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先生はえらい (ちくまプリマー新書) 新書 – 2005/1/1
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著者からひとこと
この本は「ちくまプリマー新書」という中高生対象の新しい新書シリーズの一冊として書かれたものです。
「いまどきの中高生に何か言いたいことがありますか?」と筑摩の編集者に尋ねられたときに、「『先生はえらい』かな・・」とぽつりと答えたのが、この本のきっかけになりました。
タイトルからおわかりいただけるようにこれは師弟論です。
教育論というのは世に多くありますが、師弟論というのは、最近少ないですね。
というのも、「先生はえらくない」ということがいまの日本ではほとんど常識になっているからです。
「教育基本法を改正せよ」「教育勅語を復活せよ」などと言われるみなさんはもちろん、「教師だって生身の人間だい」「教師は労働者である」という方向に力点を置かれるみなさんも、とりあえず「先生はそんなにえらいもんじゃないです、別に」ということについては衆議一決されています。
先生方のお気持ちも、あるいは先生方を罵倒される方々も、それなりに切ない事情があって語り出されているわけですから、お気持ちもわからないではありませんが、そういうことだけで果たしてよろしいのであろうか、という警世の一石を投じるのが本書の趣旨であります。
私の「先生はえらい」論は、「えらい先生とはこれこれこういうものである」というような認知的なものではありません(そんなことを言っても何も始まりません)。
あるいは「いいから黙って先生の言うことを聞きなさい」というような政治的なものでもありません(そんなことを言っても誰も聞いちゃくれません)。
そうではなくて、「先生」というのは定義上「えらい」ものである。あなたが「えらい」と思う人、それが「先生」であるという必勝不敗の同語反復を断固主張するところの書物なのであります。
私が行ったのはいわば「えらい」の構造分析です。
「他者を『えらい』と思うのは、どういう心的状況、いかなる権力的付置のことか」
という分析を試みたのです。
これなら私も理論的に熟知しています。
というのは、私がこの数年集中的に読んできたレヴィナス老師とラカン老師はどちらも「えらい」の専門家だからです。
この方たちは「えらい」というのはどういうことで、それがどのような教育的・分析的効果をもつのかということを、ほとんどそのこと「だけ」を考究され、書き残されているのでした(ということに気づかれているかたはあまりいないようですが、そうなんですよ、これが)。
私も最近まで気づきませんでしたから、偉そうなことは言えませんが。
ともあれ、レヴィナス、ラカン両老師のご高説をすべて「えらいの構造分析」という視点から読み直し、ついに「『先生はえらい』だって、『えらい人』のことを『先生』ていうんだもん」という必殺の同語反復に到達したというのがことの真相であります。
「えらい」の構造分析を通じて、師弟関係の力学的構造が解明されれば、まあ、あとは原理的には「赤子の手をひねる」ようなものです。ビジネスでいうところの「レバレッジ」(梃子)というやつですね。
「われにレバレッジを与えよ、さらば宇宙を動かしてごらんにいれよう」とまではゆきませんが、「えらい」のレバレッジ・モデルの解明を通じて、やがて日本の教育はあらたなフェーズに入ってゆくものと確信しつつ、新刊案内のご挨拶に代えさせて頂きます。
内田 樹
【目次】
先生は既製品ではありません
恋愛と学び
教習所とF‐1ドライバー
学びの主体性
なんでも根源的に考える
オチのない話
他我
前未来形で語られる過去
うなぎ
原因と結果
沈黙交易
交換とサッカー
大航海時代とアマゾン・ドットコム
話は最初に戻って
あべこべことば
誤解の幅
誤解のコミュニケーション
聴き手のいないことば
口ごもる文章
誤読する自由
あなたは何を言いたいのですか?
