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世界がわかる宗教社会学入門 単行本 – 2001/6/1

4.3 5つ星のうち4.3 78個の評価

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商品の説明

内容(「MARC」データベースより)

宗教オンチの日本人。でも宗教は、世界中の人びとの日常生活に融けこみ、文化やものの考え方、価値観の骨格となっている。宗教がわかれば世界がわかる! 3000年の叡智を凝縮した、充実の宗教社会学入門書。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 筑摩書房 (2001/6/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2001/6/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 243ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4480842586
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480842589
  • カスタマーレビュー:
    4.3 5つ星のうち4.3 78個の評価

著者について

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橋爪 大三郎
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上位レビュー、対象国: 日本

2023年3月23日に日本でレビュー済み
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世界の事情をありのまま知ることは、人間性につながると思いました。
タコ壺社会は恐ろしい。
もう小学校から軽く学んで、合理的に理解し、免疫力をつけていき、何かの空気に騙されないようにトレーニングした方が良いとすら感じます。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2013年3月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
社会学者橋爪大三郎の『世界がわかる宗教社会学入門』は廉価ながら宗教社会学入門事典。事項索引、人名索引、宗教社会学関連年表は、ヨーロッパ、アジア、日本と並列して時系列で記されている。参考までに目次を記して置く。
ガイダンス   宗教とは何か
講義1    宗教社会学とは何か
講義2      ユダヤ教とは何か―契約と律法      コラム:食べてはいけない
講義3      キリスト教とは何か―福音と愛の思想   コラム;愛は混乱のモト
講義4      宗教改革とは何か―ルターとカルヴァン
講義5      イスラム教とは何か―ウンマとイスラム法 コラム:死んだらどこへ行くのか
講義6      初期仏教とは何か―サンガの思想
講義7      大乗仏教とは何か―菩薩・般若・極楽浄土 コラム:般若心経
講義8      中国と日本の仏教―仏教の伝播と変容   コラム:戒名なんていらない
講義9      儒教とは何か―孔孟の思想・朱子学    コラム:論語
講義10      尊王攘夷とは何か―山崎闇齋学派と水戸学
講義を終えて 再び宗教を考える
      さまざまな世界の宗教/経済活動と宗教/日本人はなぜ勤勉か/政治と宗教/法律と宗教/葬礼と宗教/国家と宗教
あとがき
文庫版あとがき
宗教社会学年表(ヨーロッパ・西アジア/インド・東アジア・中国/日本)
人名索引
事項索引
  
