著書の安田氏にこの本を出版するために、周囲からの批判、攻撃、賛否両論になること、すべて覚悟をして上で書いたその勇気をたたえたい。
一神教(例えばキリスト教)が、アミニズムの神々を弾圧をするというという闇の部分があるということ。それによって、善と悪、つまり白黒をつけるということにより、人と人が殺しあう戦争、テロなどが起こる。アミニズムこそがこれからは必要である。特に東南アジアはアミニズムの国である。何か悪いことがあれば、誰かが悪いという一方的な考えではなく(この件に関しては、昔ヨーロッパで行われていた魔女裁判を例で挙げている)ひとつの神の信仰ではないから、この神様が悪かったら、他の神様にお願いしようという考え方。とても柔軟な考え方である。
安田氏の強烈な書き方もあるが、キリスト教をはじめとする一神教がすべて悪いとは書いていない。あくまで、その考え方が危険であるという警告している。そうではないと人間を頂点とした社会。自然と共に調和した持続可能な社会には不可能ではないかと述べている。近年深刻化している生物多様性をこれ以上破壊しないためには、アミニズムの考え方が必要ではないか。とも提案をしている。
安田氏は宗教学者ではなく、幅広い活動をし現在は環境考古学を専門としている。その広い視点から見れば、とても興味深く一度は必読する価値がある。
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一神教の闇: アニミズムの復権 (ちくま新書 630) 新書 – 2006/11/1
安田 喜憲
(著)
- 本の長さ238ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2006/11/1
- ISBN-104480063315
- ISBN-13978-4480063311
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2006/11/1)
- 発売日 : 2006/11/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 238ページ
- ISBN-10 : 4480063315
- ISBN-13 : 978-4480063311
- Amazon 売れ筋ランキング: - 196,555位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 442位文化人類学一般関連書籍
- - 672位ちくま新書
- - 11,686位歴史・地理 (本)
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2009年11月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中谷氏の著作(「
資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言
」)で私が愛読している安田氏の著作が引用されていたので、久々に出してきて読んでみた。
元々、安田氏の著作を読み出したのは、いわゆる環境考古学で、例えば、湖の底の堆積物に含まれる花粉で、気候変動を読み解くという方向性におもしろさを感じたからである。
その時期から見ると、安田氏は随分著作の幅を広げている。本書では、超越的権威である一神教とアニミズムを対比させ、現代の文明の閉塞状況を打ち破ろうという意欲的な作品である。
ユニークではあるが、一部には飛躍があるなぁと感じる部分(「環太平洋アニミズム連合構想」とか)もあり、全体的にバランスが悪い。ただ、一読の価値はあると思う。
まず、文明の定義についての異議が述べられる。
カール・ヤスパースが言うところの「文明」は、超越的秩序としての巨大宗教や哲学を持った「枢軸文明」だけであるとしており、現世的世界は、不完全で劣等で汚れたものであると見なされ、その代表がアニミズムであったという。
超越的秩序の宗教を最初に構築したのは砂漠の民で、彼らの畑作牧畜文明は、森を破壊し耕作地を拡大することで生産性を上げた。
