『悲劇の誕生』はニーチェ初期の作品であるが、晩年期の主要概念「ディオニュソス」が多く述べられている。「悲劇」というニーチェ特有の概念も、『権力への意志』などの後期作品で注目されるものである。『ディオニュソス的世界観』、『ギリシア人の悲劇時代における哲学』などの初期の貴重な論文も収録されている。また事項・人名索引も巻末にあり役立つ(画像は古代ギリシャのディオニュソスの神)。
「『権力への意志』には「悲劇の精神」が流れている」(『ニーチェとヴェーバー』 まえがき 山之内靖著)。
「文献学者としての背景をもつニーチェの思想的拠点は、本質的には古典期ギリシャにおかれている」 (同書P.28)
『権力への意志』そして『偶像の黄昏』などの晩年期の著作を解読するうえでも、ギリシャ悲劇への理解が必要だと思う。
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ニーチェ全集 2 (ちくま学芸文庫 ニ 1-2) 文庫 – 1993/11/1
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悲劇の誕生
- ISBN-104480080724
- ISBN-13978-4480080721
- 出版社筑摩書房
- 発売日1993/11/1
- 言語日本語
- 本の長さ571ページ
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (1993/11/1)
- 発売日 : 1993/11/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 571ページ
- ISBN-10 : 4480080724
- ISBN-13 : 978-4480080721
- Amazon 売れ筋ランキング: - 426,649位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 405位ドイツ・オーストリアの思想
- - 773位西洋哲学入門
- - 1,461位ちくま学芸文庫
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『悲劇の誕生』は、ニーチェ晩年期の主要概念「ディオニュソス」が多く述べられている
『悲劇の誕生』はニーチェ初期の作品であるが、晩年期の主要概念「ディオニュソス」が多く述べられている。「悲劇」というニーチェ特有の概念も、『権力への意志』などの後期作品で注目されるものである。『ディオニュソス的世界観』、『ギリシア人の悲劇時代における哲学』などの初期の貴重な論文も収録されている。また事項・人名索引も巻末にあり役立つ(画像は古代ギリシャのディオニュソスの神)。「『権力への意志』には「悲劇の精神」が流れている」(『ニーチェとヴェーバー』 まえがき 山之内靖著)。「文献学者としての背景をもつニーチェの思想的拠点は、本質的には古典期ギリシャにおかれている」 (同書P.28)『権力への意志』そして『偶像の黄昏』などの晩年期の著作を解読するうえでも、ギリシャ悲劇への理解が必要だと思う。
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2019年4月16日に日本でレビュー済み
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『悲劇の誕生』はニーチェ初期の作品であるが、晩年期の主要概念「ディオニュソス」が多く述べられている。「悲劇」というニーチェ特有の概念も、『権力への意志』などの後期作品で注目されるものである。『ディオニュソス的世界観』、『ギリシア人の悲劇時代における哲学』などの初期の貴重な論文も収録されている。また事項・人名索引も巻末にあり役立つ(画像は古代ギリシャのディオニュソスの神)。
「『権力への意志』には「悲劇の精神」が流れている」(『ニーチェとヴェーバー』 まえがき 山之内靖著)。
「文献学者としての背景をもつニーチェの思想的拠点は、本質的には古典期ギリシャにおかれている」 (同書P.28)
『権力への意志』そして『偶像の黄昏』などの晩年期の著作を解読するうえでも、ギリシャ悲劇への理解が必要だと思う。
「『権力への意志』には「悲劇の精神」が流れている」(『ニーチェとヴェーバー』 まえがき 山之内靖著)。
「文献学者としての背景をもつニーチェの思想的拠点は、本質的には古典期ギリシャにおかれている」 (同書P.28)
『権力への意志』そして『偶像の黄昏』などの晩年期の著作を解読するうえでも、ギリシャ悲劇への理解が必要だと思う。
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2020年9月12日に日本でレビュー済み
ある人が引いている、次の文章を解釈します。
