いま私たちは毎日食べるものに困ったり住む場所に困ったりする人は少なくなりましたが世界のどこかで
いろんな思いをして生活している(生きている)人がいることを知り改めて今の幸せをありがたく思います。
そんなしみじみと幸せを感じさせてくれる本でした。
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マイケル・K (ちくま文庫 く 22-1) 文庫 – 2006/8/1
- 本の長さ286ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2006/8/1
- ISBN-10448042251X
- ISBN-13978-4480422514
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2006/8/1)
- 発売日 : 2006/8/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 286ページ
- ISBN-10 : 448042251X
- ISBN-13 : 978-4480422514
- Amazon 売れ筋ランキング: - 859,796位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2016年11月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2019年11月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
悲惨な話だ。戦争、差別、暴力がBGMとして流れつづけている。
中盤までは読んでいて気が重くなりっぱなしだが、だんだん、自由とは何か?とか、人生における幸福とは?といった疑問が頭に浮かんでくる。可哀想に感じていた主人公が、だんだん憎たらしくなってくるから不思議だ。
読後感は清々しくさえある。
中盤までは読んでいて気が重くなりっぱなしだが、だんだん、自由とは何か?とか、人生における幸福とは?といった疑問が頭に浮かんでくる。可哀想に感じていた主人公が、だんだん憎たらしくなってくるから不思議だ。
読後感は清々しくさえある。
2019年10月22日に日本でレビュー済み
自身の仕事が中途半端な時は、読まない方が良い。
内容が頭に入ってこないかもしれないし、
読むことで現実逃避をしたくなるかもしれない。
むしろ、仕事が絶好調で天狗の鼻になっている時におすすめ。
がつんと、くる。
今の自分が幸せであればあるほど、マイケル・Kの人生が気になる。
そして、対比するように、今の幸せが虚構のような、淡いような感じがしてくる。
今の幸せに自分の意思がどの程度反映されているか?疑問に思えてくる。
もし。何もかも投げすてて、100%自分の意思のまま生きるとしたら、
マイケルのように生きる力はあるだろうかと。
しかし、さらけ出すことで、自分の完全なる意思というものは、
実は無いのではないか?という不安と向き合わなくてはならない。
人生について考えたい時、節目節目に読み返したくなるお勧めの1冊。
内容が頭に入ってこないかもしれないし、
読むことで現実逃避をしたくなるかもしれない。
むしろ、仕事が絶好調で天狗の鼻になっている時におすすめ。
がつんと、くる。
今の自分が幸せであればあるほど、マイケル・Kの人生が気になる。
そして、対比するように、今の幸せが虚構のような、淡いような感じがしてくる。
今の幸せに自分の意思がどの程度反映されているか?疑問に思えてくる。
もし。何もかも投げすてて、100%自分の意思のまま生きるとしたら、
マイケルのように生きる力はあるだろうかと。
しかし、さらけ出すことで、自分の完全なる意思というものは、
実は無いのではないか?という不安と向き合わなくてはならない。
人生について考えたい時、節目節目に読み返したくなるお勧めの1冊。
2021年5月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
アパルトヘイト下での南アの厳しい環境下で生きるということは、すべての人間(白人・黒人・カラード・アジア系などなど)にとって、不自由であり不幸なことであったと思う(現在でもかなり自由になったといえ、状況はあまり変わらないかもしれない)。ただ、この小説は単にそういう環境下での南アでのことに限ったことではないと思われる。人間の本質的な「自由」とか「生き方」を書いているのだと思う。難しい、いわば解決不能なテーマのように思われる。
2021年4月6日に日本でレビュー済み
これは南アの作家クッツェーの1983年に刊行された小説です。
クッツェーは、評者が『恥辱』(1999年)を読んで興味をもった作家です。