一方、日本人は、純粋の自然でもない、純粋な人里でもない中間の里山を作り出すことによって、(自然と対決するのでなく)自然と人間の間にゆるやかな関係を構築してきた。
この背景には、美しい森と水を守る自然観と世界観、アニミズムの心が根底に存在したからであるという。なお、アニミズムの文明の伝統を色濃く残した国があるが、それはインドであるという。
アニミズムの民が持っていた、森と水の循環系を守り持続的にこの地球で生きる叡智を活用すべきという点には、うさんくさい環境派の主張より示唆に富むように、個人的には感じる。
なお、p.89にある、「一は孤立、二は対立だが、三は調和・和のシンボルである」という言葉には感銘を覚えた。
元々、安田氏の著作を読み出したのは、いわゆる環境考古学で、例えば、湖の底の堆積物に含まれる花粉で、気候変動を読み解くという方向性におもしろさを感じたからである。
その時期から見ると、安田氏は随分著作の幅を広げている。本書では、超越的権威である一神教とアニミズムを対比させ、現代の文明の閉塞状況を打ち破ろうという意欲的な作品である。
ユニークではあるが、一部には飛躍があるなぁと感じる部分(「環太平洋アニミズム連合構想」とか)もあり、全体的にバランスが悪い。ただ、一読の価値はあると思う。
まず、文明の定義についての異議が述べられる。
カール・ヤスパースが言うところの「文明」は、超越的秩序としての巨大宗教や哲学を持った「枢軸文明」だけであるとしており、現世的世界は、不完全で劣等で汚れたものであると見なされ、その代表がアニミズムであったという。
超越的秩序の宗教を最初に構築したのは砂漠の民で、彼らの畑作牧畜文明は、森を破壊し耕作地を拡大することで生産性を上げた。
一方、日本人は、純粋の自然でもない、純粋な人里でもない中間の里山を作り出すことによって、(自然と対決するのでなく)自然と人間の間にゆるやかな関係を構築してきた。
この背景には、美しい森と水を守る自然観と世界観、アニミズムの心が根底に存在したからであるという。なお、アニミズムの文明の伝統を色濃く残した国があるが、それはインドであるという。
アニミズムの民が持っていた、森と水の循環系を守り持続的にこの地球で生きる叡智を活用すべきという点には、うさんくさい環境派の主張より示唆に富むように、個人的には感じる。
なお、p.89にある、「一は孤立、二は対立だが、三は調和・和のシンボルである」という言葉には感銘を覚えた。
2006年11月11日に日本でレビュー済み
著者の言うアニミズムを、現代の西洋は“スピリチュアリズム”と呼んでいる。東洋の釈尊は、自ら創始した“ヴィパッサナー瞑想”によって仏陀になった。その瞑想過程は四色界定(=初禅から四禅)、四無色界定(=空無辺処定→識無辺処定→無所有処定→悲想非非想定)、滅尽定と進むので九次第定と呼ばれ、“スピリチュアリズム”が「霊界」と呼ぶ領域に相当する。
弟子が初禅を体得すれば、釈尊は弟子が初禅の智慧を得たと言った。弟子が滅尽定を体得すれば、釈尊は弟子が阿羅漢の智慧を得たと言った。
誰かが、初禅の体験を聞いたとしよう。それは体得ではなく、聞き覚えた知識でしかない。聞き覚えた知識は想像によって増殖を始める。それが、上座仏教→小乗仏教→大乗仏教と変遷していつの間にか一神教(密教の大日如来のように)になってしまう。霊的な智慧のない頭脳は知識のエントロピーを低下しようとして一神教を生みだしてしまうようだ。
アニミズムの復権。それは、“スピリチュアリズム”の普及であり、霊的な智慧を獲得する釈尊の“ヴィパッサナー瞑想”の普及と言えるであろう。
弟子が初禅を体得すれば、釈尊は弟子が初禅の智慧を得たと言った。弟子が滅尽定を体得すれば、釈尊は弟子が阿羅漢の智慧を得たと言った。
誰かが、初禅の体験を聞いたとしよう。それは体得ではなく、聞き覚えた知識でしかない。聞き覚えた知識は想像によって増殖を始める。それが、上座仏教→小乗仏教→大乗仏教と変遷していつの間にか一神教(密教の大日如来のように)になってしまう。霊的な智慧のない頭脳は知識のエントロピーを低下しようとして一神教を生みだしてしまうようだ。
