著者は本書の中で、アリストテレス、ニーチェ、ハイデッガー、ガダマーの芸術論に即しながら、
「いかに芸術が、虚構という発見装置を用いながらも、しかし本当は人間の生と世界内存在の「真理・真実・真相」を見えるようにさせる営みであるかを、辿り、明らかにし」ています。
そして、その動機として人間の苦悩という問題が潜んでいるのではないと考え、
フロイトが『詩人と想像作用』で、「欲求不満が、想像・空想の世界を生み出す源泉」であり、
そうした願望は「名誉を求めるもの」「性的なもの」であるのだと述べていることに対し、
それを批判しているユングは、『心理学と文学的創作・詩作』の中で、「「芸術作品」の本質は、「個人的特殊性」に付き纏われて「いない」点にこそあり、「芸術作品は、個人的なものを遥かに高く超え出ていて、人類の精神と心胸から、しかも人類の精神と心胸に向けて語っている」ところに、その大事な点があり、「個人的なものは、一つの制限であり、否それどころか、芸術の悪い面である」と述べていると言っています。
私は、著者が指摘したユングのフロイト批判ともいうべき詩人論から、
芸術についての思想を感じとり、今後の「芸術作品の創造と享受」について考えるきっかけを学びました。
そして、真の芸術作品とは、芸術家による芸術家のための作品として創造されたのではなく、
その時々で誰かのために平和への願いや祈りが込められたものとして創造されたのではないだろうか。
また、誰かが誰かの権力を奪うものでもなく、互いに互いの立場を守るものとして、
芸術作品を享受するものもまた、創造された時と同じように願い、祈り、享受する必要があるのではないかと思いました。
渡辺 二郎 氏の著作は、難しい哲学が、とてもわかり易く書かれているものが多いと思いますので、おすすめです。
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芸術の哲学 (ちくま学芸文庫 ワ 3-3) 文庫 – 1998/6/1
渡邊 二郎
(著)
- ISBN-104480084266
- ISBN-13978-4480084262
- 出版社筑摩書房
- 発売日1998/6/1
- 言語日本語
- 本の長さ470ページ
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (1998/6/1)
- 発売日 : 1998/6/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 470ページ
- ISBN-10 : 4480084266
- ISBN-13 : 978-4480084262
- Amazon 売れ筋ランキング: - 386,008位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 564位芸術理論・美学
- - 1,320位ちくま学芸文庫
- - 2,958位アート・建築・デザイン作品集
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2017年7月5日に日本でレビュー済み
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2020年9月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
特にハイデガーによる芸術の解釈が自分にとってとても納得のいく説明でした。
芸術活動をしている方から、鑑賞者まで全員におすすめしたいです。
芸術活動をしている方から、鑑賞者まで全員におすすめしたいです。
2021年5月31日に日本でレビュー済み
なかなか硬派で真面目な本。フッサールやハイデガーを訳出している渡邊二郎による芸術論。芸術論といっても、絵画というよりも美についての論考で、アリストテレスやニーチェは悲劇を、ショーペンハウアーは音楽を、カントは詩を最良の芸術と説く。