読みはじめて、どこかフローベールの『三つの物語』のなかの一篇「純な心」の文体に似たものを感じたのですが、訳者による解説では、クッツェーの創作に影響を及ぼした古今の文学者のなかにこのフランスの小説家の名は挙げられていないので、まあ影響関係などはないのかもしれません。
ある意味ちょっと異色の作品というべきなのでしょうか、ストーリーなるものはないわけではありませんが、要約したところでこの小説の面白さというか、独自なところはうまく伝えられない気がします。
ともあれ、他のレビューにも書かれていましたが、評者も同じく読後、自由とか服従とかといったワードが脳裏に浮かびました。
これは、三章からなるこの小説の第二章のみが、語りが、マイケルが収容されたハビリテーション・キャンプで彼を診ている医師(もともとは薬剤師)のモノローグになっていて、第一章のマイケルの生が別角度から照射されるこの第二章を読むことで、自然と浮かんでくるワードです。
不自由と自由、あるいは服従と非服従は、常識的には相互に相容れず厳しく対立するものです。
しかし主人公マイケルの特異さは、国や制度の暴力下で不自由を嘆いて自由を希求したり、服従を拒否して非服従をつらぬいたりする、そんな生き方とはまったく無縁です。
かれは、不自由と自由、あるいは服従と非服従というその二項対立の枠組みそのものからすり抜け、身を剥がし、そのどちらからも逃げつづけます。
自由であっても不自由を選ぶことさえし、非服従が身についていながら服従をもべつだん厭いません。
ひとはふつう自由を喜び、服従(隷従)を嫌います。
自由にこそ価値を認め、服従(隷従)には屈辱を見るわけです。
つまり多くの人間が自由/不自由、非服従/服従の対立にあって前項を求める、つまり自由こそを良しとし、そこにこそ幸せがあり、服従は堪えがたいとするのが常人の価値観であるのにたいして、マイケルはまったくちがっているということです。
じつは自由/不自由、非服従/服従という二項対立は、けっして対等な対立としてあるわけではありません。
道徳の善/悪において善が上位にあって悪が決定され、結果二項が対立するようになっているのと同じように、自由/不自由あるいは非服従/服従の二項で上位の価値をもつのは自由であり非服従です。
そこにはすでに二項の対立にあってはその価値序列が暗黙のうちに前提にされているというわけで、価値として上位にある自由そして非服従こそが、自由/不自由、あるいは非服従/服従の両項を「/」によって分割しているということです。
しかしそういう分割を生み出す価値のヒエラルキーこそがひとを不自由にしてはいないか。
この小説の主人公マイケルは、そういう価値序列をまったく無効にしたところ、ニーチェの「善悪の彼岸」というタイトルをかりれば、ひとがふつう生きている自由と不自由、非服従と服従とが対立する価値世界の彼岸にこそ生きようとし、また生きているということです。
不断に不自由と服従が強いられる内戦の地獄のなかでの、マイケルのほとんどユートピックなありよう。
しかし…しかしひとははたしてほんとうにそんな生き方ができるのか…それに、そういう生き方は生き方でしんどいものがあるとも思えます。
マイケルは、食べることをしない、食べ物を拒否しさえする、食べてもすぐ吐き出すなど、生存に必要な〈食〉を徹底して受け付けず、自由であってもみずからを不自由にさえしてしまうわけなので。。
クッツェーは、評者が『恥辱』(1999年)を読んで興味をもった作家です。
読みはじめて、どこかフローベールの『三つの物語』のなかの一篇「純な心」の文体に似たものを感じたのですが、訳者による解説では、クッツェーの創作に影響を及ぼした古今の文学者のなかにこのフランスの小説家の名は挙げられていないので、まあ影響関係などはないのかもしれません。
ある意味ちょっと異色の作品というべきなのでしょうか、ストーリーなるものはないわけではありませんが、要約したところでこの小説の面白さというか、独自なところはうまく伝えられない気がします。
ともあれ、他のレビューにも書かれていましたが、評者も同じく読後、自由とか服従とかといったワードが脳裏に浮かびました。
これは、三章からなるこの小説の第二章のみが、語りが、マイケルが収容されたハビリテーション・キャンプで彼を診ている医師(もともとは薬剤師)のモノローグになっていて、第一章のマイケルの生が別角度から照射されるこの第二章を読むことで、自然と浮かんでくるワードです。
不自由と自由、あるいは服従と非服従は、常識的には相互に相容れず厳しく対立するものです。
しかし主人公マイケルの特異さは、国や制度の暴力下で不自由を嘆いて自由を希求したり、服従を拒否して非服従をつらぬいたりする、そんな生き方とはまったく無縁です。
かれは、不自由と自由、あるいは服従と非服従というその二項対立の枠組みそのものからすり抜け、身を剥がし、そのどちらからも逃げつづけます。
