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滞日十年 上 (ちくま学芸文庫 ク 21-1) 文庫 – 2011/9/7
日米開戦にいたるまでの激動の十年、どのような外交交渉が行われたのか。駐日アメリカ大使による貴重な記録。上巻は1932年から1939年まで。
- 本の長さ459ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2011/9/7
- 寸法10.7 x 1.8 x 14.8 cm
- ISBN-104480094016
- ISBN-13978-4480094018
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2011/9/7)
- 発売日 : 2011/9/7
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 459ページ
- ISBN-10 : 4480094016
- ISBN-13 : 978-4480094018
- 寸法 : 10.7 x 1.8 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 65,342位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年4月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
駐日米国大使が大東亜戦争開戦に至る10年間をしたためた日記で、開戦に至る日本の国内状況を冷静に観察していて、その的確な把握に驚きました。多くの日本人と交わって日米関係悪化に尽力した息吹が感じられます。公平に正しく日本を見て理解してくれたことが日米が同盟関係に発展した大きな理由だと思います。世界における最も偉大なジェントルマンとして尊敬すると最大級の評価をした牧野伸顕氏は、牧野氏が世界で初めて人種差別撤廃案を提出した1919年のパリ講和会議で知り合ったというのは奇遇だと思いました。
2018年10月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
駐日米国大使の記した日米開戦前10年間の日記である。
著者の認識は、当時の日本において、軍事冒険的な拡張主義を唱える極端主義者と、自由主義と国際協調を採る穏健主義者の、せめぎ合いの中で、前者が勝利をおさめ、日米開戦に至ったと言うことである。ここで重要なのは、両者の構成要素ついての分析である。極端主義者は、第一に陸海軍内の強硬派なのだが、それに加えて強硬論を煽り持論に沿う国際ニュースしか報道しない新聞、彼らに踊らされる一般民衆である。基本的に、世論は極端主義者の味方だ。穏健主義者は、知的水準の高い上層階級で、海外留学や海外赴任の経験を有する人物も多い。その中の有力者は、元老や重臣を通じて天皇や皇室に繋がる。昭和天皇も広い意味でこの中に含まれる。当然ながら、著者の親交も深く、戦争回避の努力もこのルートに拠っている。
残念ながら、穏健主義者は世論に足場を持たず、極端主義者による暗殺やクーデターの危険にさらされており、無力だと著者も認めるしかない。
外交官と言うと、表舞台の外交交渉を想起しがちだが、赴任国の国内情勢を正確に把握し、本国に伝える能力が大切であることも分かる。本書にも出て来るが、日本の外務省内の枢軸派、例えば大島駐独大使のようにナチス・ドイツのプロパガンダを伝えるような事では、困ると言うよりも有害だ。
外務省内の枢軸派が日米交渉の妨害を画策していた事も、本書の中に幾度か出て来る。米国の国務省が、駐米日本大使館に伝えた事が、日本の外相や外務次官に報告されていない。外相の考えとは異なる記事が、外相の知らぬ間に新聞に出てしまうと言ったことだ。「天皇宛て大統領の親書を含む国務省の第818号12月6日午後9時電報が、事実、7日の正午、東京中央電信局に着いていながら、その晩の10時30分まで配達されなかったことは、意味深長である。」(本書下巻322頁)とある。著者は断定していないが、真珠湾に向けて艦載機が発艦する時刻まで、大統領の天皇宛て親書を止めていたのだろうか。
