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文化防衛論 (ちくま文庫 み 13-13) 文庫 – 2006/11/8
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- 本の長さ394ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2006/11/8
- ISBN-104480422838
- ISBN-13978-4480422835
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2006/11/8)
- 発売日 : 2006/11/8
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 394ページ
- ISBN-10 : 4480422838
- ISBN-13 : 978-4480422835
- Amazon 売れ筋ランキング: - 72,425位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 284位ちくま文庫
- - 952位哲学 (本)
- - 9,260位ビジネス・経済 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
(1925-1970)東京生れ。本名、平岡公威。
1947(昭和22)年東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。
主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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こうした「文化概念としての天皇」制の下では、「反逆や革命の倫理的根源が、正にその反逆や革命の対象たる日神にある」こと、「文化上のいかなる反逆も卑俗もついに「みやび」のなかに包括される(p.78)」のだと三島は主張する。孝明天皇の大御心に応えようとした桜田門の変の義士達と同様に、2・26事件の青年将校らも「一筋のみやび」を実行したものとして寛大に処せられるべきではなかったとの立場を、彼は採っている(p.75)。このような、世俗の権力と隔絶し、俗権にまさる祭祀権を天皇に措定する立場は、まさに民俗社会学者R.ベネディクトが、天皇制とはサモア、トンガやNZのマオリ族など太平洋諸島で多く見受けられる「神聖首長」の一類型であり、俗権と隔離された首長という社会制度の一種であると『菊と刀』(p.88ちくま文庫版2013)で論じている立場と軌を一にしていることに注目したい。
したがって、この様な三島流の天皇制理解に立てば、「天皇の国家の国体を、私有財産制度ならびに資本主義そのものと同義語にしてしまった(p.72)」という意味で、別言すれば、おおやけ(公=聖)とわたくし(私=邪)を並列に置いてしまっているという意味で、戦前、大正14年の治安維持法は「理論的に変質」(p.72)してしまっており、間違っている。また他方かつ同様に、戦後天皇制は、政治概念としての天皇と文化概念としての天皇とを、いずれも無力化してしまい、ついに「週刊誌天皇」の域にまで尊厳を失墜せしめられたものとして批判されている(p.75)。この様な意味で、三島は「菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源(p.79)」こそ天皇なのだから、文化としての時間的連続性、空間的連続性、再帰性、全体性を回復するために、天皇に軍の儀仗を受けさせ、また連隊旗を直接下賜可能にすることで「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務(p.80)」だ、「文化を防衛せよ」と主張している。三島の論理は上記のように整理できる。
ところが、この様な天皇制理解が三島にとっての一切揺るぎない確信では「なかった」、ことが更に重要である。「種明かし」が論末に用意されているところが、社会科学者ならぬ文学者の匠というべきか。上記所論に対して「美の論理と政治の論理(『中央公論』S43(1968)年9月)」と題した橋川文三からの批判をうけた三島は、驚くべきことに「ギャフンと参った(p.82)」とあっさり白旗を揚げている。橋川が指摘した論点は、第1に「文化概念としての天皇」は明治憲法体制の下すでに侵されており、「美の総覧者」としての天皇と近代国家の論理は根本的に相容れないこと。第2に天皇と軍隊の直結は共産革命防止の政策論としては有効だとしても、直結の瞬間に「文化概念としての天皇」が「政治概念としての天皇」にすりかわり、たちまち「文化の全体性の反措定になることはすでに実験済み」というものである。三島はこの批判を既知の論点とさらりと受け流し、「正にこの二点こそ、私ではなくて、天皇その御方が、不断に問われてきた論理矛盾ではなかったか」、この2点を問いつめることこそ根本的な問題提起なのだと再提起する。「文化防衛論」は、三島にとって「文化概念としての天皇を再構成し、かつ歴史的に規定しようと試み(p.85)」た、思考実験であったのだ。
では、この実験の意図は何であったか。「天皇および天皇制の、おそらくもっとも危険な性質は、そのスタビリティーにではなく、フレキシビリティーに在る(p.85)」と三島は見抜いている。三島は天皇制に「歯止め」「辷り止め」をかけたい。「幕末の国学以来、天皇を追いかけて追いかけて行って、又ヌルリと逃げられて」、「もうこれ以上は」という地点を、三島は「容共政権の成立時」に設定した。共産政権に象徴天皇制が利用されることこそ、三島が我慢ならなかった点であったのだ。こうしてみれば、俗権を正当化する権威の中心、「神輿」「お飾り」として利用しつづけていることが、日本政治/社会の宿痾の一側面であったことを、三島が深く理解していたことがわかり、実に興味深い。そして、アメリカ合衆国は、R.ベネディクトの卓見、『菊と刀』に拠って、実に見事に「象徴天皇制」を道具として、ぐくつの買弁政権を操り、米帝国支配下に置いているものだ、と妙な感慨も覚えのである。三島は右翼として見抜いていたが、多くの日本人は、この論考後、半世紀を経てもなお、カラクリに気づいていない。
