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コミュニティ 安全と自由の戦場 単行本 – 2008/1/8
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グローバル・エリートは社会からの逃走を図り、負け組が再浮上するための回路は切られ、持たざる者は置き去りにされる。この動きは、いまや「国」や「社会」や「福祉」の意味を大きく変えようとしている。
こうした世界で「安全」と「安心」を求めるとき、代償として何らかの「自由」を支払うことは避けられない。しかし守られるのは誰の安全で、無視されるのは誰の自由なのか。階層化が加速し、囲い込みと排除が進む世界で、安全と自由は幻なのか。
現代の社会学界を代表する理論家が、コミュニティの幻想と現実と課題を論じ、共同体の根幹を問う、必読の書。
- ISBN-104480867171
- ISBN-13978-4480867179
- 出版社筑摩書房
- 発売日2008/1/8
- 言語日本語
- 本の長さ224ページ
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商品の説明
著者からのコメント
冷戦が終わり、新自由主義イデオロギーが「画一思考」と化して、15年以上がたつ。それは「規制緩和」の合唱の下で、自由化や民営化が押し進められてきた時代である。そしてまた競争の成果として、「格差」が生み出されてきた時代である。今日の若者たちは端(はな)から、そのような時代のなかを生きてきたといってよい。
若者たちがこぞって、「格差社会」に賛成するのは奇妙である。というのも実際には、皆が競争に勝ち残れるわけではないから。しかしかれらの立場は、もう少し切羽詰まったものかもしれない。かれらはもう、社会的救済に期待を寄せていない。したがって元々、「格差社会」に賛成する以外の選択はないのかもしれない。
わたしは今回、Z・バウマン著『コミュニティ』を翻訳し、刊行した。著者は目下82歳、原著の刊行時には75歳であった。というと読者の皆さんは、年寄りの説教臭い話を連想されるかもしれない。しかしそれは、大いなる誤解である。いったんかれの著作を繙(ひもと)けば、スピーディな論旨の展開に驚かれるはずである。
本書の主題は一言でいえば、コミュニティの際限のない解体である(社会学では家族、地域、大学、会社、人類その他の、あらゆる集団をコミュニティの単位と見る)。本書で著者は、個別化や階層化が加速し、社会が分断されつつある状況を描く。そこではコミュニティは、「失われた楽園」として夢想されるにすぎない。
若者たちが今後、船出していく世界はいかなるものか。本書では人間は、グローバルズとローカルズに大別される。グローバルズとは「国際化」や「情報化」の波に乗っている人々をいい、ローカルズとはそうでない人々をさす。はっきりしているのはグローバルズには、ほんの一握りの人々しかなれないということである。(訳者より)
著者について
現代の社会学界を代表する理論家。1925年、ポーランド生まれ。ナチス侵攻によりソヴィエトに逃れ、大戦後帰国。ワルシャワ大学教授となるが、反体制的知識人として同大学を追われる。テルアヴィヴ大学教授、リーズ大学教授などを経て現在リーズ大学名誉教授、ワルシャワ大学名誉教授。アマルフィ賞、アドルノ賞受賞。著書多数。邦訳書に『立法者と解釈者』『近代とホロコースト』『社会学の考え方』『政治の発見』『リキッド・モダニティ』『アイデンティティ』『廃棄された生』がある。
登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2008/1/8)
- 発売日 : 2008/1/8
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 224ページ
- ISBN-10 : 4480867171
- ISBN-13 : 978-4480867179
- Amazon 売れ筋ランキング: - 601,328位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 5,022位社会一般関連書籍
- - 11,024位社会学概論
- - 55,231位ビジネス・経済 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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かつては強力だった権力が人々への関与をやめ自閉し、文字通りばらばらになった状況のなかで追い求められるいくつもの(擬似)コミュニティを批判的に検証していくなかで、バウマン自身の答えが明らかになっていきます。それは、自由を放棄して擬似コミュニティの幻想に身を委ねるのではなく、一定の自由を担保しつつ擬似コミュニティ間の政治的過程を通じて自由と安心のトレードオフの着地点を探っていくというものです。ある意味実に「近代的」な、常識的な結論といえなくもないですが、現実に地球上いたるところに「逃走の線」を描いているのは一握りの勝ち組、「グローバルズ」だけに見える現状では、砂に描かれた顔に賭けてみる、という選択も理解できないわけではありません。
