フッサールは、現象学的還元というアプローチにより、認識や論理を可能にするメカニズムを解明し、形而上学から脱却しようと試みた。しかし、結果的に最後のところで形而上学から脱却できなかったことをデリダは指摘する。それだけでなく、どこでフッサールが間違えたのか、フッサールは何を問い損ねたのかを突き詰めようとする。
フッサールは、差異の戯れが生じる場として、言語の指標性と表現性という二つの機能が織りなすプロセスに着目しながらも、「孤独な心的生活」という虚構を想定することで、指標性を持たない(世界の多元性から切り離された)言語を登場させ、形相的本質を直接的に自己に現前させようとする。
デリダは、そうした錯覚を可能にした媒体が「声」であることを示唆しつつ、一方でそうした単純化が、フッサールの「時間化の運動」や「間主観性」に関する理論との間に矛盾を孕んでいることを指摘する。そして、より根源的な言語の差延機能をフッサールが問い損ねたことを明らかにする。
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声と現象 (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2005/6/8
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- 本の長さ334ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2005/6/8
- ISBN-104480089225
- ISBN-13978-4480089229
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2005/6/8)
- 発売日 : 2005/6/8
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 334ページ
- ISBN-10 : 4480089225
- ISBN-13 : 978-4480089229
- Amazon 売れ筋ランキング: - 247,250位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 177位フランス・オランダの思想
- - 223位ドイツ・オーストリアの思想
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- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2022年1月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2010年7月19日に日本でレビュー済み
デリダの『声と現象』は、すでに古典的名著としての地位を獲得している。
そして、現代のフッサール解釈はこの本が出発点になっているような向きもあるのは事実だ。
デリダの文章というのは「難解」で有名であるが、フッサールも別の意味で文章を読み取るのに骨が折れる。
デリダ自身もこの本に愛着を感じているように、ある意味デリダ思想が象徴的に垣間見える重要な本であると私も思う。
しかし、デリディアンがこの本を賞賛するようには、どうしても私には手放しの賞賛ができない。
何が原因か?
私にとって、デリダの師匠であるフッサール理解とその批判を展開している内容自体は、非常に読み応えがあり、デリダ自身の思想的基礎も分かるので実に有益な本であるとは思うのだが、そもそものところ、本書で書かれているような「フッサール」というのは存在しているのだろうか。
「私にとってのフッサール」は現前の形而上学などではなく、絶対的な「真理」を仮想しながら、それを追っていくというような思考をフッサールはしていないと思う。
フッサールの著作は難解であるし、何か「真理」のようなものを前提にして思想を展開しているように受け取られる下りは確かに見受けられるのだが、それはそういう「誤解」を招くような「表現」があるのであって、フッサール自身の思想はもっと「自由」なものであると、私は思っている。
そうなると、ここで、このフッサール理解の「出発点」から、そもそも私とデリダの見方は全く180度くい違ってしまう。
フッサールはそれまでの形而上学を超える視点を持った「自由」で「根源的」な思考方法であったからこそ、あのハイデガーの『存在と時間』に対して賛成しない立場をとったのだと思う。
まあ、ハイデガーについてはデリダも別の著作で批判しているので、ハイデガーについてはここまでにしておこう。
要するに私の意見としては、「そもそものフッサール理解が間違っている」ということだ。
だが、だからといって『声と現象』は駄目な本には決してなっていない。それはデリダが世にはびこってきた「現前の形而上学」という遺物から抜け出ようという大きな話を中心として論を展開しているからだ。
そういう意味では、ソール・A・クリプキの名著『ウィトゲンシュタインのパラドックス』と立場が似ているようにも思える。
クリプキも『ウィトゲンシュタインのパラドックス』で展開している考え方は、ウィトゲンシュタインの言説を巡って展開されてはいるが、多くの学者から指摘されているように、ウィトゲンシュタインはそういうことは言ってはいないのだ。しかし、名著足り得ている。
実はここまで私が書いてきたことは、ことデリダの思想を理解する上では非常に重要なことで、「出発点理解を捩じ曲げる」というのは、デリダが以降ずっと続けていった最重要な「エクリチュールの手法」であったということだ。
本書のあとに出された『グラマトロジーについて』もソシュールの誤解釈(パロール中心主義)による賜物であるし、『有限責任会社』にいたってはオースティンの言語行為論をこれまたご解釈というよりも、完全に意図的にすり替えて(バンヴェニスト著『一般言語学の諸問題』収録論文におけるオースティンをテーマにした論文をオースティン自身の論文としてすり替えた)、ジョン・サールとの論戦を誘発させて本を一冊作ってしまうという、実にあざやかな執筆手法も披露している。にもかかわらず、『グラマトロジーについて』も『有限責任会社』も非常に有益な本である。
こういうことが分かっていれば、よりデリダの「エクリチュール」と上手く、興味深く付き合えるものと、私には思えますが・・・。
そして、現代のフッサール解釈はこの本が出発点になっているような向きもあるのは事実だ。
デリダの文章というのは「難解」で有名であるが、フッサールも別の意味で文章を読み取るのに骨が折れる。
デリダ自身もこの本に愛着を感じているように、ある意味デリダ思想が象徴的に垣間見える重要な本であると私も思う。
しかし、デリディアンがこの本を賞賛するようには、どうしても私には手放しの賞賛ができない。
何が原因か?