>「〜彼らの夢の場合にも、線や輪郭、色彩や群像、等の論理的因果性を、彼らのもっともすぐれた浮き彫りにも似た、場面の連続を予想せざるを得ないであろう、そしてこの場面連続の完璧さに至っては、もし一つの比較が可能であるとすれば、夢みるギリシア人をホメロスと呼び、ホメロスを夢みるギリシア人と呼ぶとしても、確かに不当ではないであろう、近代人がその夢に関して己れを敢えてシェークスピアと比較する場合よりもさらに深い意味において。」
ギリシア人が夢に描いた、アポロンの仮象。その夢の造形を、
カントの美意識なら、線と輪郭で形づくるだろう。カント以後の哲学者なら、色彩を与えるだろう。いずれにせよ、
アポロンの夢は、陰翳をもった浮き彫りのように、論理の因果律によって場面が連続する。
人が夢を見るとき、どんなに突飛な因果律であっても、それはある論理によって連続している、と考えられるように、である。
その連続は、完璧だ。神話による、夢の造形。それはホメロスによる仮象であり、ギリシア人による仮象を、ホメロスが神話の形にした、とも言える。ホメロス一人の夢でなく、ギリシア人すべての芸術なのだ。
シェイクスピアは、「ハムレット」の劇中劇で、芸術によって真理を表現した。近代人は、そんなシェイクスピアに基づいて、夢の真理を語るのだが、
ギリシア人にとって、夢の仮象、ホメロスの神話の造形は、さらにもっと深い意味を持つのだ。
>「〜彼らの夢の場合にも、線や輪郭、色彩や群像、等の論理的因果性を、彼らのもっともすぐれた浮き彫りにも似た、場面の連続を予想せざるを得ないであろう、そしてこの場面連続の完璧さに至っては、もし一つの比較が可能であるとすれば、夢みるギリシア人をホメロスと呼び、ホメロスを夢みるギリシア人と呼ぶとしても、確かに不当ではないであろう、近代人がその夢に関して己れを敢えてシェークスピアと比較する場合よりもさらに深い意味において。」
ギリシア人が夢に描いた、アポロンの仮象。その夢の造形を、
カントの美意識なら、線と輪郭で形づくるだろう。カント以後の哲学者なら、色彩を与えるだろう。いずれにせよ、
アポロンの夢は、陰翳をもった浮き彫りのように、論理の因果律によって場面が連続する。
人が夢を見るとき、どんなに突飛な因果律であっても、それはある論理によって連続している、と考えられるように、である。
その連続は、完璧だ。神話による、夢の造形。それはホメロスによる仮象であり、ギリシア人による仮象を、ホメロスが神話の形にした、とも言える。ホメロス一人の夢でなく、ギリシア人すべての芸術なのだ。
シェイクスピアは、「ハムレット」の劇中劇で、芸術によって真理を表現した。近代人は、そんなシェイクスピアに基づいて、夢の真理を語るのだが、
ギリシア人にとって、夢の仮象、ホメロスの神話の造形は、さらにもっと深い意味を持つのだ。
2020年9月6日に日本でレビュー済み
RNさんに100%同意。最低評価としたのは、翻訳であって勿論ニーチェではない。感じ方とか、独自の「翻訳観」感受性とかそのような主観的な問題ではない。どう読んでも客観的に日本語として意味不明、よく言って非常に読みにくい。翻訳者は、日本語にするのが仕事で、我々はその代価を払うのである。そうでなければ、払って買う価値はない。原書の翻訳だから、哲学書だから、読者の努力が足りないのだ、などという翻訳者の言い訳は許すべきでない。
「〜彼らの夢の場合にも、線や輪郭、色彩や群像、等の論理的因果性を、彼らのもっともすぐれた浮き彫りにも似た、場面の連続を予想せざるを得ないであろう、そしてこの場面連続の完璧さに至っては、もし一つの比較が可能であるとすれば、夢みるギリシア人をホメロスと呼び、ホメロスを夢みるギリシア人と呼ぶとしても、確かに不当ではないであろう、近代人がその夢に関して己れを敢えてシェークスピアと比較する場合よりもさらに深い意味において。」
ここまで意味不明だと、翻訳者は独語科の学生バイトにやらせたのか、と勘ぐってしまう。私はドイツ語は読めない、なのでこんな貧しい翻訳の本を買ってしまったら、英語版を読んでやっと理解できるのだ。
"In spite of all their literature on dreams and numerous dream anecdotes, we can speak of the dreams
of the Greeks only hypothetically, although with fair certainty. Given the incredibly clear and accurate
plastic capability of their eyes, along with their intelligent and open love of colour, one cannot go
wrong in assuming that, to the shame all those born later, their dreams also had a logical causality of