謎の先生
誤解者としてのアイデンティティ
沓を落とす人
先生はえらい
- ISBN-104480687025
- ISBN-13978-4480687029
- 出版社筑摩書房
- 発売日2005/1/1
- 言語日本語
- 本の長さ175ページ
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商品の説明
著者からのコメント
この本は「ちくまプリマー新書」という中高生対象の新しい新書シリーズの一冊として書かれたものです。
「いまどきの中高生に何か言いたいことがありますか?」と筑摩の編集者に尋ねられたときに、「『先生はえらい』かな・・」とぽつりと答えたのが、この本のきっかけになりました。
タイトルからおわかりいただけるようにこれは師弟論です。
教育論というのは世に多くありますが、師弟論というのは、最近少ないですね。
というのも、「先生はえらくない」ということがいまの日本ではほとんど常識になっているからです。
「教育基本法を改正せよ」「教育勅語を復活せよ」などと言われるみなさんはもちろん、「教師だって生身の人間だい」「教師は労働者である」という方向に力点を置かれるみなさんも、とりあえず「先生はそんなにえらいもんじゃないです、別に」ということについては衆議一決されています。
先生方のお気持ちも、あるいは先生方を罵倒される方々も、それなりに切ない事情があって語り出されているわけですから、お気持ちもわからないではありませんが、そういうことだけで果たしてよろしいのであろうか、という警世の一石を投じるのが本書の趣旨であります。
私の「先生はえらい」論は、「えらい先生とはこれこれこういうものである」というような認知的なものではありません(そんなことを言っても何も始まりません)。
あるいは「いいから黙って先生の言うことを聞きなさい」というような政治的なものでもありません(そんなことを言っても誰も聞いちゃくれません)。
そうではなくて、「先生」というのは定義上「えらい」ものである。あなたが「えらい」と思う人、それが「先生」であるという必勝不敗の同語反復を断固主張するところの書物なのであります。
私が行ったのはいわば「えらい」の構造分析です。
「他者を『えらい』と思うのは、どういう心的状況、いかなる権力的付置のことか」
という分析を試みたのです。
これなら私も理論的に熟知しています。
というのは、私がこの数年集中的に読んできたレヴィナス老師とラカン老師はどちらも「えらい」の専門家だからです。
この方たちは「えらい」というのはどういうことで、それがどのような教育的・分析的効果をもつのかということを、ほとんどそのこと「だけ」を考究され、書き残されているのでした(ということに気づかれているかたはあまりいないようですが、そうなんですよ、これが)。
私も最近まで気づきませんでしたから、偉そうなことは言えませんが。
ともあれ、レヴィナス、ラカン両老師のご高説をすべて「えらいの構造分析」という視点から読み直し、ついに「『先生はえらい』だって、『えらい人』のことを『先生』ていうんだもん」という必殺の同語反復に到達したというのがことの真相であります。
「えらい」の構造分析を通じて、師弟関係の力学的構造が解明されれば、まあ、あとは原理的には「赤子の手をひねる」ようなものです。ビジネスでいうところの「レバレッジ」(梃子)というやつですね。
「われにレバレッジを与えよ、さらば宇宙を動かしてごらんにいれよう」とまではゆきませんが、「えらい」のレバレッジ・モデルの解明を通じて、やがて日本の教育はあらたなフェーズに入ってゆくものと確信しつつ、新刊案内のご挨拶に代えさせて頂きます。
内田 樹
出版社からのコメント
ひとりでできる教育改革
「先生はえらい」のです。たとえ何ひとつ教えてくれなくても。「えらい」と思いさえすれば学びの道はひらかれる。
著者について
1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。神戸女学院大学文学部教授を経て同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。多田塾甲南合気会を主宰する武道家。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞2010受賞。第3回伊丹十三賞受賞。著書に『先生はえらい』『武道的思考』、共著に『大人は愉しい』他多数。
登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2005/1/1)
- 発売日 : 2005/1/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 175ページ
- ISBN-10 : 4480687025
- ISBN-13 : 978-4480687029
- Amazon 売れ筋ランキング: - 7,810位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
