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古代から来た未来人折口信夫 (ちくまプリマー新書 82) 新書 – 2008/5/1
中沢 新一
(著)
- ISBN-10448068784X
- ISBN-13978-4480687845
- 出版社筑摩書房
- 発売日2008/5/1
- 言語日本語
- 本の長さ143ページ
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2008/5/1)
- 発売日 : 2008/5/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 143ページ
- ISBN-10 : 448068784X
- ISBN-13 : 978-4480687845
- Amazon 売れ筋ランキング: - 328,482位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1950年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、多摩美術大学芸術人類学研究所所長。思想家。著書に『チベットのモーツァルト』(サ ントリー学芸賞)、『森のバロック』(読売文学賞)、『哲学の東北』(斎藤緑雨賞)、『フィロソフィア・ヤポニカ』(伊藤整文学賞)など多数ある(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『カイエ・ソバージュ』(ISBN-10:4062159104)が刊行された当時に掲載されていたものです)
カスタマーレビュー
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5 星
心層学者の折口信夫
僕はこの本に強い衝撃を受けて能登にあるお墓、そして談山神社などを訪ねた折口 信夫さんは、1887年-1953年の大正、昭和のはじめの>国文学者・民族・祭り学者・芸能史学者であり>歌人(釈迢空と号)でもあります僕は折口さんを人類の歴史を追求する地層学者をもじって心の歴史学者「心層学者」のように感じます。文字記録のない卑弥呼以前、15000年ほど続いた縄文人、その更にその奥のむかしの人類などは今は最新の物理学・化学・生物学で>日本人の肉体的ルーツを数値化してかなり解明できているそうですが倭国ころの古代神道、その後に伝来した仏教・道教・儒教などに影響を受けていない>私たちの心的ルーツは折口信夫さんの研究抜きにして語れないことを覚えさせる中沢新一さんの本です
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上位レビュー、対象国: 日本
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2017年11月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
僕はこの本に強い衝撃を受けて能登にあるお墓、そして談山神社などを訪ねた
折口 信夫さんは、1887年-1953年の大正、昭和のはじめの
>国文学者・民族・祭り学者・芸能史学者
であり
>歌人(釈迢空と号)
でもあります
僕は折口さんを人類の歴史を追求する地層学者をもじって心の歴史学者「心層学者」のように感じます。文字記録のない卑弥呼以前、15000年ほど続いた縄文人、その更にその奥のむかしの人類などは今は最新の物理学・化学・生物学で
>日本人の肉体的ルーツ
を数値化してかなり解明できているそうですが
倭国ころの古代神道、その後に伝来した仏教・道教・儒教などに影響を受けていない
>私たちの心的ルーツ
は折口信夫さんの研究抜きにして語れないことを覚えさせる中沢新一さんの本です
折口 信夫さんは、1887年-1953年の大正、昭和のはじめの
>国文学者・民族・祭り学者・芸能史学者
であり
>歌人(釈迢空と号)
でもあります
僕は折口さんを人類の歴史を追求する地層学者をもじって心の歴史学者「心層学者」のように感じます。文字記録のない卑弥呼以前、15000年ほど続いた縄文人、その更にその奥のむかしの人類などは今は最新の物理学・化学・生物学で
>日本人の肉体的ルーツ
を数値化してかなり解明できているそうですが
