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たまたま地上にぼくは生まれた (ちくま文庫 な 27-3) 文庫 – 2007/1/1
中島 義道
(著)
- 本の長さ345ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2007/1/1
- ISBN-104480423060
- ISBN-13978-4480423061
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2007/1/1)
- 発売日 : 2007/1/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 345ページ
- ISBN-10 : 4480423060
- ISBN-13 : 978-4480423061
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,025,430位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,239位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 3,499位ちくま文庫
- - 5,699位哲学 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2003年9月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
読んで行けば勇気をもらえる部分もありました、が、非常に落ち込む部分もありました。途中で読み進められなくなったりして、別の作家を読んで、元気もらって、また読み返したり…。なんか正反対の薬を時間差で飲んでいるようでもありました。でも、時々はここへ来て見つめ直すことも必要でしょう。 あまりにも奥深く、凡人には到底覗くことのできないような深海からの海流に少し触れたような気がします。
2014年10月14日に日本でレビュー済み
人が自分自身の存在や人生の意味について考えるとき、避けて通れないのが「何故、今、自分がここにいるのだろう、偶然なのか、必然なのか」という問いでしょう。脳科学者の茂木健一郎氏は「挑戦する脳」の中で、偶然生まれてきた人間が自己存在を必然化するべく、脳が格闘し挑戦する」という趣旨のことを述べています。私も全く同感です。本のタイトル「たまたま地上にぼくは生まれた」はフランスの作家、ル・クレジオの「愛する大地」の冒頭部分で、40年以上前に読んだこの本を茂木氏の本で思い出しました。人生を肯定的に捉えるなら茂木氏の本を一読することを勧めます。より深く、哲学的に考えたい方には、神の問題を併せて考えることを勧めます。最近ニーチェがまた読まれている様ですが、ニーチェにしろクレジオにしろ、「神の不在」に対する絶望は、一神教と無縁な我々には計り知れないほど深いものだからです。然らば神に代わるものは?答えは自分で見つけるほかありません。
2008年3月24日に日本でレビュー済み
僕自身、なんとなく存在には気づいているのだが言語化することができずに、漠然とした形でしか認識できていない疑問や不満を自己の中に抱えていたりする。おそらくそのような感覚を持っている人は少なくないのではないだろうか。
中島氏はそれらの感覚に対して非常に誠実であり、かつ本書の中で対談相手として登場する宮台氏も言及しているように、それを言語化する能力に優れているという点でやはり中島氏は社会的に成功した存在になり得たと言える。その点で、この本にどんなに共感しても結局受け手側の人間にしかなれない自分は、中島氏のように自らが抱える疑問や不満といった一種の自己幻想的とも言えるような感覚をエネルギーへと転換することもできずにいるという引け目を感じさせもする。だがしかし、中島氏は本書において「哲学する」ことを教えてくれる。それは決して一部の学識者のみに可能などというものではないのだ。個人的なことを言えば、極めて凡人な僕でも本書を読み、「哲学する」ことができれば、自らが抱く疑問への明確な答えは見つからずとも、その疑問とは何なのかという「問いを深める」ことができるのではないかということに、少なからず希望を抱いたのは確かだ。
