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ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫 ノ 3-1) 文庫 – 2006/4/10
野矢 茂樹
(著)
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- 本の長さ382ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2006/4/10
- ISBN-104480089810
- ISBN-13978-4480089816
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2006/4/10)
- 発売日 : 2006/4/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 382ページ
- ISBN-10 : 4480089810
- ISBN-13 : 978-4480089816
- Amazon 売れ筋ランキング: - 61,867位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 73位ドイツ・オーストリアの思想
- - 138位西洋哲学入門
- - 195位ちくま学芸文庫
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年10月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
哲学を言語問題と捉えて、一旦は哲学を終わらせた人間の本の解説書。東大哲学科院の内容をまとめた物です。
2021年7月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
近づき難いウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』について、全てが一から丁寧に説明されていて、とてもよかったです。こういう書物を求めていました。正直に言うと一度読んだだけでは理解しきれない部分もありましたが、こういう性格の本は何度も読み返すことで味が出てくるものだと思います。定期的に読み返し、少しずつウィトゲンシュタインの世界に慣れ親しんでいきたいと思います。
2021年5月5日に日本でレビュー済み
「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」という記述の「もの」の一例は「人生の意義」と解釈しました。つまり人生の意義を考えるのではなく沈黙するべきということです。沈黙する代わりに「幸福に生きよ!」とヴィトゲンシュタインは答えているのだと思います。人生を生きることは論理空間内での反復で退屈だが、幸福を追い求めることはできるという考えが論理哲学論考の真理だと解釈しました。その一方で、著者はその真理を発展させ、「語り得ぬものについては、語り続けなければならない」、つまりは他者を語ることで自身の論理空間を広げ、論理空間の外側の幸福に近づけることこそが幸福になると考えているようです。しかしながら、語るということは言語を用いる行為ですので、それでは論理空間から出ることは難しく、幸福の真理には辿りつけないのではないかと考えました。そこで私は「語り得ぬものについては捉え続けなければならない。」という解釈の方が私の中ではすっきりしました。
初めての哲学書(入門書ですが)のため、著者の解釈とずれているかもしれませんが、私としては自身の論理空間が広がり幸福な読書でした。オススメです。
初めての哲学書(入門書ですが)のため、著者の解釈とずれているかもしれませんが、私としては自身の論理空間が広がり幸福な読書でした。オススメです。
2020年11月20日に日本でレビュー済み
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言語の限界こそ思考の限界である
2016年10月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は教養として論理学(命題論理や述語論理)を学んでいた。そして、論理学とは、確かに論理的ではあるが、記号を操るだけの味気がない・無味乾燥な学問であるという印象を持っていた。しかし、「論考」および本書によって、論理学の印象が完全に書き換えられた。
今の私には、命題をあらわす P という一文字からでさえ、色鮮やかで生き生きとした哲学的洞察・苦悩を読み取ることができるし、大きく広がる論理空間におけるその真理条件・真理領域を感じることができる。論理記号列というインクの染み、そのものを事実として受け止めて、その写像形式を汲み取り、それらによって映し出される世界を体感することができる。