アニミズムの復権。それは、“スピリチュアリズム”の普及であり、霊的な智慧を獲得する釈尊の“ヴィパッサナー瞑想”の普及と言えるであろう。
2018年5月24日に日本でレビュー済み
安田喜憲 『一神教の闇』を読んで
印象に残ったのは次の諸点だった。
1「 魔女が誕生した背景には、ヨーロッパを襲った小氷期と呼ばれる気候悪化があった。17世紀のヨーロッパは1620年頃をピークに、オランダ運河が凍り付く寒い時代だった。
年平均気温が急激に低下すると、魔女の数が激増した。ドイツのモーゼル川のほとりに1620年に、ワーベル村で気候が寒冷化して、ブドウが獲れなくなった。ブドウがとれないのは、マリーという天候魔女が住んでいたからだ。よって、マリーを魔女裁判にかけ処刑した、これが魔女裁判の原点だった。」と。
何とも恐ろしい事ではないか。寒くなると、人間は鬱になりやすいから、こういった現象が生じるのではないか、と思う。
僕個人としては、暖かい国に住む方が健康的でいいと、思う。太陽光線はうつ病をなくすというし、最近ではガンにかかりにくい、という効果もあるとわかってきた。
日本でも小氷期の時代に同じような危機があった。天明や天保の飢饉があった。宝暦の飢饉もあった。しかし、日本では魔女が誕生しなかった。じつは、私たちは川を龍に見立てることができた。天候が悪いのは、例えば龍の責任だと。だから、魔女を回避できた。
最近まで、雨が降ると、テルテル坊主をつるして、明日晴れるように祈った。あくまで、人間を犠牲にすることはなかった。どうしても、西洋やイスラム世界の習慣は恐ろしい面がある、と思う。
2「イスラム原理主義やキリスト原理主義は神の国の実現のためには、自らの命を投げ出してもかまわないし、他者の命を奪ってかまわない。神の国で祝福されるから。
しかし、日本はアニミズム原理主義を重視するが、他者の命に対する畏敬の念・慈悲の心である。目の前にある、現実世界の命の調和こそが最大の価値がある」と。
あの世があると今の日本人はどれだけ、思っているだろうか。私は、死んだら終わりよ、あの世なんてない。今あるのみと。生まれる前のことなんか、思い出せないし、あの世で祝福されたり、地獄に落ちたりはない、と思っている。
どうして、特にイスラム世界の人々は神の国に入るために、テロまでするのだろう。全く理解できない。イスラム教の人々は一様に、人の命を奪うと、神の国に入れるなんて、誰が最初に言ったのか。
3 「日本人は人が死ぬと、人の魂は神の国へ行くのではなく、すぐ近くの裏山へ行く。あの世とこの世は身近に接している。天国ははるかかなたにあるのではなく、裏山にあった」と。
「日本人は死後、子孫に供養してもらうことが最大の願いだ。日本人は死んだ後も、この世と繋がることを願う。先祖供養を大切にした。死後も、自分がこんどは供養されることを期待した。先祖供養が続く限り、自分たちの子孫はこの世で生きていけるからである。」
盆休みの田舎への帰郷ラッシュは外国から見ると、異常に見えるようだ。
しかし、一方で、盆休みに田舎に帰らず、海外旅行する人も多い。二分解されつつある。
魂があると信じるから、墓も建てるのだろう。しかし、昨今、墓は不要だ、葬式もしなくていい、と言う人もいるようだ。
虚無の思想が日本を覆いつくしつつある。日本に確たる宗教がないからだろう。
人がこの世での命を終えるときこそ、その人の人生の中で最も重要な瞬間ではないか。
釈迦の入滅の時には弟子や人間だけでない、この世の生けとし生けるものが集まった。
一方、我々日本人は、その人生の瞬間を全く簡素化し、何事もなかったかのように、まるで面倒なことは早く済ませたいというようになってしまった。
何か危ないような気がする。
4 「美しいものを作る作業が、脳に心地よい刺激を与え、脳内物質を活性化させ、健康にもプラスになるはずである。芸術家とりわけ彫刻家や画家が長命なのは、おそらく美しいものを作る作業自体が、健康によいということだろう。」と。
