実存主義についての手がかりを求めて手にとってみた。
もはやポストモダン批判自体、時代がかって見えてしまう昨今である。だが、そこでニーチェやハイデガーをはじめとした哲学者を踏まえて著者が論じようとしていることは、さほど古びていないように思われる。というより、それらは依然として「問題」なのであり、現代は否定しがたく依然として近代であることを、その事実は示しているのではないかと思われる。
解説の川本氏が述べるように、フッサール・ハイデガーを論じた第2章よりも、ニーチェを論じた第1章のほうが、人間ニーチェに迫る読み込みがあって圧倒的に面白い。第2章では、著者はハイデガーの死に関する議論に反論しているのだが、そのくだりの説得力は今ひとつ見劣りがする。
なお、著者が竹田青嗣氏から多大な影響を受けているのは確かであるが、どこまで行っても竹田青嗣と西研は別の人間である。つまり、一方を読んでもう一方を読む代わりにすることはできないのであって、この本から竹田氏にはない西氏オリジナルな部分を読み込めるかどうかは、基本的に読み手の側にかかっている問題だと思われる。
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実存からの冒険 (ちくま学芸文庫 ニ 3-1) 文庫 – 1995/12/1
西 研
(著)
- 本の長さ270ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日1995/12/1
- ISBN-104480082417
- ISBN-13978-4480082411
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (1995/12/1)
- 発売日 : 1995/12/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 270ページ
- ISBN-10 : 4480082417
- ISBN-13 : 978-4480082411
- Amazon 売れ筋ランキング: - 444,233位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 395位ドイツ・オーストリアの思想
- - 790位西洋哲学入門
- - 1,490位ちくま学芸文庫
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2002年9月19日に日本でレビュー済み
自分のためにも、そして自分を含む多くの人たちのためにも、もっとも幸せで創造的な人生をおくりたいと少しでも考えているなら、ルサンチマン(遺恨意識)を捨てた方がよい!という筆者の明快なメッセージは、私たちを真の(?)哲学的思考へと導くのに十分なものだ。
「神とか社会的なステータスとか金とかいうような外的な価値から自分を計るような生き方にたいして、そうでない生き方を提出してみせることだった」
「ウラミの念で身体をいっぱいにしてしまったり元気がなくなってショボクレてしまったりしないで、そのつど自分として一番納得できる生き方をしようとすること。」
キリスト教的道徳批判としてニーチェを読み解きながら、わたしたちが日常る上でも手がかりとなるような思考形態を提出している。後半のハイデガーに関する部分は少し模式的になりすぎて、途中から失速した感は否めないが、それでも可能な限り平易にかかれた本文は、非常に親しみやすい。
私も実生活のなかで共感する部分がおおいにある。
どの職場にも、仲間や上司の悪口ばかり言っているショボイ人はいるものだ。確かに、人間的にも能力的にも問題がある仲間や上司について愚痴をこぼしたくなるのは分かる。だが、そんな組織でどれだけ創造的な活動ができるのかを模索するのも職務のウチ(というより、それがモラル)なのだから、そんなくだらないルサンチマンは捨ててしまうに限るのだろう。社会人一年生の私は、そんなショボイ先輩や上司をみるたび、とても残念な気持ちになるのだった。
最近、「社会は甘くない」という言葉の真意が掴めた気がする。そう、こんな気持ちわるい、ネガティブな人たちがいっぱいいるところなのだから、社会は厳しいところだ。
「神とか社会的なステータスとか金とかいうような外的な価値から自分を計るような生き方にたいして、そうでない生き方を提出してみせることだった」
「ウラミの念で身体をいっぱいにしてしまったり元気がなくなってショボクレてしまったりしないで、そのつど自分として一番納得できる生き方をしようとすること。」
キリスト教的道徳批判としてニーチェを読み解きながら、わたしたちが日常る上でも手がかりとなるような思考形態を提出している。後半のハイデガーに関する部分は少し模式的になりすぎて、途中から失速した感は否めないが、それでも可能な限り平易にかかれた本文は、非常に親しみやすい。
私も実生活のなかで共感する部分がおおいにある。
どの職場にも、仲間や上司の悪口ばかり言っているショボイ人はいるものだ。確かに、人間的にも能力的にも問題がある仲間や上司について愚痴をこぼしたくなるのは分かる。だが、そんな組織でどれだけ創造的な活動ができるのかを模索するのも職務のウチ(というより、それがモラル)なのだから、そんなくだらないルサンチマンは捨ててしまうに限るのだろう。社会人一年生の私は、そんなショボイ先輩や上司をみるたび、とても残念な気持ちになるのだった。
