理論の骨格がしっかりしており、かつ骨格を少し離れたところで著者の卓見が数多く述べられ、私は『失われた時を求めて』の理解を一段と深めることができた。
プルーストが、若い時にシャルダンの絵画を見て感動し、それを後年の大作『失われた時を求めて』にいかに活かしたかというのが大筋だと思う。著者は、プルーストの青年時代と晩年との間に長い橋を架けてみたかったと述べている。
第一部では、プルーストが、シャルダンの絵画を通じて、芸術家とは「現実との直接の交流」によって自己の内奥に刻まれた物の印象を表現するものだという結論を得たと述べる(シャルダンは物の表面ではなく物の本質・生命を描いている)。
そこで第二部のタイトルは<「印象」から「隠喩表現へ」――プルーストはいかに書いたか>となる。ある思想を伝えるには表面的な写実よりも印象――物の本質から由来する――を重んじるべきだ(シャルダンが絵で行ったように)。印象の記述には隠喩が必要(世界の隠喩的体験)。なぜ隠喩か。隠喩の技法によって写実主義を越えることができる。プルーストが感動した再記憶(無意識に蘇る再記憶。無意志的記憶と同意)の体験においても、二つの事象間(過去と現在)に隠喩的関係が成り立っている。
再記憶に関しては、例えば、マドレーヌの味から幸せな少年時代を過ごしたコンブレーの町全体(再記憶)が蘇えるのであるが、そのとき、両者の間に隠喩的関係があると言える。マドレーヌの味はコンブレーの町全体の隠喩であり、逆に少年時代を過ごしたコンブレーの町はマドレーヌの味の隠喩であるとも言える(両者に主従の関係はない)。
再記憶でなくても、マルタンヴィルの二本の鐘塔にもう一本が加わってそれらが二本に見えたり三本に見えたりする場面では、鐘塔が見せる刻々の変貌が鳥、軸、花、娘の四つの隠喩で捉えられている。
物の表面を単に写実するのでなく、印象を(隠喩に依存しながら)記述すること(=描写)によって物の本質・生命を捉えることができる(=文学作品の創造)。プルーストの考えた芸術の使命とは日常生活に生命を蘇生させることであった。
最後に、私が参考になった小説に関する著者の見解を紹介する。『失われた時を求めて』は筋立てが見定めがたい作品だと言われる。しかしプルーストは筋の展開よりも描写に力点を置いたのだ。この「描写」とは、隠喩(換喩・直喩も含めて)から現実世界にアプローチするやり方であり、描写は筋の展開を一時的に止める。なお、『失われた時を求めて』に筋がないことはない(筋と言うよりも「構成」と言う方が適切)。ただ挿話どうしがあまりにも離れたところで関係しているので分かりづらくなっている(明確な筋立てよりも、このような構成の方がより現実に近いのではないか)。
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プルースト、印象と隠喩 (ちくま学芸文庫 ホ 4-1) 文庫 – 1997/10/1
保苅 瑞穂
(著)
- 本の長さ392ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日1997/10/1
- ISBN-104480083790
- ISBN-13978-4480083791
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (1997/10/1)
- 発売日 : 1997/10/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 392ページ
- ISBN-10 : 4480083790
- ISBN-13 : 978-4480083791
- Amazon 売れ筋ランキング: - 936,290位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,474位フランス文学研究
- - 2,311位ちくま学芸文庫
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2016年3月29日に日本でレビュー済み
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2011年1月22日に日本でレビュー済み
世には、多くのプルースト論がひしめいているが、本書は秀逸。なぜもっと早く読まなかったのか?
