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相対主義の極北 (ちくま学芸文庫 イ 38-1) 文庫 – 2009/1/7
- 本の長さ363ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2009/1/7
- ISBN-104480091955
- ISBN-13978-4480091956
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2009/1/7)
- 発売日 : 2009/1/7
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 363ページ
- ISBN-10 : 4480091955
- ISBN-13 : 978-4480091956
- Amazon 売れ筋ランキング: - 511,259位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
1958年11月11日生まれ。
神奈川県立湘南高等学校卒。東京大学文学部哲学科卒。同大学院人文科学研究科博士課程単位取得。
山口大学助教授を経て、現在、青山学院大学教育人間科学部心理学科教授(専攻は哲学)。
主に「私」論・相対主義論・時間論・運命論等を題材に哲学している。51歳でレスリングを始め、52歳で試合デビューも果たす。(日本レスリング協会公式サイト・【全日本マスターズ選手権・特集】(2013年)を参照 http://www.japan-wrestling.jp/2013/01/14/25103/)、
57歳で公式戦の初勝利をフォール勝ちで飾る(全日本マスターズレスリング選手権大会)。
2016年度より青山学院大学レスリング部部長。全日本マスターズレスリング連盟理事。
個人wiki:http://seesaawiki.jp/w/irifuji/
(photo左:大学卒業アルバム用撮影 中央:2011年全日本マスターズレスリング選手権大会 右:akiyama yuki)
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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そういう意味ではまさに「私たち」の存在が無限の反復の中に存在するという本書の主張の延長線上にある感想となってしまった。
「私たち」という絶対的な存在が立ち現れるという事をイメージする為には、その背後に無限の論理的反復による宇宙が存在し、その無限に生まれては消える反復こそ「私たち」という絶対的な存在の源になっているのではないか、という風に咀嚼してみた。
私は本書が文庫化されていて本当に良かったと思う。それは解説がついてるからだ。解説が良い本はそれだけで読むに値すると思う。
その無限後退では、無限後退しているという状態を考察できる。
さらにその先には、あるともないともいえない。認知すら出来ない極北がある
なお、相対主義は主観(個人)に対する相対ではなく、認知の枠組みに対して相対と考えるべき
同様な極限を実存に対しても考えると同じように、認知すらできな状態が想定される。
実存と相対主義に共通する状態になる。
の問題を考えたことのある人ならば、一度は到着する立場だと思い
ます。
そうして、もう少し深く考えた人は「自己言及性」「再帰性」とい
った問題を考え始めるんじゃないかと思います。
だいたいこの辺までは、ちょっと内向的な少年少女なら、一度は考
える青春のテーマ(Wなのだと思います。
その後は、本格的に論理学や言語哲学へ突き進む人も中にはいるか
もしれませんが、普通の人は「人の考えはそれぞれだよなあ」とか
なんとかいって、まずは一区切りつけ、考えることをやめるわけで
す。
本書はさらにその先にこだわった本です。
そういう意味では、著者は皆がとうにやめてしまった遊びを、みん
なにかわってずっと続けてきて、大人になった今でもなお極めてく
れているわけです。
本書はその鍛錬の中間報告になります。
是非、読んでみて下さい。
「あらゆる真理は相対的である」という相対主義の考え方を、相対主義自身に適用するとどうなるか。相対主義もまた相対的にのみ真であるということになってしまい、自己論駁に陥るのではないか。
ここで「枠組み」という概念が重要になってくる。「Sは枠組みXにおいては真であり、枠組みYにおいては偽である」という主張が成り立つためには、枠組みXでも枠組みYでもない、両者を俯瞰する枠組みZが必要であろう。しかしその枠組みZが絶対的であるということは相対主義に反する。一方で枠組みZもまた相対的であるとするならば、落差は反復され枠組みは完結しない。
かくして相対化の徹底によって枠組みは無限に更新され蒸発する。だがそのような枠組みを超越した観点が一つだけ残る。それは「私たち」である。いかなる枠組みもそれが枠組みとして認知される以上は、それを認知する「私たち」がいなければならない。枠組みの外延を国境線に例えるならば、「私たち」の外延は無限に後退する地平線になぞらえることができる。
そのような「私たち」にも、しかし外部が存在する可能性を入不二は指摘する。それはもはや地平線から離れた宇宙のような最果ての地、「ない」よりもっと「ない」こと、「私たち」の未出現(BEFORE WE ACCEPT)である。――無をあくまでも存在の否定形としてとらえた自由論者サルトルが、外部によって形成される「われわれ」を主張したのに対し、無限に拡張する「私たち」を提唱する入不二が、その後運命論を語り始めることになるのは興味深い。
次著『時間は実在するか』(講談社現代新書)と並んで、日本哲学界の独創的古典として残るべき名著である。読者を選ぶメタフィジカルな哲学書ではあるが決して難解ではなく、読破に自信のない読者には野矢茂樹氏による素晴らしい解説からまず読むことをお薦めしたい。
相対主義は、それを主張する相対主義者をも相対化してしまうので、相対主義は無限後退に陥る。
ここまではありがちな話である。
だが、筆者はこの「無限後退=外側のない枠組構造」に着目し、延々掘り下げていく。
これまたよくある相対主義の議論で、実在論の問題がある。
実在論には、実在が認識に依存しているという形の実在論と、実在は我々の認識から完全に切り離されて独立に存在するという実在論がある。(後者が狭い意味での実在論と
なる)
一見後者の実在論の方が素朴だが、この実在論は「我々の認識」と「実在」の距離を限りなく遠ざけてしまう。
さて、この無限後退によって、「私達として想定不可能であるもの」「「私達として想定不可能であるもの」であることを想定不可能であるもの」「「私達として想定不可能であるもの」であることを想定不可能であるもの」であることを・・・」として繰り返していった、その最果てこそが、上記の「実在」がある。
かくして、相対主義の極北と実在論が一致する、という話である。
個人的には「実在」概念の取り扱いがいささか気にはなるが、非常にスリリングで鋭く興味深い論考である。
極限操作の詰めの部分で,数理論理学にある自然数構築の手続きと,ペンローズの議論をうまくパクッて,アナロジー・図式化で逃げているというところに抵抗があります.
著者も含めて,日本人の哲学者の研究レベルは,国際的にはどの程度なんでしょう.そもそも,哲学研究に国際性というのは,ありえないんでしょうか.著者が滞米中に書かれたものがベースなようですが,欧米人はこれをどう見たのでしょうか?少し気になります.
とにかく,哲学に関しては,なんとなく「輸入超過」という気がしたものですから・・・・