本書は
呉智英(くれ・ともふさ)氏
(1946-)による
『つぎはぎ仏教入門』
(筑摩書房 2011)です。
「つぎはぎ」というのは
呉氏が仏教者・仏教研究の専門家ではない
ことを謙遜された表現です。
内容はつぎはぎではありません。
それどころか一般人向けに書かれた
仏教に関する本としては
最高水準であると思います。
その理由は次の3つです。
①仏教を理解するうえで必須不可欠な
最低限の仏教の知識を提供している。
②現代日本の仏教を基礎から
(つまりradicalに)問い直している。
③仏教の将来について呉氏なりの
具体的提言をしている。
余談ですが
呉智英氏は東海高校(名古屋市)の卒業です。
東海高校と言えば
私のような人間にとりましては
森重文氏(1951-)の出身高校
という点で記憶鮮明です。
森氏はフィールズ賞(1990)を受賞し
アジア人で初めてIMU(国際数学連合)の
総裁に就任された数学者です。
また世俗メディアによりますと
東海高校は卒業生に占める
国公立大学医学部への進学者の割合が
日本一という統計でも知られています
(年度や算定法にもよりますが)。
教育において成果をあげておられる
東海高校の経営母体は
浄土宗(知恩院派)の由です。
浄土宗と申しますと
徳川家康(1543-1616)の宗旨でした。
時代劇などで
「厭離穢土 欣求浄土」
(おんりえど ごんぐじょうど)
と書かれた徳川氏の旗印を
ご覧になった方もいらっしゃることでしょう。
知恩院と申しますと
京都・東山にある有名寺院です。
徳川家康は京都御所の朝廷をにらんで
山城として設計したという説もあります。
かく申しあげる私の学歴は
日本基督教団が運営する幼稚園卒園なので
新約聖書(特に4つの福音書)は
何回も読みましたし
通読したことはありませんが
旧約聖書も手元にあります。
また
音楽を聴くのも好きなので
バッハ(1685-1750)なら
「マタイ受難曲」(BWV.244)
「ロ短調ミサ」(BWV.232)
多くのカンタータ(特にBWV.147)
あるいは
モーツアルト(1756-1791)の
「レクイエム」(K.626)
フォーレ(1845-1924)の
「レクイエム」(op.48)
ロシア正教のビショップ(bishop)でもある
イラリオン・アルファイエフ(1966-)の
「マタイ受難曲」
など何回も聴いてきました。
まさに生活の一部でありました。
逆に
中年を迎えるまで
仏教の知識はゼロでした。
心身とも衰えてきたころ 知人女性が
「父が急死して母はショックだったが
写経をしているうちに立ち直った。
今は元気に働いている。
般若心経がいいらしいよ」
と言うので だまされたと思い
新宿西口の鉄道系デパートで
毛筆セットを購入 その日から
般若心経の写経を始めました。
毛筆で写すとちょうど1時間かかります。
そうこうするうちに全部覚えてしまいました。
結果として
「困ったときには般若心経を唱える」
習慣がつきました。
それを仏教徒と規定するかどうかは
あまり考えたことがありません。
イチロー選手(1973-)が
稲葉篤紀氏(1972-)による
インタビューで言っていたように
「自分のことは他人に決めてもらえばいい」
と私も思います。
さて
本書におきましては
般若心経についての記述は
(ほとんど)ありません。
なぜなら
呉智英氏が仏教にたいして問いかける
根本命題のひとつに
「大乗仏教ははたして仏教か?」
という大問題があるからです。
これは無理して例えるならば
「レーニン主義ははたしてマルクス主義か?」
に匹敵する大問題です。
小乗仏教(上座部仏教 部派仏教とも)と
大乗仏教の違いについては
本書に詳しいので
ぜひお読みいただけると幸いです。
特に「根本分裂」については
(p.48)に書かれています。
「大乗仏教ははたして仏教か?」
について私見を述べますと
①大乗仏教はそもそもの
釈迦(BC463ca-BC383ca)
の教え(原始仏教)とは
大きく乖離している。
②理論的に・教義的に
原始仏教とは違うという点を厳密に解釈すると
大乗仏教はもはや仏教ではありえない。
③しかし原始仏教ないし小乗仏教が
お釈迦さまの直接の教えである
「さとり」を中心概念にすえたのに対し
大乗仏教は後世の人が
お釈迦さまの「心中」を「忖度」して
「慈悲」を中心概念にすえた宗教であり
理論としては変容しているが
心情としては逸脱していないので
(証明はできないが)
広義の仏教・拡大された仏教として
考えることも可能である。
④現実問題として
南都六宗などを除くと
現存する日本の仏教の圧倒的多数は
大乗仏教であり
その否定は現場の混乱を招く。
⑤しかし一度
大乗仏教は本当に仏教か?という問いと
正面から真摯に向き合うことが必要である。
‥という優柔不断なものです。
仏教の原点は何か?
