F.R.リーヴィスがその著『偉大な伝統』(1948年)で「イギリスの偉大な小説家は、ジェイン・オースティン、ジョージ・エリオット、ヘンリー・ジェイムズ、ジョウゼフ・コンラッド」と4人の名前を挙げたことはよく知られています。
評者などもその見解に深く納得するところがあります。
もちろんブロンテ姉妹やディケンズ、ハーディはどうした、という指摘があるかもしれませんが、イギリス文学において読んでとにかく端的に「すごい!」と感じさせるのはやはり上の4人の小説家ではないか、さらにあえていえばその4人しかいないのではないかという思いがずっと評者にもあります。
本書には、そのひとりコンラッドの短編5篇「文明の前哨地点」(1897年雑誌初出)、「秘密の同居人」(1910年)、「密告者」(1906年)、「プリンス・ローマン」(1911年)、「ある船の話」(1917年)が収められています。
岩波文庫にも同じ表題の『コンラッド短篇集』がありますが、「密告者」が重なっているだけです。
5つの短篇はそれぞれ「文明の前哨地点」はアフリカ奥地もの(このテーマでは類似作品として「闇の奥」や「ドルゆえに」など)、「秘密の同居人」は船の航海もの(このテーマでは「青春」や「ロード・ジム」など)、「密告者」はアナキストもの(このテーマでは「アナキスト」や「密偵」など)、「プリンス・ローマン」は戦争もの(このテーマでは「武人の魂」や「ガスパール・ルイス」など)、そして「ある船の話」はまた船の航海もの、というようにコンラッドでおなじみのテーマがそこで扱われています。
最後の三篇は、これもコンラッドによく見られる枠物語の形式になっています。
また「プリンス・ローマン」を読むと、「武人の魂」や「伯爵」にも感じられますが、気高く生きる貴族への思い入れがみずからも貴族の末裔であるコンラッドにあったのかと想像させるものがあります。
コンラッドが描く物語では、多くの場合、登場人物はほとんどつねに一種の極限状況に置かれています。
そしてそういう極限状況で事を決めるのは、明白にして合理的な人の意思や単純に意識にのぼる善悪の道徳的判断ではなく、本人自身にもよく分からぬ非合理な衝動のようなものであるというところで物語が展開してゆきます。そしてそこに極度のサスペンスと緊張が生まれるというわけです。
とにかく極限状況に直面して、非合理なものが「暗闇のなかの跳躍(ジャンプ)」ともいうかたちで人間存在の行動や心理をつきうごかすというところに、あるいはひるがえって小説家からすればそういう不合理なものとしての人間存在に迫ろうとするところに、おそらくコンラッドの小説の最大の特徴、そしてあえていえば「すごい」ところがあります。
ともあれコンラッドの最良の小説は、まあ人間の実存というと大袈裟だけれど、人間存在という不合理なかたまりに深く分け入ろうとするその強度と衝迫においてきわめて20世紀的つまり現代的な小説といえるかと思います。
『闇の奥』(1899年)や『ロード・ジム』(1900年)は、評者にはまだ少し習作っぽい、あるいはのちの小説と比較すれば人間存在という不合理なかたまりに迫る度合いにおいていまだしの感があるのですが、『密偵』(1906年)を経て『西欧人の眼に』(1910年)でコンラッドは最高傑作を書くことになります。
なお巻末解説によると、コンラッドの作品へのドストエフスキーの影響いかんについて、訳者は、ドストエフスキー作品の英語による初訳が『密偵』や『西欧人の眼に』の刊行の後であることを根拠に影響関係はなかったものと考えているようです。
でも、コンラッドは、母語がポーランド語だったとしても、英語よりさきに、当時のヨーロッパの貴族の子弟らしくフランス語ができた(父親の教育のもと「4歳のときにはフランス語が読めた」というコンラッド自身の言が残されているようですし、かれは作家になるときフランス語で書く選択もありえたという話を以前どこかで読んだ記憶があります)、そして当時ロシア領だったウクライナで少年期を送ったこともあってロシア語もできたかもしれないので、『悪霊』や『罪と罰』をすでに19世紀末には出ていた仏訳で読んだ、あるいはロシア語そのものでそれを読んでいた可能性はどうなのかという疑問があります。
コンラッド研究ではすでにそのあたり究明もされ、影響のあるなしについて結論も出て決着がついているのでしょうか。
