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神も仏も大好きな日本人 (ちくま新書 936) 新書 – 2011/12/1
島田 裕巳
(著)
- 本の長さ218ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2011/12/1
- 寸法10.8 x 1.1 x 17.6 cm
- ISBN-104480066403
- ISBN-13978-4480066404
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2011/12/1)
- 発売日 : 2011/12/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 218ページ
- ISBN-10 : 4480066403
- ISBN-13 : 978-4480066404
- 寸法 : 10.8 x 1.1 x 17.6 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 503,215位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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宗教学者、作家。東京大学文学部卒業、同大学大学院人文科学研究会博士課程修了(専攻は宗教学)。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。
現代における宗教現象、新宗教運動、世界の宗教、葬式を中心とした冠婚葬祭など、宗教現象については幅広く扱う。
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2012年2月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
明治の神仏判然令とそれに続く廃仏毀釈の嵐が、貴重な仏教美術の数々にどのような災厄をもたらしたのか。奈良の仏像界のスターとも言うべき阿修羅像から説き起こして、現代ではすっかり歴史の闇に塗り込められてしまったかのような「日本人の独特な知恵」ともいうべき「神仏習合」の姿を、明らかにしてくれる本だと思います。江戸時代の「絵地図」で、そのまま町の中が歩ける奈良の町には、この本の巻末に紹介されたような神仏習合のシンボルとも言うべき「春日曼荼羅」が今も地域の信仰の対象として大切に守られ、春日若宮おん祭りに奉仕する「馬長の稚児」は、興福寺の僧位を授けられて祭りに参加します。明治維新で西洋諸国の一神教に対抗するために急遽体裁を整えられた「神道」ではなくて、神も仏も当たり前に崇敬し手を合わせる姿こそが、本当の日本の伝統なのだということを多くの方に知っていただきたいものです。神仏分離が、日本に排他的な「原理主義」発生の芽を育ててしまったとすれば、オウム真理教はその鬼子だったのかもしれません。
2018年1月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本で開催された美術展で入場者数が多いベスト3です。
1位は、2009年の「国宝阿修羅像展」191万人です。
2位は、1974年の「モナ・リザ展」151万人です。
3位は、1994年の「バーンズ・コレクション展」107万人です。
興福寺創建1200年を記念しての展覧会でした。
この阿修羅像は興福寺になく博物館に預けられままです。
安置すべき建物は明治の廃仏毀釈で破壊されたままです。
興福寺、春日大社、薬師寺などは寺社領を取り上げられ、寺院・仏像・仏具などは破壊され、廃寺状態でした。
この本は、日本の神道と仏教について、「江戸時代まで連綿と続いた神仏習合、本地垂迹説」と「明治時代以降の廃仏毀釈と分離」の関係、変遷について説かれています。
密教、修験者、伊勢神宮、靖国神社などの神仏習合の実例について解説しています。
土着の宗教である神道と外来宗教の仏教を本地垂迹というアクロバット的な解釈で共存共栄の神仏習合は江戸時代まで続きました。
神宮寺がそうですし、今も浅東京の草寺内には浅草神社があります。
浅草寺に限らず明治の神仏分離令以前は、寺院内に土地の氏神を祀ることは普通のことでした。
日本人は神社と寺院を区別することなく参拝していました。
拝むときは神社でも寺院でも両手を合わせていました。
浮世絵を見ればわかります。
神社で二礼二拍一礼の拝み方は明治政府がつくった拝み方です。
神道と仏教の関係が激変したのは明治以降です。