最近、「社会は甘くない」という言葉の真意が掴めた気がする。そう、こんな気持ちわるい、ネガティブな人たちがいっぱいいるところなのだから、社会は厳しいところだ。
2005年9月3日に日本でレビュー済み
西氏の哲学に対する姿勢、考え方は、ご本人も認めておられる通り、竹田青嗣氏のそれにそっくりである。そして、残念ながら、文章のわかりやすさ、おもしろさという点では、西氏は竹田氏にはかなわない。
よって、本書の価値は認めるとしても、竹田氏の「自分を知るための哲学入門」「現代思想の冒険」が同じちくま学芸文庫に入っている今、そちらを読むのが正解であろう。そして、きっと著者の西氏自身もこの結論には納得されるのではないか。
よって、本書の価値は認めるとしても、竹田氏の「自分を知るための哲学入門」「現代思想の冒険」が同じちくま学芸文庫に入っている今、そちらを読むのが正解であろう。そして、きっと著者の西氏自身もこの結論には納得されるのではないか。
2014年8月10日に日本でレビュー済み
8/12編集
『 はじめに―思いに「かたち」を与えること
「ノルウェイの森」の大ヒットですっかり有名になった村上春樹が、数年前に「回転木馬のデッド・ヒート」という短編集を出している。短編もそれぞれ面白く読んだのだけれど、その前書きがぼくにはとても印象ぶかかった。
そこで村上春樹はつぎのように言っている。<自分は人の話を聞くのが好きで、そうやって人から聞いた話を文章のトレーニングのつもりでちょっとした「スケッチ」にまとめては机のなかに放り込む、ということをやっていた。するとそのうち、放り込んでおいたスケッチたちが次第に「話してもらいたがっている」ように思えてきた。これらの短編はそういうスケッチに手を加えたものなのだ>と。
ぼくにとって面白かったのは、これらのスケッチのことを「どこにも行き場がなくて体のなかに『おりのようにたまってきた』もの」、と村上春樹が言っていることなのだ。そのおりのことを彼はこう書いている。
他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われ ていくことになる。おりとはその無力感のことである。我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。我々は 我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身 をも規定している。それはメリー・ゴーランドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけ のことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれい。し かしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。
(自分、自分の尊敬する人間の考え方{成長・変化を求めるのが大事というのも含む}を絶対だと信じ込み、他の考え方 を一切受け付けつけないなどというのが、自分自身以外の者には絶対になれない、いうことの何よりの証。ほんとに変 化を求めていれば自分に何かが不足していると感じていなければならないはずなのに、変化を求めている自分自体に既 に大満足をしていたりする。)
.
村上の小説に登場してくる主人公は、食べ物やソファーの寝心地なんかにへんにこだわって、「ソファーの選び方でその人がわかる」なんて言ってみたりもするような、ちょっと嫌味なくらいの人間である。そしてひどくスタイリストで、仕事は能率よく正確に仕上げることをモットーにしている。けれども、そうこだわればこだわるほど、彼が「失われた大切な何か」への憧憬(しょうけい)を隠し持っていることがあらわになってくる。
村上本人がじっさいにかつてどんな夢を抱いていたのか、つまり、学生時代の社会変革の夢なのか、絶対にこの人しかいないと信じた女の人への思いなのか、それは彼の小説からはよく分からないし、それはどっちでもいいことだ。けれども、かつて彼が「どこかへ行けるはずだ」と感じていたことは確かだ。その感覚が次第に失せてくる。「私は私だけの生に封じ込められている」という思いがやってくる。そういう喪失感(この3字に傍点)が村上春樹の小説のベースになっている。
(「はじめに」の中にある、この後の二つの節のタイトル)
村上春樹と共通の喪失感(ここも傍点)
ロックへの憧れと社会変革の夢
』
(村上春樹さんがあるエッセイ←『村上朝日堂』の「「先のこと」について」・で、自分が一番だまされたものは、と言って二つ挙げていたものがあるのですが、それは専門家の話と、かっこいいキャッチフレーズ(コピー)だそうです。この本のタイトルも響きだけはいいですね。だけど中身で言っていることはいたって常識的で、常識で事足りるなら哲学など必要ないと、僕などは思います。常識というのは楽観的で、肯定的なキャッチフレーズを集めたようなものですが、常識的な哲学書というのは、そういうものにさらにごてごてと聞き慣れない言葉で飾りつけをし、常識をさらにありがたいものにしているだけであるように思います。
村上春樹の抜粋部分は、スピノザの『エチカ』の定理55について僕が書いていることに通づるところがありませか?)