自由であっても不自由を選ぶことさえし、非服従が身についていながら服従をもべつだん厭いません。
ひとはふつう自由を喜び、服従(隷従)を嫌います。
自由にこそ価値を認め、服従(隷従)には屈辱を見るわけです。
つまり多くの人間が自由/不自由、非服従/服従の対立にあって前項を求める、つまり自由こそを良しとし、そこにこそ幸せがあり、服従は堪えがたいとするのが常人の価値観であるのにたいして、マイケルはまったくちがっているということです。
じつは自由/不自由、非服従/服従という二項対立は、けっして対等な対立としてあるわけではありません。
道徳の善/悪において善が上位にあって悪が決定され、結果二項が対立するようになっているのと同じように、自由/不自由あるいは非服従/服従の二項で上位の価値をもつのは自由であり非服従です。
そこにはすでに二項の対立にあってはその価値序列が暗黙のうちに前提にされているというわけで、価値として上位にある自由そして非服従こそが、自由/不自由、あるいは非服従/服従の両項を「/」によって分割しているということです。
しかしそういう分割を生み出す価値のヒエラルキーこそがひとを不自由にしてはいないか。
この小説の主人公マイケルは、そういう価値序列をまったく無効にしたところ、ニーチェの「善悪の彼岸」というタイトルをかりれば、ひとがふつう生きている自由と不自由、非服従と服従とが対立する価値世界の彼岸にこそ生きようとし、また生きているということです。
不断に不自由と服従が強いられる内戦の地獄のなかでの、マイケルのほとんどユートピックなありよう。
しかし…しかしひとははたしてほんとうにそんな生き方ができるのか…それに、そういう生き方は生き方でしんどいものがあるとも思えます。
マイケルは、食べることをしない、食べ物を拒否しさえする、食べてもすぐ吐き出すなど、生存に必要な〈食〉を徹底して受け付けず、自由であってもみずからを不自由にさえしてしまうわけなので。。
2019年2月21日に日本でレビュー済み
ぱらぱらと振り返れば意外と構成は複雑だ。そこで読み終えた後の勢いで感想を書かせていただきたい……と思ったのだが、やはり大意を思い返さなければ感想も書けない。
そこで大意を書いてみる。主人公のマイケル・Kは、ケープタウンで働いている庭師だ。入院中の母に死が迫っていると聞いて、母を荷車に乗せて、母の田舎(少女時代に過ごした場所)に向け出発する。しかし、途中、病院で母は死ぬ。Kは旅を続け、母の田舎に到着する。その農家は廃屋になっていたが、Kはそこで一人暮らしを始める。そこへ大家の孫息子がぶらりと帰ってくる。しかしKへの扱いがひどいので逃げ出したが、銀行の玄関口で寝ているところを警察に摑まり、キャンプに送られる。そこを脱走しもとの廃屋に戻る。そこに身を潜めて暮らていたが、今度は兵士がやって来て、Kを発見し病院へ(Kは衰弱していた)。しかしそこからも逃亡。〔以下、Kがどこにいるのか正確に読み取るのがむずかしい。Kの想像力がいろいろ飛翔するからか?〕そして最後は、ケープタウンの海辺に戻ってきた。そこで、母が暮したアパートの部屋の外側で眠った。そして自分に合った一人暮らしを夢想する。〔場所が読み取れなくても、Kの希望は十分読み取れる。〕井戸からスプーン一杯の水が汲みだせれば、人は生きていける! というKの希望で物語は終わる。
では、著者は何がいいたいのだろうか。
マイケル・Kの生き方は一貫している。時は、南アフリカにおいてアパルトヘイト体制の敷かれている時代。どうやら内戦のような状況を呈していたらしい。その中でKの取った態度とは? 彼は、自分が生きられるだけの土地があればいい、そんな人物だ。政治的主義主張は持たないし、持とうという気もない。その点が、他の人たち(この作品では病院の責任者とか医師)には奇異に映る。Kはまるでシーラカンスのように生きている。要領も悪そうだ。とても社会に役立つような人間ではない。
この受動性が、従来の古典的小説とは違うところだ。従来の小説は、正義の主人公が身に降りかかる困難に立ち向かい、最後にはそれを克服して幸せを手に入れる物語だろう。ところがKは、自分の心というよりも、なんと体の声に耳を澄ませて、自分の人生を生きる。それも強い意志に基づいてではなく、そうするのが自然な体質になっているのだ。題名は『人間シーラカンス』ではどうだろう……と言いたくなるくらいだ。人は自我が強くなりすぎて争い事にうつつを抜かし、大地をしっかりと踏みしめて生きていないというのがクッツェーの主張だろうか。
なお、主人公Kが母を荷車に乗せて母の故郷まで運んでいく場面は、ベケットの『モロイ』を連想させる。脚の悪い主人公が母に会いに行こうとする旅。どちらの主人公も力強い肉体を持っていない。目標に必ず到達するという強い確信があるわけではない。ほとんど勢いでその旅を始めただけである。