西欧列国に追い付け追い越せの明治政府は宗教においても日本の独自性をもつ土着宗教である神道を重視し宗教の中心に据え、外来宗教の仏教を排撃する神仏分離政策を進めます。
神道は宗教ではないというリクツで宗教の枠から外され、国民全員が神道の祭祀に関わることが義務化されぎ儀式儀礼の参加が強制されました。
いかにもエリート役人が考え出した屁理屈、小理屈です。
天皇家は、従来、葬式・法事は仏式で、宮中には仏間があり歴代天皇の位牌がありました。
菩提寺は京都の泉湧寺でした。
それまで1000年以上続いた仏式の行事をすべて止め、位牌も泉湧寺に返しました。
天皇家が主に神式の祭祀を行うのは明治以降です。
ヨーロッパ貴族もそうですが、天皇家・皇族も権力者が徳川幕府、明治政府、昭和軍国主義政府、アメリカ占領軍、民主政治と変わっても歴史的重みのある儀礼儀式、社交で権力者とつかず離れずの関係で権威を維持しています。
そのしたたかさ、しなやかさには舌を巻きます。
1位は、2009年の「国宝阿修羅像展」191万人です。
2位は、1974年の「モナ・リザ展」151万人です。
3位は、1994年の「バーンズ・コレクション展」107万人です。
興福寺創建1200年を記念しての展覧会でした。
この阿修羅像は興福寺になく博物館に預けられままです。
安置すべき建物は明治の廃仏毀釈で破壊されたままです。
興福寺、春日大社、薬師寺などは寺社領を取り上げられ、寺院・仏像・仏具などは破壊され、廃寺状態でした。
この本は、日本の神道と仏教について、「江戸時代まで連綿と続いた神仏習合、本地垂迹説」と「明治時代以降の廃仏毀釈と分離」の関係、変遷について説かれています。
密教、修験者、伊勢神宮、靖国神社などの神仏習合の実例について解説しています。
土着の宗教である神道と外来宗教の仏教を本地垂迹というアクロバット的な解釈で共存共栄の神仏習合は江戸時代まで続きました。
神宮寺がそうですし、今も浅東京の草寺内には浅草神社があります。
浅草寺に限らず明治の神仏分離令以前は、寺院内に土地の氏神を祀ることは普通のことでした。
日本人は神社と寺院を区別することなく参拝していました。
拝むときは神社でも寺院でも両手を合わせていました。
浮世絵を見ればわかります。
神社で二礼二拍一礼の拝み方は明治政府がつくった拝み方です。
神道と仏教の関係が激変したのは明治以降です。
西欧列国に追い付け追い越せの明治政府は宗教においても日本の独自性をもつ土着宗教である神道を重視し宗教の中心に据え、外来宗教の仏教を排撃する神仏分離政策を進めます。
神道は宗教ではないというリクツで宗教の枠から外され、国民全員が神道の祭祀に関わることが義務化されぎ儀式儀礼の参加が強制されました。
いかにもエリート役人が考え出した屁理屈、小理屈です。
天皇家は、従来、葬式・法事は仏式で、宮中には仏間があり歴代天皇の位牌がありました。
菩提寺は京都の泉湧寺でした。
それまで1000年以上続いた仏式の行事をすべて止め、位牌も泉湧寺に返しました。
天皇家が主に神式の祭祀を行うのは明治以降です。
ヨーロッパ貴族もそうですが、天皇家・皇族も権力者が徳川幕府、明治政府、昭和軍国主義政府、アメリカ占領軍、民主政治と変わっても歴史的重みのある儀礼儀式、社交で権力者とつかず離れずの関係で権威を維持しています。
そのしたたかさ、しなやかさには舌を巻きます。
2019年3月31日に日本でレビュー済み
本書は、とても興味深く日本における神と仏の在り方についての考察を読ませて貰ひました。日本人が「無宗教です」と答へる理由について筆者が鋭く考察をしてゐる事には驚きました。明治以降の近代に起きた神仏分離によって今まで融合してゐた信仰形態を否定された事から日本人はどちらかを選ぶといふ途惑ひがあって「無宗教」と漠然と捉へてゐたわけでありました。又、伊勢神宮や大神神社においても密教や仏教の影響が中世においてあった事も分かりました。その事を関係者も積極的に取り上げないので、一種隠蔽のやうな形になってしまふとの考察は成程と感じました。関連して近代になっての神と仏についての信仰形態も新たにつくられた要素が多分にあるとの指摘は貴重でした。更に、密教によって仏教が現世利益の要素を加へ、活力を帯び、神仏習合の流れをつくって神道と仏教の信仰を補ひ合ってゐたとの考察も新鮮でした。本書によって日本人の信仰がどういふものであったのかを氣づかせていただき、本社に目から鱗の思ひです。
2015年5月4日に日本でレビュー済み
我々日本人は、ふつうに霊魂の存在を信じている。先祖の霊は供養しないと落ち着かないし、水子の祟りとかを気にしないではいられない。近年のメガヒットアニメに至っては、猫の地縛霊が人気を博している始末である。テレビはパワースポット、スピリチャルが大好き。我々は客観的には非常に宗教的な民族なのである。
