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哲学がはじまるとき: 思考は何/どこに向かうのか (ちくま新書 651) 新書 – 2007/4/1

3.2 5つ星のうち3.2 8個の評価

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 筑摩書房 (2007/4/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2007/4/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 新書 ‏ : ‎ 232ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4480063560
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480063564
  • カスタマーレビュー:
    3.2 5つ星のうち3.2 8個の評価

著者について

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斎藤 慶典
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上位レビュー、対象国: 日本

2020年5月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この著作の問題というよりは、書物の形式の問題。Kindleは、安くてよいけど、やはり読みにくい、扱いにくい。
そうは言っても、斎藤先生の本は出版されたらすぐ買っておかないと、いつの間にか品切れになっていますのでねぇ・・・
2015年5月26日に日本でレビュー済み
tombo123氏が曲解しているようなので、この本を読み、斎藤氏と交流があるものとして擁護しておく。

―――第1に,著者は,中学生でも知っている科学知識について誤解している。云々
重力の話はおっしゃる通り。ソーカル事件で明らかなように、哲学者の科学や数学に関する無知はひどいものである。
だからと言って、鬼の首をとったように、4つだけしか挙げていない斎藤氏への批判にこれを入れるのはどうか。
まったく氏の哲学の内容には関わらないところである。ちなみにプラトンはアトランティス大陸の存在を信じ、
アリストテレスは巨人や妖精の存在を信じていた。ニーチェは宇宙が膨張していることを知らなかった。
だからと言って、読む価値がないとは言えまい。

―― 第2に,著者は,掲げたテーマであるところの,思考,世界,存在,時間,私,真理,場所について,何らの適切な解を示していない。
何をもって適切な解とするかはわからないが、斎藤氏は十分に自分の考えを示していると思う。
思うに tombo123は数学の定理や論理学の命題などのようなものを期待しているのだろう(「存在とはOO」、「真理とはOO」といったふうに)。
だが、斎藤氏は違う形で自らの解答を示している。自らの思考過程を詳細に叙述することによって。
そもそも存在や時間は、ハイデッガーの言葉を借りるまでもなく、言葉を超越した概念、言葉を可能ならしめているものである。
そのようなものを言語で表現するのは困難を極めるのであり、可能なのはその哲学者が既存の言葉でみずからの思考過程をなぞることしかないのである。
tombo123がいまだかつて哲学書の原著を読んだことがあるか不明だが、だから哲学書は分厚いのだ。
「存在と時間」をテーマにしたハイデッガーの"Sein und Zeit"が、当初の構想の3分の1の段階で500ページに近いように(翻訳なら1千ページ近く)。

―――第3に,著者の文章は,論理的ではなく,言葉遊びの連続である。例えば,本書の第6章「時間」の冒頭は,「すべてを等しなみに包み込む「存在」の無差別の闇の中に,たとえ虚妄としてであれ「何」かが浮かび上がるためには,存在の論理からすればありえないこと,何か途方もないことが生じてしまっているのではないか,と先に述べた。」という文章から始まる。この文章は,自己陶酔的で,支離滅裂な言葉遊びに過ぎない。云々。
tombo123氏が指摘する部分は、何も斎藤氏の特別な思想ではない。
「差異は表象しない」や「差異は現出しない」などの言葉で言い表せられる構造主義の一般的な命題を念頭に置いている。
A(これは概念的なも、物質的なものでもいい)というものを見分けるには、AとA以外のものの間に「違い」がなければならない。
だが、実際に存在するのはAとA以外のものであり、その「違い(差異)」自体は存在するものではない。
われわれが認識できるものはすべて「存在するもの(存在者)」だが(これを斎藤氏は「存在の無差別の闇」と表現する)、
その存在を可能にしているものは「差異」である。だが、「差異」自体は存在するものではない。
ここから、存在しないもの、すなわち「無」がテーマに上がってくる。斎藤氏はなんら難しいことを言っていない。
普通の哲学的知識、あるいは誠実に読もうという姿勢があれば、わかることである。その他の部分も同様である。

