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維新の夢 渡辺京二コレクション[1] 史論 (ちくま学芸文庫 ワ 11-2 渡辺京二コレクション 1 史論) 単行本 – 2011/6/10
渡辺 京二
(著)
半世紀の仕事のエッセンスを集成。Ⅰでは近代主義と対峙した稀有な思想家・北一輝と宮崎滔天を中心に、日本近代の逆説の構造に迫る。
- 本の長さ512ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2011/6/10
- ISBN-104480093796
- ISBN-13978-4480093790
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2011/6/10)
- 発売日 : 2011/6/10
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 512ページ
- ISBN-10 : 4480093796
- ISBN-13 : 978-4480093790
- Amazon 売れ筋ランキング: - 554,640位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年7月3日に日本でレビュー済み
渡辺京二さんは、私が注目している在野の歴史研究家、思想家の一人だ。渡辺さんの論考を読んでいると、多少色合いが違うわけだけど、何となく吉本隆明さんを彷彿とさせる。ともにアカディズムと距離を置いた位置から己の思弁を発信しているのだが、それだけに既成の通念等を卓袱台返しする、まさに目から鱗が落ちるような論理を展開している。このコレクションでも、明治維新に始まる日本の近代に焦点を当てつつ、その「近代化」の過程で、特異な光芒を放つ西郷南洲(隆盛)や北一輝などの思想に肉薄している。
まず、何と言っても説得的だったのは西郷南洲論であった。とりわけ、明治10年の西南戦争は、私にとって謎の一つであった。確かに、江藤淳さんの『 南洲残影 』といった高著もあるのだが、「鎮魂歌」という意味合いは分かるとしても、“「西郷南洲」という思想”を十分に解き明かしたのか、という点においては、私は些か不満が残った。無論、「不平士族の反乱」といった俗説はもとより論外だ。その明治10年戦争を「わが近代史の巨大な逆説」と喝破し、「維新革命」に次ぐ「第二革命」と指称した渡辺さんの推断には敬服する。
また、“「西郷南洲」という思想”の原点の一つを西郷の流島体験に求め、「南島における西郷について重要なのは、彼が島人に何を与えたかということではなく、島人から何を与えられたのか」という問題設定を行ったのは炯眼という以外にない。“「西郷南洲」という思想”に最も近づいたのが『 明治十年丁丑公論 』を著した福沢諭吉であろうが、この明治10年戦争を「第二革命の敗北」として捉えたのが彼の北一輝であった。そして、北は「西郷を維新革命のトロツキーに擬している」のであり、この辺りも渡辺さんの面目躍如だ。
渡辺さんの北一輝論については、まさしく 同名の著述 を相当読み込まねばならないのだけど、残念ながら私はまだそこまで到っていない。しかしながら、本書所載の「北一輝問題」などを読めば、渡辺さんの北一輝論の輪郭は掴めると思われる。渡辺さんの洞察に従えば、北一輝こそ「まさしくおくれて登場した維新革命のトロツキー」であったのだ。ここに明治維新(維新革命)とその後を「裏切られた革命」と認識する西郷と北の共通項を見る。北一輝などに関しても、渡辺さんの透徹した論弁が貫かれ、大いに興味が惹かれる。
Amazonで購入
渡辺京二さんは、私が注目している在野の歴史研究家、思想家の一人だ。渡辺さんの論考を読んでいると、多少色合いが違うわけだけど、何となく吉本隆明さんを彷彿とさせる。ともにアカディズムと距離を置いた位置から己の思弁を発信しているのだが、それだけに既成の通念等を卓袱台返しする、まさに目から鱗が落ちるような論理を展開している。このコレクションでも、明治維新に始まる日本の近代に焦点を当てつつ、その「近代化」の過程で、特異な光芒を放つ西郷南洲(隆盛)や北一輝などの思想に肉薄している。
まず、何と言っても説得的だったのは西郷南洲論であった。とりわけ、明治10年の西南戦争は、私にとって謎の一つであった。確かに、江藤淳さんの『 南洲残影 』といった高著もあるのだが、「鎮魂歌」という意味合いは分かるとしても、“「西郷南洲」という思想”を十分に解き明かしたのか、という点においては、私は些か不満が残った。無論、「不平士族の反乱」といった俗説はもとより論外だ。その明治10年戦争を「わが近代史の巨大な逆説」と喝破し、「維新革命」に次ぐ「第二革命」と指称した渡辺さんの推断には敬服する。