哲学的素養がない私でも本書があれば「論考」を読めた。そして何より論理学が好きになれた。著者には感謝してもしきれない。
今の私には、命題をあらわす P という一文字からでさえ、色鮮やかで生き生きとした哲学的洞察・苦悩を読み取ることができるし、大きく広がる論理空間におけるその真理条件・真理領域を感じることができる。論理記号列というインクの染み、そのものを事実として受け止めて、その写像形式を汲み取り、それらによって映し出される世界を体感することができる。
哲学的素養がない私でも本書があれば「論考」を読めた。そして何より論理学が好きになれた。著者には感謝してもしきれない。
2019年10月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
語り方が独特な論理哲学論考を読みやすく簡略化、再編した作品
初見で論考のみを読むのは難しいと感じ解説書を欲する人には是非勧めたい
ただ、良くも悪くも哲学者"野矢茂樹"の思想が混ざり合っている側面がある
そのため純粋なウィトゲンシュタインの論理哲学論考の副読本ではない
なので"論考に興味があるけど難しそうだからなぁ"と考えている入門者のみ必見
そこまで哲学書らしい難解さはないので初めて読む哲学書としてもそこまで的外れではない
初見で論考のみを読むのは難しいと感じ解説書を欲する人には是非勧めたい
ただ、良くも悪くも哲学者"野矢茂樹"の思想が混ざり合っている側面がある
そのため純粋なウィトゲンシュタインの論理哲学論考の副読本ではない
なので"論考に興味があるけど難しそうだからなぁ"と考えている入門者のみ必見
そこまで哲学書らしい難解さはないので初めて読む哲学書としてもそこまで的外れではない
2022年9月1日に日本でレビュー済み
「(哲学)問題(のすべて)はその本質において最終的に解決された」
「本書に表された思想が真理であることは侵しがたく決定的であると思われる」
1922年に出版された『論理哲学論考』の序文で、当時29歳だったウィトゲンシュタインはそう言い放っている。その言葉が間違っていたことを後にウィトゲンシュタイン本人が認めることになるとは言え、当時のウィトゲンシュタインがこれだけ強気に哲学のコンプリートを宣言できたのは、本書が思考の限界を、正確には言語の限界を画定しえたと信じていたがためにほかならない。
思考の限界を思考することはできない。なぜか。思考の限界を画定するということは、思考できるものと思考できないものを峻別するということである。しかし両者のあいだに境界線を引くためには、双方を俯瞰する見地に立たねばならない。自国と隣国のあいだに国境線を引くためには、両国を俯瞰する立場に立たなければならないのと同じように。しかし思考できるものはともかく、思考できないものを思考することは矛盾でしかない。よって思考の限界は思考できない。
ならば言語の限界はどうか。思考の限界と言語の限界は一致するのではないか。
世界は事実の総体であって物の総体ではない(「事的世界観」!)。事実には、成立している事実(現実)と可能的な事実(事態)がある。現実性から可能性を開くのは言語であり、両者をカバーする「成立しうることの総体」をウィトゲンシュタインは論理空間と呼ぶ。よって論理空間を画定できれば思考の限界も画定できる。ウィトゲンシュタインはそう考えた(余談ながらウィトゲンシュタインにとって現実は論理空間の一部であるが、入不二哲学においては論理空間もまた現実の一部ということになるだろう)。
さらにウィトゲンシュタインは言う。「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」と。それゆえ「独我論の言わんとするところはまったく正しい」ことになる。
「私の世界の限界」=「世界の限界」というところまでは野矢も認める。しかし次の一歩「世界は私の世界である」というウィトゲンシュタインの主張を野矢は認めない。なぜか。「世界」と「世界の限界」は同じではないからである。
世界の限界とは論理空間のことであるが、世界とは論理空間の中の現実化した一部に過ぎない。さらに私の世界は現実世界のほんのささやかな一部分でしかない。「私の世界の限界」と「世界の限界」が一致するからといって、「私の世界」と「世界」が一致することにはならない。外延が一致するからと言って、内包が一致するとは限らないように。そう野矢は主張し、独我論を退ける。
論理空間を開く言語、すなわち語るという営みは、あくまでも時間的なものである。『論理哲学論考』においては、その時間性が確信犯的に無視されている。後に書かれることになる『哲学探究』へのウィトゲンシュタイン哲学の変遷を、野矢が「空間から時間へ」という言葉で総括しているのもそのためであろう。同著者による「ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い」と併せて読みたい一冊である。
「本書に表された思想が真理であることは侵しがたく決定的であると思われる」