『 はじめに―思いに「かたち」を与えること
「ノルウェイの森」の大ヒットですっかり有名になった村上春樹が、数年前に「回転木馬のデッド・ヒート」という短編集を出している。短編もそれぞれ面白く読んだのだけれど、その前書きがぼくにはとても印象ぶかかった。
そこで村上春樹はつぎのように言っている。<自分は人の話を聞くのが好きで、そうやって人から聞いた話を文章のトレーニングのつもりでちょっとした「スケッチ」にまとめては机のなかに放り込む、ということをやっていた。するとそのうち、放り込んでおいたスケッチたちが次第に「話してもらいたがっている」ように思えてきた。これらの短編はそういうスケッチに手を加えたものなのだ>と。
ぼくにとって面白かったのは、これらのスケッチのことを「どこにも行き場がなくて体のなかに『おりのようにたまってきた』もの」、と村上春樹が言っていることなのだ。そのおりのことを彼はこう書いている。
他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われ ていくことになる。おりとはその無力感のことである。我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。我々は 我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身 をも規定している。それはメリー・ゴーランドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけ のことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれい。し かしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。
(自分、自分の尊敬する人間の考え方{成長・変化を求めるのが大事というのも含む}を絶対だと信じ込み、他の考え方 を一切受け付けつけないなどというのが、自分自身以外の者には絶対になれない、いうことの何よりの証。ほんとに変 化を求めていれば自分に何かが不足していると感じていなければならないはずなのに、変化を求めている自分自体に既 に大満足をしていたりする。)
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村上の小説に登場してくる主人公は、食べ物やソファーの寝心地なんかにへんにこだわって、「ソファーの選び方でその人がわかる」なんて言ってみたりもするような、ちょっと嫌味なくらいの人間である。そしてひどくスタイリストで、仕事は能率よく正確に仕上げることをモットーにしている。けれども、そうこだわればこだわるほど、彼が「失われた大切な何か」への憧憬(しょうけい)を隠し持っていることがあらわになってくる。
村上本人がじっさいにかつてどんな夢を抱いていたのか、つまり、学生時代の社会変革の夢なのか、絶対にこの人しかいないと信じた女の人への思いなのか、それは彼の小説からはよく分からないし、それはどっちでもいいことだ。けれども、かつて彼が「どこかへ行けるはずだ」と感じていたことは確かだ。その感覚が次第に失せてくる。「私は私だけの生に封じ込められている」という思いがやってくる。そういう喪失感(この3字に傍点)が村上春樹の小説のベースになっている。
(「はじめに」の中にある、この後の二つの節のタイトル)
村上春樹と共通の喪失感(ここも傍点)
ロックへの憧れと社会変革の夢
』
(村上春樹さんがあるエッセイ←『村上朝日堂』の「「先のこと」について」・で、自分が一番だまされたものは、と言って二つ挙げていたものがあるのですが、それは専門家の話と、かっこいいキャッチフレーズ(コピー)だそうです。この本のタイトルも響きだけはいいですね。だけど中身で言っていることはいたって常識的で、常識で事足りるなら哲学など必要ないと、僕などは思います。常識というのは楽観的で、肯定的なキャッチフレーズを集めたようなものですが、常識的な哲学書というのは、そういうものにさらにごてごてと聞き慣れない言葉で飾りつけをし、常識をさらにありがたいものにしているだけであるように思います。
村上春樹の抜粋部分は、スピノザの『エチカ』の定理55について僕が書いていることに通づるところがありませか?)
