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日本文学史序説 (下) (ちくま学芸文庫 カ 13-2) 文庫 – 1999/4/1
加藤 周一
(著)
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- ISBN-104480084886
- ISBN-13978-4480084880
- 出版社筑摩書房
- 発売日1999/4/1
- 言語日本語
- 本の長さ581ページ
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (1999/4/1)
- 発売日 : 1999/4/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 581ページ
- ISBN-10 : 4480084886
- ISBN-13 : 978-4480084880
- Amazon 売れ筋ランキング: - 30,649位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1919‐2008年。東京生まれ。東京大学医学部卒。戦後、多彩な執筆活動を展開。中村真一郎・福永武彦と『1946・文学的考察』『マチネ・ポエティク詩集』などを刊行。カナダのブリティッシュ・コロンビア大学をはじめ、ドイツ、イギリス、アメリカ、スイス、イタリアの大学や、上智大学、立命館大学などで教鞭をとる。2004年、平和憲法擁護の「九条の会」の呼び掛け人となる(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 三題噺 (ちくま文庫) (ISBN-13: 978-4480426710 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年2月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
加藤修一の代表作といっていい一冊。 彼の教養の高さがうかがえる。やや難解だが、いやしくも学士号を持つ日本人ならば、一読しておくべき一冊と確信する。
2016年11月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
加藤周一さんの名著下巻。集団志向型の日本社会のなかにあって、集団を醒めた目で見つめ距離を置く様々なかたちの「個」を対置させながら、上田秋成、富岡鉄斎、福沢諭吉、中江兆民、幸徳秋水、夏目漱石、森鴎外、永井荷風、太宰治、芥川龍之介、内村鑑三、渡辺一夫、石川啄木・・と錦のつづれ織りのごとく文人たちが続き、三島由紀夫や川端康成、竹内好、丸山眞男など戦後の作家・知識人まで、それぞれの作品と思想を紹介してゆきます。
下巻は明治から二次大戦まで国家主義が日本を染めていた時期を扱うので、侵略戦争と戦争責任の処理について、その原因となった日本人の精神を分析しながら、戦争批判、軍部批判が展開されます。
目次
第八章 町人の時代
第九章 第四の転換期 上
第十章 第四の転換期 下
第十一章 工業化の時代
終章 戦後の状況
印象に残った箇所は以下。
●(戦後日本)社会生活一般について、四十五年以後のおそらく最大の変化は、家庭でも、学校でも、企業でも、集団内部の上下関係の厳格さが崩れ、平等主義が普及したことである。しかし集団帰属性を強調する価値観が、四十五年を境として変わったのではない。四十五年以後の日本社会は、以前と同じように集団志向型の社会であった。すなわち敗戦と被占領後に出現したのは、個人の人権と少数意見の尊重に鈍感で、しかし高度に平等主義的であり、集団相互及び集団の成員相互の競争が激しく、個人の集団への組込まれが常に強かった社会である。