二つの軸が貫いている。一つは「近代主観主義的美学」と「存在論的美学」との対立で、前者を批判し後者を称揚している。もう一つは、後者に関連し存在論を重視したハイデガーによる美学論を頂点としつつ西洋哲学あるいはドイツ(観念論)哲学の系譜に即して提示することで、アリストテレスを除いて、ニーチェ、ハイデガー、ガダマー、フロイト、ユング、ショーペンハウアー、カントといったドイツ語圏での哲学・思想上の巨人の芸術論が扱われる。一方、プラトンはアリストテレスとの対比で、ヘーゲルについては数カ所で触れられており、ラシーヌの演劇論やシラーやディドロの美学への言及はほぼ無い。
非常に丁寧に書かれているが、全く西洋哲学に馴染みのない人には難解であるかもしれない。多少なりともカントの超越論やハイデガーの存在論についての入門書などを読んでいないと理解しづらいだろう。また、アイスキュロスやソフォクレスやエウリピデスなどの古代ギリシア悲劇を読んでいることが望まれるだろう。
構成としては、アリストテレスでは『詩学』を、ニーチェでは『悲劇の誕生』を、ハイデガーでは『芸術作品の根源』を、ガダマーでは『真理と方法』を、フロイトでは『詩人と想像作用』『自伝的叙述』を、ユングでは『心理学と文学的創作・試作』『心理学的類型』を、ショーペンハウアーでは『意思と表象としての世界』を、カントでは『判断力批判』を扱っており、そのうちの主要な概念を掘り下げている。
「『近代主観主義的美学』とは、美の成立根拠を、私たち人間的主観の心の在り方のうちに求め、人間側に何らかの『主観的条件』が整えば、そのとき美が感受されてき、こうして例えば芸術は、そうした主観的条件に基づく美の樹立を目指すものと見做す考え方を指す。」
「『存在論的美学』とは、芸術作品が狙うのは、美ではなく存在の真実であり、そうした真実の世界の開示される場が芸術作品であり、そこには、主観を超えた、『客観的』な存在の真実が輝き出ており、その輝き(シャイネン)と現出(エルシャイネン)の結果が単に美(シェーン)であるにすぎず、人は芸術において開示された真実の輝きの中に恍惚の忘我脱魂の状態で魅入られるのだとする考え方である。」(ともにp.369)
哲学の主柱として認識論と存在論とがあり、上記の中ではカントは前者を優先すべきとし、ハイデガーは後者を重視し、心理学や精神分析は認識論との親和性が高い。「近代主観主義的美学」と「存在論的美学」との対立・対比に関しては、多くの鑑賞者は前者が適合的であり、後者は存在の問い・謎や(個別・特殊・独我論的)自己存在の妥当性あるいは論理的根拠とは何かという問いに突き当たった者でなければ理解あるいは実感を伴わないだろう、そのような問いを抱かない者はある意味で幸福でもあり、ショーペンハウアーやニーチェの言う芸術による慰謝などは不要だろう。
「存在の真実」については、ニーチェでは「ディオニュソス的なもの」と、ショーペンハウアーやカントでは「物自体」として示されているようだが、それらと関連して、ハイデガーでは世界内存在しており存在をまた来るべき死を了解している存在を現存在と呼び、存在の総体としての世界は開示の場であるとともに謎を含み、そのような姿でもって現存在に提示している、といったもののようだ。西洋哲学史ではプラトン以来、存在と超越とは緊密に関連しており、その反動として分析的論理を方法とする近代科学が勃興したとも言える。現代は分析と総合との言わば止揚段階とも捉えられ、より総合的な学際的知見が要望されている。
虚構と真実、記号と物質、存在という概念と存在する物・者、これらの関係は芸術作品を媒介として何らかのアナロジー・類比関係を示しているようにも思える。現象の記述においては、恣意的に分節化せざるを得ない記号によって示す他になく、つまり対象と記号との内的必然的関連や一対一対応などを求めることが不可能であるにも関わらず、そのようなことは秘匿されているとともに記号による記述は日常化している。例えばそういったことをある種の芸術作品は示すだろう。