20人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2021年6月26日に日本でレビュー済み
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実のところタイトルとは裏腹に、内容は宗教「社会学」ではない。かろうじて第1章が宗教社会学の輪郭をなぞるだけだ。しかしながら、著名な宗教を知るならばぜひ薦めたい良書。ユダヤ教から始まって、キリスト教、宗教改革、イスラム教、初期仏教、大乗仏教、そして中国と日本の仏教、儒教という順序でそれぞれの宗教についてコンパクトに、かつ要領よく語られる。しかもこの手の解説書ではおそらくは扱われてこなかった(であろう)尊皇攘夷が最後の章でまとめられているのも本書の大きな特徴である。
 果たして日本人のどれだけの人が、三大宗教――キリスト教、仏教、イスラム教――の開祖、聖典、そして創造主の名前を正しく答えられるだろうか? キリスト教の創造主の名前をあろうことか「イエス・キリスト」と答える人々が続出するのがこの社会の教育の結果である。そんな人が「これからはグローバル社会の時代なのだ」などと鼻息荒く語るのは笑い話以外の何ものでもない。政教分離(あるいは聖/教-分離)と喧しく言い続けたお蔭で我々はかくも「宗教という現象」に無知と化してしまった。しかし宗教は未だ世界を回し続ける原動力の一端であり続けているのだ。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2017年2月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
☆評価できる点
★本書の前に著者の師匠小室直樹『日本人のための宗教言論』を読んだ。この本も日本を除き各宗教の経典や理論や戒律について良く調べ理解していて大変参考になったが、本書は師匠を軽く越えている。
★まず、日本における仏教の謎がとけた。つまり日本の仏教は、中国同様にヒマラヤを越えて伝わる際時間経過と共に進んでいった仏陀の教えが順番通り伝わらず、解釈に混乱が生じた。まず中国においてすら進んだ教えが遅れた教えの前に伝わったためその矛盾を解決するのに適当な手段『教相判釈』を用いたがそれが権威となりあだとなり益々混乱した。日蓮みたいに法華経が釈迦の最終結論だみたいな誤解の犠牲者まで出した。江戸末期になり欧米の仏教研究者が仏陀の本当の教えを伝えた時、手の施し用のない状態で腰をぬかした。真実に気づいた一人の日本人研究者もいたが仏教界は黙殺した。既に江戸時代の檀家制度で活力が削がれた仏教寺院は死に体状態。葬式で細々食いつなぐ未来の無い歴史的記念物でしかない。岩波文庫で手軽に釈迦の直接の言葉を知る事ができるのですから悲惨な状態。悲劇を通り越した喜劇。
★『原論』より遥かに内容が濃い。これ一冊で宗教原論はクリアだろう。本書より山本七平や小室直樹、マルクス、ヴェーバーに広げるのもよい。大塚久雄もいいし、キリスト教や儒教研究者の著作に当たるのもよい。
☆評価できない点
★新左翼憑り的に安易に靖国神社問題を論じている最後部分は本書の価値を下げている。日本教は万物に神の存在を感じているが、似たような価値観を中国人も朝鮮人も持つし、問題の本質は政治であり彼らの反日政策であるし、元は東京裁判問題、根本的には歴史的に極東進出を狙うスターリンロシアの侵略ドクトリンであり、古代からの漢民族の周辺侵略ドクトリンである。
★儒教のもつ宗教性が理解されてない。儒教専門家の著作加地伸行『儒教とは何か』を読んだら違う事が書いてあった。日本の葬儀法は仏式と言うより寧ろ儒式葬儀に大変近く、死者(の魂)が音楽や香りや踊り(盆踊り)で復活す(盆に帰)るのは儒教の祖先供養と同じで位牌も儒教式葬儀が起源。祖先と自分と自分の子々孫々の命の繋がりを神聖なものとしている。祖先崇拝は
日本人が仏壇に祈るのと同型。
★日本教についての全くの不勉強と自己内省の無さ、論理矛盾と誤りと知識偏重的な内容的貧困。
講義1宗教社会学とは何か の31ページ宗教社会学とは何か で「日本人が宗教社会学を学ぶとしたら」「どこそこの偉い宗教学者が」「こう言ったと言う類いの知識を詰めこむことではありません。」しかし橋爪はそうしている。「そうではなくて日本社会はなぜ宗教を拒否するのか。この社会の構造はなぜ宗教によって与えられないのかを」「解明することにほかなりません」問題自体が誤り。日本社会は無意識に宗教を受容している。「日本人が自分たちの社会を自己理解する」(こと)「が」「宗教社会学を学ぶ本当の目的です。」と述べているが、著者自身がこの目的に向かわず裏切っている。最も重要な自分自身に引き付けた、日本人の宗教性の分析が全く出来てない。社会学者の宗教社会学入門書として山本七平の発見した日本教について何らの見解も示していない。公式の学者でない自称在野学者の私ですら学びとったことすら知らない。書物ばかり読んで実証性や論理的考察が全く出来てない。だから、普通の大学生がただ本の上面だけを読んで書いたようなことしか書けない。この場を借りて著者と小室直樹(故人)に伝える。
◎宗教社会学かくあるべし
宗教とは神聖なものと卑俗なものを定め、それを第一原理として崇めと蔑みの関係を説明し基礎付ける意識の体系である。(宗教の本質=神聖卑俗の法則=宗教社会学第一法則)。
礼拝される側と神聖であることは同値である。また礼拝する側と卑俗であることは同値である(宗教での礼拝による神聖卑俗決定の法則=宗教社会学第二法則)。
ある任意の宗教はそれを信じる個人及び集団の行動様式を決める決定的一要因となる(宗教の社会構造決定の法則=宗教社会学第三法則)。