●(丸山眞男の二次大戦時の日本分析)・・しかもその国家の指導者が彼らの決定について責任をとらぬという、単に個人の道義的な傾向ではなくて、体制そのものに内在する仕組がある。ニュールンベルク裁判における被告の態度の特徴は、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」の二点に要約されるという(「軍国支配者の精神形態」)。前者は、「みんなが望んだから私も」主義である。みんなが望んだことは、「成りゆき」であり、事の「勢い」であり、「作りだされてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起こって来たもの」(同上)である。東京裁判の被告の言い分によれば、日本軍国主義の指導者たちは、誰一人として太平洋戦争を望んでいなかったにも拘らず、太平洋戦争を始めたということになる。特徴の後者は、指導者のなかの誰にも、特定の決定について、権限がなかったという主張である。たとえば軍紀を監督する権限は法規上師団長にあって最高司令官にはなかったのだから、当時の中支方面軍司令官は、南京虐殺の責任をとる必要がない!要するに集団の行動の基準は、成員個人の意識的な決断ではなく、同質的な集団全体がおのずから特定方向へ向う「勢い」であり、したがってその責任は、いかなる個人にも属せず、集団全体に分散されるのである。
かくして日本型「ファシズム」の特徴の分析は、単に工業化の段階や地政学的条件ばかりでなく、一方では集団に超越する価値の欠如、他方では個人の集団への高度の組込まれという各時代を通じての日本型世界観の特徴へ導かれる。三十年代に興った超国家主義は日本思想史の例外ではなく、本来そこに内在した問題の極端な誇張にすぎなかった。
●鶴見俊輔はまた独特の行動様式を発明した。それはアメリカの三十年代の「自由主義者左派」の信条を、日本社会のなかで、徹底して生きとおすということである。
集団志向性の強い社会では、個人がその信条に従って人生を設計するということが少ない。そうしないときの個人の生活上の安全性は高く、そうするときの犠牲は大きいからである。また行動的な左派がマルクス主義的な立場をとり続けてきた国で、行動的な「自由主義者」は、さらに少ない。
原発事故や、報道社会の記者クラブ制度、国立競技場問題に代表される公共事業・箱ものの問題、豊洲問題などを見ていると、二次大戦時に日本人を集団的狂騒に駆り立てた精神構造、社会構造というものは大きく変わっていないと思わざるを得ません。加藤さんが剔抉し可視化してくれた「日本人の精神」を学び教訓とし、せめて国民が自分たちの民族の持つ傾向性に自覚的になり、悲劇の原因となる哲学無き無責任体質を変えてゆかねばならないと思います。
下巻は明治から二次大戦まで国家主義が日本を染めていた時期を扱うので、侵略戦争と戦争責任の処理について、その原因となった日本人の精神を分析しながら、戦争批判、軍部批判が展開されます。
目次
第八章 町人の時代
第九章 第四の転換期 上
第十章 第四の転換期 下
第十一章 工業化の時代
終章 戦後の状況
印象に残った箇所は以下。
●(戦後日本)社会生活一般について、四十五年以後のおそらく最大の変化は、家庭でも、学校でも、企業でも、集団内部の上下関係の厳格さが崩れ、平等主義が普及したことである。しかし集団帰属性を強調する価値観が、四十五年を境として変わったのではない。四十五年以後の日本社会は、以前と同じように集団志向型の社会であった。すなわち敗戦と被占領後に出現したのは、個人の人権と少数意見の尊重に鈍感で、しかし高度に平等主義的であり、集団相互及び集団の成員相互の競争が激しく、個人の集団への組込まれが常に強かった社会である。
●(丸山眞男の二次大戦時の日本分析)・・しかもその国家の指導者が彼らの決定について責任をとらぬという、単に個人の道義的な傾向ではなくて、体制そのものに内在する仕組がある。ニュールンベルク裁判における被告の態度の特徴は、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」の二点に要約されるという(「軍国支配者の精神形態」)。前者は、「みんなが望んだから私も」主義である。みんなが望んだことは、「成りゆき」であり、事の「勢い」であり、「作りだされてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起こって来たもの」(同上)である。東京裁判の被告の言い分によれば、日本軍国主義の指導者たちは、誰一人として太平洋戦争を望んでいなかったにも拘らず、太平洋戦争を始めたということになる。特徴の後者は、指導者のなかの誰にも、特定の決定について、権限がなかったという主張である。たとえば軍紀を監督する権限は法規上師団長にあって最高司令官にはなかったのだから、当時の中支方面軍司令官は、南京虐殺の責任をとる必要がない!要するに集団の行動の基準は、成員個人の意識的な決断ではなく、同質的な集団全体がおのずから特定方向へ向う「勢い」であり、したがってその責任は、いかなる個人にも属せず、集団全体に分散されるのである。
