近代幻想を打ち砕く哲学がここにある。
三浦小太郎著『渡辺京二』と併せて読むと読みやすい。
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民衆という幻像: 渡辺京二コレクション2 民衆論 (渡辺京二コレクション(全2巻)) 文庫 – 2011/7/8
- 本の長さ528ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2011/7/8
- ISBN-104480093850
- ISBN-13978-4480093851
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2011/7/8)
- 発売日 : 2011/7/8
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 528ページ
- ISBN-10 : 4480093850
- ISBN-13 : 978-4480093851
- Amazon 売れ筋ランキング: - 701,985位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 151,433位文庫
- カスタマーレビュー:
著者について
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
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2015年3月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
渡辺京二氏にはいつも教えられる。この本もやはり多くのことを教わった。引き続き渡辺氏の著作は読んでゆきたい。
2012年1月22日に日本でレビュー済み
「
逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
」を読んだとき、近代主義にとらわれない大胆な歴史観をおもしろいと思ったものの、自分の身のうちにあるナショナリズムをくすぐられているようで、警戒してしまいました。著者はきっと教養あるディレッタントで、退官した大学教授が、趣味の領域で万人受けする本を書いたのだろうと思ってしまったのです。ところが、本書を読んでそれがとんでもない浅はかな認識であったことを思い知らされました。
著者は1930年京都生まれ、戦前の大連で育ち、引き上げで苦労し、戦後は九州熊本で共産主義系の政治・文学運動にかかわり、水俣病訴訟で先陣に立ち、石牟礼道子に寄り添いながら、在野の学者兼思想家として活躍した人です。
巻頭にのっている「小さきものの死」では、著者が1950年ころ療養所に入所していたときの体験が語られています。著者はそこで隣室から漏れてくる女の泣き声を聞きます。声の主は母と娘で、二人は病状が重くなってから父親によって運び込まれました。事実上そこに捨てられたのです。著者は翌日看護婦から、ふたりとも昨夜のうちに亡くなったことを知らされます。
「人間の社会は歴史と共に進歩し、残酷物語は人智と共に確実に減少するであろう。しかし、世界史の展開がこれら小さきもののささやかな幸福と安楽の犠牲の上に築かれるという事情もまた確実に続き行くだろう。(…)人類の前史が終わるということは、まさにこのような小さきものの全き生存の定立によって、世界史の法則なるものを揚棄することにほかならぬだろう」
このことばが書かれた60年代は、まだ左翼思想全盛の時代です。上の言葉もマルクス主義の唯物的弁証法の文脈で書かれているので、いま読んでみると、少々大げさなようにも思えます。
しかし60年も前に著者が接した不幸な母娘は、今日の状況でも決して例外的なことではない。格差の拡大する今日では、むしろ身近な事件とすら感じられてしまいます。グローバリゼーションにさらされた脱工業化社会の諸問題を考えるとき、「小さきもの」の不幸を、世界的状況のレベルで考えることは、むしろ自然であり必要なことでしょう。
しかし著者は「小さきもの」に同情を寄せる一方で、不幸な母娘を療養所に捨てていく父親もまた民衆であることを知っていました。そのことは、本書の随所に現れる吉本隆明の評価に現れていると思います。
吉本隆明は周知のように「大衆」に思想的根拠を置こうとした思想家ですが、今日的な視点から見ると、あまりに観念的でナイーブな「大衆」観を持っていた。著者は明示しませんが、彼のステレオタイプ的民衆像を暗に批判し、彼の宿敵であった花田清輝にも目配りし、ある意味スタブローギン的な思想家だった谷川雁と吉本の共闘を夢見さえしたのです。
もしそれが実現したらどうなっていたでしょうか。日本にネグリのようなマルチチュード派が生まれていた、そんな想像にかられます。
著者にとって、民衆とは「善」と「悪」両面を持つもの。しかしだからといって、「悪」を矯めて「善」を伸ばすことが解決の道だとは考えない。「善」と「悪」両方を一体として捉えた民衆像を模索している。本書の表題には、著者の仕事をそのように総括する視点がこめられているものと考えます。
しかしそれにしても、こんな腹のすわった思想家が、どうしてディレッタント的なナショナリストに見えてしまったのでしょう。不明を恥じなければなりませんが、そう見えることが今日の思想的困難さの深層の一端を表しているのかもしれません。このことは個人的にではなく、時代の問題として考えていかなければと思っています。
著者は1930年京都生まれ、戦前の大連で育ち、引き上げで苦労し、戦後は九州熊本で共産主義系の政治・文学運動にかかわり、水俣病訴訟で先陣に立ち、石牟礼道子に寄り添いながら、在野の学者兼思想家として活躍した人です。
巻頭にのっている「小さきものの死」では、著者が1950年ころ療養所に入所していたときの体験が語られています。著者はそこで隣室から漏れてくる女の泣き声を聞きます。声の主は母と娘で、二人は病状が重くなってから父親によって運び込まれました。事実上そこに捨てられたのです。著者は翌日看護婦から、ふたりとも昨夜のうちに亡くなったことを知らされます。
「人間の社会は歴史と共に進歩し、残酷物語は人智と共に確実に減少するであろう。しかし、世界史の展開がこれら小さきもののささやかな幸福と安楽の犠牲の上に築かれるという事情もまた確実に続き行くだろう。(…)人類の前史が終わるということは、まさにこのような小さきものの全き生存の定立によって、世界史の法則なるものを揚棄することにほかならぬだろう」
このことばが書かれた60年代は、まだ左翼思想全盛の時代です。上の言葉もマルクス主義の唯物的弁証法の文脈で書かれているので、いま読んでみると、少々大げさなようにも思えます。
しかし60年も前に著者が接した不幸な母娘は、今日の状況でも決して例外的なことではない。格差の拡大する今日では、むしろ身近な事件とすら感じられてしまいます。グローバリゼーションにさらされた脱工業化社会の諸問題を考えるとき、「小さきもの」の不幸を、世界的状況のレベルで考えることは、むしろ自然であり必要なことでしょう。
しかし著者は「小さきもの」に同情を寄せる一方で、不幸な母娘を療養所に捨てていく父親もまた民衆であることを知っていました。そのことは、本書の随所に現れる吉本隆明の評価に現れていると思います。
吉本隆明は周知のように「大衆」に思想的根拠を置こうとした思想家ですが、今日的な視点から見ると、あまりに観念的でナイーブな「大衆」観を持っていた。著者は明示しませんが、彼のステレオタイプ的民衆像を暗に批判し、彼の宿敵であった花田清輝にも目配りし、ある意味スタブローギン的な思想家だった谷川雁と吉本の共闘を夢見さえしたのです。
もしそれが実現したらどうなっていたでしょうか。日本にネグリのようなマルチチュード派が生まれていた、そんな想像にかられます。
著者にとって、民衆とは「善」と「悪」両面を持つもの。しかしだからといって、「悪」を矯めて「善」を伸ばすことが解決の道だとは考えない。「善」と「悪」両方を一体として捉えた民衆像を模索している。本書の表題には、著者の仕事をそのように総括する視点がこめられているものと考えます。
しかしそれにしても、こんな腹のすわった思想家が、どうしてディレッタント的なナショナリストに見えてしまったのでしょう。不明を恥じなければなりませんが、そう見えることが今日の思想的困難さの深層の一端を表しているのかもしれません。このことは個人的にではなく、時代の問題として考えていかなければと思っています。