中島氏はそれらの感覚に対して非常に誠実であり、かつ本書の中で対談相手として登場する宮台氏も言及しているように、それを言語化する能力に優れているという点でやはり中島氏は社会的に成功した存在になり得たと言える。その点で、この本にどんなに共感しても結局受け手側の人間にしかなれない自分は、中島氏のように自らが抱える疑問や不満といった一種の自己幻想的とも言えるような感覚をエネルギーへと転換することもできずにいるという引け目を感じさせもする。だがしかし、中島氏は本書において「哲学する」ことを教えてくれる。それは決して一部の学識者のみに可能などというものではないのだ。個人的なことを言えば、極めて凡人な僕でも本書を読み、「哲学する」ことができれば、自らが抱く疑問への明確な答えは見つからずとも、その疑問とは何なのかという「問いを深める」ことができるのではないかということに、少なからず希望を抱いたのは確かだ。
2003年1月7日に日本でレビュー済み
この本を読んではじめすごく不愉快になった。わたしがずっと自分を含めた世界について感じていたことで、何で他の人達はこのことに気づかないんだろう、って思ってたことが、ほっとんど書いてあったから。しかもわかりやすく(まぁ講演集だからってのもあるけど)。そしてわたしより百歩くらい先を中島義道は歩いていた。だから何だか悔しかった。
でも読んだことによって、様々なこと(自分の無知・浅はかさ、世の中の救いようのなさを含む)がわかって、読む前の段階から確実に一歩進めたのはとても嬉しかった。そしてその喜びははじめの不愉快さを大きく上回った。
こういう本当のことを書いている本は貴重だと思う。たとえ直視したくない内容であっても。
でも読んだことによって、様々なこと(自分の無知・浅はかさ、世の中の救いようのなさを含む)がわかって、読む前の段階から確実に一歩進めたのはとても嬉しかった。そしてその喜びははじめの不愉快さを大きく上回った。
こういう本当のことを書いている本は貴重だと思う。たとえ直視したくない内容であっても。
2007年11月14日に日本でレビュー済み
読みごたえはある。
が、一般向けの講演をそのまま文字に起こしたものなので、どこか浅いように感じる。
それでも仮に講演を聴きにいって、これだけの内容なら、まず損をしたとは思わない。
たとえば、ヨーロッパ人の頑迷固陋さを暴くエピソード群。
「就職」それ自体を一大物語となしえた彼の苦労話。
だから、買う価値はあった。
ただ、複数の講演だけに、繰り返しが多い。
しかも、「深み」を増すようなかたちで繰り返されるのではなく、似たような原稿を「使い回し」ているかのような、パターン化された文章の繰り返しが見られ、ああ「講演家稼業」はこうして営まれるのだなと、妙な好奇心を刺激されてしまった。
それは許そう。
さて、宮台真司との対談は、ひとつの目玉だろう。
東大卒のビッグネーム(?)同士で語られるテーマは、昨今ブームの「癒し」。
しかし、ここに露呈しているのは、いわば彼らの「はしたなさ」とでもいうべきものかもしれない。
宮台は、いつものごとく、ナンパとセックスに自己の存在意義を見出しているし、“どんな機会にもそれを言いそびれないようにしよう”という彼のワンパターン精神には、うんざりする。
これは、(男性)読者や対談相手に強い嫉妬(羨望)を掻きたてようとする論戦上の策略なのか、あるいは、学歴よりも、そこ(性)に彼のプライドの源泉があるのか、たぶん両方だろう。
対する中島にとっては、“自分の死(消滅)が耐えられない”という根源的な問いを抱えていることが、最大のホンネであり、また、多数の共感を得たい苦悩として本書全体の中心テーマでもある。
つまり、性の目覚め以前に到来した「早熟さ」(死への怖れ)が、彼のプライドの源泉なのである。
が、宮台の「中島さんはモテますよ」という再三のおべっかに、はぐらかされつつ、話はグダグダに流れていく。
要するに、彼らの「性への執着」と「生への執着」は決して交差しない。
だから、議論は、非生産的なのであった。
そこが、逆説的に面白い。無論、苛立ちを感じるわけだが。
が、一般向けの講演をそのまま文字に起こしたものなので、どこか浅いように感じる。
それでも仮に講演を聴きにいって、これだけの内容なら、まず損をしたとは思わない。
たとえば、ヨーロッパ人の頑迷固陋さを暴くエピソード群。
「就職」それ自体を一大物語となしえた彼の苦労話。
だから、買う価値はあった。
ただ、複数の講演だけに、繰り返しが多い。
しかも、「深み」を増すようなかたちで繰り返されるのではなく、似たような原稿を「使い回し」ているかのような、パターン化された文章の繰り返しが見られ、ああ「講演家稼業」はこうして営まれるのだなと、妙な好奇心を刺激されてしまった。
それは許そう。
さて、宮台真司との対談は、ひとつの目玉だろう。
東大卒のビッグネーム(?)同士で語られるテーマは、昨今ブームの「癒し」。
しかし、ここに露呈しているのは、いわば彼らの「はしたなさ」とでもいうべきものかもしれない。