倭国ころの古代神道、その後に伝来した仏教・道教・儒教などに影響を受けていない
>私たちの心的ルーツ
は折口信夫さんの研究抜きにして語れないことを覚えさせる中沢新一さんの本です
僕はこの本に強い衝撃を受けて能登にあるお墓、そして談山神社などを訪ねた
折口 信夫さんは、1887年-1953年の大正、昭和のはじめの
>国文学者・民族・祭り学者・芸能史学者
であり
>歌人(釈迢空と号)
でもあります
僕は折口さんを人類の歴史を追求する地層学者をもじって心の歴史学者「心層学者」のように感じます。文字記録のない卑弥呼以前、15000年ほど続いた縄文人、その更にその奥のむかしの人類などは今は最新の物理学・化学・生物学で
>日本人の肉体的ルーツ
を数値化してかなり解明できているそうですが
倭国ころの古代神道、その後に伝来した仏教・道教・儒教などに影響を受けていない
>私たちの心的ルーツ
は折口信夫さんの研究抜きにして語れないことを覚えさせる中沢新一さんの本です
折口 信夫さんは、1887年-1953年の大正、昭和のはじめの
>国文学者・民族・祭り学者・芸能史学者
であり
>歌人(釈迢空と号)
でもあります
僕は折口さんを人類の歴史を追求する地層学者をもじって心の歴史学者「心層学者」のように感じます。文字記録のない卑弥呼以前、15000年ほど続いた縄文人、その更にその奥のむかしの人類などは今は最新の物理学・化学・生物学で
>日本人の肉体的ルーツ
を数値化してかなり解明できているそうですが
倭国ころの古代神道、その後に伝来した仏教・道教・儒教などに影響を受けていない
>私たちの心的ルーツ
は折口信夫さんの研究抜きにして語れないことを覚えさせる中沢新一さんの本です
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2016年6月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
これはこれは面白い発見がありました。
ちなみにこの折口信夫さん、
私の地元(福岡県直方市)の多賀神社を訪れたことがあり、その時の歌が歌碑に刻まれています。
(木屋瀬出身の放送劇作家・伊馬春部さんと長きにわたる親交があったため。)
まず、折口信夫の言う「古代」とは、
「古事記」や「万葉集」が編纂された奈良時代のような特定の時代のことではなく、
縄文人たちのことでもなく、
もっと根源的にとてつもなく古い心の働き、縄文時代のさらに奥の、
人類の「原初的な心の働き」まで含まれているのではないか、
と、著者の中沢新一さんは推測されています。
本文P23
折口信夫は日本列島における「古代人」の宗教性豊かな暮らしを、
次のようなサイクルとして描き出した。
「古代人」は月の満ち欠けと太陽の位置に、とても敏感に反応していた。
月の満ち欠けは、1月ごとの周期的変化をつくりだす。
これにたいして太陽は昼と夜の長さを変化させながら、1年を単位とする大きな周期を描いていく。
・・・
多くの祭りが、昼と夜の長さがもっともアンバランスになる冬至と夏至に集中して行われる。
・・・
この(冬至をはさんだ)期間、精霊の増殖と霊力の蓄えがおこなわれるのである。・・・
「ふゆ」は「ふえる」「ふやす」をあらわす古代語の生き残りなのである。
冬の期間に「古代人」は、狭い室(むろ)のような場所にお籠(こも)りをして、・・・
(その)場所に、さまざまなかたちをした精霊がつぎつぎに出現してくる。
とは言え、イギリスより緯度が少し低く、夏と冬の昼の長さの差がそれほど激しくない日本では、
欧米人ほど「冬至」への意識が一般化していないのではないでしょうか、、
「冬至」にカボチャを食べるくらいは聞いたことがありますが・・。(ここが九州だからでしょうか?)
まず、ヨーロッパの場合、冬の昼(=日照時間)が本当に短い。
イギリスの冬は夕方の4時にはもう暗い。反対に夏の昼は本当に長い。
8時9時でも空が明るい(=俗に言う「サマータイム」)。
極端な例では北欧の「白夜」(=太陽が沈まない)。その幻想的周期はまさに神話的なサイクル。
折口信夫の言っている「古代人」というのを、
ブリテン島(イギリス)のケルト以前の古代人の感性、と言い換えるとポテンシャルが上がる。
以下↓ ケルト音楽のリメイク曲集「ウィンターズ・ナイト/スティング」のスティングによる解説です。
冬の1日、雪のなかを歩く。