それは
2500年ほど前
釈迦が
インド・ブッダガヤの
菩提樹の大木の下で瞑想し
さとりを開いた
(さとりに目覚めた)
(自我から脱却した)
ことにあります。端的に
「菩提樹下瞑想の釈尊」
と表現する人もいます。
例えば
山崎泰廣氏(1929-)
『密教瞑想法』
(永田文昌堂 1974)(p.82)
をお読みいただけると幸いです。
呉氏が本書「はじめに」で言及されているように
釈迦が菩提樹の木の下で
瞑想されたときに
仏像もなければ
お経もありませんでした。
また釈迦は自分では一字も
書物を残していません。
例えば
釈迦は苦行も否定されました。
よく私は
千日回峰の動画を見たりして
単純にリスペクトしておりますが
釈迦の直接の教えには反しています。
大乗仏教の概念においてならば
尊敬するのは許されましょう。
(道路の端に正座して待つ
おばあさんは行者さんに触れることで
救われるのかもしれません)
また釈迦は
「呪い」(まじない)(マントラ)を唱えることも
毒蛇をよけるとか
歯痛をまぎらわせる
場合などを別として
原則 禁止されました。
この観点からもってすれば
般若心経は呪(マントラ)を中心にすえた
「お経のようなもの」ですから
(実は般若心経は
「経」の定義を満たしていないので
厳密には「お経」ではありません。
仏教の教えが書かれたものを
すべて「お経」と呼ぶ一般的呼称に
従って「お経」と呼ぶこともあります)
般若心経じたいが
長い真言(マントラ)であるという
考えもあります。
すると般若心経じたいが
釈迦の教えに反していることに
なるのでしょうか。
もしも釈迦が
般若心経(小本)を
お読みになったならば
驚愕されることでしょう。
(ちなみに般若心経には
小本と大本があります。
ただし小本が先に成立し
「経」の定義に合致するように
後から必要な要素をつけ加えた
大本ができました)
「菩薩とは何か?」
「観世音菩薩とは何か?」
「キミは五蘊を否定するのか?」
「空とは何のことか?」
「六根六境六処も否定するのか?」
「十二縁起(因縁)も否定するのか?」
「四諦も否定するのか?」
「智恵を否定するのか?」
「三世諸仏とは何のことか?」
「私を仏と呼ぶのは仕方がないが
私以外に仏が過去に存在したのか?」
「呪(マントラ)を唱えることは禁じたはずだが?」
‥このように
釈迦は次から次へと疑問を投げかけることでしょう。
般若心経は
大乗仏教の典型的な経典であり
もっとも短く
もっとも人口に膾炙した経典ですが
確かに表面の字面だけ読みますと
釈迦の菩提樹下の瞑想の中心である
「十二縁起」
も否定しています。
しかしいくら変容したとは言え
教祖の根本の教えを否定する宗教があるでしょうか。
十二縁起まで否定してしまったら
それは仏教の変容ではなくて
仏教じたいの否定です。
あたかもキリスト教徒が
「イエスは磔にもなっていないし
復活もしていない」
と言うようなものです。
般若心経について
その意味を理解し始めたときに
私もその点はたいへん不思議でした。
「お釈迦さまの教えを否定するのは
まずいのではないか」
「いくらなんでもお釈迦さまの教えを
否定しては仏教ではないだろう」
と思ったのです。
この点については
般若心経が否定しているのは
五蘊や十二縁起などを含む
「ダルマ(法)の実在性」であって
五蘊や十二縁起そのものを否定している
わけではないという考えが正統的です。
例えば
宮坂宥洪氏(1950-)
『真釈 般若心経』(角川ソフィア文庫 2004)
を読みただけると幸いです。
大乗仏教が生まれた背景には
単に釈迦の心中を忖度して
「慈悲」によって「大衆」の救済を
願っただけではなく
釈迦の教えの中心である
五蘊・十二縁起を含む「ダルマ」(法)に