「存在論的美学」とは関連しつつも別にユングの詩人論では、個人を超えた「『集合的無意識』と『時代意識』とが結び合って、『作品は、最も深い意味で、同時代人たちに対する予言に満ちた教えとなり』、『全時代にかかわる創造行為』が成就される」と指摘し(p.290)、プラトンの霊感ではないが時代精神の予言あるいは象徴としての芸術作品というものがあり得、また、そのような解釈が妥当性を持つ場合もあるだろう。例えば、エウリピデスに個人主義の萌芽を見たり、ベートーヴェンのソナタに市民社会の討議を見たりできるだろう。
p.417で述べられるカントの批判哲学の根本思想を簡略に提示した箇所は注目すべきだろう。
「カント自身は、この存在の根源、究極の存在の真実を、次のような姿のものとして信じようとしたと言ってよい。すなわち、私たちが『自由』な行為する主体として、理性的に生きて努力し精進したすべての営為が、『死』を超えてその有意義性を獲得し、ひいては『神』によって報われ、幸福を保証されうるようなものとして成り立っているのだということ、これである。自由と、霊魂の不死と、神の存在との三つが、カントが終局的に切実な関心を寄せた、存在の根源、究極の存在の真実いかんの問題点なのであった。死によって限界づけられた有限の人間の生の営みの中に、いかにして人間の生存の不滅の価値と意味を保証するかに、カントの哲学的問いの究極は、集中していたと断定しても構わないと思う。」
逆に言えば、不条理なことも起こり得る現実生活にあっても、その行為を人格に帰し且つ規範化の妥当性を確立すべき点で、自由と霊魂と神が要請され体系化されたとも捉えられる。
カントの哲学はやはり難解であるが、合理論と経験論との融和を目指したであろうその哲学にあって、先験的方法・超越論が結実したが、その論述にはアリストテレスの分類とソクラテス・プラトンの概念の遡求的把握との融合とが見えて興味深い。
二つの軸が貫いている。一つは「近代主観主義的美学」と「存在論的美学」との対立で、前者を批判し後者を称揚している。もう一つは、後者に関連し存在論を重視したハイデガーによる美学論を頂点としつつ西洋哲学あるいはドイツ(観念論)哲学の系譜に即して提示することで、アリストテレスを除いて、ニーチェ、ハイデガー、ガダマー、フロイト、ユング、ショーペンハウアー、カントといったドイツ語圏での哲学・思想上の巨人の芸術論が扱われる。一方、プラトンはアリストテレスとの対比で、ヘーゲルについては数カ所で触れられており、ラシーヌの演劇論やシラーやディドロの美学への言及はほぼ無い。
非常に丁寧に書かれているが、全く西洋哲学に馴染みのない人には難解であるかもしれない。多少なりともカントの超越論やハイデガーの存在論についての入門書などを読んでいないと理解しづらいだろう。また、アイスキュロスやソフォクレスやエウリピデスなどの古代ギリシア悲劇を読んでいることが望まれるだろう。
構成としては、アリストテレスでは『詩学』を、ニーチェでは『悲劇の誕生』を、ハイデガーでは『芸術作品の根源』を、ガダマーでは『真理と方法』を、フロイトでは『詩人と想像作用』『自伝的叙述』を、ユングでは『心理学と文学的創作・試作』『心理学的類型』を、ショーペンハウアーでは『意思と表象としての世界』を、カントでは『判断力批判』を扱っており、そのうちの主要な概念を掘り下げている。
「『近代主観主義的美学』とは、美の成立根拠を、私たち人間的主観の心の在り方のうちに求め、人間側に何らかの『主観的条件』が整えば、そのとき美が感受されてき、こうして例えば芸術は、そうした主観的条件に基づく美の樹立を目指すものと見做す考え方を指す。」
「『存在論的美学』とは、芸術作品が狙うのは、美ではなく存在の真実であり、そうした真実の世界の開示される場が芸術作品であり、そこには、主観を超えた、『客観的』な存在の真実が輝き出ており、その輝き(シャイネン)と現出(エルシャイネン)の結果が単に美(シェーン)であるにすぎず、人は芸術において開示された真実の輝きの中に恍惚の忘我脱魂の状態で魅入られるのだとする考え方である。」(ともにp.369)