礼拝とは礼拝する対象に対し披礼拝者が無防備(依存状態・降伏状態)であることを示す身体表現(身体言語)である(礼拝行為無防備の法則=宗教社会学第四法則)。

礼拝の根元には母親の胎内での体験(根元的姿勢・瞑想)が影響している(礼拝行為の生物学的起源の法則=宗教社会学第五法則)。
宗教は人が直面する大自然がもたらす恩恵と厄災の事実からその背後にある気配を感じたときつまり人に多大なる恩恵と多大なる厄災をもたらす人以外の非顕在者としての神々の潜在を感じた(心的発見)時に始まった(神の心的発見始原の法則=宗教社会学第六法則)。
宗教は時代と共に多神教から唯一神教へ向ける神の数を減らしていく傾向がある(神数低減の法則=宗教社会学第七法則)。
天変地異や民族間の戦争の勝敗などで特定の神が廃れたり序列が上下したり唯一神になる場合があるように人々のときどきの心理的需給バランスで神々の序列が変動する(心理的需給変動に伴う宗教変動=宗教社会学第八法則)。
宗教は日常的な家族生活の中でや冠婚葬祭など宗教行事等によって親から子へ伝わって行くことで継続していく(文化伝達としての宗教存続=宗教社会学第九法則)。
仕草(身体言語)にはそれと一対一に対応する意味がある。例えば先の「礼拝」は「神聖なものを前にしている思い」であり、「微笑み」は「親しみ愛情の思い」、「拍手」は「素晴らしいものを前にしている思い」であり・・・。微笑みや拍手は幼児体験が起源。回りの人々から優しくしてもらった体験を身体言語として習得したのであり、拍手は初めて両手を合わせることができた幼児期の喜びの体験を起源とするしか説明できない。(身体言語の胎児幼児期起源の法則=身体言語第一第二法則。)