このような事情を、後世の歴史書や歴史解説書ではなく、当事者が残した記録により知る意味は大きいと思う。
(以上は、上下巻合わせてのレビューです)
著者の認識は、当時の日本において、軍事冒険的な拡張主義を唱える極端主義者と、自由主義と国際協調を採る穏健主義者の、せめぎ合いの中で、前者が勝利をおさめ、日米開戦に至ったと言うことである。ここで重要なのは、両者の構成要素ついての分析である。極端主義者は、第一に陸海軍内の強硬派なのだが、それに加えて強硬論を煽り持論に沿う国際ニュースしか報道しない新聞、彼らに踊らされる一般民衆である。基本的に、世論は極端主義者の味方だ。穏健主義者は、知的水準の高い上層階級で、海外留学や海外赴任の経験を有する人物も多い。その中の有力者は、元老や重臣を通じて天皇や皇室に繋がる。昭和天皇も広い意味でこの中に含まれる。当然ながら、著者の親交も深く、戦争回避の努力もこのルートに拠っている。
残念ながら、穏健主義者は世論に足場を持たず、極端主義者による暗殺やクーデターの危険にさらされており、無力だと著者も認めるしかない。
外交官と言うと、表舞台の外交交渉を想起しがちだが、赴任国の国内情勢を正確に把握し、本国に伝える能力が大切であることも分かる。本書にも出て来るが、日本の外務省内の枢軸派、例えば大島駐独大使のようにナチス・ドイツのプロパガンダを伝えるような事では、困ると言うよりも有害だ。
外務省内の枢軸派が日米交渉の妨害を画策していた事も、本書の中に幾度か出て来る。米国の国務省が、駐米日本大使館に伝えた事が、日本の外相や外務次官に報告されていない。外相の考えとは異なる記事が、外相の知らぬ間に新聞に出てしまうと言ったことだ。「天皇宛て大統領の親書を含む国務省の第818号12月6日午後9時電報が、事実、7日の正午、東京中央電信局に着いていながら、その晩の10時30分まで配達されなかったことは、意味深長である。」(本書下巻322頁)とある。著者は断定していないが、真珠湾に向けて艦載機が発艦する時刻まで、大統領の天皇宛て親書を止めていたのだろうか。
このような事情を、後世の歴史書や歴史解説書ではなく、当事者が残した記録により知る意味は大きいと思う。
(以上は、上下巻合わせてのレビューです)
2019年5月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
外交官グルーは、満州事変から太平洋戦争に至る我が国の外交史、特に対米交渉史を検証する上で欠かせない人物である。であるばかりか彼の影響力は、戦後我が国の体制の在り方にまで及んでいる。この本は、そのグルーの駐日大使時代の本音が、日記という形で記された第一級資料で、深層や如何にの思いで手にした。
ところがである。訳語が、凡そ政治外交に長けたとは言い難いほどに、こなれていなく、中には意味を取り切れないところも多々あるではないか。訳者は、大新聞で記者を務める傍ら、様々翻訳を手掛けたとあるが、この本に関しては不出来と言わざるを得ず、思いは未達成に終わってしまった。
ところがである。訳語が、凡そ政治外交に長けたとは言い難いほどに、こなれていなく、中には意味を取り切れないところも多々あるではないか。訳者は、大新聞で記者を務める傍ら、様々翻訳を手掛けたとあるが、この本に関しては不出来と言わざるを得ず、思いは未達成に終わってしまった。
2017年2月5日に日本でレビュー済み
上下併せて八百頁余、全六章の大著です。しかも訳文は昭和二十三年で古色蒼然たるもの。通読するのに骨が折れました。これから読まれる方は、腰を据えて取り組まれる覚悟が必要です。
太平洋戦争への道を、著者は、大きく四段階に分けて捉えているのでは、と感じ入りました。
①満州事変をケロッグ条約、九国条約、国際連盟規約への違反と日本を非難 (第1章 〜第3章 )
スティムソン米国務長官は1932年1月に、日本の行動を九カ国条約と不戦条約に違反するものとして避難し、実力による不法な現状変更は認められないという不承認原則を打ちだした。
②支那事変に対し、中国における米国財産の爆撃、米国市民への侮辱、米国商業の侵害と非難。東亜新秩序声明に対し米国の権益を中国から追出すものと非難 (第4章、第5章の前半)