 第4に,著者の文章は,客観的な叙述ではなく,主観的な叙述に終始している。云々。
客観的とはなにか、主観と客観とはなにか。
これ自体が斎藤氏が専門とする「現象学」の大きなテーマのひとつであるが、これは置いておく。
tombo123氏は、斎藤氏があとがきで「『自分自身に宛てて手紙でも書いているようなありさまなのだ』と自白している」
ことを理由に読む価値がないと断じるが、tombo123氏は哲学史の知識はないようである。
プラトンの書物はソクラテスの対話篇であり、中世のキリスト教哲学者の書物は自らの信仰の独白である。
ニーチェの哲学書はほとんど誇大妄想にも似た超越者の物語であり、バタイユなどは変人の手記である。
もし、斎藤氏のこの本が「自分自身への手紙」であることを理由に読む価値がないのであれば、
多くの偉大な哲学者の書物も同様の理由で読む価値がないであろう。
少なくとも哲学史に触れたことがある人間であれば、「手紙」であることを理由に読む価値がないなどと口が裂けても言えない。
むしろ斎藤氏は哲学の伝統に則っているのである。

おそらくtombo123氏は哲学書をほとんど読んだことのない人間である。おそらく入門どまり。
ぜひ、西洋哲学の大家の書籍を読むことをおすすめする。
あなたが考えている“哲学書”なるものよりも、ずっと斎藤氏の本に近いから。

tombo123氏は上記を理由に「この本を読むことは,金と時間の浪費である」と断じる。
そのうえで、以下の3点を指摘するのだが、それに対して反論。

――第1に,この本は,日本の現存する慶応義塾大学の哲学科の教授の思考水準を示している。それは,すなわち,日本の哲学者の多くの思考水準は,他人の哲学を紹介することはできても,自分の哲学を展開することはできないということである。
おっしゃる通り。だが、tombo123氏の上記の指摘が的を射たものだったとたら、むしろ斎藤氏は相当ユニークな(悪い意味で)哲学者である。
「他人の哲学を紹介することはできても,自分の哲学を展開することはできない」という結論にはならないのではないか。
むしろ、わけのわからない言葉で自分あての手紙を書籍にする相当変わった人物である。当然、他人の哲学も紹介していないであろう。

―― 第2に,著者が池田晶子を盟友であったと認識し,表明していることである(226頁)。池田晶子の著書の内容・思考水準は別に論ずるとして,著者と池田晶子との思考水準が同質であることが推認される。
確か、池田氏は斎藤氏のゼミの後輩かなにかで、友人だった。斎藤氏は、正当なアカデミズムに身を置かなかった池田氏の限界を指摘しつつ、
考えることの誠実さという点で池田氏を高く評価するというスタンスだったと思う。読書歴から見るにtombo123氏は中島義道の哲学に心酔している。
中島氏は池田氏をまったく評価していない。おそらくtombo123氏は池田氏の本をまったく読んでいないと思う。
おそらくどこかで中島氏が池田氏のことを悪く書いているのを読んで、自分が大好きな中島氏が非難する池田氏はけしからんやつだ。
それを盟友という斎藤氏もけしからんやつだ、という見事な(?)三段論法が働いたのだろう。
ちなみに、私は中島氏も知っているが、こういう単純な思考しかできない輩を中島氏はもっとも嫌う。

―― 第3に,この著者の他の本を読むことは,「短い人生」において,もはやすべきではない。
ぜひ、読むべきだ。日本現象学会の会報誌に掲載されている斎藤氏の論文などを。
思うに、tombo123氏は自ら考える「哲学書」なるもののイメージがあって、それと著しくかい離した本書に失望したのだろう。
そもそも、「主観的」であることを理由に本書を読む価値がないと断じる方である。
ぜひ、斎藤氏の論文を読んでほしい。おそらくあなたが考える哲学書の定義通り、「客観的」で「学問的」な手法に則ったものだから。
だが、哲学史を多少なりとも知る者は、どちらを哲学書というかと問われれば、まよわず本書のほうを挙げるだろう。