秋田県は自殺率が高い。しかし、バリ島農民は自殺はめったにない。同じ稲作漁撈民で豊かな自然に恵まれているのに。
バリ島の農民は美術や音楽を楽しみ、ものづくりを楽しんでいるからだろう。
5 日本人はなぜ、あれほどに海外の植林活動に出かけるのか。
「どうして自分のお金を払ってまで、他国にそれほどに木を植えたいのか。」と著者は外人によく聞かれる。
著者は、日本人が、大地を植林によって、緑豊かな大地に変えることに喜びを感じているからだ、と。
6 1945年12月15日に、神道指令が発布された。国家神道の解体、政教分離、憲法改正だった。これが、日本人の心が空虚なものになることの始まりだった。
その影響を受けたのが、内村鑑三の弟子の矢内原忠雄や南原繁だった。東大総長を務めたが、「精神的柱は、キリスト教だ。キリスト教によって、日本にルネサンスを起こす。そして、ルネサンスと宗教
保ちながら近代化を目指した。
7 欧米文明とアジアの人々が向かい合った時、中国人はマルクス主義を全面的に受け入れ、伝統まで捨て去った。
一方、日本は知的エリートがキリスト教とマルクス主義に拝跪(はいき)し、結局アニミズムに阻まれ達成できず、彼らの意図は中途半端となった。
インドは伝統的宗教を重んじながら改革を推し進め、今日まで宗教的伝統が根強く残った。
日本はマルクス主義もキリスト教も定着しないで、伝統的宗教も力を失った。だから、今最も、空白なのだろう。
8 その国の国民の品格がどの程度のレベルかを判断するには、川を見ればすぐわかる。美しい清流を維持するには、人々の心も美しくなければならない。利他の心、命への畏敬のの念に満ちたアニミズムの心がなければならない。
9 2003年、北京をSARSが襲ったが、その時、北京では、「夜になると当局が飛行機で空から消毒薬をまく。夜、外に出ると危ない」「北京に戒厳令が敷かれる」「下水からSARSがうつる」「ペットがSARSに感染した。ペットから人間にうつる」などという噂が蔓延した。恐怖で家も出られない市民が続出した、と産経の記者は言う。
こういった心理状態を付け込んだ詐欺が増えた。肺炎予防のニセ医療機器やニセ消毒薬、粗悪マスクを売りつける詐欺も増加した。
10 アメリカの真の同盟国はイスラエルであって、日本ではない。日本は多神教の国であって、一神教のアメリカとは異なる。
時代の変化とともに、希薄になりつつあるが、アメリカに比べ、日本は人間関係の密度は保たれている。巨大地震の時、見えない力で表面に出てくる。日本が世界に対して為すべきことは、迂遠であれ、多神教の心で「平和と慈悲」に基づいて行動すべきである。
11 中国は、日本の美しい森や海を、のどから手が出るほど欲しい。「力と闘争」を生きる中国人は他国へ侵入する時は、必ず、別荘地を囲い込む。
昨日まで自由に泳げた美しい海岸や森が、ある日、突然囲い込まれ、中国人の村となり、中国人の使用人としての村の掃除や洗濯などの下働き以外の日本人が入れない状況が生まれるだろう。
12 人口増加の時代は、戦乱の多い不安な時代であった。白村江の戦い、蒙古の襲来、南蛮人の渡来、黒船の外国からの脅威に脅かされ、国内でも壬申の乱、戦国時代、日清戦争、日露戦争、第一次・第二次世界大戦と、戦争にあけくれた時代だった。
一方で、縄文時代以来の日本文化が高揚し、国風文化が発展した平安時代や江戸時代には、戦争が少なく、平和だった。
人口減少期に日本が入ることは、二十一世紀の日本がパクス・トクガワーンのような、平和と安定した時代へ突入することを暗示しているだろう。
ただこうした平和は菅原道真が遣唐使を廃止したり、徳川家光が鎖国したように、平安の平和は日中国交の断絶によらなければならない。
しかし、経済のグローバル化で日中は嫌でも依存せざるをえない。
印象に残ったのは次の諸点だった。
1「 魔女が誕生した背景には、ヨーロッパを襲った小氷期と呼ばれる気候悪化があった。17世紀のヨーロッパは1620年頃をピークに、オランダ運河が凍り付く寒い時代だった。