ついての研究が微に入り細をうがち
あまりに精緻に完成してしまったがため
あたかも「ダルマ」(法)が先に実在している
と唱えるアビダルマ論者と呼ばれる人たちが
出てきたことへの反省(反動)があります。
おそらくアビダルマ論者の人たちも
命がけで「ダルマ」(法)を研究し
分類や精緻な理論はできたけれど
さとりを開くこともできず
自分も救われなかったのでは
ないでしょうか。
仏教を研究しても研究しても
さとりが開けない
救われないというところから
大乗仏教が生まれた一因と
私は考えています。
ダルマ(法)の実在性を否定するために
考え出された概念が
「空」です。
実は「空」じたいはインド哲学の中では
比較的ありふれた概念でした。
なぜなら
インド人の思考は古来から
「場所Xに関係Yが附属している」
というパラダイムをとるからです。
日本人なら
「壺に水がない」
と表現するところを
「壺に水の無がある」
とインド人は言い
「無がある場所としての空」
を自然に考えました。
インドでは「空」も数「ゼロ」も
同じ「シーニャ」ですが
数としてのゼロは最初は
算盤の空位をあらわす記号でした。
般若心経では「空」を名詞化して
「色は自性空である」
と言ったところが斬新的です。
なお「色」は五蘊のひとつです。
インド哲学の基本構造については
宮坂宥洪氏『インド留学僧の記』
(人文書院 1984 )を
お読みになっていただけると幸いです。
釈迦の没後
最初に編集された経典群が
本書でもしばしば引用されている
「阿含経典群」です。
おおむねBC300年からBC200年にかけて
成立しました。
その次に
おおむねBC100年からAD200年にかけて
成立した経典群が
「般若経典群」であり
その中心概念が「空」です。
般若心経は膨大な「般若経典群」のひとつです。
このあと
「密教経典群」まで
仏教においては膨大な経典群が成立します。
釈迦が入滅して(亡くなって)から
なんと千年もかかって経典群が成立し続けた
ことになります。
一冊の本に経典が収まるキリスト教とは
本質的に性格が異なるのは明らかです。
確かに
仏教は世界宗教ではありますが
発祥の地インドにおいては
ヒンズー教の中にとりこまれてしまいました。
日本のような仏教は存在しません。
不可触賤民と呼ばれる
カースト外の人々の中で
ラジカルな宗教として
仏教が支持されている由ですが
マイナーな存在にとどまっています。
というか
ウパニシャッド哲学にルーツを持つ
インドにおいては
仏教は絶えずアンチテーゼであり
マイナーな存在にとどまりました。
「なぜインドで仏教が滅びたか?」
と問うよりも
「よく千年もインドで仏教が続いたものだ」
と考えるのが妥当なようです。
本書でも記述されている通り
(p.87)
ウパニシャッド哲学の根本は
ブラフマン(梵)=宇宙全体(の真理)
アートマン(我)=自分
という設定において
アートマンがブラフマンと一体となること
(梵我一如)です。
宇宙のリズムと自分のリズムが
一致することによって
哲学的にも現実的にも効果が生じる
(ご利益が生じる)
というのが大原理です。
釈迦(初期仏教)はこれを否定し
自我への執着が「無明」を生む
としました。
「無明」は十二縁起のスタート地点です。
十二縁起のゴールは「老死」です。
般若心経をそらんじている方ならば
無無明亦無無明尽乃至
無老死亦無老死尽
という文句が中程に出てくるのを
ご承知のことと思います。
「無明はなく無明が尽きることもない
そして(無明から老死まで十二縁起があるのだが)
老死もなく老死が尽きることもない」
これだけ読むと般若心経は明白に
十二縁起を「ない」と言っていますが
「実在ではない」という意味で
瞑想の中においてあらわれることまで
否定したわけではないとするのが