哲学の主柱として認識論と存在論とがあり、上記の中ではカントは前者を優先すべきとし、ハイデガーは後者を重視し、心理学や精神分析は認識論との親和性が高い。「近代主観主義的美学」と「存在論的美学」との対立・対比に関しては、多くの鑑賞者は前者が適合的であり、後者は存在の問い・謎や(個別・特殊・独我論的)自己存在の妥当性あるいは論理的根拠とは何かという問いに突き当たった者でなければ理解あるいは実感を伴わないだろう、そのような問いを抱かない者はある意味で幸福でもあり、ショーペンハウアーやニーチェの言う芸術による慰謝などは不要だろう。
「存在の真実」については、ニーチェでは「ディオニュソス的なもの」と、ショーペンハウアーやカントでは「物自体」として示されているようだが、それらと関連して、ハイデガーでは世界内存在しており存在をまた来るべき死を了解している存在を現存在と呼び、存在の総体としての世界は開示の場であるとともに謎を含み、そのような姿でもって現存在に提示している、といったもののようだ。西洋哲学史ではプラトン以来、存在と超越とは緊密に関連しており、その反動として分析的論理を方法とする近代科学が勃興したとも言える。現代は分析と総合との言わば止揚段階とも捉えられ、より総合的な学際的知見が要望されている。
虚構と真実、記号と物質、存在という概念と存在する物・者、これらの関係は芸術作品を媒介として何らかのアナロジー・類比関係を示しているようにも思える。現象の記述においては、恣意的に分節化せざるを得ない記号によって示す他になく、つまり対象と記号との内的必然的関連や一対一対応などを求めることが不可能であるにも関わらず、そのようなことは秘匿されているとともに記号による記述は日常化している。例えばそういったことをある種の芸術作品は示すだろう。
「存在論的美学」とは関連しつつも別にユングの詩人論では、個人を超えた「『集合的無意識』と『時代意識』とが結び合って、『作品は、最も深い意味で、同時代人たちに対する予言に満ちた教えとなり』、『全時代にかかわる創造行為』が成就される」と指摘し(p.290)、プラトンの霊感ではないが時代精神の予言あるいは象徴としての芸術作品というものがあり得、また、そのような解釈が妥当性を持つ場合もあるだろう。例えば、エウリピデスに個人主義の萌芽を見たり、ベートーヴェンのソナタに市民社会の討議を見たりできるだろう。
p.417で述べられるカントの批判哲学の根本思想を簡略に提示した箇所は注目すべきだろう。
「カント自身は、この存在の根源、究極の存在の真実を、次のような姿のものとして信じようとしたと言ってよい。すなわち、私たちが『自由』な行為する主体として、理性的に生きて努力し精進したすべての営為が、『死』を超えてその有意義性を獲得し、ひいては『神』によって報われ、幸福を保証されうるようなものとして成り立っているのだということ、これである。自由と、霊魂の不死と、神の存在との三つが、カントが終局的に切実な関心を寄せた、存在の根源、究極の存在の真実いかんの問題点なのであった。死によって限界づけられた有限の人間の生の営みの中に、いかにして人間の生存の不滅の価値と意味を保証するかに、カントの哲学的問いの究極は、集中していたと断定しても構わないと思う。」
逆に言えば、不条理なことも起こり得る現実生活にあっても、その行為を人格に帰し且つ規範化の妥当性を確立すべき点で、自由と霊魂と神が要請され体系化されたとも捉えられる。
カントの哲学はやはり難解であるが、合理論と経験論との融和を目指したであろうその哲学にあって、先験的方法・超越論が結実したが、その論述にはアリストテレスの分類とソクラテス・プラトンの概念の遡求的把握との融合とが見えて興味深い。
2007年7月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
なぜ芸術は我々を魅了するのか??
