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ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫 あ 1-1) 文庫 – 1992/6/1
浅田 彰
(著)
- 本の長さ225ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日1992/6/1
- ISBN-104480080082
- ISBN-13978-4480080080
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (1992/6/1)
- 発売日 : 1992/6/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 225ページ
- ISBN-10 : 4480080082
- ISBN-13 : 978-4480080080
- Amazon 売れ筋ランキング: - 481,479位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,583位ちくま学芸文庫
- - 3,637位アート・建築・デザイン作品集
- - 4,153位アート・建築・デザインの絵画 (本)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年6月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
迅速かつ確実なご対応を有り難うございました。思っていました以上の美本でとても嬉しく思っています。
2016年1月22日に日本でレビュー済み
ヘルメスと音楽の関係性、特にフェルメールについてふれているのは、慧眼だと思う。流石、浅田彰だと思う。しかし、最後の詰めというか、だからどうしたの部分が物足りない。フェルメールについても、もっと具体的に彼の絵のどこがどういうふうにヘルメスなのかという説明がない。浅田彰としては当然なのかもしれないが、そこが物足りない。いささか手前味噌だが、「宇宙に開かれた光の劇場 (2)」上野和男・著でP.98あたりを読むとこの疑問に的確に答えている。フェルメールの絵の中で「恋文」がヘルメスとの関係性を披露しているのだ。もう1冊の本、「宇宙に開かれた光の劇場」( (2)の表示のないもの) も読めば参考になるだろう。
2014年8月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ヘルメスと音楽の関係性、特にフェルメールについてふれているのは、慧眼だと思う。流石、浅田彰だと思う。しかし、最後の詰めというか、だからどうしたの部分が物足りない。フェルメールについても、もっと具体的に彼の絵のどこがどういうふうにヘルメスなのかという説明がない。浅田彰としては当然なのかもしれないが、そこが物足りない。いささか手前味噌だが、「宇宙に開かれた光の劇場 (2)」上野和男・著でP.98あたりを読むとこの疑問に的確に答えている。フェルメールの絵の中で「恋文」がヘルメスとの関係性を披露しているのだ。しかし、またまた手前味噌だが、この本を本当の意味で俯瞰して理解するには、同著者による別の二冊の本、「縄文人の能舞台」と「「宇宙に開かれた光の劇場」を読まなければならない。特に後者の本は欠かせないが、日本人である我々は前者のような一見するとフェルメールに無関係に見えるものが、実はフェルメールの理解に本当に欠かせないのだ。百聞は一見にしかず、三冊読んでみたらどうでしょう?
2004年4月26日に日本でレビュー済み
何と強靭で軽快な運動か。
小林秀雄がちらかしたゴミは食べると消化不良を起こすが、
浅田彰のはなまじ食べられてしまうから仕方ない。
一度こんな本なんか吹っ飛ばしてどこかへ行ってしまえばいい。
そう、すると、コヤツは僕のトモダチになる。
ヘルメスの音楽。
そこにあるのは数々の線。平面。いやどれでもないだろう。ああ 速いよあんた。浅田は速すぎる。
小林秀雄がちらかしたゴミは食べると消化不良を起こすが、
浅田彰のはなまじ食べられてしまうから仕方ない。
一度こんな本なんか吹っ飛ばしてどこかへ行ってしまえばいい。
そう、すると、コヤツは僕のトモダチになる。
ヘルメスの音楽。
そこにあるのは数々の線。平面。いやどれでもないだろう。ああ 速いよあんた。浅田は速すぎる。
2012年4月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
浅田彰の芸術批評などを載せています。文章がとにかく洗練されています。
2013年8月8日に日本でレビュー済み
ニュー・アカ全盛期に思春期を過ごしたオサーンの僕は、高校時代以来、何度となく本書は読んできたが、今回は十年以上ぶりの再読である。
内容的には、音楽や絵画等、様々なジャンルの芸術家達を論じながら、同時に彼らの芸術をドゥルーズやデリダ等の思想のメタファーとして読み解いているところが本書の特色である。その後の著者の芸術批評では、ここまでストレートな現代思想への言及が含まれていないことを考えると、そこに著者の批評スタイルの微妙な変遷のようなものを読み取ることもできるだろうし、また同時に、当時の著者に求められた文章がこういう文章だったとも、いや、もっとベタに言うと、まだ若手だった著者自身がこういうスタイルを当時は「売り」にしていたとも言えるだろう。(バルトへの言及がちょこちょこある点を考えると、当時の著者は、巧みな芸術論で粋人ぶりを披露したバルトを意識していたのかもしれない。)
今回、最も印象的だったのは、フェルメール作品の独特の光が、ソフト・フォーカスっぽく調整したカメラ・オブスキュラを使用したことによるものであろうという指摘である。本当のところどうなのかというのは、無知な僕にはよく分からないが、実際、どうなんでしょうね。
内容的には、音楽や絵画等、様々なジャンルの芸術家達を論じながら、同時に彼らの芸術をドゥルーズやデリダ等の思想のメタファーとして読み解いているところが本書の特色である。その後の著者の芸術批評では、ここまでストレートな現代思想への言及が含まれていないことを考えると、そこに著者の批評スタイルの微妙な変遷のようなものを読み取ることもできるだろうし、また同時に、当時の著者に求められた文章がこういう文章だったとも、いや、もっとベタに言うと、まだ若手だった著者自身がこういうスタイルを当時は「売り」にしていたとも言えるだろう。(バルトへの言及がちょこちょこある点を考えると、当時の著者は、巧みな芸術論で粋人ぶりを披露したバルトを意識していたのかもしれない。)
今回、最も印象的だったのは、フェルメール作品の独特の光が、ソフト・フォーカスっぽく調整したカメラ・オブスキュラを使用したことによるものであろうという指摘である。本当のところどうなのかというのは、無知な僕にはよく分からないが、実際、どうなんでしょうね。