年平均気温が急激に低下すると、魔女の数が激増した。ドイツのモーゼル川のほとりに1620年に、ワーベル村で気候が寒冷化して、ブドウが獲れなくなった。ブドウがとれないのは、マリーという天候魔女が住んでいたからだ。よって、マリーを魔女裁判にかけ処刑した、これが魔女裁判の原点だった。」と。
何とも恐ろしい事ではないか。寒くなると、人間は鬱になりやすいから、こういった現象が生じるのではないか、と思う。
僕個人としては、暖かい国に住む方が健康的でいいと、思う。太陽光線はうつ病をなくすというし、最近ではガンにかかりにくい、という効果もあるとわかってきた。
日本でも小氷期の時代に同じような危機があった。天明や天保の飢饉があった。宝暦の飢饉もあった。しかし、日本では魔女が誕生しなかった。じつは、私たちは川を龍に見立てることができた。天候が悪いのは、例えば龍の責任だと。だから、魔女を回避できた。
最近まで、雨が降ると、テルテル坊主をつるして、明日晴れるように祈った。あくまで、人間を犠牲にすることはなかった。どうしても、西洋やイスラム世界の習慣は恐ろしい面がある、と思う。
2「イスラム原理主義やキリスト原理主義は神の国の実現のためには、自らの命を投げ出してもかまわないし、他者の命を奪ってかまわない。神の国で祝福されるから。
しかし、日本はアニミズム原理主義を重視するが、他者の命に対する畏敬の念・慈悲の心である。目の前にある、現実世界の命の調和こそが最大の価値がある」と。
あの世があると今の日本人はどれだけ、思っているだろうか。私は、死んだら終わりよ、あの世なんてない。今あるのみと。生まれる前のことなんか、思い出せないし、あの世で祝福されたり、地獄に落ちたりはない、と思っている。
どうして、特にイスラム世界の人々は神の国に入るために、テロまでするのだろう。全く理解できない。イスラム教の人々は一様に、人の命を奪うと、神の国に入れるなんて、誰が最初に言ったのか。
3 「日本人は人が死ぬと、人の魂は神の国へ行くのではなく、すぐ近くの裏山へ行く。あの世とこの世は身近に接している。天国ははるかかなたにあるのではなく、裏山にあった」と。
「日本人は死後、子孫に供養してもらうことが最大の願いだ。日本人は死んだ後も、この世と繋がることを願う。先祖供養を大切にした。死後も、自分がこんどは供養されることを期待した。先祖供養が続く限り、自分たちの子孫はこの世で生きていけるからである。」
盆休みの田舎への帰郷ラッシュは外国から見ると、異常に見えるようだ。
しかし、一方で、盆休みに田舎に帰らず、海外旅行する人も多い。二分解されつつある。
魂があると信じるから、墓も建てるのだろう。しかし、昨今、墓は不要だ、葬式もしなくていい、と言う人もいるようだ。
虚無の思想が日本を覆いつくしつつある。日本に確たる宗教がないからだろう。
人がこの世での命を終えるときこそ、その人の人生の中で最も重要な瞬間ではないか。
釈迦の入滅の時には弟子や人間だけでない、この世の生けとし生けるものが集まった。
一方、我々日本人は、その人生の瞬間を全く簡素化し、何事もなかったかのように、まるで面倒なことは早く済ませたいというようになってしまった。
何か危ないような気がする。
4 「美しいものを作る作業が、脳に心地よい刺激を与え、脳内物質を活性化させ、健康にもプラスになるはずである。芸術家とりわけ彫刻家や画家が長命なのは、おそらく美しいものを作る作業自体が、健康によいということだろう。」と。
秋田県は自殺率が高い。しかし、バリ島農民は自殺はめったにない。同じ稲作漁撈民で豊かな自然に恵まれているのに。
バリ島の農民は美術や音楽を楽しみ、ものづくりを楽しんでいるからだろう。
5 日本人はなぜ、あれほどに海外の植林活動に出かけるのか。
「どうして自分のお金を払ってまで、他国にそれほどに木を植えたいのか。」と著者は外人によく聞かれる。
著者は、日本人が、大地を植林によって、緑豊かな大地に変えることに喜びを感じているからだ、と。
6 1945年12月15日に、神道指令が発布された。国家神道の解体、政教分離、憲法改正だった。これが、日本人の心が空虚なものになることの始まりだった。