その問いに美学ではなく哲学をもって答える、というのが本書の趣旨。
文章は、丁寧すぎるかもしれないぐらい丁寧。
著者ができる限り読者が読みやすいように心がけて書かれたものであることは疑いようが無いだろう。
ただ、完全な哲学の初心者が読んで理解できるとも思えないので、西洋の哲学(特にドイツ)にある程度慣れ親しんでおかないと少々読むのは辛いかもしれない(著者の書き方も、読者のある程度の哲学の知識を前提としている)。
しかし、それでも喰らいついて読んでいく価値が本書には間違いなくある。
美学ではなく、哲学の立場からのここまでまとまった芸術論(しかもこれは日本人が書いたのだ)はなかなか無いと思われるので、文庫版であることもあり、自信を持って多くの人に読むことを薦められる本である。
その問いに美学ではなく哲学をもって答える、というのが本書の趣旨。
文章は、丁寧すぎるかもしれないぐらい丁寧。
著者ができる限り読者が読みやすいように心がけて書かれたものであることは疑いようが無いだろう。
ただ、完全な哲学の初心者が読んで理解できるとも思えないので、西洋の哲学(特にドイツ)にある程度慣れ親しんでおかないと少々読むのは辛いかもしれない(著者の書き方も、読者のある程度の哲学の知識を前提としている)。
しかし、それでも喰らいついて読んでいく価値が本書には間違いなくある。
美学ではなく、哲学の立場からのここまでまとまった芸術論(しかもこれは日本人が書いたのだ)はなかなか無いと思われるので、文庫版であることもあり、自信を持って多くの人に読むことを薦められる本である。
2005年12月12日に日本でレビュー済み
ピアニストがピアノを弾いているのをみると、いかにも簡単そうに弾くので自分も弾けそうな気がしてくるものです。
それと同じように、この本を読むと、哲学というのは、案外分かりやすいなと思えてしまうほど、この本は分かりやすく、すらすら読めます。
渡邊氏訳の『イデーン』を読んだことがあるかたなら、氏の原文の読みの緻密さと、それを明快な日本語に置き換える才能についてはすでにご存じでしょう。
この本によっても、あらためて渡邊氏のすごさを感じさせられました。
これほどの本がコンパクトで安価な文庫本として手に入るというのはありがたいことです。
渡邊氏には今後も是非とも哲学のあらゆるジャンルについての啓蒙書を書いて頂きたい者です。
それと同じように、この本を読むと、哲学というのは、案外分かりやすいなと思えてしまうほど、この本は分かりやすく、すらすら読めます。
渡邊氏訳の『イデーン』を読んだことがあるかたなら、氏の原文の読みの緻密さと、それを明快な日本語に置き換える才能についてはすでにご存じでしょう。
この本によっても、あらためて渡邊氏のすごさを感じさせられました。
これほどの本がコンパクトで安価な文庫本として手に入るというのはありがたいことです。
渡邊氏には今後も是非とも哲学のあらゆるジャンルについての啓蒙書を書いて頂きたい者です。
2014年2月14日に日本でレビュー済み
芸術のついての主要な哲学者の思想をまとめながら、芸術の本質を追求する、野心的な内容。
ハイデガーの”世界内存在”を基本的な視点として、古代ギリシャのアリストテレスから、
ニーチェ、フロイト、ショーペンハウエル、カントなどの、芸術管を紹介する。
全体的に、ガダマーの思想を参考にしている部分が多い。
また、単に芸術に関するだけでなく、哲学としての本質にも迫ろうとしている。
ただ、あまりにもカバーしようとしている範囲が多いため、総論的に留まっている部分は、やむを得ないか。
ハイデガーの”世界内存在”を基本的な視点として、古代ギリシャのアリストテレスから、
ニーチェ、フロイト、ショーペンハウエル、カントなどの、芸術管を紹介する。
全体的に、ガダマーの思想を参考にしている部分が多い。
また、単に芸術に関するだけでなく、哲学としての本質にも迫ろうとしている。
ただ、あまりにもカバーしようとしている範囲が多いため、総論的に留まっている部分は、やむを得ないか。
2005年8月8日に日本でレビュー済み
本書は、美の成立根拠を人間の主観的な心の在り方に還元する「近代主観主義的美学」に対して、美ではなく存在の真実が開示される場が芸術作品と考える「存在論的美学」を提示している。前者の立場に立つシラーやフロイトに対して、後者の立場を取るニーチェやハイデガーを平易に解説することで芸術哲学の教科書のような作りになっている。そのため「近代主観主義的美学」をなぜ退けるのか、という命題に関しては批判が甘いと思うが、二つの芸術観を対立させて論じる文章は、非常に明快であり、ハイデガー、ニーチェ、アリストテレスもしくはショーペンハウアーの芸術観が見事にまとまっている(原書にあたったことのある人にはそれがよく分かるだろう)。ちなみに芸術や哲学が「訳の分からぬもの」と考える人には特にお勧めする。