にもかかわらず、「何の宗教を信じているか?」ときかれると我々は軽く困惑する。親の葬式と法事は寺でしたが、結婚式は神社でやった、「仏教徒」と答えてもいいのだが、それだとこないだ子どもの七五三をしたお宮さんに悪いような気がする。で、「どっちも」というわけにもいかないので(実はそれこそが「正解」であるのは本書を読めばよく分かるのだが)、「無宗教」と答えることになる。
もともと江戸時代までの日本人は、神と仏が仲良く共存する神仏習合の宗教を信じていたのである。山伏の修験道に代表される神仏習合は、庶民的でパワフル、ややいかがわしいところもあるが、多彩で豊かな精神世界を持っていた。明治の神仏分離令が、そういう「習合」の部分を叩き潰す。例えば幕末まで隆盛を誇った修験道の聖地・英彦山(福岡県)は、このとき全山焼亡し、往時の繁栄は今や見る影もない。
宗教を全否定した共産主義ほど野蛮ではなかったものの、明治維新もやはり革命であった。教条的イデオロギーをもとに、本来ひとつであったものを、無理やり二つに分けたのである。
こうして、我々は名目上は二つの別々の宗教を同時に信仰するというややこしい宗教生活を持つ民族になってしまった(笑)。
こんなことになったのは、日本という文明は、非・一神教の唯一の先進国であり、多神教的宗教観を無理に一神教のロジックで説明させられてきたことによる混乱もあると思われる。そろそろ一神教の人たちに「神も仏も一緒に信じてますが何か?」とちゃんと説明した方がいい。本書はそのための有用な材料になると確信する。
にもかかわらず、「何の宗教を信じているか?」ときかれると我々は軽く困惑する。親の葬式と法事は寺でしたが、結婚式は神社でやった、「仏教徒」と答えてもいいのだが、それだとこないだ子どもの七五三をしたお宮さんに悪いような気がする。で、「どっちも」というわけにもいかないので(実はそれこそが「正解」であるのは本書を読めばよく分かるのだが)、「無宗教」と答えることになる。
もともと江戸時代までの日本人は、神と仏が仲良く共存する神仏習合の宗教を信じていたのである。山伏の修験道に代表される神仏習合は、庶民的でパワフル、ややいかがわしいところもあるが、多彩で豊かな精神世界を持っていた。明治の神仏分離令が、そういう「習合」の部分を叩き潰す。例えば幕末まで隆盛を誇った修験道の聖地・英彦山(福岡県)は、このとき全山焼亡し、往時の繁栄は今や見る影もない。
宗教を全否定した共産主義ほど野蛮ではなかったものの、明治維新もやはり革命であった。教条的イデオロギーをもとに、本来ひとつであったものを、無理やり二つに分けたのである。
こうして、我々は名目上は二つの別々の宗教を同時に信仰するというややこしい宗教生活を持つ民族になってしまった(笑)。
こんなことになったのは、日本という文明は、非・一神教の唯一の先進国であり、多神教的宗教観を無理に一神教のロジックで説明させられてきたことによる混乱もあると思われる。そろそろ一神教の人たちに「神も仏も一緒に信じてますが何か?」とちゃんと説明した方がいい。本書はそのための有用な材料になると確信する。
2013年12月23日に日本でレビュー済み
他のレビュアーの方も書かれているように、タイトルはややミスリーディングながら
(一見、日本人の宗教観の「節操のなさ」を揶揄した、ありがちな感じの本に思える)、
実際は、近代以降の日本人の宗教観がある混乱を来している原因の一端について、
非常にわかりやすく解き明かした良書であると思う。
また、宗教思想そのものよりも、主に阿修羅像などの宗教美術からアプローチしている点にも、
本書の独自性があると感じた。不明にして、中宮寺の菩薩半跏像(写真p.108)の存在を
知らなかったのだが、今度奈良を訪れる機会があったら必ず拝観したいと思った。
(一見、日本人の宗教観の「節操のなさ」を揶揄した、ありがちな感じの本に思える)、
実際は、近代以降の日本人の宗教観がある混乱を来している原因の一端について、
非常にわかりやすく解き明かした良書であると思う。
また、宗教思想そのものよりも、主に阿修羅像などの宗教美術からアプローチしている点にも、
本書の独自性があると感じた。不明にして、中宮寺の菩薩半跏像(写真p.108)の存在を
知らなかったのだが、今度奈良を訪れる機会があったら必ず拝観したいと思った。
2012年1月23日に日本でレビュー済み
この本は、日本の神道と仏教について、「江戸時代まで連綿と続いた神仏習合、本地垂迹説」と「明治時代以降の廃仏毀釈と分離」の関係について記述した本です。
「神仏習合や本地垂迹説って何?」という人にとっては、きちんと読めば、本書はかなりのインパクトと示唆がある本ではないでしょうか。何しろ、そういう人は「日本人は、正月には神社参り。家には仏壇。クリスマスも楽しむ。何と無宗教な(不節操な)民族」と考えている可能性があります。