また、“「西郷南洲」という思想”の原点の一つを西郷の流島体験に求め、「南島における西郷について重要なのは、彼が島人に何を与えたかということではなく、島人から何を与えられたのか」という問題設定を行ったのは炯眼という以外にない。“「西郷南洲」という思想”に最も近づいたのが『 明治十年丁丑公論 』を著した福沢諭吉であろうが、この明治10年戦争を「第二革命の敗北」として捉えたのが彼の北一輝であった。そして、北は「西郷を維新革命のトロツキーに擬している」のであり、この辺りも渡辺さんの面目躍如だ。
渡辺さんの北一輝論については、まさしく 同名の著述 を相当読み込まねばならないのだけど、残念ながら私はまだそこまで到っていない。しかしながら、本書所載の「北一輝問題」などを読めば、渡辺さんの北一輝論の輪郭は掴めると思われる。渡辺さんの洞察に従えば、北一輝こそ「まさしくおくれて登場した維新革命のトロツキー」であったのだ。ここに明治維新(維新革命)とその後を「裏切られた革命」と認識する西郷と北の共通項を見る。北一輝などに関しても、渡辺さんの透徹した論弁が貫かれ、大いに興味が惹かれる。
2013年3月18日に日本でレビュー済み
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本書に収録された西郷隆盛論ほど読み応えのある文章は少ない。実は、西郷隆盛の精神の魅力を描いた評論はありそうで少ない。重厚な人間性、清濁併せ呑む心、武士道精神、士族に準じた悲劇の英雄などといった紋切り型のせりふで西郷を論じたつもりのものがほとんどである。もっと酷い場合は、坂本龍馬ら「開明的」志士の引き立て役とし、度量は広いが思想も何もない人物として描かれることすらある。保守派と称される人々の西郷論で、私は感銘を受けたことはほとんどない。
数少ない例外は、ユニークな神道思想家、葦津珍彦「永遠の維新者」である。ここで葦津は、西郷の本質は幕末の活躍ではなく、明治維新後の明治政府への抵抗であったことを鋭く見抜いている。また、西南戦争における西郷の姿勢が、従来の「弟子達に身を委ねて死を覚悟した」などというもっともらしいものではなく、あくまで勝利を目指したが、戦略上の失敗によって敗れ、潔く死を選んだ戦闘者のそれだったことを明らかにしている。これは単なる保守ではなく、神道思想史家として明治維新や民族主義思想・運動を多角的に捉えることが出来た葦津の卓見であった。
そして、渡辺京都二が本書「維新の夢」で描く西郷像は、葦津の論以上に、明治国家、いや近代国民国家の理念に対する最大の抵抗者の姿を明らかにする。
西郷は明治維新の指導者のうち、ただ一人、近代国家の建設ではなく、政治権力と最も遠いところで生を受け、人知れず死んでいく民の存在を自らの思想の原点としていた。この姿勢は、渡辺氏によれば西郷の遠島体験に深く根ざしている。西郷の二度目の遠島は寺田屋の変が原因だった。革命のために死地に赴こうとする尊攘過激派を平然と切り捨てた島津久光ら薩摩藩権力に対する不信感は、純粋な革命派は時の権力化、もしくは革命政権後の権力によって必ず抹殺されるだろうという政治的確信を西郷に与えた。
死者の無念と共闘することを望み「馬鹿らしき忠義立ては取り止め申し候」と、政治権力の論理を拒否したときに西郷に見えたものが、遠島の地での民の生であり「大地の片隅でひっそりと誰ひとり知られずに過ごされる一生、天意はまさにこのような生と合致し、革命はまさにそのような規定の上に立ってのみ義」であるという確信だったのだと渡辺氏は述べる。西郷にとって、幕末の様々な政治的活動は所詮「役割」を果たしたに過ぎなかった。彼の本当の戦う相手は幕府ではなく、明治政府が導入する近代国家だったのである。
西郷が鹿児島で行った様々な藩政改革、また征韓論争での彼のスタンスは、いずれも、明治国家の路線とは異なる、もう一つの近代、もう一つの日本を作り出そうという試みであった。西郷の理想は明治革命戦争を戦い覚醒した革命兵士と、江戸時代の共同体を維持している農村とのコミューンだった。
植民地を争って力と力がぶつかり合っていた列強の帝国主義体制下の時代に、そのような共同体に根ざした国家の建設がいかに非現実的に見えたからといって、このような夢を見ずに入られなかった西郷の思想に、渡辺氏は深い共感を隠そうとしない。この西郷と革命軍兵士にとって西南戦争とは、あくまで明治政府に対する革命戦争であった。「裏切られた革命」明治と戦った西郷の姿を、これほど説得力ある文章で論じたものはない。
数少ない例外は、ユニークな神道思想家、葦津珍彦「永遠の維新者」である。ここで葦津は、西郷の本質は幕末の活躍ではなく、明治維新後の明治政府への抵抗であったことを鋭く見抜いている。また、西南戦争における西郷の姿勢が、従来の「弟子達に身を委ねて死を覚悟した」などというもっともらしいものではなく、あくまで勝利を目指したが、戦略上の失敗によって敗れ、潔く死を選んだ戦闘者のそれだったことを明らかにしている。これは単なる保守ではなく、神道思想史家として明治維新や民族主義思想・運動を多角的に捉えることが出来た葦津の卓見であった。
そして、渡辺京都二が本書「維新の夢」で描く西郷像は、葦津の論以上に、明治国家、いや近代国民国家の理念に対する最大の抵抗者の姿を明らかにする。