かくして日本型「ファシズム」の特徴の分析は、単に工業化の段階や地政学的条件ばかりでなく、一方では集団に超越する価値の欠如、他方では個人の集団への高度の組込まれという各時代を通じての日本型世界観の特徴へ導かれる。三十年代に興った超国家主義は日本思想史の例外ではなく、本来そこに内在した問題の極端な誇張にすぎなかった。
●鶴見俊輔はまた独特の行動様式を発明した。それはアメリカの三十年代の「自由主義者左派」の信条を、日本社会のなかで、徹底して生きとおすということである。
集団志向性の強い社会では、個人がその信条に従って人生を設計するということが少ない。そうしないときの個人の生活上の安全性は高く、そうするときの犠牲は大きいからである。また行動的な左派がマルクス主義的な立場をとり続けてきた国で、行動的な「自由主義者」は、さらに少ない。
原発事故や、報道社会の記者クラブ制度、国立競技場問題に代表される公共事業・箱ものの問題、豊洲問題などを見ていると、二次大戦時に日本人を集団的狂騒に駆り立てた精神構造、社会構造というものは大きく変わっていないと思わざるを得ません。加藤さんが剔抉し可視化してくれた「日本人の精神」を学び教訓とし、せめて国民が自分たちの民族の持つ傾向性に自覚的になり、悲劇の原因となる哲学無き無責任体質を変えてゆかねばならないと思います。
2012年2月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
下巻は、江戸期に特有の文人墨客のありようから始めて、富永仲基や安藤昌益、石田梅岩や三浦梅園や山片蟠桃など通常思想史で扱われる人物の業績を交えながら江戸の言説空間を包括的に示していく。そのあとには江戸時代の終わりと明治維新との断絶をことさらに示すこともなく、近代作家の系譜を示していく。明治以後は文学者と一般に認識されている人物の事跡を多く紹介している。下巻全体として、時代の趨勢に棹差すのか、抗うのか、逃避するのかの態度に応じてそれぞれ作物を世に問う作家の生きざまが強く印象に残る。
各章とも最初にサマリーが置かれたあとに各論を進めるというオーソドックスなつくりで、この著書が各国語に翻訳されて日本研究のバイブルとなっているというのが頷ける、とっつきやすい文章と内容だ。くせがなく、するすると読み進められた。
読み終えてみると、思想と文学どちらにも興味のある自分としては一冊で二度美味しい内容だった。特に江戸思想史のまとめは包括的で、以前読んだ子安さんの著書が相当意欲的な内容だったことが確認できた。そんな風に考えると、この上下冊は日本文学および日本思想について自分なりに考える際の参照点として使える著書の一つなのではと思った。取り上げられているような歴史的布置がありながら具体的な書物は往々にしてそんな位置づけを超えて読み手に迫ってくるもので、それが読書の気持ちよさの一つだが、そんな風な体験の前提をこの著書から得ることが出来る。
ドナルド・キーン氏や小西甚一氏の文学史と読み比べてみると面白いかもしれない。
各章とも最初にサマリーが置かれたあとに各論を進めるというオーソドックスなつくりで、この著書が各国語に翻訳されて日本研究のバイブルとなっているというのが頷ける、とっつきやすい文章と内容だ。くせがなく、するすると読み進められた。
読み終えてみると、思想と文学どちらにも興味のある自分としては一冊で二度美味しい内容だった。特に江戸思想史のまとめは包括的で、以前読んだ子安さんの著書が相当意欲的な内容だったことが確認できた。そんな風に考えると、この上下冊は日本文学および日本思想について自分なりに考える際の参照点として使える著書の一つなのではと思った。取り上げられているような歴史的布置がありながら具体的な書物は往々にしてそんな位置づけを超えて読み手に迫ってくるもので、それが読書の気持ちよさの一つだが、そんな風な体験の前提をこの著書から得ることが出来る。