私の知る斎藤氏は誠実かつ、しっかりとした哲学的素養のある人物である(中島氏のほうがよっぽど変人)。
斎藤氏の名誉のために、ここで擁護をしておく。
tombo123氏は哲学に対する貧困な認識を悔い改めたうえで、本書を批判してほしい。
19人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2015年8月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
万物の根源は水である。そんなわけないじゃんと思っていたが、疑問が残ってもいた。
なんでこんなことが教科書に載るのだろうと。・・・そんな疑問に答えてくれる。
そればかりではない。カントの純粋理性批判の一部が著者の言葉で、噛み砕いて説明されている。
本書の素晴らしいところはこれだけではない。むしろ、これら以外のところにある。
哲学がはじまるときをとらえたいむきにはお勧めである。
ただし29ページと68ページの物理学の記述はおかしい。向心力と重力の混同が見られる。
それ以外は興味を持ち続けて読み切ることができた。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2012年12月30日に日本でレビュー済み
 中島義道『哲学者のいない国』(洋泉社1997年)10頁に,日本の現存する数少ない哲学者の一人として書かれていたので読んでみることとした。
 テーマは,哲学の基本的なものである。
 しかし,その中身は,ひどいものである。
 第1に,著者は,中学生でも知っている科学知識について誤解している。著者は,29頁で「地上ですべての物体が落下する原因は,地球の自転によってその中心に向かって垂直の力が働いているからである。」といい,68頁でこれを詳しく再説している。しかし,地上での物体の落下の原因は「地球の自転」にあるのではなく,「地球の重力」=「落下するその物体と地球との間に働く万有引力」にあるものであり,「地球の自転」は,「中心に向かって垂直の力」を発生させるものではなく,「外に向かって飛び出す遠心力」を発生させるものである。
 第2に,著者は,掲げたテーマであるところの,思考,世界,存在,時間,私,真理,場所について,何らの適切な解を示していない。
 第3に,著者の文章は,論理的ではなく,言葉遊びの連続である。例えば,本書の第6章「時間」の冒頭は,「すべてを等しなみに包み込む「存在」の無差別の闇の中に,たとえ虚妄としてであれ「何」かが浮かび上がるためには,存在の論理からすればありえないこと,何か途方もないことが生じてしまっているのではないか,と先に述べた。」という文章から始まる。この文章は,自己陶酔的で,支離滅裂な言葉遊びに過ぎない。率直なところ,本書は,200頁超にわたるこのような言葉遊びの連続からなる。
 第4に,著者の文章は,客観的な叙述ではなく,主観的な叙述に終始している。著者自身が,そのあとがき221頁で「自分自身に宛てて手紙でも書いているようなありさまなのだ」と自白している。この本の内容は,第三者に対して提供できるものではない。
 この本を読むことは,金と時間の浪費である。
 しかし,この本を読んだ価値があったとすれば,それは,次の3点である。
 第1に,この本は,日本の現存する慶応義塾大学の哲学科の教授の思考水準を示している。それは,すなわち,日本の哲学者の多くの思考水準は,他人の哲学を紹介することはできても,自分の哲学を展開することはできないということである。
 第2に,著者が池田晶子を盟友であったと認識し,表明していることである(226頁)。池田晶子の著書の内容・思考水準は別に論ずるとして,著者と池田晶子との思考水準が同質であることが推認される。
 第3に,この著者の他の本を読むことは,「短い人生」において,もはやすべきではない。
15人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2007年8月13日に日本でレビュー済み
思考を究極まで行うと、かくかくしかじかなのだという本です。
(これも筆者に言わせてみれば、真の『究極』ではなく、
『究極』という概念に過ぎないことになるのだろうか)

前半部分は『問い』に的を絞って論を広げている。
後半は世界の『存在』に焦点を合わせている。

普段、日常においては特別に意識しないが、
限定的に物事を捉えていると考えるのはそれなりに納得できるものであり、
その軸が時空間にあるということも、認識主体にあることも理解できるのではないでしょうか。
もちろん、ケチをつけようと思えば出来るものですが。

この本を読んで感じたのは、
言葉には「概念語」と「具体語」があるということ。

感覚的には、その語自身が「概念語」であることもあれば、
時と場合によって、そのどちらにもなりうるものもあるかもしれないと感じます。
しかし、このように認識したのは、
日常的には深く思考していないことが関係しているからであり、
本質的には明確に分かれているのではないかと思います。

諸所に疑問は残るものの、
このように思考を繰り広げたり、追いかけるのは、非常に楽しいことであり、
考えることを好む人は楽しめる本ではないでしょうか。
8人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2007年4月21日に日本でレビュー済み
すでに指摘されているように物理学に関して初歩的なミスがある。「地上ですべての物体が落下する原因は(「なぜ、林檎の実は落ちるのか」)、地球の自転によってその中心に向かって垂直の力が働いているからである」。「重力の原因は地球の自転なのである」。もちろん自転があろうがなかろうが質量が存在すれば重力は働くのだ。「自転」という言葉を出すべきではなかった。私はさらにもう一つミスを指摘することにする。「原子核に関してもそれは何からできているかと問うことができ、中性子や陽子、さらにはニュートリノやミューオンなどのレプトン、あるいはクウォーク…」。原子核の構成要素としてニュートリノ、ミューオンを持ち出すのはあまり適切ではない。少なくとも「クォーク」を最初に出すべきだった。あるいはグルーオンとか。もちろん、この本は「哲学」の本であって「物理学」の本ではない。揚げ足取りのように受け取られるかもしれない。しかし、これらの欠点を補ってあまりあるほど魅力的な本かというと、「?」である。
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