その影響を受けたのが、内村鑑三の弟子の矢内原忠雄や南原繁だった。東大総長を務めたが、「精神的柱は、キリスト教だ。キリスト教によって、日本にルネサンスを起こす。そして、ルネサンスと宗教
保ちながら近代化を目指した。
7 欧米文明とアジアの人々が向かい合った時、中国人はマルクス主義を全面的に受け入れ、伝統まで捨て去った。
一方、日本は知的エリートがキリスト教とマルクス主義に拝跪(はいき)し、結局アニミズムに阻まれ達成できず、彼らの意図は中途半端となった。
インドは伝統的宗教を重んじながら改革を推し進め、今日まで宗教的伝統が根強く残った。
日本はマルクス主義もキリスト教も定着しないで、伝統的宗教も力を失った。だから、今最も、空白なのだろう。
8 その国の国民の品格がどの程度のレベルかを判断するには、川を見ればすぐわかる。美しい清流を維持するには、人々の心も美しくなければならない。利他の心、命への畏敬のの念に満ちたアニミズムの心がなければならない。
9 2003年、北京をSARSが襲ったが、その時、北京では、「夜になると当局が飛行機で空から消毒薬をまく。夜、外に出ると危ない」「北京に戒厳令が敷かれる」「下水からSARSがうつる」「ペットがSARSに感染した。ペットから人間にうつる」などという噂が蔓延した。恐怖で家も出られない市民が続出した、と産経の記者は言う。
こういった心理状態を付け込んだ詐欺が増えた。肺炎予防のニセ医療機器やニセ消毒薬、粗悪マスクを売りつける詐欺も増加した。
10 アメリカの真の同盟国はイスラエルであって、日本ではない。日本は多神教の国であって、一神教のアメリカとは異なる。
時代の変化とともに、希薄になりつつあるが、アメリカに比べ、日本は人間関係の密度は保たれている。巨大地震の時、見えない力で表面に出てくる。日本が世界に対して為すべきことは、迂遠であれ、多神教の心で「平和と慈悲」に基づいて行動すべきである。
11 中国は、日本の美しい森や海を、のどから手が出るほど欲しい。「力と闘争」を生きる中国人は他国へ侵入する時は、必ず、別荘地を囲い込む。
昨日まで自由に泳げた美しい海岸や森が、ある日、突然囲い込まれ、中国人の村となり、中国人の使用人としての村の掃除や洗濯などの下働き以外の日本人が入れない状況が生まれるだろう。
12 人口増加の時代は、戦乱の多い不安な時代であった。白村江の戦い、蒙古の襲来、南蛮人の渡来、黒船の外国からの脅威に脅かされ、国内でも壬申の乱、戦国時代、日清戦争、日露戦争、第一次・第二次世界大戦と、戦争にあけくれた時代だった。
一方で、縄文時代以来の日本文化が高揚し、国風文化が発展した平安時代や江戸時代には、戦争が少なく、平和だった。
人口減少期に日本が入ることは、二十一世紀の日本がパクス・トクガワーンのような、平和と安定した時代へ突入することを暗示しているだろう。
ただこうした平和は菅原道真が遣唐使を廃止したり、徳川家光が鎖国したように、平安の平和は日中国交の断絶によらなければならない。
しかし、経済のグローバル化で日中は嫌でも依存せざるをえない。
2015年10月13日に日本でレビュー済み
本書には一神教とアニミズムのどちらに対しても対初歩的な誤解が多く含まれていて、その点に重大な問題があると感じました。
例を挙げると、
1.キリスト教はイエス、イスラム教はムハンマドという神を信仰している
2.アニミズムは一神教と違い、現実から離れたいかなる空想も幻想も持たない
などがありますが、1についてはこの著者がヤハウェやアラーすら知らずに一神教について論じていたことに驚愕しました。
「宇宙を創造したキリスト」という記述まで出てきたましたが、この方の中ではユダヤ教すらなかったことになっているのでしょうか。
2は、一神教・アニミズムという区別以前の、宗教そのものが成立する過程を分析してきた宗教社会学や文化人類学のもっとも基本的な知見に反する主張です。全ての宗教は日常生活が営まれる「俗」の領域と、神々が属する「聖」の領域を分けるところから始まり、後者はいうまでもなく幻想的なものなので、当然アニミズムにも幻想的な面が含まれています。また、宗教が幻想を含んでいるということは単に空想的であることとは全く別の話であり、短絡的に幻想=空想という図式に押し込める著者の態度にも極めて問題があると思います。
