帰国後国務長官代理などを務め、日本の戦後処理構想を立案、天皇制の存続や原爆投下反対を進言した「知日派」だけあって、日本社会を的確に見抜いていたことに驚きました。狂信的な強硬派の日本軍部とは別に常識的な見解に立脚する穏健派がいることを見抜き、牧野伸顕を中心に天皇を頂点とする穏健派宮中側近グループにシンパシーを持ったことが米政権内で大戦の最終版で、天皇存続に尽力することにつながったことがわかります。
また1940年の段階で、枢軸への協力に疑念を持つ日本人がいること、また1941年1月に日本が真珠湾を攻撃するという情報を得て米国政府に報告していること、さらに同年4月、ドイツのソ連攻撃は早晩免れないと的確に予測していたことは慧眼で驚きました。駐日大使として日本の全てを丸裸にしていたと思うと恐ろしささえ感じてしまいます。昭和史の第一級資料であることは間違い無いでしょう。
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滞日十年 下 (ちくま学芸文庫 ク 21-2) 文庫 – 2011/10/6
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- 本の長さ442ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2011/10/6
- 寸法10.7 x 1.8 x 14.8 cm
- ISBN-104480094024
- ISBN-13978-4480094025
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2011/10/6)
- 発売日 : 2011/10/6
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 442ページ
- ISBN-10 : 4480094024
- ISBN-13 : 978-4480094025
- 寸法 : 10.7 x 1.8 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 427,678位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,413位ちくま学芸文庫
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年4月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
全てが正しいとは思いませんが、外国人の目で見た昭和史で参考になりました。
2017年2月5日に日本でレビュー済み
下巻は、四段階のうち、②の後半から戦争突入までを述べます。
②支那事変に対し中国における米国財産の爆撃、米国市民への侮辱、米国商業の侵害と非難。東亜新秩序声明に対し米国の権益を中国から追出すものと非難 (第4章、第5章の前半)
1937年10月 ルーズベルト米大統領がシカゴで隔離演説、1939年7月 日米通商航海条約廃棄通告(翌1940年1月26日失効)
③北部仏印武力進駐開始、日独伊三国同盟調印、南進に対し、強硬政策は不可避的に危険を含むだろうが、放任主義的政策は将来もっと大規模な危険を持ち来たすと政策提言 (第5章の後半、1940年9月〜)
1940年9月 アメリカが対日屑鉄全面禁輸、12月ルーズベルト民主主義の兵器廠談話
④近衛・ルーズベルト間トップ会談実現に尽力するも果たせず、国家的ハラキリの危険性を国務省に喚起するも容れられず、戦争突入。(第5章の後半、1941年10月〜)
④について、特に印象に残った記述を次に記す。
(279頁) 1941年11月3日。 大使は合衆国が宥和的手段を取ることは不賢明でもあり無益でもあるように思われた情勢下にある時に(1940年9月12日 評者注)、この電報を打った。この電報が勧告した強硬政策はその後合衆国によって採用された。この政策は日本に対する世界の政治的成行の衝撃と相俟って、日本政府を合衆国との宥和を求めしむるところにまで持ってきた。もしこの努力が失敗すれば、大使は日本の振子が恐らく以前の立場、あるいはそれより前方まで揺れ戻るであろうことを予見する。これは大使が「全力をあげてのやるか死ぬかの企て」と呼ぶ状態を惹起し、外国の圧力に屈服するよりは、むしろ日本が海外の経済的通商禁止を感じないようにしようという事実国家的ハラキリの危険を冒させることになる。その日その日、日本の国家的気質と心理を感じている観察者は、疑いもなくこの偶発事項が起こらぬとも限らぬばかりか、ありそうなことだと了解している。
