上の「哲郎」さんが書くような
「社会は経済人(ホモ・エコノミクス)として生きている人々の総体であって、彼らが統治の内実を支配している。
そして統治そのものが必要であるかどうか、それが何にとって有用かを常に問う。
戦後ドイツが、オルド自由主義の蓄積の上に築かれたことを丁寧に説明している。そして、アダム・スミスの「見えざる神の手」や、ハイエクらの「新自由主義」における人間には総体が見えないという思想の意義を強調する。
今日の日本は、これの真逆の政策が行われとり、行政府が産業界の特定の利益集団に肩入れしたり、「原子力政策大綱」と称して10年後の電源構成や「ベースロード電源」と称して、電力供給システムを権力的に決定しようとしている。その結果、官僚の頭で考えたガラパゴス商品の山を築いたり、東芝を破たんに導いたりしている。
「新自由主義」の真の哲学的意味を学ばなければならない。」
というようには、私には読めない。
なぜ上記のようなレヴューとなるのか不思議で、
彼のレヴューを、ざっと見ていたが、
「官僚・行政批判」的傾向が見られた。
これは「反行政組織や反官僚体質として、肯定的に捉える形の新自由主義」思想を
高めるような内容じゃない、と思う。
処罰やセクシュアリテと同様に、
「自由主義」や、
その自由主義の相関物としての「市民社会」も、
「生政治/統治テクノロジー」が、
その介入対象として形成させることとなった歴史的構成体である、
と「統治テクノロジー」として分析対象として
歴史的に俎上に乗せているもので、
肯定的に扱っているとは、私は思えない。
「自由主義的合理性が出発点とするのは、
・・・・ひとつの枠組のなかで
国家の諸々の道具を用いることによって
人間の行いを統御しようとする活動のことである」
「自由主義が構成するのは、現実に対する批判の道具である。
・・・・18世紀末および19世紀前半におけるイギリスの政治思想は、
自由主義のそうした"多種多様な使用”という点において極めて特徴的である。
そして"ベンサムとベンサム主義者の変化ないし両義性”は、
"そうした特徴”をさらに際立ったかたちで示していると言えるだろう。」
という講義要旨のなかの箇所は、
『知への意志』で紹介された「ヒステリー」という概念の内容が
状況や都合に応じて、二転三転し、かつての内容と真逆の内容になったりと、
その二転三転する理由の底には、
セクシュアリテという概念という装置も、
生権力や統治テクノロジーの上で踊らされていたから、という紹介と
重なるのではないか、と思う。
この変化の点は、
ベンサムとベンサム主義者との間に変化などが生じたように、
オルド自由主義とシカゴ大学の新自由主義との間にも
ズレや差異があるが、
にもかかわらず「自由主義」の名を掲げるのか、というと、
国家による介入権限や行政介入を
「介入しすぎだ」と批判する為の概念的な道具として使っているからだ、
と紹介しているのではないか。
何度も言わせてもらうけど、
「新自由主義」思想に、哲学的意味をもたらすものではない!
フーコーは、たとえば
1979年3月7日の講義で、
「新自由主義的統治性」という言い方をしている。
その例として、
「新自由主義」であるにもかかかわらず、
戦後の「フランスに導入された新自由主義」が、
「新自由主義」であるにもかかわらず、
「強固に国家化され、
強固に統制経済的で、
強固に行政的であるような統治性から出発し」たという指摘・紹介は
(1979年3月7日講義)
デーヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義』であるかのよう。
そして、ならば、フーコーいわく、
国家が全体主義やファシズムになってしまうのは
新自由主義者や、オルド自由主義者など、自由主義者が批判すような
「国家権限が肥大・拡大したから」ではなく、
「政党の統治性こそが、全体主義の歴史的起源」で、
福祉国家や厚生国家は、
全体主義国家に繋がってしまうような、
同じ水脈は「持っていない」とフーコーは指摘している。
追伸、
読みようによっては興味ぶかいことに、
「経済的自由主義」を、
世の中に滑り込ませ、
受け入れさせることが出来るのは、
「誤りを修正するための唯一の手段という口実で出現させたとき」
という指摘は、
ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」の中身や
小泉劇場や橋下劇場型政治を連想させ、
私からすると、
きらめきを放っている。
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ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79) 単行本 – 2008/8/1
生政治の誕生-コレージュ・ド・フランス講義1978-1979年度-
- ISBN-104480790489
- ISBN-13978-4480790484
- 出版社筑摩書房
- 発売日2008/8/1
- 言語日本語
- 本の長さ421ページ
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- 出版社 : 筑摩書房 (2008/8/1)
- 発売日 : 2008/8/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 421ページ
- ISBN-10 : 4480790489
- ISBN-13 : 978-4480790484
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2018年4月20日に日本でレビュー済み
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2017年6月16日に日本でレビュー済み
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社会は経済人(ホモ・エコノミクス)として生きている人々の総体であって、彼らが統治の内実を支配している。