ほかにも本書のいたるところで著者の偏見に満ちた記述がみられますが、この方は宗教についてなにがしかの主張をするに足る最低限の知識さえ持ち合わせていないと思います。
例を挙げると、
1.キリスト教はイエス、イスラム教はムハンマドという神を信仰している
2.アニミズムは一神教と違い、現実から離れたいかなる空想も幻想も持たない
などがありますが、1についてはこの著者がヤハウェやアラーすら知らずに一神教について論じていたことに驚愕しました。
「宇宙を創造したキリスト」という記述まで出てきたましたが、この方の中ではユダヤ教すらなかったことになっているのでしょうか。
2は、一神教・アニミズムという区別以前の、宗教そのものが成立する過程を分析してきた宗教社会学や文化人類学のもっとも基本的な知見に反する主張です。全ての宗教は日常生活が営まれる「俗」の領域と、神々が属する「聖」の領域を分けるところから始まり、後者はいうまでもなく幻想的なものなので、当然アニミズムにも幻想的な面が含まれています。また、宗教が幻想を含んでいるということは単に空想的であることとは全く別の話であり、短絡的に幻想=空想という図式に押し込める著者の態度にも極めて問題があると思います。
ほかにも本書のいたるところで著者の偏見に満ちた記述がみられますが、この方は宗教についてなにがしかの主張をするに足る最低限の知識さえ持ち合わせていないと思います。
2006年11月25日に日本でレビュー済み
現代の紛争は中東やボスニアなどをみればわかる通り、「一神教同士の争い」が多い。著者は地球環境の専門家の立場から文明論を展開する。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は全て荒涼とした砂漠の中から生まれ、「超越的秩序」を求めた。そして畑作牧畜民は森林を破壊し農耕地を拡大した。これが結びついたものが「力と闘争の文明」である。
それに対し自然を崇拝するアミニズム、環太平洋地域の稲作漁撈民は「美と慈悲の文明」を持つとする。
論理の展開をわかりやすくするためか、この二項対立はいささか単純化している嫌いはあるが、文化大革命以後中国が「力と闘争の文明」にシフトし、環境破壊より資本主義的成功(物理的にも心理的にも)を重視するようになった、などの著者の危機感はうなずけるものがある。
ハンチントンの「文明の衝突」がキリスト教徒的世界からの論理だとすれば、本書はそれに対してアニミズム側の反論だといえよう。この種の環境起源を求める文明論には梅棹忠夫「文明の生態史観」などの古典や、近年のジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」「文明崩壊」などの名著もあるので、興味が湧いた向きにはお勧めしたい。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は全て荒涼とした砂漠の中から生まれ、「超越的秩序」を求めた。そして畑作牧畜民は森林を破壊し農耕地を拡大した。これが結びついたものが「力と闘争の文明」である。
それに対し自然を崇拝するアミニズム、環太平洋地域の稲作漁撈民は「美と慈悲の文明」を持つとする。
論理の展開をわかりやすくするためか、この二項対立はいささか単純化している嫌いはあるが、文化大革命以後中国が「力と闘争の文明」にシフトし、環境破壊より資本主義的成功(物理的にも心理的にも)を重視するようになった、などの著者の危機感はうなずけるものがある。
ハンチントンの「文明の衝突」がキリスト教徒的世界からの論理だとすれば、本書はそれに対してアニミズム側の反論だといえよう。この種の環境起源を求める文明論には梅棹忠夫「文明の生態史観」などの古典や、近年のジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」「文明崩壊」などの名著もあるので、興味が湧いた向きにはお勧めしたい。