lines and circumferences, colours, and groupings, a sequence of scenes rather like their best bas reliefs,
whose perfection would certainly entitle us, if such a comparison were possible, to describe the
dreaming Greek man as Homer and Homer as a dreaming Greek man, in a deeper sense than when
modern man, with respect to his dreams, has the temerity to compare himself with Shakespeare"
で、これを私なりに和訳してみよう。多少意訳が入るが、それも分かり易さのため。
「彼ら(ギリシア人)の夢についての創作と夢の逸話の全体は数えきれないほどだが、彼らの夢については我々は推論としてしか語ることが出来ないのだ。それでも明白な確からしさは感じとれるのである。信じられないほど明白で正確な彼らの目線、が持つ夢についての形象力。それ(形象力)は、彼らの色彩についての知的で開放力のある愛を伴っていたのだ。このことを念頭に置けば -我々後世に生を受けた者にとっては残念な事だが- 我々は、次に述べる事について考え違いを犯すことは出来ないはすだ。つまり、彼らの夢もまた、形象を形つくる線と輪郭、色彩、それらの集合体が浮彫彫刻のそれぞれの場面のように連続的に移り変わり、この移り変わりの中に論理的な因果関係を持っていたのだ。そして、この場面連続の完全性を持って、我々を -次のような比較が可能とすればだが- 夢見るギリシャ人をホメロスと呼び、ホメロスを夢見るギリシャ人と呼ぶことを明確に納得させるであろう。これは、現代人が彼の夢に関して、シェークスピアと比較する自惚れを持つ場合よりも、さらに深い意味においてであるが。」
お分かりだろうか。独語と英語は非常に近いと想定する。なので、英語版でやっと分かる、という事はニーチェの原書の文章は彼本来の意味と考えにおいて難解でも、ニーチェの意図をよく読めば論理的に意味が通る文章のはずなのだ。
「〜彼らの夢の場合にも、線や輪郭、色彩や群像、等の論理的因果性を、彼らのもっともすぐれた浮き彫りにも似た、場面の連続を予想せざるを得ないであろう、そしてこの場面連続の完璧さに至っては、もし一つの比較が可能であるとすれば、夢みるギリシア人をホメロスと呼び、ホメロスを夢みるギリシア人と呼ぶとしても、確かに不当ではないであろう、近代人がその夢に関して己れを敢えてシェークスピアと比較する場合よりもさらに深い意味において。」
ここまで意味不明だと、翻訳者は独語科の学生バイトにやらせたのか、と勘ぐってしまう。私はドイツ語は読めない、なのでこんな貧しい翻訳の本を買ってしまったら、英語版を読んでやっと理解できるのだ。
"In spite of all their literature on dreams and numerous dream anecdotes, we can speak of the dreams
of the Greeks only hypothetically, although with fair certainty. Given the incredibly clear and accurate
plastic capability of their eyes, along with their intelligent and open love of colour, one cannot go
wrong in assuming that, to the shame all those born later, their dreams also had a logical causality of
lines and circumferences, colours, and groupings, a sequence of scenes rather like their best bas reliefs,
whose perfection would certainly entitle us, if such a comparison were possible, to describe the
dreaming Greek man as Homer and Homer as a dreaming Greek man, in a deeper sense than when