正統的な解釈とされます。
本当に十二縁起を否定してしまっては
それは釈迦の否定にほかなりません。
いくら何でもそのような宗教を
仏教とは呼べなくなります。
ちなみに
般若心経は
①大乗仏教の教えである。
②自力系の教えである(他力ではない)
ことから
小乗仏教(上座部仏教 部派仏教 南伝仏教とも)
がメインである東南アジアで唱えられることは
原則ありません。
また日本国内でも
他力系の宗派である
浄土宗(専修念仏)
浄土真宗
では原則として唱えられません。
また
法華宗(日蓮宗)はその名の通り
法華経を唯一最善とするので(唱題)
原則として唱えられません。
しかしあまりに有名になってしまったので
例外があるとも聞いたことがあります。
最後に
鵜飼秀徳氏(1974-)
『寺院消滅』
副題:失われる「地方」と「宗教」
(日経BP社 2015)
によりますと
現在(著者の取材時)
全国に約7万7千の寺院があり
そのうち住職がいない
無住寺院は約2万に達し
宗教活動を停止した
不活動寺院は2千以上にのぼる
との由です。
後継者のいない寺や経済力のない寺を
「消滅可能性寺院」
と呼ぶ人もいます。しかも
その実態はよくわかっていません。
日本創生会議によりますと
2040年までに
全国の自治体の49.8%が消滅する
可能性があると指摘されています。
「消滅可能性都市」として
話題になりました。
「消滅可能性都市」よりも
「消滅可能性寺院」のほうが
深刻であるのみならず
実態把握が困難であります。
その昔
廃仏毀釈が全国でもっとも激烈だった
鹿児島県においては
1874(明治7)年
寺院の数も
僧侶の数もいずれもゼロになりました。
幕末には
寺院の数が1066寺であり
僧侶の数は2964人であったのに
わずか7年でゼロです。
鹿児島県ではあわてて
1876(明治9)年
「信教の自由令」を出しました。
結果として同県には
古い寺院は存在しません。
なぜなら
2001年 タリバンが
バーミヤン遺跡の石仏を破壊したように
明治初期の鹿児島県人も
仏像と寺を破壊したからです。
詳細は同書
『鹿児島が迎えた寺院・僧侶の「完全消滅」』
(p.178-191)
をお読みいただけると幸いです。
こうした現状に対し
呉智英氏は
本書の最後において
僧侶は「仏教労働者」でいっこうに
構わないと指摘されています。
「仏教は葬式仏教だから駄目なのではなく
葬儀業として不明朗・不適切な業態だから
さまざまな批判が出る」と指摘し
「葬式仏教としての成熟、業務の適正化」
を提言されています。
現実的な提言であると私も考えます。
ある民放局が番組中で
東京の街頭でインタビューし
①「キリストの誕生日を知っているか?」
②「お釈迦さまの誕生日を知っているか?」
と質問したところ
①は全員が知っていて
②は一人も知らなかった
という結果を見聞きしたことがあります。
私も中年になるまで知りませんでした。
仏教系幼稚園を卒園された方なら明白でしょう。
笑い話のような話ですが
2016(平成28)年にお釈迦さまの誕生日は
六曜ではなんと「仏滅」でした。
いくらなんでもそれはあんまりだと思うのですが
六曜というシステムが仏教とは
関係ないことの証左です。
やはりもしお釈迦さまが
生きていらっしゃったら
批判されることでしょう。
お釈迦さまの誕生日を知らない方々にも
お釈迦さまの誕生日を祝う方々にも
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つぎはぎ仏教入門 単行本 – 2011/7/23
呉 智英
(著)
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釈迦は非凡なエゴイスト!?