そして統治そのものが必要であるかどうか、それが何にとって有用かを常に問う。
戦後ドイツが、オルド自由主義の蓄積の上に築かれたことを丁寧に説明している。そして、アダム・スミスの「見えざる神の手」や、ハイエクらの「新自由主義」における人間には総体が見えないという思想の意義を強調する。
今日の日本は、これの真逆の政策が行われとり、行政府が産業界の特定の利益集団に肩入れしたり、「原子力政策大綱」と称して10年後の電源構成や「ベースロード電源」と称して、電力供給システムを権力的に決定しようとしている。その結果、官僚の頭で考えたガラパゴス商品の山を築いたり、東芝を破たんに導いたりしている。
「新自由主義」の真の哲学的意味を学ばなければならない。
そして統治そのものが必要であるかどうか、それが何にとって有用かを常に問う。
戦後ドイツが、オルド自由主義の蓄積の上に築かれたことを丁寧に説明している。そして、アダム・スミスの「見えざる神の手」や、ハイエクらの「新自由主義」における人間には総体が見えないという思想の意義を強調する。
今日の日本は、これの真逆の政策が行われとり、行政府が産業界の特定の利益集団に肩入れしたり、「原子力政策大綱」と称して10年後の電源構成や「ベースロード電源」と称して、電力供給システムを権力的に決定しようとしている。その結果、官僚の頭で考えたガラパゴス商品の山を築いたり、東芝を破たんに導いたりしている。
「新自由主義」の真の哲学的意味を学ばなければならない。
2021年7月20日に日本でレビュー済み
①歴史家としてのフーコーを堪能出来る一冊だ。なぜ歴史家なのか?普遍的な歴史概念を事実に適用して真偽を判断する演繹的手法を退け、1つひとつの事例を集めて歴史的概念を事実に構成する帰納法的手法に基づくからである。
②『狂気の歴史』においてフーコーは、「狂気」に関する普遍的な歴史概念を史実に適用するのではなく、統治者による懲治監獄体制に収監された囚人と統治者の個別的関係性において、規則への順守を模範とする権力の行使に「国家理性」のモデルを見出だした。
③本書では統治を国家理性の実践と見なし、その様々な事例に「統治術」を見出だす。
こうした帰納的手法は歴史家のそれであるが、④フーコーの遠大な目的は、近代理性批判である。ベンサムが考案した「一望監視装置」(パノプティコン)に表出された目的合理的な監視システムは、統治術の完成体である。この視点は、歴史家としてのフーコーではなく、現代思想家としてのフーコーである。
⑤歴史家・思想家としてのフーコーを堪能したい。
お勧めの一冊だ。
②『狂気の歴史』においてフーコーは、「狂気」に関する普遍的な歴史概念を史実に適用するのではなく、統治者による懲治監獄体制に収監された囚人と統治者の個別的関係性において、規則への順守を模範とする権力の行使に「国家理性」のモデルを見出だした。
③本書では統治を国家理性の実践と見なし、その様々な事例に「統治術」を見出だす。
こうした帰納的手法は歴史家のそれであるが、④フーコーの遠大な目的は、近代理性批判である。ベンサムが考案した「一望監視装置」(パノプティコン)に表出された目的合理的な監視システムは、統治術の完成体である。この視点は、歴史家としてのフーコーではなく、現代思想家としてのフーコーである。
⑤歴史家・思想家としてのフーコーを堪能したい。
お勧めの一冊だ。
2008年11月16日に日本でレビュー済み
最近思うことは、フーコー自身が遺言で禁止したということを含めても、思考集成や講義集成の刊行を待ってはじめて「構造主義」の一端はわかるのであり、それはラカンのセミネールが完結しなければ本当はわからないだろうとの絶望あるいは失望、喪失感を感じる。
現代にも繋がるような自由主義の問題について語られている。戦後の占領下のドイツ自由主義にはじまって、そのフランスへの影響、アメリカの自由主義についてふれ(ハイエクは当然として、ハイエクが影響を受けたマイケル・ポランニーの『自由の論理』等が参照されている)、「ホモ・エコノミクス」、一人一企業であるような主体、非経済的領域も投資や資本のタームで解析されるような、完全な市場によって追求されるような理想社会の図が、国家政府は市場に介入するのではなく市場を整備し、市場を完全に機能させるためのゲームのルールの維持のみを行う、そのような自由主義の究極の企図といったものが挙げられる。そしてそのような構成から「市民社会」という対象が析出されていくさまを描写して終わりにしているが、そのような題材を取り上げる必要性の例として、ファシズムやスターリニズムの「全体主義」に対する自由主義陣営の批判が、画一的でありとあらゆる批判のタイプを一緒くたにしてしまい、分析力を失っていることを指摘している。講義でのフーコーによると、全体主義は国家の強化、権限の増大の問題ではなく、党による国家の縮小の問題なのである。
現代につながる地平を取り扱った唯一の論考に見える。その重要度ははかりしれないのではないか。
現代にも繋がるような自由主義の問題について語られている。戦後の占領下のドイツ自由主義にはじまって、そのフランスへの影響、アメリカの自由主義についてふれ(ハイエクは当然として、ハイエクが影響を受けたマイケル・ポランニーの『自由の論理』等が参照されている)、「ホモ・エコノミクス」、一人一企業であるような主体、非経済的領域も投資や資本のタームで解析されるような、完全な市場によって追求されるような理想社会の図が、国家政府は市場に介入するのではなく市場を整備し、市場を完全に機能させるためのゲームのルールの維持のみを行う、そのような自由主義の究極の企図といったものが挙げられる。そしてそのような構成から「市民社会」という対象が析出されていくさまを描写して終わりにしているが、そのような題材を取り上げる必要性の例として、ファシズムやスターリニズムの「全体主義」に対する自由主義陣営の批判が、画一的でありとあらゆる批判のタイプを一緒くたにしてしまい、分析力を失っていることを指摘している。講義でのフーコーによると、全体主義は国家の強化、権限の増大の問題ではなく、党による国家の縮小の問題なのである。
現代につながる地平を取り扱った唯一の論考に見える。その重要度ははかりしれないのではないか。