宗教社会学法則(第一第二)を日本人に適用すると山本七平でも不明確だった日本教の実体(彼は日本教の教義(不文律)、宗教現象を発見したに過ぎなく、その宗教動作原理までは掴んでいなかったし、宗教全般の一般理論化はできなかった。)が明確になる。カトリックは教会組織も神聖としたがプロテスタントは神とその言葉なる聖書以外を卑俗とした。さてなぜ日本人は空気に流されるのか?結論の前にクイズ。
ユダヤ教やキリスト教は毎週安息日に礼拝、イスラム教は日にメッカに向け5回礼拝する。
では質問、日本人は何時何回礼拝する?
一年に一回、神社の神様に礼拝すると答えた人30点。
正解は赤の他人でなければ日に人に会う度に何度も。日本人は相互に礼拝し相互に神聖と卑俗の関係をもつ。社会階層はそれを前提に形成される。相互礼拝が基礎となった上で兄弟姉妹孫夫婦子夫婦親夫婦祖父母曾祖父母親先輩上司社長、首長、議員、大臣、総理大臣、天皇、天照大神への礼拝のヒエラルキーが形成される。日本人は万物則ち物にも者にも神がやどっていると無意識に思っている。だから物=偶像でしかない神社や神木神山に礼拝し、者である人=偶像にも粗略にするとしっぺ返しと言う神罰が下るから礼拝(=お辞儀)し機嫌とりの言葉をかけ供物として贈り物さえわたす。橋爪氏は日本の神は死者の神と述べたが間違い。日本の神は現人神であるし、死人神である。でなければ万物在神の否定になる。ありとあらゆるものに神性を見るのが八百万の神々信仰な訳で。(キリスト教的・科学的思考では)物でしかない遺体にも魂の潜在を感じこれを粗略にできない。
(キリスト教では)物でしかない人(神が塵に息を吹き掛けたもの)の数だけ神が居るのだからその場の全員の機嫌を取らねばならなない。どの神も大切で捨てたらどんな怨みを持たれるかわからない。怖い、嫌だから角を立てずよほどの奴以外は村八分にせず丸く納めようと、和をもって尊しとする場に論理的議論の入る余地はないから空気が形成されるのである。山本日本教理論と神道の超多神教の実体が論理的にも実証的にも統合され統一的に説明されたわけである。宗教社会学の博士課程論文いやそれ以上になってしまった。橋爪さん解りましたか?これが本当の学問ですよ。私は遠くない将来ヴェーバーを越える宗教社会学の著作を表したいと思っている。大三郎パクんなよ。
なおこの後ジェイムズの『宗教的経験の諸相』の解説を読んだらこの本は上記宗教社会学第一法則と第六法則(だけ)が主旨と分かった。私とジェイムズは相通じる。彼の文章に私を見るからである。俺って天才。そこには神秘的宗教的経験者ならではの分析がある。橋爪の文章にはそれがない故にその経験がない。ジェイムズは神秘的宗教的体験こそが人類共通の宗教の本質的原理であり、各宗教の理論や教条は末梢なことであると言う。従って宗教的経験のない従って宗教的心理に無知無関心な橋爪のような奴は実験しない自然科学者以下であり学者のクズ以下の学生以下だ。だから私が教える様なことになるのだ。授業料よこせ!
橋爪さんは宗教の定義で、土着的なものを予め排除している。だが西洋人のキリスト教徒は一人一人予め自分の意志でキリスト教を選択しているだろうか?否。こうした枷を自分の理論に掛けて不自由に甘んじ自由を放棄しているのだろうか?本人が無意識的だろうが意識的だろうが宗教は宗教であり、行動様式は行動様式でしかない。彼は宗教に関する別著を跨いで論理矛盾に陥っている。
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レポート
2006年12月5日に日本でレビュー済み
ユダヤ教・キリスト教、イスラム教・仏教・儒教・尊皇攘夷などを広く扱う概説書。人名など固有名詞が頻繁に出てくる為、個人的にはわかりやすいとは言えない内容だったが、一通りの概要を知ることはできる。
2017年7月11日に日本でレビュー済み
 2006年の本。著者は東工大教授。
 曰く・・・
 宗教とは、ある自明でないことがらを前提としてふるまうこと、である。
 ユダヤ教の神であるエホバ(ヤーウェ)とは、being(ありてあるもの)という意味で名前ではない。アッラーも「神」という普通名詞。一神教では神は一人だけなので名前は必要ない。
 神の国は生きた人間の行くところで神も生きている。死んでしまった人間はわざわざ復活して最後の審判を受けて、神の許しを受けた者だけが神の国に入る。これが正統なキリスト教の死生観である。日本の神は死者であり、死者たちの神である。キリスト教のGodを「神」と訳したのが誤解のもと。日本人は神々の子孫である。ゆえに、神々は日本人の祖先であり、祖先であるからには死んでいる。日本の神々は自然や農作物や日本人を産んだ。一神教の神は宇宙と人間を創った。
 ユダヤ教の預言者は民間人であり、必ずしも教育のある人物ではなく、神の言葉を聞いて警告を発する、という特徴がある。預言者は神の声を聞く人だから神は絶対。神と権力者が矛盾した場合には神にしたがう。ユダヤ教には神こそ支配者という考え方があるので預言者を簡単には殺せない。権力と知識が分離しており、このダイナミズムが一神教の特徴であり、これが近代合理主義を可能にした。
 旧約聖書のうち、最初の5つ(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)をトーラー(モーセ五書)と呼び、これらは非常に重視されている。
 ユダヤ民族のアイデンティティは最初は神に対する儀式だった。その儀式は族長が至る所で行っていた。次にその儀式を行う権利をエルサレム神殿に集中させ、他の聖所を破壊した。エルサレム神殿以外で儀式ができなくなったので、神に対する敬意を日常生活で表すことになった。食事や服装などをユダヤ教の規範に則ってきちんと正す。そうすれば神殿から離れても信仰を続けることができる。こうなれば世界中にちらばっても大丈夫。トーラーさえあれば大丈夫。