あるいは、暗い部屋に腰を下ろし、炎をみつめる。
物思いに浸りたい気分になってくる。・・・
冬は、ゴーストの季節なのだから。
私たちは彼ら(幽霊)を落ち着いて、礼儀正しく迎えなければならない。
雪が解け、新しい四季のサイクルがスタートする前に。
地球上の他の生物と同じように、
私たちは光と闇、暑さと寒さといったものに対する元型的無意識を擦りこまれ、
それを認識し、反応しながら生きてきたようだ。
昼間と夜のリズム、永久に続く季節のサイクルの記号と言えるかもしれない。
・・・
今日はとりわけ寒い日となったが、私が子供のころに過ごした冬は現在とは
比較にならないほど長く、寒さも厳しかった気がする。
21世紀の冬は・・・何かとても大切なものが失われようとしているようだ。
まだ暗い冬の朝、牛乳を配達する父の仕事の手伝いで外に出ると、柔らかな雪が降っていた。
父と私は誰よりも早く起き出し、
人気のない道を静かに走り回って歩道や公園の小道に最初の足跡を残した。
牛乳のぶつかり合う音を静かに降り続ける雪が包み込む。
冬の夜、すき間風の多い家で階下の部屋でひとりきりになることがあった。
そこでは石炭が燃やされていた。・・・
歌いつづけるうち、私は珍しく、ホームシックを覚える。
私たちの祖先は、真冬の暗闇の中心には光があるという一見矛盾した考え方を大切にした。
その先には、四季の奇跡的な復活と再生が待っているからだ。
古代の文明は、こういった現象を分析するだけではなく、
繁栄のための現実的かつ創造的な役割を与え、冬至は正式な儀式で祝った。
その日、新しい四季のサイクルが始まる。
農作物の種まきが始められ、動物たちも活発に動き始める。
生命が受け継がれていく。
冬に行われる儀式や古代神話を支えていたのは、こういった自然との精神的な契約だったのだ。
クリスマスの物語と、それ以前からあった冬至の伝統との間には線を引くべきだと私は思っている。
古代からの「神話」や「物語」は私たちの共通の文化遺産であり、
現代的な発想や思考の中でも受け継がれていくべきだ スティング
クリスマス以前というと日本の縄文文化の生活サイクルの頃からさらに
日本に大陸人たちがやってくる前の古代にまでさかのぼれますが、
「古代人」たちは、自分たちの心に浮かんだ考えを、無意識のままに、
石や木や風景や身振りや声や聖地のかたちをとおして、表現しようとしたといいます。
その場所には日本だとかイギリスだとか、
はたまた「古代国家」の精神もまだ立ち上がっていなかったわけで・・。
というわけで、折口信夫の感性Vスティングの感性で、
スティングの勝ち!
スティングに地元を訪れてもらって、歌を残してもらいたいです。
これ絶対「地方創生」になる。
ちなみにこの折口信夫さん、
私の地元(福岡県直方市)の多賀神社を訪れたことがあり、その時の歌が歌碑に刻まれています。
(木屋瀬出身の放送劇作家・伊馬春部さんと長きにわたる親交があったため。)
まず、折口信夫の言う「古代」とは、
「古事記」や「万葉集」が編纂された奈良時代のような特定の時代のことではなく、
縄文人たちのことでもなく、
もっと根源的にとてつもなく古い心の働き、縄文時代のさらに奥の、
人類の「原初的な心の働き」まで含まれているのではないか、
と、著者の中沢新一さんは推測されています。
本文P23
折口信夫は日本列島における「古代人」の宗教性豊かな暮らしを、
次のようなサイクルとして描き出した。
「古代人」は月の満ち欠けと太陽の位置に、とても敏感に反応していた。
月の満ち欠けは、1月ごとの周期的変化をつくりだす。
これにたいして太陽は昼と夜の長さを変化させながら、1年を単位とする大きな周期を描いていく。
・・・
多くの祭りが、昼と夜の長さがもっともアンバランスになる冬至と夏至に集中して行われる。
・・・
この(冬至をはさんだ)期間、精霊の増殖と霊力の蓄えがおこなわれるのである。・・・
「ふゆ」は「ふえる」「ふやす」をあらわす古代語の生き残りなのである。
冬の期間に「古代人」は、狭い室(むろ)のような場所にお籠(こも)りをして、・・・
(その)場所に、さまざまなかたちをした精霊がつぎつぎに出現してくる。
とは言え、イギリスより緯度が少し低く、夏と冬の昼の長さの差がそれほど激しくない日本では、
欧米人ほど「冬至」への意識が一般化していないのではないでしょうか、、
「冬至」にカボチャを食べるくらいは聞いたことがありますが・・。(ここが九州だからでしょうか?)
