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橋本治と内田樹 単行本 – 2008/11/27
■話題の対談集、ついに刊行!文学歴史芸能に、教育問題、身体論。はたまた米中の行方まで。抱腹絶倒、痛快無比。当代きっての柔軟な知性が語りつくす、世界と日本の現在過去未来。不毛で窮屈な論争をほぐして、「よきもの」に変えるおじさんの智慧がここに凝縮。読むと希望が湧いてきます。
- 本の長さ334ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2008/11/27
- ISBN-104480814981
- ISBN-13978-4480814982
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商品の説明
著者について
一九四八年東京生まれ。東京大学文学部国文科卒。
小説、戯曲、舞台演出、評論、古典の現代語訳ほか、ジャンルを超えて活躍。著書に『桃尻娘』(小説現代新人賞佳作)、『宗教なんかこわくない!』(新潮学芸賞)、『三島由紀夫とは何ものだったのか』(小林秀雄賞)、『蝶のゆくえ』(柴田練三郎賞)、『双調 平家物語』(毎日出版文化賞)、『窯変 源氏物語』、『ひらがな日本美術史』、『夜』、『人はなぜ「美しい」がわかるのか』『ちゃんと話すための敬語の本』ほか多数。
内田樹(うちだ・たつる)
一九五〇年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒。東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論。多田塾甲南合気会師範。著書に『ためらいの倫理学』『他者と死者』『レヴィナスと愛の現象学』『街場の中国論』『村上春樹にご用心』『下流志向』『先生はえらい』『私家版 ユダヤ文化論』(第六回小林秀雄賞)ほか。訳書に『困難な自由─ユダヤ教についての試練』(E・レヴィナス)など。
登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2008/11/27)
- 発売日 : 2008/11/27
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 334ページ
- ISBN-10 : 4480814981
- ISBN-13 : 978-4480814982
- Amazon 売れ筋ランキング: - 849,583位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 860位論文集・講演集・対談集
- カスタマーレビュー:
著者について
1948年東京生まれ。東京大学在学中に駒場祭のポスターで話題を集めるが、イラストレーターから小説家に転身。小説・評論・戯曲・古典の現代語訳・エッ セイ・芝居の演出など、ジャンルにとらわれず精力的に活動。『双調平家物語』で第62回毎日出版文化賞を受けるなど受賞歴多数。小林秀雄賞選考委員(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 桃尻娘 (ISBN-13: 978-4591117552 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
1950(昭和25)年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門はフランス現代思想。ブログ「内田樹の研究室」を拠点に武道(合気道六段)、ユダヤ、教育、アメリカ、中国、メディアなど幅広いテーマを縦横無尽に論じて多くの読者を得ている。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で第六回小林秀雄賞受賞、『日本辺境論』(新潮新書)で第三回新書大賞を受賞。二〇一〇年七月より大阪市特別顧問に就任。近著に『沈む日本を愛せますか?』(高橋源一郎との共著、ロッキング・オン)、『もういちど村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング)、『武道的思考』(筑摩選書)、『街場のマンガ論』(小学館)、『おせっかい教育論』(鷲田清一他との共著、140B)、『街場のメディア論』(光文社新書)、『若者よ、マルクスを読もう』(石川康宏との共著、かもがわ出版)などがある。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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当たり前の人間である。
やりたいことがあったのに 文章をやらされる立場になってしまった。馬鹿な社会のせいで。
当たり前の人間で正しい肉体を持っていて、正しく違和感を感じてきた。
こんな日本の中では魅力的な女性もなく、
橋本治が日本の中で結婚できなくて当然。
馬鹿に馬鹿にされ続けて付き合って疲れて、不本意にしかたなく脳みそ賢くさせられた。
しかも脳みそオンリー連中は次元の違いもわからない。
まあ、有吉佐和子と古田武彦も無視だから。
兎も角、お互いに謙虚な様子をしながら、自分の頭の良さをチラチラと言葉の端に出し、さりげなくインテリぶっているのが鼻につきます。橋本氏などは数十年前の東大時代のポスター「とめてくれるなオッカサン、背中のいちょうが泣いている。男、東大どこへ行く」のペダンチックさを引きずったままですし、内田氏はわかっていないのに、わかったふりをして発言しているとしか思えません。
従って対談の中身は、思い込みと自己の意見のまき散らしの状態で、言葉は宙を浮き、その言っていることが読む方にはまったく理解出来ません。これは自分だけなのでしょうか?話題の飛躍、言葉の遊び、思い込みを上手く言葉に出来ていない、従って伝わってこないから読んでいる方はシンドイ。橋本氏の著作に触れた時は、それが一層顕著です。ただお互いに喋り、調子よく同調しているだけなのです。(内田氏がやたらと「あははは」というのが、会話の安易感を高め、誠に不愉快です。)
発言がわけがわからないのは、対談の文章のひどさにも関係します。部分的な個所を除いて、読んでいて何を言っているのかわからない独断的な文章なのです。(かろうじて、P81の三島由紀夫の「鹿鳴館」に「今みたいに脊の高い役者がいるとワルツがきれいに踊れるが、鹿鳴館の味が無くなる」という記述、P138の義太夫に触れた触れた記述だけはなんとか理解出来ました。) はたして御二人はお互いに本当に相手の発言を理解して応対しているのでしょうか?近年の評論家・学者によくある自分の教養を過信した、頭の良さとさりげなく見せたい風の妙な一冊でした。筑摩書房がこんな読み難い、薄っぺらなものを出したのが不思議です。
橋本・内田と両氏は現在ある程度の読者をつかみ、それなりの知識人と思われているようですが、もう両氏の書物を読む気にはなりません。これは自分の読解力が不足しているのか?それならば、それで結構という感じです。誠に訳のわからない、むしろ不愉快な一冊でした。
お二人のファンとしては、「私のための企画だわ♪」と嬉しくなってしまいます。
特に、二十年来の橋本治ファンとしては内田先生が羨ましくてなりません。
形式としては「対談」なのですが、橋本さんを敬愛してやまない内田先生が「聞き手」に回ることで橋本さんの「魅力」「秘密」を解明しよう、というような感じです。
「内田先生が対談という形で書いた橋本治論」というか。
橋本ファンとしては読んでいる間にやにやしっぱなしで楽しくてしょうがないのですが、橋本さんをよく知らない内田先生のファンにとってはどうなのでしょうね。
お二人の稀有な思考回路から紡ぎ出されるやりとりは、「どっちもよく知らない」という人にとってももちろん刺激的だと思いますけれども。
万年筆が考える・・・
仕事をもっとできるかどうか、肩に聞く・・・
など、ある「域」に達した人でないと
わからないと思われる話が多いところが
対談終了後、出版まで3年かかった理由でしょうか?