現存するお経の多くはニセモノ!?
現存するお経の多くはニセモノ!?
知ってるようで知らない仏教の、その歴史から思想的な核心まで。
現代人のための、最良の入門書。
仏教が分かる、仏教が変わる!
*4年の歳月を費やして書き下ろされた、著者渾身の書。
- 本の長さ203ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2011/7/23
- 寸法13.3 x 1.7 x 18.9 cm
- ISBN-104480842969
- ISBN-13978-4480842961
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商品の説明
著者について
呉智英(くれともふさ) 1946年生まれ。評論家。京都精華大学マンガ学部客員教授。著書に『封建主義者かく語りき』『バカにつける薬』『サルの正義』『知の収穫』『賢者につける薬』(以上、双葉文庫)、『読書家の新技術』(朝日文庫)、『マンガ狂につける薬』(メディアファクトリー)ほか多数。
About this Title
生がある以上、必ず死はある。
これが得心できないことが迷妄であり、
この真理に目覚めることが「覚り」なのである。
仏教の核はほぼこれにつきている。
これが得心できないことが迷妄であり、
この真理に目覚めることが「覚り」なのである。
仏教の核はほぼこれにつきている。
登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2011/7/23)
- 発売日 : 2011/7/23
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 203ページ
- ISBN-10 : 4480842969
- ISBN-13 : 978-4480842961
- 寸法 : 13.3 x 1.7 x 18.9 cm
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著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2019年1月17日に日本でレビュー済み
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2023年11月19日に日本でレビュー済み
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オウム真理教事件のときに、日本仏教界が、何ら有効な指導力を発揮できなかったことの理由が分かります。
宗教が、心の安らぎをもたらすためのものぐらいに思っている人は、読まない方が良いと思います。
宗教が、心の安らぎをもたらすためのものぐらいに思っている人は、読まない方が良いと思います。
2024年3月8日に日本でレビュー済み
仏教に関する本は何冊か読んできたけど、結局どういうこと?
という疑問にずばり答えてくれる本といえる。
著者自身仏教信者ではないが故に、外から多角的に語られていておもしろい。
本にも書かれているが、釈迦が悟りを開いた際に抱えた葛藤が個人的に好きでおもしろい。
恥ずかしながら仏教の本はいろいろ読み漁ったと自負していたが、このエピソードは初耳であったしとても印象に残っている。これがきっかけにもなって小乗と大乗に分かれていったのだと体系的にも学べる。
他にも大乗仏教に対する批評など、釈迦や仏教を良い意味でありがたがっていないが故の意見なのでずばり述べていておもしろい。
・小乗仏教、大乗仏教、禅等、ある程度知っているけどいまいちフワフワしている
・体系的に仏教を知りたい
こういった人にはおすすめといえる。
仏教入門書といえるが、ある程度知識があった方が腑に落ちやすいかも。
仏教をこれから初めて学びたいという人は図解等で説明されている書籍の方から始めて、二冊目三冊目くらいでこの本を手に取れば丁度良いと思います^_^
という疑問にずばり答えてくれる本といえる。