modern man, with respect to his dreams, has the temerity to compare himself with Shakespeare"
で、これを私なりに和訳してみよう。多少意訳が入るが、それも分かり易さのため。
「彼ら(ギリシア人)の夢についての創作と夢の逸話の全体は数えきれないほどだが、彼らの夢については我々は推論としてしか語ることが出来ないのだ。それでも明白な確からしさは感じとれるのである。信じられないほど明白で正確な彼らの目線、が持つ夢についての形象力。それ(形象力)は、彼らの色彩についての知的で開放力のある愛を伴っていたのだ。このことを念頭に置けば -我々後世に生を受けた者にとっては残念な事だが- 我々は、次に述べる事について考え違いを犯すことは出来ないはすだ。つまり、彼らの夢もまた、形象を形つくる線と輪郭、色彩、それらの集合体が浮彫彫刻のそれぞれの場面のように連続的に移り変わり、この移り変わりの中に論理的な因果関係を持っていたのだ。そして、この場面連続の完全性を持って、我々を -次のような比較が可能とすればだが- 夢見るギリシャ人をホメロスと呼び、ホメロスを夢見るギリシャ人と呼ぶことを明確に納得させるであろう。これは、現代人が彼の夢に関して、シェークスピアと比較する自惚れを持つ場合よりも、さらに深い意味においてであるが。」
お分かりだろうか。独語と英語は非常に近いと想定する。なので、英語版でやっと分かる、という事はニーチェの原書の文章は彼本来の意味と考えにおいて難解でも、ニーチェの意図をよく読めば論理的に意味が通る文章のはずなのだ。
2021年3月25日に日本でレビュー済み
最画期的なアポロン/ディオニュソス的分類は案外力説なく前作の下巻と言われても違和感ない端々に師と仰ぐ影響が。
2011年10月30日に日本でレビュー済み
第二巻はニーチェのデビュー作「悲劇の誕生」と、「『悲劇の誕生』の思想圏から」として著書発表前後の講演や草稿類を、そのあとに「ホメロスの競争」という草稿、「ギリシア人の悲劇時代における哲学」という私家版の書物の抜粋、そしてバーゼル大学での教授就任講演「ホメロスと古典文献学」、をそれぞれ収録している。メインである「悲劇の誕生」は本編500ページ弱のうち200ページ弱で、その後に前述の関連論考が続く。CDでいえば「悲劇の誕生」デラックス・エディションといった体裁だ。他の巻と同じく、訳注のあとに解説があり、人名索引と語句索引も掲載している。
「悲劇の誕生」についてみてみると、リヒャルト・ワーグナーの音楽を顕彰する意図の下で書かれた芸術論ではあるけれども、ワーグナーの音楽をこけおどしっぽいと思い、そのあとのドビュッシーやストラヴィンスキーのほうがよっぽど好みな自分が読んでもぐっと来る。頭の中でBJCの曲を思い浮かべながら読んでいくと非常に高揚してくる。そう、まず内容以前に、ニーチェの散文は読んでいる自分をその気にさせる、というか思考や空想、連想をそそのかしてくる。読み終わったあとに考え直すと、そこにはやはり狂気の翳が幾分あって、魅力的であると共にどこか避けたくなる。十代の頃それにやられた気もしてくる。
内容についていえば今読んでみると至極真っ当な芸術論で、カントの「判断力批判」でも指摘していた音楽の根源的な力を立脚点にして古代ギリシアの叙事詩から悲劇へ、そしてソクラテスの哲学へという変遷の含む芸術的意味合いをアポロン的ーディオニュソス的という軸で読み取っていくのだが、その思考は芸術・宗教・思想・科学を股にかけたスケールの大きな道行きを示し、そのいずれにも十全に捉えきることのできない生の豊穣さを寿ごうとする意気を示していて、圧巻だ。パフォーマンス・アートに関わる人たちにとっての聖典になりえる内容だと思う。
一方で対照的だったのは「ホメロスと古典文献学」で、文献学の枠を踏み外してしまうニーチェの精一杯の学者的な相貌が見れたのが良かった。
やっぱり、何年たってもニーチェは魅力的だった。後年の諸作より読みやすいのではと思うので、はじめて触れる人にお奨めかも。しかし読み進めるには基礎体力は必要だと思う。
「悲劇の誕生」についてみてみると、リヒャルト・ワーグナーの音楽を顕彰する意図の下で書かれた芸術論ではあるけれども、ワーグナーの音楽をこけおどしっぽいと思い、そのあとのドビュッシーやストラヴィンスキーのほうがよっぽど好みな自分が読んでもぐっと来る。頭の中でBJCの曲を思い浮かべながら読んでいくと非常に高揚してくる。そう、まず内容以前に、ニーチェの散文は読んでいる自分をその気にさせる、というか思考や空想、連想をそそのかしてくる。読み終わったあとに考え直すと、そこにはやはり狂気の翳が幾分あって、魅力的であると共にどこか避けたくなる。十代の頃それにやられた気もしてくる。