『窯変源氏物語』を、書きながら朗読していたとか、
格好いい漢字を探すために漢和辞典を引きっぱなし
だったといった話などは、『窯変源氏物語』を
読むときに思い出すと、楽しくなるかもしれません。
例えば204ページからの話、現代国語の記述問題が苦手だったという橋本さんに対して内田さんが、あれは著者じゃなくて出題者の頭の方に同調して考えるんですよ、と実に秀才らしい返しをすると橋本さんが、 「そんなことできないですよ。だって俺、好きじゃない人に頭を合わせられないから。(笑い)」 と答える。
橋本さんのこの言葉に、まず内田さんは 「いろいろともう……面倒の多い人ですね!(笑い)」 と呆れて見せて、しかしその次に 「好きじゃない人の思考回路と共感するのは苦手ですか? できない? やる気ないですか?」 と言い出すのだけれど、橋本さんの本をある程度読んでいる人間であれば橋本さんのこういう言葉はそもそも全く意外なものではないはずなのだが、と不審に思う。それに 「やる気ないですか?」 って言い方、一体どういうつもりなんだろう。
またこれは190ページから、抽象概念をなんとなく理解するということができないという橋本さんが、「ドイツ人の何とかが言った話というふうになると、その人が18世紀だとすると、「18世紀ぐらいのドイツってこういうような状況で、キリスト教圏でプロテスタントだったらこうで」 とかいうふうにやって、そういう歴史的な背景から、「ああ、じゃその言葉はこういうことから出るのかな」 みたいな、厄介な手順踏まないと、俺わからないんです。ほんとうに。」 というように説明をすると、内田さんは 「うーん。」 と唸って不思議そうにしている。
でもこれもむしろ、いかにも橋本さんらしいとしか思えない話で、抽象概念の理解に限らず、橋本さんという人は 「厄介な手順踏まないとわからない」 という面倒なことを一貫してずっとやってきた人なのではないかと思うのだけれど。 (でも好きじゃない人に頭を合わせるような類の面倒は嫌だしできない。)
読者向けに対談相手の役割としてあえて大げさに驚いて見せている、という見方もあるかもしれないが、読み返してみてもどうも内田さんは本当に驚いて、最後まで納得が行ってないように感じる。こういう食い違いを見ていると、内田さんは橋本さんがわざと知識人らしからぬふりをしていると思っていて 「ほんとはすごい知識人なのにこんなふざけた本とか書けちゃう橋本さんってすごい」 というように評価しているんじゃないのかとすら思えてきた。内田さんは橋本さんの独特さを戦略やスタイルだとでも思ってるんだろうか。
あと最後に気になったのが、対談の終わりに内田さんがサインをお願いするために 『デビッド100コラム』 という橋本さんのだいぶ昔の本を持ち出してきて、そこで初めて内田さんはこの本が 『100コラム』 なんていうタイトルなのに雑誌連載のコラムをまとめたものではなく、わざわざ100個分のコラムみたいなものを一気に書きおろして作った本だったことを知って、そのことにえらく驚いたりはしゃいだりしていることで、でも 「書きおろしコラム」 なんていうこの本の橋本さん的な馬鹿馬鹿しさを20年近くもずっと理解していなかったというのは、熱心なファンであることを重ねてアピールする割にはこれはどういうもんだろうかと思った。
目に付きにくい場所だとはいえ 「本書は、著者初の書おろし100コラム」 と説明があるし、中にはたった一行しか書いてない項目だってあるんだし。
まず面白く読んだけれど、 痛快という感じはせずむしろ何かもやもやした感じを持ちつつ読み終えた。
内田さんは自分と橋本さんは同類だと思ってるかもしれないけど、こういう食い違いを見るとそれは内田さんの勘違いじゃないの、というのが率直な印象。
率直に言って、文中で内田さんも折々仰られていますが、自分自身は橋本治さんはよくわからない人という印象を強く持ちました。その理路がわかるようでわからない。「これこれな人」と述べにくい。
しかしながら、小説の書き方や他者へのアプローチなど要所要所で納得させられるため、直ちに「知らない」と切り捨てられない、いい意味で変な魅力が醸し出されています。
私は内田さんの本を読み、他方で橋本さんの本を読んだことがないのですが、これまでの内田さんの本とは違ったおもしろさがあると思います。
自分だけかもしれませんが、意地になって橋本治さんの小説等を読んでみたくなる本です。
興味があれば一読してみて下さい。