 宗教の食物規制を厳格に守ると異教徒を食事に招待できない。友人になれないし結婚もできない。そのため、信仰を同じくする人たちの結束が強まり、信仰の共同体が次の世代にも再生産される。合理的理由がある。
 イエスの記録は新約聖書の福音書に書いてあることがすべて。福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四書がある。はじめの三書は似通っているので共観福音書という。福音書以外に記録がないのでイエスの実在を疑う人もいる。
 イエスは洗礼者ヨハネの洗礼を受ける。ヨハネの新興宗教に加入したと考えられる。となると、イエスの地位はヨハネより低い。キリスト教団にはヨハネ教団に対するコンプレックスがある。だから、ヨハネが「私の後から来る者は私より偉い」と語ったというのはイエス教団の逆宣伝だと考えられる。
 神はなぜ律法を与え、そのあとイエスに福音を伝えるというややこしいことをしたのか。トマス・アクィナスによれば、人間は律法を守ろうとしたが守れずに困っているところでイエスが現われてこれから私を信じれば救われると述べた、つまり、これにより福音のありがたみがよくわかるようになった、というもの。
 江戸時代までの「愛」とは仏教でいう「愛」であり、それはものごとに執着し、こだわり続ける煩悩のことだった。「愛」を断ち切らねば覚りは得られない。キリスト教の「愛」はプラスの価値。仏教の「愛」とはマイナスの価値。正反対のものを「愛」と呼んだのが混乱のもと。
 初期のキリスト教会は各地で形成された。各地の教会は長老とよばれる人たちに指導された。その上位に地域責任者の主教が現われる。主教の会議が公会議。当時の交通事情では公会議がきわめて困難だった。だから、ローマ皇帝がスポンサーになって交通費や警護を丸抱えする。公会議が開催できなくなると教会は分裂する。東西教会が分裂した理由はここにある。しばらくすると主教たちを統括する大主教、更にその上位の総主教があらわれる。総主教は5つの都市に置かれたが、このうち残ったのがビザンチンとローマの総主教。ローマの総主教が教皇となる。
 ローマ帝国が分裂すると正式な公会議を開けなくなり、教会も分裂。ローマ教会とビザンチン教会が正統と認めるのはそれ以前に開かれた6回の公会議だけ。それ以後、それぞれの教会が開いた司教会議はキリスト教の教会全体が認めるものではない。ローマ教会とビザンチン教会(ギリシャ正教)は11世紀に互いを破門しあってから最近まで関係を断っていた。
 東ローマ帝国は安定したのでビザンチン教会は安泰だった。一方、西ローマ帝国は滅びたのでローマ教会は苦労した。各地の大司教や教皇が各国の国王に戴冠するという聖俗二人三脚の体制となった。これが二王国論であり、ローマ教会特有の発想であり、政教分離原則の起源である。
 ローマ・カトリック教会の特徴は典礼をラテン語で行うことであり、聖書もラテン語訳を用いた。ほとんどの人はラテン語がわからない。でもわからないなりにラテン語は共通しているので民族ごとに教会は分裂しなかった。
 宗教改革のころのドイツは、財政難のローマ教会に多額の税金をしぼりとられるいい財布だった。ドイツは小国家乱立だったので、王権が弱く、税金(上納金)を集めやすかった。税金を払いたくなかったドイツの領主たちはルターの味方になった。
 カルヴァンはフランス人。教会の規則が日常生活のすみずみまで律する神政政治を理想とし、ジュネーブを実質的に統治した。
 ヤーウェは「自分に似せて人間をつくった」のだから、形があるらしい。一方、アッラーには形がない。目も耳もなくなにもない。だから、その偶像を作れない。
 アッラーもまた、生きて存在する神であり死者の神ではない。イスラム教では「死後の世界」はなく、死んで復活し、永遠の生命を受けてから天国に行く。
 イスラム法の法源はクルアーン、スンナ(ムハンマドの言動録)、イジュマー(法学者たちの統一見解)、キヤース(法学者の論理的推論による判断)の4つ。ただし、判例と異なり、キヤースはほかの法学者を拘束しない。
 クルアーンの正当性は、神でなければ不可能なほど完璧な作品であること、もし疑うなら人間が作って見よという挑発の一文があるのに誰も作らなかったから、などで証明される。
 インドの輪廻思想には、熱帯の自然環境が反映されている。熱帯では生命がばたばた死ぬ。死んだとおもったら新しい生命がやたらと生まれる。そのサイクルが短い。輪廻はこの地に特有の生命サイクルから生まれてきた思想ではないか。
 覚ると解脱する。解脱すると輪廻の法則は停止する。仏陀とはこういう存在。それがどういう状態なのか、覚ってみなければわからない。少なくとも輪廻の法則の外にいるのなら、この世界に存在できないはず。ということは仏陀はこの世界には存在しない。となると釈尊は35歳で覚って80歳で仏滅するまでこの世界にいたがそれは幻だった、と理解する考え方もある。
 覚りは、人間の極限状態。この世において、およそ認識しうることはすべて認識した状態。神とのコミュニケーションである「啓示」とは本質的に違う。啓示は何度も訪れ、神からの情報がその都度入るが、覚りは一回きり。
 覚りとは、人間が自力で世界のすべてを認識できるという確信があって、その努力を営々と続けるということ。一神教の神は存在してはならない。なぜなら、神はこの世界の外側にいるから。神がこの世界を創るというのなら、世界がなくても神はいる。創られたものの中に神はいない。そんなことは仏教は認めない。世界を仏陀がすみずみまで認識したときにはその外にはなにもないはず。キリスト教徒にとっての世界は「その外に神がまだいる」のだが、仏教にとっては「その外にはなにもない」という純粋虚無。