まず、ヨーロッパの場合、冬の昼(=日照時間)が本当に短い。
イギリスの冬は夕方の4時にはもう暗い。反対に夏の昼は本当に長い。
8時9時でも空が明るい(=俗に言う「サマータイム」)。
極端な例では北欧の「白夜」(=太陽が沈まない)。その幻想的周期はまさに神話的なサイクル。
折口信夫の言っている「古代人」というのを、
ブリテン島(イギリス)のケルト以前の古代人の感性、と言い換えるとポテンシャルが上がる。
以下↓ ケルト音楽のリメイク曲集「ウィンターズ・ナイト/スティング」のスティングによる解説です。
冬の1日、雪のなかを歩く。
あるいは、暗い部屋に腰を下ろし、炎をみつめる。
物思いに浸りたい気分になってくる。・・・
冬は、ゴーストの季節なのだから。
私たちは彼ら(幽霊)を落ち着いて、礼儀正しく迎えなければならない。
雪が解け、新しい四季のサイクルがスタートする前に。
地球上の他の生物と同じように、
私たちは光と闇、暑さと寒さといったものに対する元型的無意識を擦りこまれ、
それを認識し、反応しながら生きてきたようだ。
昼間と夜のリズム、永久に続く季節のサイクルの記号と言えるかもしれない。
・・・
今日はとりわけ寒い日となったが、私が子供のころに過ごした冬は現在とは
比較にならないほど長く、寒さも厳しかった気がする。
21世紀の冬は・・・何かとても大切なものが失われようとしているようだ。
まだ暗い冬の朝、牛乳を配達する父の仕事の手伝いで外に出ると、柔らかな雪が降っていた。
父と私は誰よりも早く起き出し、
人気のない道を静かに走り回って歩道や公園の小道に最初の足跡を残した。
牛乳のぶつかり合う音を静かに降り続ける雪が包み込む。
冬の夜、すき間風の多い家で階下の部屋でひとりきりになることがあった。
そこでは石炭が燃やされていた。・・・
歌いつづけるうち、私は珍しく、ホームシックを覚える。
私たちの祖先は、真冬の暗闇の中心には光があるという一見矛盾した考え方を大切にした。
その先には、四季の奇跡的な復活と再生が待っているからだ。
古代の文明は、こういった現象を分析するだけではなく、
繁栄のための現実的かつ創造的な役割を与え、冬至は正式な儀式で祝った。
その日、新しい四季のサイクルが始まる。
農作物の種まきが始められ、動物たちも活発に動き始める。
生命が受け継がれていく。
冬に行われる儀式や古代神話を支えていたのは、こういった自然との精神的な契約だったのだ。
クリスマスの物語と、それ以前からあった冬至の伝統との間には線を引くべきだと私は思っている。
古代からの「神話」や「物語」は私たちの共通の文化遺産であり、
現代的な発想や思考の中でも受け継がれていくべきだ スティング
クリスマス以前というと日本の縄文文化の生活サイクルの頃からさらに
日本に大陸人たちがやってくる前の古代にまでさかのぼれますが、
「古代人」たちは、自分たちの心に浮かんだ考えを、無意識のままに、
石や木や風景や身振りや声や聖地のかたちをとおして、表現しようとしたといいます。
その場所には日本だとかイギリスだとか、
はたまた「古代国家」の精神もまだ立ち上がっていなかったわけで・・。
というわけで、折口信夫の感性Vスティングの感性で、
スティングの勝ち!