2013年7月11日に日本でレビュー済み
本書『実存からの冒険』の主題たる【実存】とは、「人間が現実に生存していること」であり、また思想の世界における【実存主義】とは、「客体として眺められた人間を扱うのでもなく、神学や社会主義のような理念から人間を扱うのでもない。ただ人間が実際に生きているその在り方のなかに入り込んで考えようとする姿勢」を意味するものです(本書P100より)。
まさしくそのような意味において、『生のもっとも異様な、そして過酷な諸問題の中にあってさえなおその生に対して「然り」ということ、生において実現しうべき最高のありかたを犠牲に供しながら、それでもおのれの無尽蔵性を喜びとする、生命への意志――これをわたしはディオニュソス的と呼んだのである……』(ニーチェ『この人を見よ』岩波文庫P98より)と語るニーチェは、実存主義の先駆者として、人が人である限り何ぴとも看過しえないこの上ない重要性を秘めた思想家であるといえるでしょう。
さらにまた、『“いかなる真理もない”ということ、事物のいかなる絶対的性質もなく、いかなる「物自体」もないということ』(ニーチェ『権力への意志』ちくま学芸文庫・上巻P31より)と語るニーチェ思想は、「それ自体として存在する客観」としての現実や/物それ自体という見方を廃して、すべてを主観的現象として捉えるフッサールの現象学へのマイルストーンとなりました。主観と客観の一致を自明の理とみなしたデカルトや、客観自体は認識不能だが万人に共通の認識は存在しうると主張したカントに基づく西洋哲学の伝統は、ニーチェの出現と、のちのフッサール/ハイデガーなどの登場によってきわめて大きなターニングポイントを通過したといえるでしょう。
本書は、哲学思想にまったく造詣を有しない方々にも容易に理解しうる「わかりやすさ」を備えていると同時に、わたしのようにかなりニーチェなどを読み込んでいるにもかかわらず、未だその全体像を掴めないでいる方々にもその核心を提示してくれる良書にほかなりません。フッサールやハイデガーの項については、両者についてまったく未読であったわたしも大いに興味と関心をそそられました。とりわけフッサールの現象学は、大乗仏教思想における唯識学との一致と相違を考えると、とても興味深いのではあるまいか? そしてハイデガー……。二十世紀最大の哲人と称されつつも、その全貌を知る者は甚だ少ないのが現状でしょう。わたしも……知りません。これを機に西研氏の格好のガイドとともに紐解いてみたいと思います。
まさしくそのような意味において、『生のもっとも異様な、そして過酷な諸問題の中にあってさえなおその生に対して「然り」ということ、生において実現しうべき最高のありかたを犠牲に供しながら、それでもおのれの無尽蔵性を喜びとする、生命への意志――これをわたしはディオニュソス的と呼んだのである……』(ニーチェ『この人を見よ』岩波文庫P98より)と語るニーチェは、実存主義の先駆者として、人が人である限り何ぴとも看過しえないこの上ない重要性を秘めた思想家であるといえるでしょう。
さらにまた、『“いかなる真理もない”ということ、事物のいかなる絶対的性質もなく、いかなる「物自体」もないということ』(ニーチェ『権力への意志』ちくま学芸文庫・上巻P31より)と語るニーチェ思想は、「それ自体として存在する客観」としての現実や/物それ自体という見方を廃して、すべてを主観的現象として捉えるフッサールの現象学へのマイルストーンとなりました。主観と客観の一致を自明の理とみなしたデカルトや、客観自体は認識不能だが万人に共通の認識は存在しうると主張したカントに基づく西洋哲学の伝統は、ニーチェの出現と、のちのフッサール/ハイデガーなどの登場によってきわめて大きなターニングポイントを通過したといえるでしょう。
本書は、哲学思想にまったく造詣を有しない方々にも容易に理解しうる「わかりやすさ」を備えていると同時に、わたしのようにかなりニーチェなどを読み込んでいるにもかかわらず、未だその全体像を掴めないでいる方々にもその核心を提示してくれる良書にほかなりません。フッサールやハイデガーの項については、両者についてまったく未読であったわたしも大いに興味と関心をそそられました。とりわけフッサールの現象学は、大乗仏教思想における唯識学との一致と相違を考えると、とても興味深いのではあるまいか? そしてハイデガー……。二十世紀最大の哲人と称されつつも、その全貌を知る者は甚だ少ないのが現状でしょう。わたしも……知りません。これを機に西研氏の格好のガイドとともに紐解いてみたいと思います。