宮台は、いつものごとく、ナンパとセックスに自己の存在意義を見出しているし、“どんな機会にもそれを言いそびれないようにしよう”という彼のワンパターン精神には、うんざりする。
これは、(男性)読者や対談相手に強い嫉妬(羨望)を掻きたてようとする論戦上の策略なのか、あるいは、学歴よりも、そこ(性)に彼のプライドの源泉があるのか、たぶん両方だろう。
対する中島にとっては、“自分の死(消滅)が耐えられない”という根源的な問いを抱えていることが、最大のホンネであり、また、多数の共感を得たい苦悩として本書全体の中心テーマでもある。
つまり、性の目覚め以前に到来した「早熟さ」(死への怖れ)が、彼のプライドの源泉なのである。
が、宮台の「中島さんはモテますよ」という再三のおべっかに、はぐらかされつつ、話はグダグダに流れていく。
要するに、彼らの「性への執着」と「生への執着」は決して交差しない。
だから、議論は、非生産的なのであった。
そこが、逆説的に面白い。無論、苛立ちを感じるわけだが。
2012年9月19日に日本でレビュー済み
哲学者・中島義道による講演や対談(with 宮台真司)をいくつかまとめた本である。なので、他のレビューにもあったが、同じ話を何度も繰り返すようなところがある。
東大・文1に合格したが、法学部には進まず、哲学の道に進んだものの、いろいろあって、33歳でウィーンに留学して、帰ってきて大学の仕事について・・・現在に至るというような身の上話から始まる。おおざっぱにいえば哲学めいた話と、ヨーロッパの文化や生活の話がメインテーマ。
ヨーロッパ人(ウィーン)には中華思想があり、日本にGNPで負けても、形而上学的自尊心をもっており、こういうヨーロッパ人の固定観念を突き崩すことが国際化の第一歩であるとか、ウィーンに来る日本人のうちエリートはわずかであり、残りははっきりいって大使館にとってもエリートにとっても迷惑な存在であり、しかも、ウィーンについて語るのはエリートたちなので日本にはバイアスのかかったウィーン情報のみが来るとか、日本人は納得しなくても規則を守るが、ドイツ人は自分の権利が成立する限りにおいて、妥協できる限りにおいて規則を守るとか、日本は議論をしない言葉をやさしく圧殺する社会だが、西洋は人を傷つけても真実を語れ(でも責任はもてよ)という社会であり、そもそも言葉は武器なのだから相手を攻撃する能力をもつのは当然であるとか、そんな話。
哲学については、ずんずんとインモラルな世界に入っていくとか、向かい風に逆らいながら思考の果てに誘うとか・・・というような力感はなくて、少し時事的というか身近評論的というか、いろんな意味で、日本人的なエッセイ。
東大・文1に合格したが、法学部には進まず、哲学の道に進んだものの、いろいろあって、33歳でウィーンに留学して、帰ってきて大学の仕事について・・・現在に至るというような身の上話から始まる。おおざっぱにいえば哲学めいた話と、ヨーロッパの文化や生活の話がメインテーマ。
ヨーロッパ人(ウィーン)には中華思想があり、日本にGNPで負けても、形而上学的自尊心をもっており、こういうヨーロッパ人の固定観念を突き崩すことが国際化の第一歩であるとか、ウィーンに来る日本人のうちエリートはわずかであり、残りははっきりいって大使館にとってもエリートにとっても迷惑な存在であり、しかも、ウィーンについて語るのはエリートたちなので日本にはバイアスのかかったウィーン情報のみが来るとか、日本人は納得しなくても規則を守るが、ドイツ人は自分の権利が成立する限りにおいて、妥協できる限りにおいて規則を守るとか、日本は議論をしない言葉をやさしく圧殺する社会だが、西洋は人を傷つけても真実を語れ(でも責任はもてよ)という社会であり、そもそも言葉は武器なのだから相手を攻撃する能力をもつのは当然であるとか、そんな話。
哲学については、ずんずんとインモラルな世界に入っていくとか、向かい風に逆らいながら思考の果てに誘うとか・・・というような力感はなくて、少し時事的というか身近評論的というか、いろんな意味で、日本人的なエッセイ。
2007年4月13日に日本でレビュー済み
仮に、電車の車内放送が耳障りであった場合、いったいどれくらいの日本人が直接駅員にクレームをつけるであろうか?おそらく多くの日本人は、その他大勢の乗客が何の不満も抱いていないように見える状況から、自分ひとりがクレームをつけるのは自己中心的であると考え、何も言わないであろう。逆に言うと、その他大勢の人も自分と同じように考えているだろうと予想されることしか人は主張しないということになる。これはまさに、個人の言葉の死に他ならない。筆者、そして哲学は、こうした個人の言葉を大切にし、自分の言葉で世界に発信し、また世界を論じている。こうした姿勢は、現代の日本人が学ぶべきものであるのではないだろうか?