スティングに地元を訪れてもらって、歌を残してもらいたいです。
これ絶対「地方創生」になる。
2023年7月10日に日本でレビュー済み
かつてのニューアカの旗手・中沢新一氏が本書の冒頭で折口信夫のことを生まれつき古代人の思考や言葉に深い共感を感じられてしまう(特異な?)体質の持ち主だと評しているのを読んでハッとしました。二十世紀最大の哲学者のひとりと評されるハイデガーの感受性とはそういうことなんじゃないかと思ったのです。
ハイデガーはあらゆる事物(存在者)の背後にあって事物をかくあるものとして現出させる根源となる「存在」の力を強烈に感じとってしまっているようで、その生来の感受性がアリストテレスの哲学への、そしてキリスト教神学への深い共鳴へとつながり、そして最終的にはソクラテス以前の初期のギリシャの哲学者たちや古代ギリシャ語の語源探求にまで駆り立てられていきました。
折口信夫は文学や芸能の根底に古代人の神観念(マレビト)を読み取っているのだそうだが、『存在と時間』の挫折後のハイデガーも「存在」の声を詩人の言葉や芸術作品の中に聞き取っている。折口信夫にとって異界から来訪するマレビトである芸能者は死霊の世界と活力ある生命の両方を体現する矛盾した存在なのだそうだが、ハイデガーも死の覚悟と本来的生が結び付いているという(ちょっと危ない)言い方で「存在」と人間の有限性=時間性の本質的結び付きを強調していました。ハイデガーは後にニーチェ解釈に深入りしていきますが、それもニーチェの古代芸術解釈への注目からなのかもしれない。(ニーチェもまた古代人体質の人だったのかも。)
折口信夫は最終的に神々を含めた世界を作り出す根源的な「ムスビ」の観念に行き着いているのだそうだが、そのムスビは記紀神話の中では現れ世界を作り出すや姿を隠してしまう。世界を現出させるために現れかつ隠れるムスビはハイデガーが語源探求により古代ギリシャ人が感じた「存在」を輝き出ると同時に隠れるものとして復元したことと共鳴しあっている。
中沢新一氏は折口信夫の古代研究は折口自身がすでに知っていることをただ思い出しているだけなのだと言っていますが、ハイデガーも「存在」を感じとることは単に忘れていたことを思い出すことに過ぎないと言ってましたね。(『存在と時間』ではそうした存在忘却は群衆に成り果てた近代人の非本来的な生の在り方により生じているのだとしていました。)
本書に語られた折口信夫を通して、ハイデガーの感受性の意味がはっきりと分かった気がします。二人とも近代社会の中にうっかり生まれてしまった近代に違和感ありまくりの(ある意味不幸な)古代人体質の人間であり、その違和感をとことん突き詰めた人たちなのだ。私の勝手な理解ではありますが、自分的には素晴らしい悟りがありました。ありがとうございました。
ただ、折口信夫が否定した柳田国男の共同体の神=祖先崇拝論は神観念を共同体の統合の象徴とする社会学の祖デュルケムの宗教理解と同じですね。デュルケムの宗教理解はわりと現代社会理論の土台にあるので折口信夫の神=マレビト論との相性の悪さはきちんと検討すべきテーマなのかもしれませんねえ。
ハイデガーはあらゆる事物(存在者)の背後にあって事物をかくあるものとして現出させる根源となる「存在」の力を強烈に感じとってしまっているようで、その生来の感受性がアリストテレスの哲学への、そしてキリスト教神学への深い共鳴へとつながり、そして最終的にはソクラテス以前の初期のギリシャの哲学者たちや古代ギリシャ語の語源探求にまで駆り立てられていきました。
折口信夫は文学や芸能の根底に古代人の神観念(マレビト)を読み取っているのだそうだが、『存在と時間』の挫折後のハイデガーも「存在」の声を詩人の言葉や芸術作品の中に聞き取っている。折口信夫にとって異界から来訪するマレビトである芸能者は死霊の世界と活力ある生命の両方を体現する矛盾した存在なのだそうだが、ハイデガーも死の覚悟と本来的生が結び付いているという(ちょっと危ない)言い方で「存在」と人間の有限性=時間性の本質的結び付きを強調していました。ハイデガーは後にニーチェ解釈に深入りしていきますが、それもニーチェの古代芸術解釈への注目からなのかもしれない。(ニーチェもまた古代人体質の人だったのかも。)
折口信夫は最終的に神々を含めた世界を作り出す根源的な「ムスビ」の観念に行き着いているのだそうだが、そのムスビは記紀神話の中では現れ世界を作り出すや姿を隠してしまう。世界を現出させるために現れかつ隠れるムスビはハイデガーが語源探求により古代ギリシャ人が感じた「存在」を輝き出ると同時に隠れるものとして復元したことと共鳴しあっている。