ドナルド・キーン氏や小西甚一氏の文学史と読み比べてみると面白いかもしれない。
2019年4月9日に日本でレビュー済み
この下巻では、江戸時代中期からおよそ300年が述べられている。最初から、藩校などによる教育が武士、町人に広がっていく記述の直後に、農民の間では一揆が頻発したと言う対照的な描写に筆者の歴史観を感じてしまう。
そして18世紀半ばから活躍した三浦梅園については、『……ほとんどヘーゲルの弁証法を思わせる。……』と述べ、その主著「玄語」について、『……おそらく空海の「十住心論」以来日本の思想家の著作で、抽象的な概念的秩序の構成が「玄語」ほどの完成度に達したものは、他にない。梅園が日本文学に加えた「美」は、実にその自然哲学的概念の建築的な美しさであった、といえるかもしれない。……』と手放しで称揚する。
また同時代の大阪に医者として生きた本居宣長と上田秋成について、『……宣長は下手な歌をむやみにたくさん作ったが、秋成はみごとな短篇小説集二冊を編んだ。……』と独自の視点で描く。そして現世では決して恵まれたとは言えなかった秋成については傑作「吉備津の釜」の最後の部分を引用して、『……けだしこの一条によっても「雨月物語」の作者の描写力を察するに足りよう。……』と褒めちぎる。
また夏目漱石は、実を言うと殆どの作品を40代に書いていることを指摘し、これらの作品が持つ多面性を示し、『……しかし作家漱石の力量は「、そのどの作品においてよりも、素材の上でも(中世ヨーロッパから日本の地方の中学校まで)、文章の上でも(極度に技巧的装飾的な文体から単純で明快な口語体まで)、内容の上でも(痛烈な風刺から青年の恋愛まで)、全く異なる作品を同時に書き得るその精神の多面性にあらわれていた……』と喝破する。そして漱石が英語のみならず、漢文にも精通し、本質的には詩人であったことを見抜く。また同時代の双璧である鷗外については「魔睡」、「青年」、「食堂」、「雁」、「百物語」、「かのやうに」、「花子」、「舞姫」、「ヰタ・セクスアリス」、「半口」、「沈黙の塔」、「妄想」を列挙して、『……その短篇または中篇小説が扱った同時代の人物の種類の豊富さと主題の多様性はおそらく日本の小説家のなかで前後に比類がない。……』と見抜く。
この他にも、多くの近現代作家について、深く鋭い描写を残してくれている。上下2巻で1,000ページを超える「序説」だが、時間とお金を割いて読んでも決して公開しない内容になっているのではないだろうか。
そして18世紀半ばから活躍した三浦梅園については、『……ほとんどヘーゲルの弁証法を思わせる。……』と述べ、その主著「玄語」について、『……おそらく空海の「十住心論」以来日本の思想家の著作で、抽象的な概念的秩序の構成が「玄語」ほどの完成度に達したものは、他にない。梅園が日本文学に加えた「美」は、実にその自然哲学的概念の建築的な美しさであった、といえるかもしれない。……』と手放しで称揚する。
また同時代の大阪に医者として生きた本居宣長と上田秋成について、『……宣長は下手な歌をむやみにたくさん作ったが、秋成はみごとな短篇小説集二冊を編んだ。……』と独自の視点で描く。そして現世では決して恵まれたとは言えなかった秋成については傑作「吉備津の釜」の最後の部分を引用して、『……けだしこの一条によっても「雨月物語」の作者の描写力を察するに足りよう。……』と褒めちぎる。
また夏目漱石は、実を言うと殆どの作品を40代に書いていることを指摘し、これらの作品が持つ多面性を示し、『……しかし作家漱石の力量は「、そのどの作品においてよりも、素材の上でも(中世ヨーロッパから日本の地方の中学校まで)、文章の上でも(極度に技巧的装飾的な文体から単純で明快な口語体まで)、内容の上でも(痛烈な風刺から青年の恋愛まで)、全く異なる作品を同時に書き得るその精神の多面性にあらわれていた……』と喝破する。そして漱石が英語のみならず、漢文にも精通し、本質的には詩人であったことを見抜く。また同時代の双璧である鷗外については「魔睡」、「青年」、「食堂」、「雁」、「百物語」、「かのやうに」、「花子」、「舞姫」、「ヰタ・セクスアリス」、「半口」、「沈黙の塔」、「妄想」を列挙して、『……その短篇または中篇小説が扱った同時代の人物の種類の豊富さと主題の多様性はおそらく日本の小説家のなかで前後に比類がない。……』と見抜く。