本書は大きく2部に分かれる。
前半は、若きプルーストが書いた「シャルダン論」の分析。
後半は、その「シャルダン論」で捉えられた<芸術の秘密>が、いかに『失われた時』に生かされているかの検証である。
シャルダンは、食器や家具といった卑近なものに<美>を見つけた18世紀フランスの画家である。代表作「赤えい」をご存じの人も多いのではないだろうか。
フランス語で<死んだ自然>を意味する「静物」に息を吹き込み、<生きた自然>を描き出した――と、いまなお絶賛されている画家である。
若きプルーストによれば、シャルダンにそれを可能にしたのは、画家の目であり、対象の本質(印象)を見抜く努力であり、それを画布に定着させる色彩の技法であった。
その「シャルダン論」を徹底的に読み込んだ著者・保苅氏は、そうして抽出された<目><印象><色彩>こそ、プルースト晩年の大作『失われた時』の原動力でもあったことに思い至る。
そこで、時間的に大きく隔たった両書に橋を架けようと試みる。
それが本書の狙いであり、エッセンスだ。
シャルダンにおける<色彩>に当たるのは、プルーストにあっては<隠喩>であると、保苅氏は喝破する。もちろん、それは平凡な比喩ではない。
プルーストは、外にあらわれた現象には興味を示さない。事物の奥に沈められた印象をなんとかして捉えようと、じっと目を凝らす。
そしてそれが見えたら、<隠喩>を自在にあやつり、定着する。
その達成が「マルタンヴィルの鐘塔」や「眠れるアルベルチーヌの肢体」etcの挿話であり、『失われた時』という作品そのものだという。
世界を新しい目で見ること、その新しい世界を<隠喩>を駆使して書き上げ、そして世界を再生させること――それが『失われた時』の最大のテーマであった、とする著者の指摘はまったく正しい。
重箱のスミを突っつくような精神分析的、あるいは言語分析的プルースト論が横行するなか、保苅氏のこの正統的な力作はもっともっと読まれるべきだと思う。
本書は大きく2部に分かれる。
前半は、若きプルーストが書いた「シャルダン論」の分析。
後半は、その「シャルダン論」で捉えられた<芸術の秘密>が、いかに『失われた時』に生かされているかの検証である。
シャルダンは、食器や家具といった卑近なものに<美>を見つけた18世紀フランスの画家である。代表作「赤えい」をご存じの人も多いのではないだろうか。
フランス語で<死んだ自然>を意味する「静物」に息を吹き込み、<生きた自然>を描き出した――と、いまなお絶賛されている画家である。
若きプルーストによれば、シャルダンにそれを可能にしたのは、画家の目であり、対象の本質(印象)を見抜く努力であり、それを画布に定着させる色彩の技法であった。
その「シャルダン論」を徹底的に読み込んだ著者・保苅氏は、そうして抽出された<目><印象><色彩>こそ、プルースト晩年の大作『失われた時』の原動力でもあったことに思い至る。
そこで、時間的に大きく隔たった両書に橋を架けようと試みる。
それが本書の狙いであり、エッセンスだ。
シャルダンにおける<色彩>に当たるのは、プルーストにあっては<隠喩>であると、保苅氏は喝破する。もちろん、それは平凡な比喩ではない。
プルーストは、外にあらわれた現象には興味を示さない。事物の奥に沈められた印象をなんとかして捉えようと、じっと目を凝らす。
そしてそれが見えたら、<隠喩>を自在にあやつり、定着する。
その達成が「マルタンヴィルの鐘塔」や「眠れるアルベルチーヌの肢体」etcの挿話であり、『失われた時』という作品そのものだという。
世界を新しい目で見ること、その新しい世界を<隠喩>を駆使して書き上げ、そして世界を再生させること――それが『失われた時』の最大のテーマであった、とする著者の指摘はまったく正しい。
重箱のスミを突っつくような精神分析的、あるいは言語分析的プルースト論が横行するなか、保苅氏のこの正統的な力作はもっともっと読まれるべきだと思う。
2011年4月6日に日本でレビュー済み
もともと筑摩書房のハードカバー書籍で、名著として知られる作品。平井氏のプルースト論などと並んで日本人の書いた素晴らしい哲学的プルースト論だと思う(ただし物語の構造分析はほとんどないです)。
プルースト語るところの「小さな痕跡」、音楽的実在を、「印象」として著者は本書で彫りこんでいき、第一部が終わる。
そして怒涛の第二部に雪崩込んでいくのだが、ドゥルーズのプルースト論(『プルーストとシーニュ』)と比肩できるような成果が80年代前初頭の日本でもすでにあげられていたというのは、実はかなり世界に誇っていいことではないのだろうか。
著者は、各種の修辞法(隠喩など)の用例を詩作品からも持ちだして、この「音楽的実在」とも呼ばれる、形になりそうでならないものになんとか形を与えようと試みる。
そこで本書のメインタイトルにもなっている(サブタイトルではない)、「印象と隠喩」という問題に行き着く。
「世界の隠喩的体験」(第九章のサブタイトル)という言葉がピンと来るプルーストファンは是非とも入手して至福の読書体験を味わってほしいと思います。
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そして怒涛の第二部に雪崩込んでいくのだが、ドゥルーズのプルースト論(『プルーストとシーニュ』)と比肩できるような成果が80年代前初頭の日本でもすでにあげられていたというのは、実はかなり世界に誇っていいことではないのだろうか。
著者は、各種の修辞法(隠喩など)の用例を詩作品からも持ちだして、この「音楽的実在」とも呼ばれる、形になりそうでならないものになんとか形を与えようと試みる。
そこで本書のメインタイトルにもなっている(サブタイトルではない)、「印象と隠喩」という問題に行き着く。
「世界の隠喩的体験」(第九章のサブタイトル)という言葉がピンと来るプルーストファンは是非とも入手して至福の読書体験を味わってほしいと思います。