そのような人は、本書を読めば、けっして日本人が無宗教であったり、宗教的に不節操でないことが理解できると思います。
(しなしながら、場合によっては、このような日本宗教にこれまであまり興味がなかった人にとって、本書は少し地味でたいくつである可能性もあります。そして、さらには、読んでも意味不明の可能性もあります。宗教の理解は一定の基礎知識が必要です。)
一方、神仏習合や本地垂迹説をすでに理解している人にとっては、本書はあまり目新しい視点はないかもしれません。
ただ、奈良をしばしば訪れる私の場合は、冒頭に記述されている興福寺の存亡にかかわる時代についての記述は、かなりナマナマしく興味深いものでした。また、私は「廃仏毀釈や国家神道の時代は一時代のものにとどまる」と考えていましたが、現在まで、その影響は非常に色濃く残っているという主張には「なるほど、そうかもしれない」と感じ、有益な示唆が得られました。
いずれにせよ、「神も仏も大好きな日本人」という軽いタイトルとは裏腹に、地味ではあるものの、真面目に実直に書かれた本なので、一読に値する本であると思います。良書と感じるか、そう感じないかは、読者の日本宗教に対する造詣の深さと興味の度合いによると思います。
「神仏習合や本地垂迹説って何?」という人にとっては、きちんと読めば、本書はかなりのインパクトと示唆がある本ではないでしょうか。何しろ、そういう人は「日本人は、正月には神社参り。家には仏壇。クリスマスも楽しむ。何と無宗教な(不節操な)民族」と考えている可能性があります。
そのような人は、本書を読めば、けっして日本人が無宗教であったり、宗教的に不節操でないことが理解できると思います。
(しなしながら、場合によっては、このような日本宗教にこれまであまり興味がなかった人にとって、本書は少し地味でたいくつである可能性もあります。そして、さらには、読んでも意味不明の可能性もあります。宗教の理解は一定の基礎知識が必要です。)
一方、神仏習合や本地垂迹説をすでに理解している人にとっては、本書はあまり目新しい視点はないかもしれません。
ただ、奈良をしばしば訪れる私の場合は、冒頭に記述されている興福寺の存亡にかかわる時代についての記述は、かなりナマナマしく興味深いものでした。また、私は「廃仏毀釈や国家神道の時代は一時代のものにとどまる」と考えていましたが、現在まで、その影響は非常に色濃く残っているという主張には「なるほど、そうかもしれない」と感じ、有益な示唆が得られました。
いずれにせよ、「神も仏も大好きな日本人」という軽いタイトルとは裏腹に、地味ではあるものの、真面目に実直に書かれた本なので、一読に値する本であると思います。良書と感じるか、そう感じないかは、読者の日本宗教に対する造詣の深さと興味の度合いによると思います。
2013年9月15日に日本でレビュー済み
「神も仏もありゃしない」。無慈悲な目に遭った時に耳にしたり目にしたりするこの言葉は、しかし裏返せば「神と仏を意識している」ことなのです。これが本作を読んで咄嗟に浮かんだ想いでした。一大ブームとなった「国宝阿修羅展」への言及を冒頭に据えて興味を惹かせ、和辻哲郎氏の名著「古寺巡礼」を引用しつつ、栄華を誇った歴史的名勝が古びて朽ち果てた「廃寺」へ姿を変えた理由へと展開する、素晴らしくよく書けたツカミです。春日大社と、阿修羅像が鎮座するべき興福寺、それら神と仏が広大な奈良公園内に共存する事実を、読む前までは何の疑問を抱くことがありませんでしたが、それこそが私たち日本人が根底で抱く宗教感を端的に表しているのだと気づかされ、目から鱗の落ちる思いがしたのです。
古代より様々な天災に苛まれてきた日本人にとって、救いの宗教は必要不可欠なものであり、現在も決して無宗教ではないこと、そして神社において様式化された参拝のカタチが近代に作られたものであったのを本著で知ることもできました。私たちが祈りを捧げる時に自然に両手を合わせること、海外へ救助に向かった日本人レスキュー隊が悲劇に対して見せた黙祷の姿に接するとき、いにしえの神々へ願った救いを求める心が古寺の仏像群の合掌へと融合されているのかもしれない、強き祈りのカタチの意味について本著を読み終えて考えるのでした。
古代より様々な天災に苛まれてきた日本人にとって、救いの宗教は必要不可欠なものであり、現在も決して無宗教ではないこと、そして神社において様式化された参拝のカタチが近代に作られたものであったのを本著で知ることもできました。私たちが祈りを捧げる時に自然に両手を合わせること、海外へ救助に向かった日本人レスキュー隊が悲劇に対して見せた黙祷の姿に接するとき、いにしえの神々へ願った救いを求める心が古寺の仏像群の合掌へと融合されているのかもしれない、強き祈りのカタチの意味について本著を読み終えて考えるのでした。