この他にも、多くの近現代作家について、深く鋭い描写を残してくれている。上下2巻で1,000ページを超える「序説」だが、時間とお金を割いて読んでも決して公開しない内容になっているのではないだろうか。
2014年7月28日に日本でレビュー済み
文学史というタイトルになっているが扱う内容は文学にとどまらない、農民一揆の檄文から、思想史の問題を論じ、思想史と文学論を通じて日本そのものを論じている。上巻同様、読むのに気後れがあったが、読み始めると面白くて一気に読んでしまった。とにかく面白い。この本によって読みたい本、また読み返したい本が飛躍的に増えてしまった。
ドナルド・キーンの『日本文学史』読んでいる最中である。それを読み終わらないうちに浮気してこの本を読み始めてしまった。しかしそれはよかったと思う。ドナルド・キーンと加藤周一の違いにより気づくことになったから。文章、文学作品を愛してひとつひとつ愛でるように読んでいくドナルド・キーンと、バサっと外科医のメスよろしく自分の概念装置や記号的解釈で文学作品を整理して自分の理論の中に位置づけてしまう加藤周一。読んでいるとなるほどそういう解釈が出来るか、そういう位置づけなのかと唸ってしまう内容が豊富に出てくる。
構造化と同時にこの人の特徴は比較の妙である。 豊富な教養で日本の文学と西洋の文学の全く関係ないと思うようなものを比較してみせ、なるほどたしかに似ていると思わせる。横の比較。歴史的に『古今集』と谷崎の『細雪』を比較して見せるような縦の比較。こういう比較がいろんな作品で縦横になされる。上田秋成と本居宣長の言っていることを比較してその類似性を見出したり、およそ違う意見の作家だと思っていたものが加藤周一の手によるとまるで別の側面が見えてきてはっとさせられる。
明治維新による文化の断裂よりも文学の継続性を強調する論旨も斬新に見えて楽しかった。
文学史を通じて日本の知識層がどのように権力と対峙してきたか、または阿ってきたかなども見るとことが出来、右傾化する現代日本人が読んでも示唆に富み、新しさを失わない本だと思った。
ドナルド・キーンの『日本文学史』読んでいる最中である。それを読み終わらないうちに浮気してこの本を読み始めてしまった。しかしそれはよかったと思う。ドナルド・キーンと加藤周一の違いにより気づくことになったから。文章、文学作品を愛してひとつひとつ愛でるように読んでいくドナルド・キーンと、バサっと外科医のメスよろしく自分の概念装置や記号的解釈で文学作品を整理して自分の理論の中に位置づけてしまう加藤周一。読んでいるとなるほどそういう解釈が出来るか、そういう位置づけなのかと唸ってしまう内容が豊富に出てくる。
構造化と同時にこの人の特徴は比較の妙である。 豊富な教養で日本の文学と西洋の文学の全く関係ないと思うようなものを比較してみせ、なるほどたしかに似ていると思わせる。横の比較。歴史的に『古今集』と谷崎の『細雪』を比較して見せるような縦の比較。こういう比較がいろんな作品で縦横になされる。上田秋成と本居宣長の言っていることを比較してその類似性を見出したり、およそ違う意見の作家だと思っていたものが加藤周一の手によるとまるで別の側面が見えてきてはっとさせられる。
明治維新による文化の断裂よりも文学の継続性を強調する論旨も斬新に見えて楽しかった。
文学史を通じて日本の知識層がどのように権力と対峙してきたか、または阿ってきたかなども見るとことが出来、右傾化する現代日本人が読んでも示唆に富み、新しさを失わない本だと思った。
2003年2月27日に日本でレビュー済み
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近現代では、誰を、何を選んで論ずるかがおもしろい。室生犀星、若山牧水を選ばずに萩原朔太郎、石川啄木を選ぶ。中村真一郎を選んで伊藤整は選ばない。徳富蘆花では「思出の記」を取り上げても「不如帰」には言及しないなど・・・。全部読むとその理由もみえてくる。ところで、上巻の序章は総論、下巻まで読んでからもう一度読むと本書の理解がビシッと決まる。学校の教科書の文学史がこんな風に個性的であればどんなに良いことか。