クロソウスキー「ニーチェと悪循環」
この書でクロソウスキーが描き出そうとしたニーチェ像は、「生の哲学」のニーチェではなく、偶然の戯れと、力と運動性のニーチェです。バタイユから連なるニーチェ受容の只中にありながら、ドゥルーズやフーコーへとつながるニーチェ論です。
・「運動性」の明示
言語や規則の背後には、偶然からなる力のぶつかり合う場があり、それは「状態」でしかない。その無定形から、形のある、言葉で理解出来る概念が形成されるのだが、それは、どんな方向にも向かい得るし、どんな形にもなり得る。クロソウスキーは、ニーチェ哲学から、「カオス」と「運動性」を明確に読み取る。
「あらゆる意味作用は、意味の発生源であるカオスの関数なのである」
「強度は、始まりも終わりもない動くカオスの支配下にある」
・「永劫回帰」で示されたヴィジョンの明示
「永劫回帰」によって、生成変化の偶然が繰り返されることになり、均衡が破壊され、意味と目標が振り落とされ、強度だけが明証性の保証である世界がヴィジョンとして現れて来る。
・ニーチェの狂気に対する一巻した解釈
晩年のニーチェが、自らをディオニュソス、十字架にかけられし者、などと名乗ったことを「偽装」のキーワードで、一貫して読み解いていくクロソウスキーの手業は、ニーチェの生涯を一つの伝記作品に仕上げていくかの観がある。
このクロソウスキーの「ニーチェと悪循環」、ドゥルーズの「ニーチェと哲学」、ハイデガーの「ニーチェ」、バタイユの「ニーチェ 幸運への意志」は、ニーチェを理解する上で必読の本だろう。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
ニーチェと悪循環 (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2004/10/7
ピエール・クロソウスキー
(著),
兼子 正勝
(翻訳)
- 本の長さ537ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2004/10/7
- ISBN-104480088792
- ISBN-13978-4480088796
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2004/10/7)
- 発売日 : 2004/10/7
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 537ページ
- ISBN-10 : 4480088792
- ISBN-13 : 978-4480088796
- Amazon 売れ筋ランキング: - 666,727位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 558位ドイツ・オーストリアの思想
- - 1,181位西洋哲学入門
- - 1,934位ちくま学芸文庫
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
星5つ中4.6つ
5つのうち4.6つ
9グローバルレーティング
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2005年1月8日に日本でレビュー済み
‘悪循環’とは、ニーチェの『善悪の彼岸』にある言葉だが、ヘーゲルが弁証法的循環との対比として論じた、悪循環の概念を示唆してもいるようだ。これは、本書が称賛するドゥルーズ著『ニーチェと哲学』の、反弁証法としてのニーチェ哲学に拠っている(他、ブランショの無限論とも通底するだろう)。永劫回帰の論証不可能性についての分析、これが本書の功績であり、また限界でもある。
本書の‘欲動の記号論’は一種の痕跡論として、デリダのエクリチュール論とも相通ずる。デリダをメディア論とすると、本書は思考の中を動く欲動を、肉感的なまでの絶妙なニュアンスをもって捉え、その的確さは(著者も個人的関係のあった)リルケにさえ劣らない。確かに、一個の奇蹟的著作ではある。
本書で最初に引用されるニーチェの文章は、精神の中で働き続ける概念、イメージ、感情のカオスから、精神が或る隣接関係、類似を見出す様子を描く。この中の‘類似’という言葉は、本書の鍵概念‘シミュラークル’との関係で捉えられるべきだろう。
しかし、訳注の≪本書における「力への意志」の概念には、日本語でいう「権力」のニュアンスがまったく含まれていない≫は、本書の内容に関してのみ正確なのだ。著者はニーチェの君主道徳、‘支配組織’の思想を、サドの犯罪愛好者協会のような妄想とし、支配そのもののシミュラークル或いはパロディとしてしまう。これは、倫理を超越論的なもの、語りえぬものとしたウィトゲンシュタイン的立場から見たニーチェだ(著者はウィトゲンシュタインの翻訳者であり、本書にもその影響が認められる)。また、精緻極まる‘フロイトとマルクス’的分析も、ニーチェの輪郭を見事に描き切る一方、著者がニーチェの思想そのものを生きていない証ともなっている。彼は、自らが告発する日常的記号のコードの陰画としてしか、ニーチェ像を描けていない。或いは、自らの欲動のシミュラークルとして。
本書の‘欲動の記号論’は一種の痕跡論として、デリダのエクリチュール論とも相通ずる。デリダをメディア論とすると、本書は思考の中を動く欲動を、肉感的なまでの絶妙なニュアンスをもって捉え、その的確さは(著者も個人的関係のあった)リルケにさえ劣らない。確かに、一個の奇蹟的著作ではある。
本書で最初に引用されるニーチェの文章は、精神の中で働き続ける概念、イメージ、感情のカオスから、精神が或る隣接関係、類似を見出す様子を描く。この中の‘類似’という言葉は、本書の鍵概念‘シミュラークル’との関係で捉えられるべきだろう。
しかし、訳注の≪本書における「力への意志」の概念には、日本語でいう「権力」のニュアンスがまったく含まれていない≫は、本書の内容に関してのみ正確なのだ。著者はニーチェの君主道徳、‘支配組織’の思想を、サドの犯罪愛好者協会のような妄想とし、支配そのもののシミュラークル或いはパロディとしてしまう。これは、倫理を超越論的なもの、語りえぬものとしたウィトゲンシュタイン的立場から見たニーチェだ(著者はウィトゲンシュタインの翻訳者であり、本書にもその影響が認められる)。また、精緻極まる‘フロイトとマルクス’的分析も、ニーチェの輪郭を見事に描き切る一方、著者がニーチェの思想そのものを生きていない証ともなっている。彼は、自らが告発する日常的記号のコードの陰画としてしか、ニーチェ像を描けていない。或いは、自らの欲動のシミュラークルとして。