではない」と言う筆者の言に耳を貸す余裕がほしいと思う。
脳死状態、植物状態、末期状態について考えるとき、死に魅了される哲学は、死ぬことに意味を与え、死によって生を照らし出すことで、生に救いをもたらそうとして来た。しかし、そこで取り逃がされて来たのは、「病人の生」「死へ向かおうとする生」だ。ここに必要なのは、死と対局にある生ではなく、「病人の生」「死へ向かおうとする生」を肯定し、擁護することではないか。
尊厳死が言われるようになったが、「死ぬ権利」に対比されるのは「生きる権利」ではなく、「権利を喪失したと見なされる生」「生き延びるに値しない生」であり、「死ぬ自由」に対比されるのは「生きる自由」ではなく、「自由を喪失した生を生かされる不自由」だ。死ぬ自由を言い立てることは、不自由な生を死へと廃棄することを含意していることに気付かねばならない。
筆者は言う。「生の終わりは瞬間でも境界でもない。起こっていることは、生と死の浸透、生への死の分散、死への生の分散である。(中略)だから、病人の生を肯定し、擁護することは、生そのものの肯定と擁護に繋がるのである」
「死へ向かう者を、どうして少しばかり待てないのか」と筆者は言う。尊厳死、脳死状態、植物状態、末期状態について「提出されてきた理屈は知っているつもりだが、どれもこれも到底納得できるものではない」と言う筆者の言に耳を貸す余裕がほしいと思う。
2008年1月19日に日本でレビュー済み
病について西洋哲学者の知見を借りつつ考察した本です。
西洋の哲学者がどういうことを言っていたかがわかります。
あまり病そのものや医療についてはよくわかりません。
病人という言葉を使っていますが手塚治虫の描くBJのように
病人というネガティヴな言葉が「いかに人を傷つけるか」という
ことにもっと自覚的であってほしいと思いました
西洋の哲学者がどういうことを言っていたかがわかります。
あまり病そのものや医療についてはよくわかりません。
病人という言葉を使っていますが手塚治虫の描くBJのように
病人というネガティヴな言葉が「いかに人を傷つけるか」という
ことにもっと自覚的であってほしいと思いました
2014年2月25日に日本でレビュー済み
「はじめに」、「あとがき」における著者の思いが熱い。
本編はプラトン、ハイデッガー、レヴィナス、フーコーなどの哲学者を引きつつ、病いや生死についての論考を重ねていくもの。
著者がアレコレと現実の問題を切っていく…みたいなものを想像しているとちょっと噛み合わないかもしれない。
でも、「はじめに」と「あとがき」が良いのだ。
短い文だが、何をしたかったのか、何を伝えたかったのかが心に沁みる。
こういう哲学の使い方があるのかと思わされる一冊。
本編はプラトン、ハイデッガー、レヴィナス、フーコーなどの哲学者を引きつつ、病いや生死についての論考を重ねていくもの。
著者がアレコレと現実の問題を切っていく…みたいなものを想像しているとちょっと噛み合わないかもしれない。
でも、「はじめに」と「あとがき」が良いのだ。
短い文だが、何をしたかったのか、何を伝えたかったのかが心に沁みる。
こういう哲学の使い方があるのかと思わされる一冊。
2007年5月15日に日本でレビュー済み
「病」というものを哲学的に考察した本かと期待して読んだが、はずれだった。
著名な哲学者を大量に引用してきては、それをうだうだ書いているだけの感じ。
ただただ、プラトンが何を言っていた、ハイデガーが・・・、を繰り返しているよう。
肝心の、筆者はどう考え、何を主張したいかがほとんど出てこない。
まあ哲学史を学ぶと思って読めば、ある程度は面白いのかもしれないが。
著名な哲学者を大量に引用してきては、それをうだうだ書いているだけの感じ。
ただただ、プラトンが何を言っていた、ハイデガーが・・・、を繰り返しているよう。
肝心の、筆者はどう考え、何を主張したいかがほとんど出てこない。
まあ哲学史を学ぶと思って読めば、ある程度は面白いのかもしれないが。
2008年12月12日に日本でレビュー済み
「『生きるか死ぬか、それが問題だ』。しかし、本当だろうか。」(7頁)
あ、そうなんですか?
たいへん僭越ながら、死のことをもそもそと考えて日を過ごしている身ですが、そんな風に問題を考えたことはなかったですね。ということは、少なくとも私はこの本では攻撃の的にはなっていないようです。ああよかった。
それにしても、こんなに眉間に皺を寄せて、不機嫌な雰囲気を醸し出し、喧嘩腰に先達と相対さねばならぬとすれば、哲学者というのも因果なものですね。
ところで、「死を通過して辿り着くべき生は、病人の生にほかならない」ということですが、これをわかりやすく阪急電車で例えれば、「誰もが梅田についてばかり語っているが、真に語るべきは十三ではないのか」ということだと思われます。
しかしですね。
阪急電車において十三が重要な駅であることは誰しも認めます。でもそうはいってもやはり、どの電車も川を渡って梅田に向かうわけです。したがって、「末期の生としての病い」について突き詰めて考えれば考えるほど、その先には改めて「死」が浮かび上がってくると思うのですよ。
的外れだったら謝りますが、「著者の言を是としつつ、その不機嫌にお付き合いする気にはなれなかった」というのが率直な感想です。
あ、そうなんですか?
たいへん僭越ながら、死のことをもそもそと考えて日を過ごしている身ですが、そんな風に問題を考えたことはなかったですね。ということは、少なくとも私はこの本では攻撃の的にはなっていないようです。ああよかった。
それにしても、こんなに眉間に皺を寄せて、不機嫌な雰囲気を醸し出し、喧嘩腰に先達と相対さねばならぬとすれば、哲学者というのも因果なものですね。
ところで、「死を通過して辿り着くべき生は、病人の生にほかならない」ということですが、これをわかりやすく阪急電車で例えれば、「誰もが梅田についてばかり語っているが、真に語るべきは十三ではないのか」ということだと思われます。
しかしですね。
阪急電車において十三が重要な駅であることは誰しも認めます。でもそうはいってもやはり、どの電車も川を渡って梅田に向かうわけです。したがって、「末期の生としての病い」について突き詰めて考えれば考えるほど、その先には改めて「死」が浮かび上がってくると思うのですよ。
的外れだったら謝りますが、「著者の言を是としつつ、その不機嫌にお付き合いする気にはなれなかった」というのが率直な感想です。