著者自身仏教信者ではないが故に、外から多角的に語られていておもしろい。
本にも書かれているが、釈迦が悟りを開いた際に抱えた葛藤が個人的に好きでおもしろい。
恥ずかしながら仏教の本はいろいろ読み漁ったと自負していたが、このエピソードは初耳であったしとても印象に残っている。これがきっかけにもなって小乗と大乗に分かれていったのだと体系的にも学べる。
他にも大乗仏教に対する批評など、釈迦や仏教を良い意味でありがたがっていないが故の意見なのでずばり述べていておもしろい。
・小乗仏教、大乗仏教、禅等、ある程度知っているけどいまいちフワフワしている
・体系的に仏教を知りたい
こういった人にはおすすめといえる。
仏教入門書といえるが、ある程度知識があった方が腑に落ちやすいかも。
仏教をこれから初めて学びたいという人は図解等で説明されている書籍の方から始めて、二冊目三冊目くらいでこの本を手に取れば丁度良いと思います^_^
2013年1月14日に日本でレビュー済み
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呉智英の本は『現代人の論語』を読んで、「ふーん」というくらいの感想なのであったが、宮崎哲弥、山形浩生、小谷野敦など、わたしの尊敬する批評家が一目置いている人であって、興味はあった。それで、宮崎哲弥、呉智英の共著『知的唯仏論』を買ったついでにこちらも購入。出版の順序としては『つぎはぎ』の方が先で、これがきっかけで宮崎、呉の対談本が実現している。
ちなみに、宮崎は、『知的唯仏論』で呉のことを「批評の道での唯一の師匠」と呼び、山形はここ ([...] ) で「影響下にある」と認めている。小谷野敦はブログで「先生」と呼んでいる。どうも、この年代の論者に呉は人気があるらしい。
これを読んで、なんとなく理由が分かった。小谷野や山形の議論も、知識人と大衆をめぐるものが少なくないが、その源がここにある。
本書で呉は、仏教の基本教理、歴史、大乗・小乗の違いを淡々と述べ(知らないことがたくさんあった)、最後に現代社会における仏教の意義まで論じている。200ページ程度の短い著作であるが、非常に密度の濃い作品と言えると思う。基本的には、釈迦の教えを「ねじまげてきた」大乗に対して批判的で、よりエゴイスティックな、小乗的な釈迦像を支持する。
<何度も書くが、私は仏教を信仰していない。ただ、釈迦は人類史上最古最高の思想家の一人であり、宗教者としても極めて優れた人物であると思う。このような人物がいたことはやはり一つの奇跡であり、釈迦に畏敬の念を抱く。それは、過去の仏教者が神格化して崇める釈迦ではなく、現代の研究者たちが人間的に描く釈迦とも違って、親や妻子を平然と捨てる釈迦であり、若者たちをかどかわす危険人物として町の人に罵られる釈迦である。> (p. 202)
この「あとがき」に著者の立場が明確に表出されている。また5章「仏教と現代」にこう書いている。
<(中村うさぎの『私という病』について論じて、中村の)読者としてはこの苦行者(中村)を見ることはスリリングである。それはインド観光で苦行者を見ることと同じなのだろう。
だが、釈迦は自分も苦行に励んだ果てに中道を覚った。苦行はまたこだわりであり、そうであれば無意味なのである。それよりも我執を捨てることが道に適っている。
現代社会は経済的に豊かになり、共同体の拘束力が弱まり、個人の自由度が増した。それは一見良いことのように見えながら「俺が俺が病」があちこちに出現した。社会派砂粒のようになった人々を入れる砂の器になり、黒い我執が現れたのである。しかし、だからといって、共同体の拘束力をむやみに強めることは時に危険が伴う。豊かな社会が急に貧しくなり、肥大した自我を絞るようなことになることも考えにくい。そうであれば、仏教こそが我執を捨てよと呼びかけなければならない。これこそが仏教固有の哲学的使命ではないか。> (pp. 185-6)