1950(昭和25)年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門はフランス現代思想。ブログ「内田樹の研究室」を拠点に武道(合気道六段)、ユダヤ、教育、アメリカ、中国、メディアなど幅広いテーマを縦横無尽に論じて多くの読者を得ている。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で第六回小林秀雄賞受賞、『日本辺境論』(新潮新書)で第三回新書大賞を受賞。二〇一〇年七月より大阪市特別顧問に就任。近著に『沈む日本を愛せますか?』(高橋源一郎との共著、ロッキング・オン)、『もういちど村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング)、『武道的思考』(筑摩選書)、『街場のマンガ論』(小学館)、『おせっかい教育論』(鷲田清一他との共著、140B)、『街場のメディア論』(光文社新書)、『若者よ、マルクスを読もう』(石川康宏との共著、かもがわ出版)などがある。
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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しかし、学ぶ者は必敗の者であり、学ぶ者に解釈の余地ある教えを施す先生はえらい。
「自分は何を知らないか、できないか」を適切に言うことができない状態を適切だとしている。
そして、先生は、その「何か=知識」を教えてくれるものではなく、
「スイッチ=媒介装置」の役割をすることが適切だと、
つまり、教師は、知識を教授する、しないは、あまり学ぶ側にとって真に必要とせず
学ぶ側が何を知りたいかを自己に問いかけるような存在になるべきだということです。
学ぶ側が、あっ自分自身は、こういう「知」を知りたいんだ、勉強したいんだと、
心の底から思える状態ではあれば、教師の役目は半ば終了し、
学ぶ側は、以後、自発的に学ぶ。
今、学校の授業はシラバス方式(いつ、何を、どう教えるを開示したもの)になっているらしい。
これは、先生を知識提供サービス者とし、勉強する側は消費者とする、
まさに、ビジネスの論理で教育を考えている。
これをやっちゃおしまいよという言葉がありますが、
内田氏曰く、お終いなのでしょう。
つまり今の状況は、学ぶ側にメリットがあるように思えるが
(だって知識を効率的に分かり易く教えてくれるんだから)、
しかし、実はあまりメリットがない。
そもそも、教育に対してメリット、デメリットを考えしまうこと自体が、
ナンセンスなのだろうと思う。
結局は知識の過多で点数をつけられるから、仕方ないかもしれないが、
これでは、今も昔も大量の勉強嫌い(点数をつけられ、順番をつけられることが嫌だと思うこと)
を生んでしまうように思う。
こういう社会的損失をしっかり把握したほうがいいんじゃないだろうか。
ただ、現に、これではいかん!と思って動き出している先生は多数いる。
ビジネスの論理に負けないで、是非、頑張っていただきたい。
また、それとは異なる次元においては、ニュートンは学びとは実に誤解に基づいている、ということを感じたかもしれない。なにせ、林檎はただ木から落下しただけなのだから。そして、仮にこの誤解と学びの構造についてニュートンが気付いたのであれば、彼は、彼の教えは、ほんのり”おじさん”化したかもしれない。
本書の内容を誤解することにより、少なくとも、私はそうなるであろう。
教育関係者は必読である。
こう考えれば分かりやすいでしょう、「サンタクロースがいないのは君が出会っていないからなので北欧あたりに行って探しなさい」、あるいはサンタではなく〈神〉でもいいですが、そんなものはいないという反論に対する反証にはなっていません。存在証明をしたいなら実際に存在するという事実から記述すべきです。頭の中で考えた定義は頭の中だけのものであって外的世界の実在を保証するものではありません。
あと、「先生は偉いのは先生が偉いからだ」という物言いは主語概念に述語概念が内包されていることを示しています。これは、「独身男は結婚していない」という文が真であるのは主語概念である独身男に結婚していないが内包されているからと同じ事です。すなわち、「先生が偉い」という文は単に主語概念を復唱しているに過ぎず、「円は丸い」と同じでただの同語反復ということになります。
この手の文は、人々に新しい知見を加えるというものではなく、「神は存在する」という文と同様に、その文が指示する内容を信じたいと思っている人々の信念強化としてのみ作用するものであって、言ってしまえば同調者御用達の文として消費されていきます。ただ、その文がファンタジー的内容ならば、たいして害にはなりませんが、「先生は偉い」という絶対隷属体制を強化していく文言は実害が大きいと言わざるをえません。ある団体に参加したならばその指導者は偉いのだから逆らうな、こんなことが通用するのは一般的な感覚から隔絶していて個人を物言わぬ細胞くらいにしか考えない集団だけです。「先生が偉い」、これが現実味を帯びるのは「先生が実際に〈偉い〉」すなわち〈偉い〉と認識されうる事柄を実際にその人が実践しているという事実と合致する時に限られるのであって、ア・プリオリに「偉い」わけではありません。
普段はこの類いの本を読むことなぞないのですが、事情により手にしました。何と言うか、哲学者という人種は自分の頭の中で考えた事柄が現実を作りあげるとでも信じているのかなと勘繰りたくなる内容で、久しぶりに自分の哲学観を反省する機会にはなりました。