中沢新一氏は折口信夫の古代研究は折口自身がすでに知っていることをただ思い出しているだけなのだと言っていますが、ハイデガーも「存在」を感じとることは単に忘れていたことを思い出すことに過ぎないと言ってましたね。(『存在と時間』ではそうした存在忘却は群衆に成り果てた近代人の非本来的な生の在り方により生じているのだとしていました。)
本書に語られた折口信夫を通して、ハイデガーの感受性の意味がはっきりと分かった気がします。二人とも近代社会の中にうっかり生まれてしまった近代に違和感ありまくりの(ある意味不幸な)古代人体質の人間であり、その違和感をとことん突き詰めた人たちなのだ。私の勝手な理解ではありますが、自分的には素晴らしい悟りがありました。ありがとうございました。
ただ、折口信夫が否定した柳田国男の共同体の神=祖先崇拝論は神観念を共同体の統合の象徴とする社会学の祖デュルケムの宗教理解と同じですね。デュルケムの宗教理解はわりと現代社会理論の土台にあるので折口信夫の神=マレビト論との相性の悪さはきちんと検討すべきテーマなのかもしれませんねえ。
2010年8月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
折口信夫という人を書いた本を初めて手にしました。
中沢新一さんがずっと傾倒していた奇跡の感性の持ち主。
中沢さんが描きたいことがとてもよく分かりました。
そして古代の日本人と太い臍の緒でつながっているような折口さんの感性は
「類化性能」が異常に発達していると自覚しています。
言葉を駆使するようになった奈良時代ごろから
もうほとんどの人が「別化性能」を発達させて
既に古代の人類の感覚が分からなくなっているといいます。
奈良時代から既に1300年も過ぎ
類化性能が化石のようになった日本人たちの中で
芸能などの中にかすかに残されている古代人の価値体系。
今 この時代だからこそ折口さんのような類化性能からの物事の捉え方が
日本人に必要なのではないかと思いました。
例えば 意図的に合理的に作り変えられた神道や仏教の体系・・
太古の脳が「なんだかしっくりしない」と感じているはずです。
中沢新一さんがずっと傾倒していた奇跡の感性の持ち主。
中沢さんが描きたいことがとてもよく分かりました。
そして古代の日本人と太い臍の緒でつながっているような折口さんの感性は
「類化性能」が異常に発達していると自覚しています。
言葉を駆使するようになった奈良時代ごろから
もうほとんどの人が「別化性能」を発達させて
既に古代の人類の感覚が分からなくなっているといいます。
奈良時代から既に1300年も過ぎ
類化性能が化石のようになった日本人たちの中で
芸能などの中にかすかに残されている古代人の価値体系。
今 この時代だからこそ折口さんのような類化性能からの物事の捉え方が
日本人に必要なのではないかと思いました。
例えば 意図的に合理的に作り変えられた神道や仏教の体系・・
太古の脳が「なんだかしっくりしない」と感じているはずです。
2008年5月18日に日本でレビュー済み
中沢新一さんは折口信夫が《人間の思考能力を、「別化性能」と「類化性能」のふたつに分けて考えている。ものごとの違いを見抜く能力が「別化性能」であり、一見するとまるで違っているように見えるもののあいだに類似性や共通性を発見するのが「類化性能》(p.18)であると考えていたとします。このモチーフは『カイエ・ソバージュ』で明らかにされ、『芸術人類学』などで展開されている対称性人類学そのもの。
そして折口信夫は古代日本人の考えていた神概念は《増えたり減ったりする》タマ、つまり精霊であるとしていますが、これも『三位一体モデル TRINITY』で展開されていたモチーフ(p.22)。こうしたふたつの方向性の源に折口信夫がいて、折口が降りようとしていたのは古代日本というよりも、新石器時代の人間というか、それこそ「野生の思想」なんでしょう、と。敗戦後、折口信夫が「神道の宗教化」を考えていた先には、吉本隆明さんのアフリカ的段階の概念や、アメリカインディアンの「グレート・スピリット」が見えていたとして、重視していた「ムスビ」の神は自由な精霊そのものではないか、ということが本の結びになっています。
そして折口信夫は古代日本人の考えていた神概念は《増えたり減ったりする》タマ、つまり精霊であるとしていますが、これも『三位一体モデル TRINITY』で展開されていたモチーフ(p.22)。こうしたふたつの方向性の源に折口信夫がいて、折口が降りようとしていたのは古代日本というよりも、新石器時代の人間というか、それこそ「野生の思想」なんでしょう、と。敗戦後、折口信夫が「神道の宗教化」を考えていた先には、吉本隆明さんのアフリカ的段階の概念や、アメリカインディアンの「グレート・スピリット」が見えていたとして、重視していた「ムスビ」の神は自由な精霊そのものではないか、ということが本の結びになっています。