ガッテン。「共同体の」云々については、本書内でサンデルらコミュニタリアンの議論を参照しており、そういうものが念頭にあると思う。本書では触れられてはいないが、安倍内閣の教育改革の議論とか、石原慎太郎的な言説も念頭にあるのだろう。そして、批判の的先は、そういう世の中に迎合しようとする日本仏教会のあり方と、仏教を自説に都合よく捻じ曲げて釈迦の考えと全く異なる仏教論に依拠する日本の文化人に向かう(吉本隆明を名指しで批判している)。この最終章とあとがきが本書のクライマックスであろう。仏教の入門書としても読めるし、知識人論の入り口としても刺激的な読み物である。
ちなみに、宮崎は、『知的唯仏論』で呉のことを「批評の道での唯一の師匠」と呼び、山形はここ ([...] ) で「影響下にある」と認めている。小谷野敦はブログで「先生」と呼んでいる。どうも、この年代の論者に呉は人気があるらしい。
これを読んで、なんとなく理由が分かった。小谷野や山形の議論も、知識人と大衆をめぐるものが少なくないが、その源がここにある。
本書で呉は、仏教の基本教理、歴史、大乗・小乗の違いを淡々と述べ(知らないことがたくさんあった)、最後に現代社会における仏教の意義まで論じている。200ページ程度の短い著作であるが、非常に密度の濃い作品と言えると思う。基本的には、釈迦の教えを「ねじまげてきた」大乗に対して批判的で、よりエゴイスティックな、小乗的な釈迦像を支持する。
<何度も書くが、私は仏教を信仰していない。ただ、釈迦は人類史上最古最高の思想家の一人であり、宗教者としても極めて優れた人物であると思う。このような人物がいたことはやはり一つの奇跡であり、釈迦に畏敬の念を抱く。それは、過去の仏教者が神格化して崇める釈迦ではなく、現代の研究者たちが人間的に描く釈迦とも違って、親や妻子を平然と捨てる釈迦であり、若者たちをかどかわす危険人物として町の人に罵られる釈迦である。> (p. 202)
この「あとがき」に著者の立場が明確に表出されている。また5章「仏教と現代」にこう書いている。
<(中村うさぎの『私という病』について論じて、中村の)読者としてはこの苦行者(中村)を見ることはスリリングである。それはインド観光で苦行者を見ることと同じなのだろう。
だが、釈迦は自分も苦行に励んだ果てに中道を覚った。苦行はまたこだわりであり、そうであれば無意味なのである。それよりも我執を捨てることが道に適っている。
現代社会は経済的に豊かになり、共同体の拘束力が弱まり、個人の自由度が増した。それは一見良いことのように見えながら「俺が俺が病」があちこちに出現した。社会派砂粒のようになった人々を入れる砂の器になり、黒い我執が現れたのである。しかし、だからといって、共同体の拘束力をむやみに強めることは時に危険が伴う。豊かな社会が急に貧しくなり、肥大した自我を絞るようなことになることも考えにくい。そうであれば、仏教こそが我執を捨てよと呼びかけなければならない。これこそが仏教固有の哲学的使命ではないか。> (pp. 185-6)
ガッテン。「共同体の」云々については、本書内でサンデルらコミュニタリアンの議論を参照しており、そういうものが念頭にあると思う。本書では触れられてはいないが、安倍内閣の教育改革の議論とか、石原慎太郎的な言説も念頭にあるのだろう。そして、批判の的先は、そういう世の中に迎合しようとする日本仏教会のあり方と、仏教を自説に都合よく捻じ曲げて釈迦の考えと全く異なる仏教論に依拠する日本の文化人に向かう(吉本隆明を名指しで批判している)。この最終章とあとがきが本書のクライマックスであろう。仏教の入門書としても読めるし、知識人論の入り口としても刺激的な読み物である。
2012年11月19日に日本でレビュー済み
内容が「入門」ではなく「批判」になっている、というのはその通りだけど、あまり本質的な問題ではないと思う。
著者はあとがきで、友人たちがあまりに仏教に無知だったことが本書を書く動機になったと記しているが(p201)、私も著者の友人たちにも増して仏教に無知だったので、本書はとても勉強になった。特に禅宗と荘子のつながりとか、中国で「空」が「無」に読みかえられたとかいう話は、興味深い。