 阿弥陀仏は、もともとはインド起源ではなく、イランのゾロアスター教の神であった、という説がある。浄土教の一神教的色彩はここに原因があるのかもしれない。ゾロアスター教は二神論だが、最後には光の神が勝利するため一神教的な構造をもっている。このような考え方が東はインドに伝わって大乗仏教の阿弥陀仏信仰となり、西はキリスト教になったのかもしれない。だとするとほぼ同時期に起こった日本の浄土真宗とドイツの宗教改革はいわば兄弟同士ということになる。
 密教は釈尊が唱えた合理主義的仏教とは対極の、非合理的・神秘主義的な仏教であり、仏教というよりはヒンドゥー教。
 隋や唐が仏教に肩入れしたのは、これらの王朝の支配層が北方の異民族出身だったので漢民族の儒教を相対化する必要があったからではないか。
 仏教は哲学であり、思想であるが、それだけと割り切って、現実政治は今まで通り儒教で行う。出家して現実社会と無関係になっても困るので出家は許可制(僧綱制)とする。こうして中国の仏教は官僚化され、国家仏教となった。一方、国家仏教は寺院建築から僧侶の経費まで国がめんどうをみるので費用がかかる。国家財政を圧迫するので王朝交代すると簡単にリストラされてしまう。だから中国の仏教はすたれた。リストラをまぬがれたのは自給自足で経済的な自立をはかった禅宗だけだった。
 禅宗はインドではなく中国で生まれた。禅は、サンガの標準的な修行法でインドでもよく行われていた。禅宗仏教は経典も戒律も無視し、自分たちで修行の規則を定める。農業をしたり食事の準備をすることを修行と考える。殺生戒を守るので植物タンパクを多用する精進料理を発達させる。これが日本料理のベースになった。
 大乗仏教では成仏は至難の業とされる。密教の超能力も敷居が高い。在家の人びとにとって成仏への近道は極楽往生しかなかった。平安時代、一生を天台や真言の修行に励んだ僧侶たちも晩年には極楽往生を願ったりした。
 浄土信仰も一応は輪廻思想の範囲内にある。阿弥陀仏の本願(念力パワー)が介入して、輪廻の法則を少しだけねじ曲げ、極楽にワープして再生させる。これが往生。極楽で再生したあとは阿弥陀仏の特別講義を聴いてみるみる修行のランクがアップし、極楽で死んでこのつぎに再生したらみごと成仏する、ということになる。極楽往生は成仏のための十分条件であってそれ自体に価値があるわけではないのだが、だんだん極楽往生そのものが自己目的化してきた。
 仏教が葬式に関与するようになったのは死の穢れの感覚が関係しているのだろう。仏教は合理主義なので霊魂の存在も信じないし死者もおそれない。だから、葬式もやってもらおう、ということになったのだろう。江戸時代になって檀家の葬式は僧侶の独占事業となった。高価な戒名をつけるようになったのは檀家制度が崩れ始めた戦後になってから。
 本来の仏教に「戒名」などない。そういう規定がない。居士は「在家の男性」という意味なのでこんな名前をつけるだけ無駄。戒名の値段は戦後値上がりした。檀家制度が崩れて経済的に成り立たなくなった寺院が葬式のチャンスに過去何十年分の費用をまとめどりするためのもの。戒名は仏教の誤解と堕落の産物。
 孟子は、失徳の君主は天命を失ったのだからもはや天子ではなくただの暴君であり、討ってよい、という湯武放伐論を唱える。これがのちに朱子学の正統説となった。日本の尊皇思想は湯武討伐論を否定し君主(天皇)への絶対忠誠を唱えるところから出発した。孟子は明治維新の源泉のひとつ。孟子が試みた国内改革は儒教社会主義ともいうべきものだった。
 朱子学の根本は、儒学の古典を学び徳を身につけた読書人階級(士大夫)が官僚となって政治を行うというもの。
 儒教の果たした役割は、中国では知識人の再生産である。官僚たちは儒教のトレーニングを受けたので政治を行うにふさわしいと信じ込んでいる。彼ら以外に人材がいないので儒教は正統な学説として生き続ける。日本は徳川幕府の行政指導で儒教の勉強が奨励された。儒教に詳しくなってもほめられるだけで昇進はできない。だから、知識人のあいだに不満が鬱積していく。
 徳川幕藩体制は分権制度だから中央政府は政治をやらない。鎖国だから軍事外交もやらない。問題が起こったときの当事者能力もない。政治をやらないのだから武士たちは中国の本でも読んでいなさい、ということになりこれにみんな納得した。禄高は名目的なもので実態と乖離している。相続問題もない。そうやって領主権が形式化し実質がなくなったからこそ幕藩体制が可能になった。
 みたいな話。
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2016年9月29日に日本でレビュー済み
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宗教の入門編としてはいいですよ。それぞれの宗教の特徴がしっかり書かれています
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2016年7月16日に日本でレビュー済み
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ちょっとセンテンスが短くて、長いより、読みにくいです。けれど、宗教も、文学を解く鍵です。大事な本です。
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