内容についていえば今読んでみると至極真っ当な芸術論で、カントの「判断力批判」でも指摘していた音楽の根源的な力を立脚点にして古代ギリシアの叙事詩から悲劇へ、そしてソクラテスの哲学へという変遷の含む芸術的意味合いをアポロン的ーディオニュソス的という軸で読み取っていくのだが、その思考は芸術・宗教・思想・科学を股にかけたスケールの大きな道行きを示し、そのいずれにも十全に捉えきることのできない生の豊穣さを寿ごうとする意気を示していて、圧巻だ。パフォーマンス・アートに関わる人たちにとっての聖典になりえる内容だと思う。
一方で対照的だったのは「ホメロスと古典文献学」で、文献学の枠を踏み外してしまうニーチェの精一杯の学者的な相貌が見れたのが良かった。
やっぱり、何年たってもニーチェは魅力的だった。後年の諸作より読みやすいのではと思うので、はじめて触れる人にお奨めかも。しかし読み進めるには基礎体力は必要だと思う。
2011年6月19日に日本でレビュー済み
ニーチェは、27歳の時に第一著作となる本書『悲劇の誕生』を発表した。この著作では、「ディオニュソス的なもの」(das Dionysische)と「アポロ的なもの」(das Apollinische)の対立を素地として、ギリシア悲劇をめぐる歴史的展開が論じられ、悲劇の芸術的崇高性が語られるのである。
そこには、「芸術の進展はアポロ的なものとディオニュソス的なものとの二元性(Duplicit't)に結びつけられること」という象徴的なテーゼが含まれ、悲劇の歴史的展開を明らかにしたものである。その第一段階が「悲劇の誕生」の段階であり、造形芸術を象徴する「アポロ的なもの」と、音楽を象徴する「ディオニュソス的なもの」という相対する二つの芸術衝動(Kunsttrieb)の宥和(Vers'hnung)によって発生するとしている。
しかし、「ディオニュソス的なもの」と「アポロ的なもの」との宥和によって誕生した悲劇は、「ソクラテス的なもの」(das Sokratische)の登場によって一種の死を迎えるのである。「ディオニュソス的なもの」および「アポロ的なもの」が芸術的な衝動とすると、「ソクラテス的なもの」とは論理的、学問的衝動であると対比できる。
よって、このソクラテス的解釈によって、芸術は非理性的な領域に属するものと捉えられるようになるのであった。この状況に対して、ニーチェは「悲劇の再生」をワーグナーの楽劇に見出したのであった。ただし、この帰結は、後年の自己批判ならびにワーグナー批判へと繋がるというアイロニーも併せ持っているのである。
若きニーチェは、バーゼル大学で古典文献学の教鞭を取りながら、本書を完成させたのであるが、その哲学的要素が古典文献学の領域とは相容れない側面を含んでいたため、この著作によって自身の大学研究者としての将来が閉ざされたと言っても過言ではない。
しかし、ニーチェの若き試み、『悲劇の誕生』が私にどれ程の勇気を与えてくれたことか。20代前半で一読した時、本当に衝撃的であった。その後、『悲劇の誕生』を完成させたニーチェと同じ年齢になった私は私自身の第一著作『市民社会のロゴス 共同体のロゴスに向けて歩みを続けたのであった。そして、ニーチェの熱情に対する私のオマージュとは何か、今も考え続けている。
そこには、「芸術の進展はアポロ的なものとディオニュソス的なものとの二元性(Duplicit't)に結びつけられること」という象徴的なテーゼが含まれ、悲劇の歴史的展開を明らかにしたものである。その第一段階が「悲劇の誕生」の段階であり、造形芸術を象徴する「アポロ的なもの」と、音楽を象徴する「ディオニュソス的なもの」という相対する二つの芸術衝動(Kunsttrieb)の宥和(Vers'hnung)によって発生するとしている。
しかし、「ディオニュソス的なもの」と「アポロ的なもの」との宥和によって誕生した悲劇は、「ソクラテス的なもの」(das Sokratische)の登場によって一種の死を迎えるのである。「ディオニュソス的なもの」および「アポロ的なもの」が芸術的な衝動とすると、「ソクラテス的なもの」とは論理的、学問的衝動であると対比できる。
よって、このソクラテス的解釈によって、芸術は非理性的な領域に属するものと捉えられるようになるのであった。この状況に対して、ニーチェは「悲劇の再生」をワーグナーの楽劇に見出したのであった。ただし、この帰結は、後年の自己批判ならびにワーグナー批判へと繋がるというアイロニーも併せ持っているのである。
若きニーチェは、バーゼル大学で古典文献学の教鞭を取りながら、本書を完成させたのであるが、その哲学的要素が古典文献学の領域とは相容れない側面を含んでいたため、この著作によって自身の大学研究者としての将来が閉ざされたと言っても過言ではない。
しかし、ニーチェの若き試み、『悲劇の誕生』が私にどれ程の勇気を与えてくれたことか。20代前半で一読した時、本当に衝撃的であった。その後、『悲劇の誕生』を完成させたニーチェと同じ年齢になった私は私自身の第一著作『市民社会のロゴス 共同体のロゴスに向けて歩みを続けたのであった。そして、ニーチェの熱情に対する私のオマージュとは何か、今も考え続けている。