私にとって、デリダの師匠であるフッサール理解とその批判を展開している内容自体は、非常に読み応えがあり、デリダ自身の思想的基礎も分かるので実に有益な本であるとは思うのだが、そもそものところ、本書で書かれているような「フッサール」というのは存在しているのだろうか。
「私にとってのフッサール」は現前の形而上学などではなく、絶対的な「真理」を仮想しながら、それを追っていくというような思考をフッサールはしていないと思う。
フッサールの著作は難解であるし、何か「真理」のようなものを前提にして思想を展開しているように受け取られる下りは確かに見受けられるのだが、それはそういう「誤解」を招くような「表現」があるのであって、フッサール自身の思想はもっと「自由」なものであると、私は思っている。
そうなると、ここで、このフッサール理解の「出発点」から、そもそも私とデリダの見方は全く180度くい違ってしまう。
フッサールはそれまでの形而上学を超える視点を持った「自由」で「根源的」な思考方法であったからこそ、あのハイデガーの『存在と時間』に対して賛成しない立場をとったのだと思う。
まあ、ハイデガーについてはデリダも別の著作で批判しているので、ハイデガーについてはここまでにしておこう。
要するに私の意見としては、「そもそものフッサール理解が間違っている」ということだ。
だが、だからといって『声と現象』は駄目な本には決してなっていない。それはデリダが世にはびこってきた「現前の形而上学」という遺物から抜け出ようという大きな話を中心として論を展開しているからだ。
そういう意味では、ソール・A・クリプキの名著『ウィトゲンシュタインのパラドックス』と立場が似ているようにも思える。
クリプキも『ウィトゲンシュタインのパラドックス』で展開している考え方は、ウィトゲンシュタインの言説を巡って展開されてはいるが、多くの学者から指摘されているように、ウィトゲンシュタインはそういうことは言ってはいないのだ。しかし、名著足り得ている。
実はここまで私が書いてきたことは、ことデリダの思想を理解する上では非常に重要なことで、「出発点理解を捩じ曲げる」というのは、デリダが以降ずっと続けていった最重要な「エクリチュールの手法」であったということだ。
本書のあとに出された『グラマトロジーについて』もソシュールの誤解釈(パロール中心主義)による賜物であるし、『有限責任会社』にいたってはオースティンの言語行為論をこれまたご解釈というよりも、完全に意図的にすり替えて(バンヴェニスト著『一般言語学の諸問題』収録論文におけるオースティンをテーマにした論文をオースティン自身の論文としてすり替えた)、ジョン・サールとの論戦を誘発させて本を一冊作ってしまうという、実にあざやかな執筆手法も披露している。にもかかわらず、『グラマトロジーについて』も『有限責任会社』も非常に有益な本である。
こういうことが分かっていれば、よりデリダの「エクリチュール」と上手く、興味深く付き合えるものと、私には思えますが・・・。
2016年7月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
やばいところまで連れて行ってくれる。自分の体験と相まって、まだ見たことのない平野が眼前に開けた感じです。
2007年8月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
林好雄訳『声と現象』は、日本語がこなれており、訳注が非常に充実している。現象学に即した解説は特に裴益するところが大きい。デリダのテキストを読むことはかなりの難業であるが、その労苦を相当減じてくれる訳書であると言いうる。さて、すでに、高橋允昭訳『声と現象』が、原著の出版後わずか3年の1970年に出されているが、林訳は、高橋訳の不足を――高橋訳に不足があればの話だが――補ったのであろうか。実は、最初の1ページから、高橋訳と林訳の間には、語学的な解釈の違いが存在している。林訳が「志向的あるいはノエマ的意味という概念」としたところは、高橋訳では「志向的ないしノエマ的な方向の諸概念」となっている。原文を見るかぎり、30数年前の高橋訳が正しいようだ。新しいものが常にいいとは限らない。
2018年10月4日に日本でレビュー済み
この本の読者の方、ところで「論理学研究」をちゃんと読みましたか?こちらは字面を追っていても、読めない本なのでどうぞ苦労しながら読んでみてください。この問いかけで、現代思想界隈のウザい連中は大半が死滅することになるでしょうか...