1922年に出版された『論理哲学論考』の序文で、当時29歳だったウィトゲンシュタインはそう言い放っている。その言葉が間違っていたことを後にウィトゲンシュタイン本人が認めることになるとは言え、当時のウィトゲンシュタインがこれだけ強気に哲学のコンプリートを宣言できたのは、本書が思考の限界を、正確には言語の限界を画定しえたと信じていたがためにほかならない。
思考の限界を思考することはできない。なぜか。思考の限界を画定するということは、思考できるものと思考できないものを峻別するということである。しかし両者のあいだに境界線を引くためには、双方を俯瞰する見地に立たねばならない。自国と隣国のあいだに国境線を引くためには、両国を俯瞰する立場に立たなければならないのと同じように。しかし思考できるものはともかく、思考できないものを思考することは矛盾でしかない。よって思考の限界は思考できない。
ならば言語の限界はどうか。思考の限界と言語の限界は一致するのではないか。
世界は事実の総体であって物の総体ではない(「事的世界観」!)。事実には、成立している事実(現実)と可能的な事実(事態)がある。現実性から可能性を開くのは言語であり、両者をカバーする「成立しうることの総体」をウィトゲンシュタインは論理空間と呼ぶ。よって論理空間を画定できれば思考の限界も画定できる。ウィトゲンシュタインはそう考えた(余談ながらウィトゲンシュタインにとって現実は論理空間の一部であるが、入不二哲学においては論理空間もまた現実の一部ということになるだろう)。
さらにウィトゲンシュタインは言う。「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」と。それゆえ「独我論の言わんとするところはまったく正しい」ことになる。
「私の世界の限界」=「世界の限界」というところまでは野矢も認める。しかし次の一歩「世界は私の世界である」というウィトゲンシュタインの主張を野矢は認めない。なぜか。「世界」と「世界の限界」は同じではないからである。
世界の限界とは論理空間のことであるが、世界とは論理空間の中の現実化した一部に過ぎない。さらに私の世界は現実世界のほんのささやかな一部分でしかない。「私の世界の限界」と「世界の限界」が一致するからといって、「私の世界」と「世界」が一致することにはならない。外延が一致するからと言って、内包が一致するとは限らないように。そう野矢は主張し、独我論を退ける。
論理空間を開く言語、すなわち語るという営みは、あくまでも時間的なものである。『論理哲学論考』においては、その時間性が確信犯的に無視されている。後に書かれることになる『哲学探究』へのウィトゲンシュタイン哲学の変遷を、野矢が「空間から時間へ」という言葉で総括しているのもそのためであろう。同著者による「ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い」と併せて読みたい一冊である。
2004年1月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
とてもよい解説書だと思う。導入にもあるように、これは著者が東大大学院で三年もの長きに渡ってゼミで積み重ねてきたことの集大成である。併せて岩波文庫から出ている著者が翻訳した「論考」も併読すべきだろう。「論考」の間違っている部分も丁寧に拾い出し、修正を加えている。またその間違っている部分がどの程度の影響に留まるのかという検証もされていて好意的。ただし、これが「論考」の唯一の解釈であるというわけではないし、著者の狙いもそこではないだろう。あえて苦言をいわせてもらえば、野矢オリジナル「私の論理哲学論考」的色合いが強い部分があり、人によってはその分評価が別れるだろう。また「論理哲学論考」の格好良さは私も認めるが、それへのオマージュともうけとれる野矢氏の格好の付け方(とくに『はじめに』と『あとがき』)が成功しているかどうか、これは読む人のお楽しみ。瑣末なことだが、13章「死について、幸福について」における「論考6.4」以下の解釈は冗長すぎる。というか他の章に比べて切れ味がよくない(読み物としては面白い)。とくに、倫理は超越論的であるというウィトゲンシュタインの言葉にはきっと「論理哲学論考」というタイトルを決めたといわれているムーアや、初期のラッセルの影響が多少なりともあったはずなのだが触れられていない。(あったと思う私のほうこそ素人なのかもしれないが...いやむしろそういった背景的な影響を排し、極力ウィトゲンシュタインの言説内部からえぐるように言葉を探しだしてくるという営為だとしたら、それはそれで素晴らしい。)ここはひとつ勝手な願いだが、13章のように倫理を巡る問題については、後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を踏まえた上で、もう一度解説を願いたいと思う。近い将来「『哲学探究』を読む(野矢茂樹著)」が出てくることを願って四つ星。