西郷は明治維新の指導者のうち、ただ一人、近代国家の建設ではなく、政治権力と最も遠いところで生を受け、人知れず死んでいく民の存在を自らの思想の原点としていた。この姿勢は、渡辺氏によれば西郷の遠島体験に深く根ざしている。西郷の二度目の遠島は寺田屋の変が原因だった。革命のために死地に赴こうとする尊攘過激派を平然と切り捨てた島津久光ら薩摩藩権力に対する不信感は、純粋な革命派は時の権力化、もしくは革命政権後の権力によって必ず抹殺されるだろうという政治的確信を西郷に与えた。
死者の無念と共闘することを望み「馬鹿らしき忠義立ては取り止め申し候」と、政治権力の論理を拒否したときに西郷に見えたものが、遠島の地での民の生であり「大地の片隅でひっそりと誰ひとり知られずに過ごされる一生、天意はまさにこのような生と合致し、革命はまさにそのような規定の上に立ってのみ義」であるという確信だったのだと渡辺氏は述べる。西郷にとって、幕末の様々な政治的活動は所詮「役割」を果たしたに過ぎなかった。彼の本当の戦う相手は幕府ではなく、明治政府が導入する近代国家だったのである。
西郷が鹿児島で行った様々な藩政改革、また征韓論争での彼のスタンスは、いずれも、明治国家の路線とは異なる、もう一つの近代、もう一つの日本を作り出そうという試みであった。西郷の理想は明治革命戦争を戦い覚醒した革命兵士と、江戸時代の共同体を維持している農村とのコミューンだった。
植民地を争って力と力がぶつかり合っていた列強の帝国主義体制下の時代に、そのような共同体に根ざした国家の建設がいかに非現実的に見えたからといって、このような夢を見ずに入られなかった西郷の思想に、渡辺氏は深い共感を隠そうとしない。この西郷と革命軍兵士にとって西南戦争とは、あくまで明治政府に対する革命戦争であった。「裏切られた革命」明治と戦った西郷の姿を、これほど説得力ある文章で論じたものはない。
2012年7月6日に日本でレビュー済み
テーマ別に全20編の論考が収録されています。
一章の12編は、主に「北一輝」及び「226事件」等の、維新から続く革命をテーマに、
二章の7編は、主に「西郷隆盛」及び「西南戦争」をテーマに、
三章の1編は『昭和の逆説』と題され、日米間における世界観の違いをテーマに描かれています。
その全てを貫くものは、維新から昭和に至るまでの日本が直面した「近代」について。
書かれた時期は1975‾2003年と、古いものでは35年以上も前の論考となりますが、いささかもそれを感じさせません。
むしろ「保守」なるもの「ナショナリズム」なるものが、玉石混淆なまま不自然なインフレを示している現今においてこそ、読まれるべき一冊ではないでしょうか。
特筆すべきはやはり二章の、西郷にまつわる一連の論考です。
ここでは司馬遼太郎が『翔ぶが如く』において、終始「わからない」と言い続けた西郷という巨大な謎についての真説が提示されます。
私はこれを読んで初めて、西南戦争の本当の意味を己の中に落着させることが出来ました。
奇しくもその二章には『翔ぶが如く・雑感』と題された、大胆な司馬遼太郎批評が展開されています。
1979年という、司馬全盛期とも言える時期に発表されたこの論考は、舌鋒鋭く、かつ安易なイデオロギー論争に堕しないバランス感覚を保ちながら、バッサリと国民的作家を切り捨てます。
その他全体的に、ベストセラー『逝きし世の面影』に比してやや敷居が高い内容で構成されていますが、ナショナリズムを考えるときに避けては通れない「この国にとっての近代とは何か」について、上質な論考が展開されている珠玉の一冊です。
一章の12編は、主に「北一輝」及び「226事件」等の、維新から続く革命をテーマに、
二章の7編は、主に「西郷隆盛」及び「西南戦争」をテーマに、
三章の1編は『昭和の逆説』と題され、日米間における世界観の違いをテーマに描かれています。
その全てを貫くものは、維新から昭和に至るまでの日本が直面した「近代」について。
書かれた時期は1975‾2003年と、古いものでは35年以上も前の論考となりますが、いささかもそれを感じさせません。
むしろ「保守」なるもの「ナショナリズム」なるものが、玉石混淆なまま不自然なインフレを示している現今においてこそ、読まれるべき一冊ではないでしょうか。
特筆すべきはやはり二章の、西郷にまつわる一連の論考です。
ここでは司馬遼太郎が『翔ぶが如く』において、終始「わからない」と言い続けた西郷という巨大な謎についての真説が提示されます。
私はこれを読んで初めて、西南戦争の本当の意味を己の中に落着させることが出来ました。
奇しくもその二章には『翔ぶが如く・雑感』と題された、大胆な司馬遼太郎批評が展開されています。
1979年という、司馬全盛期とも言える時期に発表されたこの論考は、舌鋒鋭く、かつ安易なイデオロギー論争に堕しないバランス感覚を保ちながら、バッサリと国民的作家を切り捨てます。
その他全体的に、ベストセラー『逝きし世の面影』に比してやや敷居が高い内容で構成されていますが、ナショナリズムを考えるときに避けては通れない「この国にとっての近代とは何か」について、上質な論考が展開されている珠玉の一冊です。