先行レビューでも言及されていたように、『ふしぎなキリスト教』などに比べると論争のタネになるような大胆すぎる解釈や解説はなさそうで、学問的に穏当な線でまとめられているという印象。呉智英という人が、もともとそういう人だと思うし。
ただ、じゃあ内容が穏健かと言えば、そんなことはなくて、学問的に穏当な知識のピースで組み立てられる絵柄の全体像は、現実に対して破壊的に作用する。著者は現在の日本の仏教界に原理論的な再構築を要求しており、もしその主張に応えようとすれば、仏教界は間違いなくテンヤワンヤの大騒ぎになる。
で、私の疑問は、しかし著者がどういう立場でこういう提言をしているのか、だ。著者は信者でないことを明言しており、文化的な意義から仏教を重視すると言うのだが、そういう仏教評価と、仏教界に対して再構築を求めることには距離があると私は思う。
著者による理論の根本的再検討要求というのは、ほとんど革命を起こせと言っているに等しいのだが、「自分は信者じゃないから」ということで自らその革命を担うつもりはなさそうだし、じゃあ状況判断としてそういう革命的勢力が成熟しているかと言えば、とてもそうとは思えない。著者がどういう意味で仏教の文化史的意義を認めているのかについても、よく分からない。
この本を読んで、私は少々の知的好奇心を満たされたが、仏教界の改革に取り組む気にはなれない。著者が信じていない思想を、読者が担おうとすることはないだろうと思う。
著者はあとがきで、友人たちがあまりに仏教に無知だったことが本書を書く動機になったと記しているが(p201)、私も著者の友人たちにも増して仏教に無知だったので、本書はとても勉強になった。特に禅宗と荘子のつながりとか、中国で「空」が「無」に読みかえられたとかいう話は、興味深い。
先行レビューでも言及されていたように、『ふしぎなキリスト教』などに比べると論争のタネになるような大胆すぎる解釈や解説はなさそうで、学問的に穏当な線でまとめられているという印象。呉智英という人が、もともとそういう人だと思うし。
ただ、じゃあ内容が穏健かと言えば、そんなことはなくて、学問的に穏当な知識のピースで組み立てられる絵柄の全体像は、現実に対して破壊的に作用する。著者は現在の日本の仏教界に原理論的な再構築を要求しており、もしその主張に応えようとすれば、仏教界は間違いなくテンヤワンヤの大騒ぎになる。
で、私の疑問は、しかし著者がどういう立場でこういう提言をしているのか、だ。著者は信者でないことを明言しており、文化的な意義から仏教を重視すると言うのだが、そういう仏教評価と、仏教界に対して再構築を求めることには距離があると私は思う。
著者による理論の根本的再検討要求というのは、ほとんど革命を起こせと言っているに等しいのだが、「自分は信者じゃないから」ということで自らその革命を担うつもりはなさそうだし、じゃあ状況判断としてそういう革命的勢力が成熟しているかと言えば、とてもそうとは思えない。著者がどういう意味で仏教の文化史的意義を認めているのかについても、よく分からない。
この本を読んで、私は少々の知的好奇心を満たされたが、仏教界の改革に取り組む気にはなれない。著者が信じていない思想を、読者が担おうとすることはないだろうと思う。
2023年2月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
仏教徒ではない外野だからこそ突っ込める現代仏教の矛盾などを突き、原始仏教面白さへ誘ってくれる。
2021年7月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
仏教については手塚治虫のブッダを子どもの頃に読んだ。あとは新聞や雑誌で お寺の後継者問題を取り上げられたものを読んだり、葬式に行くぐらいしか縁がなかった。
でもマンガのブッダのストーリーと実際に目にする仏教との違和感は感じていたのである。
そんな違和感を解きほぐしてくれる、そんな本であった。
でもマンガのブッダのストーリーと実際に目にする仏教との違和感は感じていたのである。
そんな違和感を解きほぐしてくれる、そんな本であった。