さらに病院で医師が、Kに関して次のように述べているところは、カフカの『断食芸人』のテーマそのものではないか。(しかし、この箇所だけはあまりに直接的に書かれていて、私としてはあまり好きな箇所ではないが。)
「死ぬことが問題じゃないんです。彼は死にたがっているわけじゃない。ここの食べ物が好きじゃないだけなんです。心底、嫌なんだろうな。ベビーフードさえ食べようとしない。たぶん、自由というパンしか食べないのかもしれない」
最後に、Kが本心を吐露している箇所を引用したい。廃屋の周囲を耕して畑を作り、収穫する場面である。(焼き網の上で収穫したかぼちゃを裏返しにしようとした瞬間、彼はつぶやく。)
その動作のさなかに、突然、感謝の念が胸にあふれ出るのを感じた。まさに、ほとばしる熱い思い、と表現されるあの感覚だ。ついに成就されたのだ。彼は一人呟いた。あとは、残りの人生を、自分の労働によって大地から産み出される食べ物を食べて、ここで静かに暮していけばいい。土のようにやさしくなりさえすればいい。(pp. 177-8)
そこで大意を書いてみる。主人公のマイケル・Kは、ケープタウンで働いている庭師だ。入院中の母に死が迫っていると聞いて、母を荷車に乗せて、母の田舎(少女時代に過ごした場所)に向け出発する。しかし、途中、病院で母は死ぬ。Kは旅を続け、母の田舎に到着する。その農家は廃屋になっていたが、Kはそこで一人暮らしを始める。そこへ大家の孫息子がぶらりと帰ってくる。しかしKへの扱いがひどいので逃げ出したが、銀行の玄関口で寝ているところを警察に摑まり、キャンプに送られる。そこを脱走しもとの廃屋に戻る。そこに身を潜めて暮らていたが、今度は兵士がやって来て、Kを発見し病院へ(Kは衰弱していた)。しかしそこからも逃亡。〔以下、Kがどこにいるのか正確に読み取るのがむずかしい。Kの想像力がいろいろ飛翔するからか?〕そして最後は、ケープタウンの海辺に戻ってきた。そこで、母が暮したアパートの部屋の外側で眠った。そして自分に合った一人暮らしを夢想する。〔場所が読み取れなくても、Kの希望は十分読み取れる。〕井戸からスプーン一杯の水が汲みだせれば、人は生きていける! というKの希望で物語は終わる。
では、著者は何がいいたいのだろうか。
マイケル・Kの生き方は一貫している。時は、南アフリカにおいてアパルトヘイト体制の敷かれている時代。どうやら内戦のような状況を呈していたらしい。その中でKの取った態度とは? 彼は、自分が生きられるだけの土地があればいい、そんな人物だ。政治的主義主張は持たないし、持とうという気もない。その点が、他の人たち(この作品では病院の責任者とか医師)には奇異に映る。Kはまるでシーラカンスのように生きている。要領も悪そうだ。とても社会に役立つような人間ではない。
この受動性が、従来の古典的小説とは違うところだ。従来の小説は、正義の主人公が身に降りかかる困難に立ち向かい、最後にはそれを克服して幸せを手に入れる物語だろう。ところがKは、自分の心というよりも、なんと体の声に耳を澄ませて、自分の人生を生きる。それも強い意志に基づいてではなく、そうするのが自然な体質になっているのだ。題名は『人間シーラカンス』ではどうだろう……と言いたくなるくらいだ。人は自我が強くなりすぎて争い事にうつつを抜かし、大地をしっかりと踏みしめて生きていないというのがクッツェーの主張だろうか。
なお、主人公Kが母を荷車に乗せて母の故郷まで運んでいく場面は、ベケットの『モロイ』を連想させる。脚の悪い主人公が母に会いに行こうとする旅。どちらの主人公も力強い肉体を持っていない。目標に必ず到達するという強い確信があるわけではない。ほとんど勢いでその旅を始めただけである。
さらに病院で医師が、Kに関して次のように述べているところは、カフカの『断食芸人』のテーマそのものではないか。(しかし、この箇所だけはあまりに直接的に書かれていて、私としてはあまり好きな箇所ではないが。)
「死ぬことが問題じゃないんです。彼は死にたがっているわけじゃない。ここの食べ物が好きじゃないだけなんです。心底、嫌なんだろうな。ベビーフードさえ食べようとしない。たぶん、自由というパンしか食べないのかもしれない」
最後に、Kが本心を吐露している箇所を引用したい。廃屋の周囲を耕して畑を作り、収穫する場面である。(焼き網の上で収穫したかぼちゃを裏返しにしようとした瞬間、彼はつぶやく。)
その動作のさなかに、突然、感謝の念が胸にあふれ出るのを感じた。まさに、ほとばしる熱い思い、と表現されるあの感覚だ。ついに成就されたのだ。彼は一人呟いた。あとは、残りの人生を、自分の労働によって大地から産み出される食べ物を食べて、ここで静かに暮していけばいい。土のようにやさしくなりさえすればいい。(pp. 177-8)