同書は当時の論理学研究における所謂、反形而上学的傾向を取り扱った著作なのだと私は理解していますが(暫定的にです)、これをもってフッサールが反形而上学的な立場だったとは必ずしも言えないというのが少々ややこしいのです。
そうですね...これはフッサール自身には正確には当てはまらないのですが(影響を受けた程度と言えばいいのでしょうか...)、例えば反形而上学を批判する人の「反形而上学」は本当の意味での反形而上学なのでしょうか?フッサール批判だけでなく当時の形而上学批判ということであれば、一応ハイデッガーがデリダの前に既に仕事を終えているみたいですよっ?
ちょっと古いですが、グロックナー的なストイックさがないと哲学は理解できませんね...哲学書読むのが好きだと、いろいろな勘違いをされるのですが、心身の健康を保って基礎的な文献にきちんとあたることと、デカルト的な方法論を徹底し、さらに自分でそれを改良することが大事なのだと痛感させられます。
コツとしてはブックガイドなどで紹介されている通俗的な解説で納得しないで、原著を批判的に読んで内容を吟味することが大事です。その過程で、著者の思考態度を模倣するという実験も避けて通れないでしょう。フランス現代思想が好きならそれでもいいですが、人の道から遠ざかる傾向があることを、ここに記しておきます。生の哲学における「超越」という概念を誤解した人がアカデミズムの保護の外に出るとどうなるのかということは口外しないでおきますが、そのような考え方に支配された人間は一種の病人です。
同書は当時の論理学研究における所謂、反形而上学的傾向を取り扱った著作なのだと私は理解していますが(暫定的にです)、これをもってフッサールが反形而上学的な立場だったとは必ずしも言えないというのが少々ややこしいのです。
そうですね...これはフッサール自身には正確には当てはまらないのですが(影響を受けた程度と言えばいいのでしょうか...)、例えば反形而上学を批判する人の「反形而上学」は本当の意味での反形而上学なのでしょうか?フッサール批判だけでなく当時の形而上学批判ということであれば、一応ハイデッガーがデリダの前に既に仕事を終えているみたいですよっ?
ちょっと古いですが、グロックナー的なストイックさがないと哲学は理解できませんね...哲学書読むのが好きだと、いろいろな勘違いをされるのですが、心身の健康を保って基礎的な文献にきちんとあたることと、デカルト的な方法論を徹底し、さらに自分でそれを改良することが大事なのだと痛感させられます。
コツとしてはブックガイドなどで紹介されている通俗的な解説で納得しないで、原著を批判的に読んで内容を吟味することが大事です。その過程で、著者の思考態度を模倣するという実験も避けて通れないでしょう。フランス現代思想が好きならそれでもいいですが、人の道から遠ざかる傾向があることを、ここに記しておきます。生の哲学における「超越」という概念を誤解した人がアカデミズムの保護の外に出るとどうなるのかということは口外しないでおきますが、そのような考え方に支配された人間は一種の病人です。
2015年2月19日に日本でレビュー済み
デリダが、フッサールの現象学について、すべてをカッコにいれようとして、じつはそうはなってはいないことを、
フッサールの文章についての詳細な分析をもとに論じている、
デリダは『言葉によって』という別な本の中では、
自らの思想形成において、フッサールに多くを負っていることを、素直に語っている。
それを知ってからこの本を読み返してみると、デリダのフッサールへの感謝の気持ちが、隠されているように思えてきた。
フッサールの文章についての詳細な分析をもとに論じている、
デリダは『言葉によって』という別な本の中では、
自らの思想形成において、フッサールに多くを負っていることを、素直に語っている。
それを知ってからこの本を読み返してみると、デリダのフッサールへの感謝の気持ちが、隠されているように思えてきた。
2007年2月12日に日本でレビュー済み
これは「素」のデリダです。パフォーマーとしてのデリダ以前の「素」。
ゆっくり丹念に読むと、彼の「鬼面人を驚かす」様々な操作子がどうつくられていったかが、よく分かります。
その意味で、寝ながら読める文庫になったのは、大変貴重です。
ありがとう、ちくまさん、はやしさん。
ゆっくり丹念に読むと、彼の「鬼面人を驚かす」様々な操作子がどうつくられていったかが、よく分かります。
その意味で、寝ながら読める文庫になったのは、大変貴重です。
ありがとう、ちくまさん、はやしさん。