「要するに、日本人には不動点が必要だ。」その思いは恐らく共産主義者にも、独占資本主義者にも、天皇制論者にも、共通にあり得ることではないかと思った。では「その不動点を何にするか」。それを三島は天皇制と言う。日本人の文化や思考回路、長きに及んでそれに寄り添い、背景であり続けた天皇制を三島は言うのである。
この本は当時の熱気、匂い、言葉遣いやイントネーションを知る「上級者」でもなければなかなか手ごわいかもしれない。第二部対談、三部学生とのティーチインから読み始めたほうが分かりやすいかもしれません。
三島は云う。
「左翼がいう、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。彼らは、原爆患者の例を見るとよくわかるように気の毒な人たちに襲いかかり、政治運動を展開してたちまち自分たちの権力闘争の場面に連れていってしまう。」
また、「戦後の日本にとっては、真の民族問題はありえず在日朝鮮人問題は、国際問題であり、難民の問題であっても日本国内の問題ではありえない。これを内部の問題であるかの如く扱う扱いには、明らかに政治的意図があって、先進工業国における革命的主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。手段としての民族主義をヒューマニズムの仮面の下に正当化したのである。」と。
要するに、左翼は難民を政治的利用しているのであり、彼らの常套手段である。
最近、都知事選の結果、2016年8月10日の天皇陛下のお言葉(英文付き)等戦後の終わりを象徴すると思われる出来事が続いた。
戦後70年を経過し、一つの時代が終わった。国民が漠然と膚で感じていたことが明示された。
年老いた左翼は、安保闘争を引きずり安保法案を「戦争法案」と叫びデモで国会を取り囲んだが、それは、世論の共感からはほど遠いものであった。10代から20代前半で組織された「シールズ」を売り出したが、これも8月15日に解散することになった。世論調査によると、この年代で左翼を支持する者は少数派であった。戦後レジームが転換しつつある。
綺麗事の結果としての難民で悩んでいる欧州では、最近、難民を移民と言い換えているそうである。
偽善で始まり、自己欺瞞で終わる恰好の見本のようなものである。
左翼は、影で愚民という言葉を好むそうであるが、屈折した心理が良く解かる。「都知事選」で反原発、反安倍で戦う候補がいたのには驚いた。結果は、惨敗であった。当然であろう。都政とは、何の関わりもないのだから。このように、左翼のピントのズレは甚だしい。
戦後レジームは、戦勝国・敗戦国を含めて終わりつつある。これまでとは全く違った光景が姿を現わすことになるだろう。
読みにくい本ですが、皆さんも最低2回は読むことをおすすめします。
私は2回目でだいぶ内容が理解できるようになりました。もちろん全部ではありませんですが。
この本は、今となっては三島の唱えた理論も大事かもしれませんが、どちらかというと、彼の生き様を理解するために必要な本になるのではないでしょうか。
(以下ネタバレ注意)
「天皇の鏡」(p327)は八咫鏡のように、日本の文化(主として表現の自由)の多様性を担保する文化概念、文化的象徴として天皇はあるべきだ。というのが三島の主張でこれが文化防衛論の趣旨だと解釈しました。従って表現の自由においても「行政権に連結しない限り」社会主義や共産主義は(表現段階のみとしては)認めるのであろう(本文には書いてないが)。ただそれも、天皇代々の過去の'雅'の歴史の裏打ちがあってのことである。
三島は多様性において少数者の存在を重視するが、当時三島は三輪明宏に何を見たのかを今となっては聴いてみたいところだ。(被差別民やアイヌは言論の自由の論点から外れるので避けたのだろうか。意地悪かもしれないが)
しかし、こうした彼の使う鏡の論理は、無意識に三島自身にも適用していたのではないか。例えば、本書の民青を嫌悪する段で「国家権力をきたならしいというと、国家権力に匹敵したきたならしさがあるんだ。」(p172)と述べている点がそれであろう。こういうのも三島の自裁の謎を解く鍵ではないか。(それから私は民青の関係者で無いので悪しからず・・・)
また、現在の情勢ならば、この本で三島が取り上げている「毛沢東」についての記述に注目したいと思う。
特にP257の「僕は共産中国で一番文学になっていると思うのは、毛沢東の言っていることだと思うのですが、・・・」以下がそうであろう。中国では毛沢東以外は文学ができない(書けない)という彼の論であるが、ここはさすが一流の文学者らしく非常に優れた見解であると思いました。
しかし、すでに日本においては経済のみならず、文化においても十二分すぎるほどアメリカの影響にある。
文化のみならず、歴史も伝統もである。
さらに付け加えるならば、軍事も。
なにもかも、すべてがアメリカに隷属している。
自前のエネルギーであった石炭は、コスト高という理由から石油に代わった。
産炭地振興法という名の法律の下、補助金行政が始まり、産炭地は衰退した。
代わって、日本のモータりーぜーションが到来し、湯水のごとく石油が中東から送り込まれた。
そして、オイルショック。
その石油に代わって、核被爆国の日本が原子力の開発を始めて半世紀。
メイドインアメリカの原発が崩壊した。
グローバルスタンダードという名のアメリカ型の経営手法によって、日本はアメリカの属国に以下に置かれている。
日本の伝統文化を唯一守っているのは、いまや皇室だけ。
皇室を守ることは日本を守ることことであり、日本の文化を守ることは皇室を守ること。
日本が、日本人が、これから世界に向けて、日本人らしさという文化(個性)を発揮するには、皇室を守るしかない。
その事々を、理論的に解説したのが本書になる。
日本において、日本らしさの形式と格式の箔付ができるのは皇室のみ。
日本とは、と行き詰まりを感じたときにページをめくると納得できる。