⇨ 近衛・ルーズベルト間トップ会談が実現しなかったことへの無念さと、「歴史上絶望感からやぶれかぶれで戦争を始めた国家の例が一つでもあったら言ってみてくれ」と言ってのけたホーンベックに対する批判であろうと、評者は推察する。 そしてこの無念さと批判とが、戦後にグルー氏が日米協会を設立し、日本再建に尽力されたことに繋がった動機になったのではないか。
幣原外交に対する想い。(下巻 36頁 1939年11月)
私の考えでは、武力行使は一国の主権を守る場合を除いて、第一に誠意の、次に工夫に富んだ、想像力に強い建設的な政治的手腕の、欠如の自白を構成するに過ぎない。現在われわれが取り扱っている特定な案件について、誠意と政治手腕が一方側にだけあるのでは十分ではないという人に向かって、私はこれらの要素は日本にもあるが今までは潜在していた。そして外交の機能の一つはこれらの要素に強い力を吹き込むことだと答える。幣原外交はかって存在した。再び存在することも出来る。
⇨ この認識が、のちのポツダム宣言の第十項「民主主義的傾向の復活強化」、創建・創設ではない!、に繋がったと信じる。そして、幣原が戦後第二の首相に、そして吉田が(本著で明示されないがちょこちょこ出てくる、下巻338頁は明瞭に) 第三の首相に繋がった。
最後に、編集部に苦言。人名索引には3個の明らかな誤りあり。①岸信介。どう見ても外務省の岸さんでしょう。 ②牧野和子。いくら孫だかって、苗字まで一緒にしちゃいけない。嫁入り前についての記述であることからすれば吉田和子。 ③吉田善吾。上巻のは吉田茂でしょう。
②支那事変に対し中国における米国財産の爆撃、米国市民への侮辱、米国商業の侵害と非難。東亜新秩序声明に対し米国の権益を中国から追出すものと非難 (第4章、第5章の前半)
1937年10月 ルーズベルト米大統領がシカゴで隔離演説、1939年7月 日米通商航海条約廃棄通告(翌1940年1月26日失効)
③北部仏印武力進駐開始、日独伊三国同盟調印、南進に対し、強硬政策は不可避的に危険を含むだろうが、放任主義的政策は将来もっと大規模な危険を持ち来たすと政策提言 (第5章の後半、1940年9月〜)
1940年9月 アメリカが対日屑鉄全面禁輸、12月ルーズベルト民主主義の兵器廠談話
④近衛・ルーズベルト間トップ会談実現に尽力するも果たせず、国家的ハラキリの危険性を国務省に喚起するも容れられず、戦争突入。(第5章の後半、1941年10月〜)
④について、特に印象に残った記述を次に記す。
(279頁) 1941年11月3日。 大使は合衆国が宥和的手段を取ることは不賢明でもあり無益でもあるように思われた情勢下にある時に(1940年9月12日 評者注)、この電報を打った。この電報が勧告した強硬政策はその後合衆国によって採用された。この政策は日本に対する世界の政治的成行の衝撃と相俟って、日本政府を合衆国との宥和を求めしむるところにまで持ってきた。もしこの努力が失敗すれば、大使は日本の振子が恐らく以前の立場、あるいはそれより前方まで揺れ戻るであろうことを予見する。これは大使が「全力をあげてのやるか死ぬかの企て」と呼ぶ状態を惹起し、外国の圧力に屈服するよりは、むしろ日本が海外の経済的通商禁止を感じないようにしようという事実国家的ハラキリの危険を冒させることになる。その日その日、日本の国家的気質と心理を感じている観察者は、疑いもなくこの偶発事項が起こらぬとも限らぬばかりか、ありそうなことだと了解している。
⇨ 近衛・ルーズベルト間トップ会談が実現しなかったことへの無念さと、「歴史上絶望感からやぶれかぶれで戦争を始めた国家の例が一つでもあったら言ってみてくれ」と言ってのけたホーンベックに対する批判であろうと、評者は推察する。 そしてこの無念さと批判とが、戦後にグルー氏が日米協会を設立し、日本再建に尽力されたことに繋がった動機になったのではないか。
幣原外交に対する想い。(下巻 36頁 1939年11月)
私の考えでは、武力行使は一国の主権を守る場合を除いて、第一に誠意の、次に工夫に富んだ、想像力に強い建設的な政治的手腕の、欠如の自白を構成するに過ぎない。現在われわれが取り扱っている特定な案件について、誠意と政治手腕が一方側にだけあるのでは十分ではないという人に向かって、私はこれらの要素は日本にもあるが今までは潜在していた。そして外交の機能の一つはこれらの要素に強い力を吹き込むことだと答える。幣原外交はかって存在した。再び存在することも出来る。
⇨ この認識が、のちのポツダム宣言の第十項「民主主義的傾向の復活強化」、創建・創設ではない!、に繋がったと信じる。そして、幣原が戦後第二の首相に、そして吉田が(本著で明示されないがちょこちょこ出てくる、下巻338頁は明瞭に) 第三の首相に繋がった。
最後に、編集部に苦言。人名索引には3個の明らかな誤りあり。①岸信介。どう見ても外務省の岸さんでしょう。 ②牧野和子。いくら孫だかって、苗字まで一緒にしちゃいけない。嫁入り前についての記述であることからすれば吉田和子。 ③吉田善吾。上巻のは吉田茂でしょう。