1937年10月 ルーズベルト米大統領がシカゴで隔離演説、1939年7月 日米通商航海条約廃棄通告(翌1940年1月26日失効)
③北部仏印武力進駐開始、日独伊三国同盟調印、南進に対し、強硬政策は不可避的に危険を含むだろうが、放任主義的政策は将来もっと大規模な危険を持ち来たすと政策提言 (第5章の後半、1940年9月〜)
1940年9月 アメリカが対日屑鉄全面禁輸、12月ルーズベルト民主主義の兵器廠談話
④近衛・ルーズベルト間トップ会談実現に尽力するも果たせず、国家的ハラキリの危険性を国務省に喚起するも容れられず、戦争突入。(第5章の後半、1941年10月〜)
この四段階のうち、上巻は①の全部と②の前半を納めます。①について、面白い記述が79頁にあるので、ここから読まれるのも良いかもしれません。
「米国がパナマでとった政策と日本が満州でとった政策との間に類似点があることは、だれも否定しないところであろう。しかし日本の論客がおおむね見逃す大きな相違があり、それは時代という一因子である。米国のパナマ干渉は三十年前に起った。米国の軍艦がパナマにおける一九〇三年の革命を支持し、その結果、運河を合衆国に譲渡すべく調印し、これを管理することになったが、これに関する米国政府の行動を阻止すべき国際的公約は何も存在しなかったのである。国際連盟規約、九国条約、ケロッグ協定は世界大戦の終末に続く時代の産物である。以前各国は力の法則により、戦争を彼らの国策の道具に使ってそれぞれの運命をかいたくした。今日世界のひとびとは、これらの条約を表徴とする新しい秩序へ彼らの信頼をかけているのである。」
太平洋戦争への道を、著者は、大きく四段階に分けて捉えているのでは、と感じ入りました。
①満州事変をケロッグ条約、九国条約、国際連盟規約への違反と日本を非難 (第1章 〜第3章 )
スティムソン米国務長官は1932年1月に、日本の行動を九カ国条約と不戦条約に違反するものとして避難し、実力による不法な現状変更は認められないという不承認原則を打ちだした。
②支那事変に対し、中国における米国財産の爆撃、米国市民への侮辱、米国商業の侵害と非難。東亜新秩序声明に対し米国の権益を中国から追出すものと非難 (第4章、第5章の前半)
1937年10月 ルーズベルト米大統領がシカゴで隔離演説、1939年7月 日米通商航海条約廃棄通告(翌1940年1月26日失効)
③北部仏印武力進駐開始、日独伊三国同盟調印、南進に対し、強硬政策は不可避的に危険を含むだろうが、放任主義的政策は将来もっと大規模な危険を持ち来たすと政策提言 (第5章の後半、1940年9月〜)
1940年9月 アメリカが対日屑鉄全面禁輸、12月ルーズベルト民主主義の兵器廠談話
④近衛・ルーズベルト間トップ会談実現に尽力するも果たせず、国家的ハラキリの危険性を国務省に喚起するも容れられず、戦争突入。(第5章の後半、1941年10月〜)
この四段階のうち、上巻は①の全部と②の前半を納めます。①について、面白い記述が79頁にあるので、ここから読まれるのも良いかもしれません。
「米国がパナマでとった政策と日本が満州でとった政策との間に類似点があることは、だれも否定しないところであろう。しかし日本の論客がおおむね見逃す大きな相違があり、それは時代という一因子である。米国のパナマ干渉は三十年前に起った。米国の軍艦がパナマにおける一九〇三年の革命を支持し、その結果、運河を合衆国に譲渡すべく調印し、これを管理することになったが、これに関する米国政府の行動を阻止すべき国際的公約は何も存在しなかったのである。国際連盟規約、九国条約、ケロッグ協定は世界大戦の終末に続く時代の産物である。以前各国は力の法則により、戦争を彼らの国策の道具に使ってそれぞれの運命をかいたくした。今日世界のひとびとは、これらの条約を表徴とする新しい秩序へ彼らの信頼をかけているのである。」
2016年6月18日に日本でレビュー済み
やはり評論家、作家よりも当事者に問うに如くはない。近衛内閣の風見書記官長、鈴木貫太郎内閣の迫水書記官長、藤田侍従、犬養内閣顧問古島と立て続けに読んだ。今まで読んできたものを全て疑ってかからないとの想いが強い。米国大使は確実に日本の情勢を把握していた。