それにしても評者にはずっと未読のままになっている問題作『ノストローモ』(1904年)、大長編ということもあって途中で挫折するのではと思うと、読みはじめるのがいまだ正直ちと怖い(笑)。
なお『ノストローモ』は翻訳として現在筑摩版「世界文学大系」のコンラッド篇で読むことができますが、新訳がどこかの出版社で予定されているようです。
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コンラッド短篇集 (ちくま文庫 こ 35-1) 文庫 – 2010/1/6
文明の前哨地点,秘密の同居人,密告者,プリンス・ローマン,ある船の話
- 本の長さ264ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2010/1/6
- ISBN-10448042637X
- ISBN-13978-4480426376
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2010/1/6)
- 発売日 : 2010/1/6
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 264ページ
- ISBN-10 : 448042637X
- ISBN-13 : 978-4480426376
- Amazon 売れ筋ランキング: - 992,199位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2017年6月18日に日本でレビュー済み
訳者解説にもあるように、コンラッドの作品の多くは冒険・陰謀・革命といった、
いささか大時代的な主題を扱ったものであり、名作とされる『ロード・ジム』や
『闇の奥』にしても、今読むとそこまでピンとは来ないようでもあって、正直な
ところ、グレアム・グリーンといった錚々たる大作家たちが口々にコンラッドを
称賛する理由が、今まではもうひとつ呑み込めずにいた。
しかし、本書の訳者はD・H・ロレンスの浩瀚な評伝で和辻哲郎文化賞を受賞し、
すぐれた村上春樹論も書いている人物であるためか、訳しようによってはただ
大仰なだけに見えてしまいかねないコンラッドの文体の感触が、今までの翻訳
よりもはるかに直截に伝わってきたような気がする。
とくに最初の短篇「文明の前哨地点」で描かれる、たまさか植民地の尖兵の役割を
果たすことになる浅薄な人間たちのふるまいと、彼らの理解を拒む自然の底知れぬ
不気味さや怖ろしさとの対比は、まさにコンラッドの真骨頂と言うべきで、本書を
読んでようやくコンラッドという作家の凄さが、いささかなりとも理解できたようだ。
コンラッドの前半生をかなり詳しく紹介した訳者解説もおすすめで、これを読むと
あらためてコンラッドという作家は、同時代の英国の作家としては、かなり特異な
人生経験を重ねてきた人物であることが実感されるし、彼の作品の多くが推理小説
のような趣を帯びる理由が、ストンと腑に落ちて興味深かった。
いささか大時代的な主題を扱ったものであり、名作とされる『ロード・ジム』や
『闇の奥』にしても、今読むとそこまでピンとは来ないようでもあって、正直な
ところ、グレアム・グリーンといった錚々たる大作家たちが口々にコンラッドを
称賛する理由が、今まではもうひとつ呑み込めずにいた。
しかし、本書の訳者はD・H・ロレンスの浩瀚な評伝で和辻哲郎文化賞を受賞し、
すぐれた村上春樹論も書いている人物であるためか、訳しようによってはただ
大仰なだけに見えてしまいかねないコンラッドの文体の感触が、今までの翻訳
よりもはるかに直截に伝わってきたような気がする。
とくに最初の短篇「文明の前哨地点」で描かれる、たまさか植民地の尖兵の役割を
果たすことになる浅薄な人間たちのふるまいと、彼らの理解を拒む自然の底知れぬ
不気味さや怖ろしさとの対比は、まさにコンラッドの真骨頂と言うべきで、本書を
読んでようやくコンラッドという作家の凄さが、いささかなりとも理解できたようだ。
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あらためてコンラッドという作家は、同時代の英国の作家としては、かなり特異な
人生経験を重ねてきた人物であることが実感されるし、彼の作品の多くが推理小説
のような趣を帯びる理由が、ストンと腑に落ちて興味深かった。