小さな版型の割には読みでのある本ですが、訳者の苦労の賜物でしょうか、論旨を追うのに難渋することもなく、一読後、現代社会について一段高いところから見渡すような、霧が晴れたような気がします(問題がすっきり解決したという意味ではなく、一貫した理論的地図とでもいうべきものを手にした実感です)。
大きなコミュニティは、小さなコミュニティを囲い込んでしまい、次第に息苦しい存在にしてしまうからだ。
伝統的な共同体も今では息苦しい存在なのは、過疎化した村落で、よそ者を受け付けずにそのまま共同体そのものが崩壊するケースが多いことは聞いたことがあるだろう。
この本が、松岡正剛の千夜千冊の第1237夜で詳しい解説が載っていて、読む気になったので以前読んだのだが、読み返してみると、この本がIT革命の渦中だった頃の2001年の出版で現代(2018年)に至ってはこの議論は誰もが気づいている「常識」のレベルに至ってることに驚いた。バウマンがこの著書を書いたのが75歳だということには今更驚かない。引用している著書や軸にしている本が、いささか古さも感じるし、これは訳者の責任もあるが文体の翻訳の仕方が古くて悪文である。
こういう文体がなぜ生まれるのは、バウマンが東欧ポーランド生まれのユダヤ人であることとは無関係ではなさそうだ。ナチスドイツにポーランドを追われソ連に亡命し、帰国後、ポーランド軍で少佐まで出世するも反ユダヤ主義の動きから国を追われる。イスラエルで大学教授になり、71年からはイギリスのリーズ大学の教授になる。結構波乱万丈な経歴だと思いませんか?当時のアシュケナージ・ユダヤ人はこういう感じであちこちの国に身を寄せて、色々な言語を次々の駆使しなくては、生きることすらままならなかった経歴が、こういう悪文を生み出したと思う。同じ時代で、この本でも引用されているカール・ポランニーにしても、ハンガリー語、ドイツ語、英語、フランス語等チャンポン状態だ。
バウマン自身、ユダヤ人だからこそ、コミュニティで置き場所に苦悩している様があることで、知識人階級で生きるためには多数の著書を出版して、「実績」を残さずしては学際社会から排除されることは意識していたのだろう。だからマイノリティに対して只ならない愛着が文章から生まれるのは当然かと思う。
バウマンの議論は、現代でこそ意識する必要がある。特に「ペグ・コミュニティ」だ。ペグというのは「釘」のことだ。訳者はこの比喩をもっと意識的に意訳するべきだと思った。例えば「出る杭コミュニティ」とか。これが意味することは「出る杭は打たれる」に象徴される様に、社会はそういう「逸脱」を許さないのだ。「逸脱者」は排除するか、囲い込んで「境界」内に取り囲んで「家畜」の様に飼いならそうとする。NPO法人になると経理や情報も公開義務があるので組織の秘匿性や隠蔽が難しくなり、やがてツルツルの無害な「家畜」として社会の「養分」にされる。
社会というのは、人間の共通感覚の集合体のことであり、生命体の様なものだ。病原菌は取り込んで「免疫」を作り、社会に有益なものならそれを秩序の中に組み込んでしまう。取り込めないのなら囲い込んである領域に押し込めるか、それが無理なら「排除」する。
社会における「逸脱」という問題は、古くからあり、また現代的な新しい問題でもある。IT社会によって加速的に情報処理のスピードアップが図られ、国家ではもはや制御が出来ない程乱立したコミュニティが、今では山ほど生まれている。アラブの春に象徴される様に、コミュニティや繋がりによる個から集団化する運動のスピードは国家の処理が追い付けない程になっている。勿論これによって「責任を負わないきずな」は社会や国家を崩壊させるケースを、さらに囲い込もうとする動きと対立していこうとするか、妥協して社会システムに組み込もうとする動きと両極端だが、恐らくどちらも正解ではないだろう。とても過激な内容すぎて、今後も再版は不可能と思われる問題作「 罵論・ザ・犯罪―日本「犯罪」共同体を語る 」はこの内容の議論が含まれる。小室直樹氏と長谷川和彦氏の過激さが特に素晴らしい(笑)。
バウマンは「倫理的なコミュニティ」の構築は出来るだろうか?と投げかけている。私もその様な疑問にはとても応えることは無理だ。けれどこれは問題を考えるに当たっての指標となる良書だと思う。
頭いい人たちもいろいろ考えて、あげく未解決。
晴れ晴れとした諦めを与えてくれます。
本文中に紹介されている論はダイジェストみたいで、社会学素人にも楽しく得した気分。
ただしベースの知識があるともっと楽しかったろうなー、と思うので自分勝手な残念分マイナス☆1。
カバーのエンドウマメが雄弁。アンデルセンの童話の『5粒のエンドウマメ』を思い出します。サヤ=コミュニティなんですね。本来そこは居心地のよいところのはずなんですが,近頃はそうでもないぞ,というのが本書の主張の大きな柱。今日的なテーマ。「今日の世界では,伝統的なタイプのコミュニティは,どうやら間断のない分解の過程にある」(123ページ)ということが,繰り返し具体的な事例を交えて語られ,その他,読み応えのある「多文化主義批判」「エスニック・マイノリティ」「ゲットー」などについての考察を経て,「さて,じゃ,どうなりゃいいのよ」というところまで書かれています。ここがお楽しみ。コミュニティ(安心して身を置ける集団)を持たないで,人は生きていけるものなのでしょうか???
日本語としておかしい部分も多々あり、訳も悪いと思われる。
内容は、著者が他人の主張を自分の都合の良いように切り抜いて貼り付けただけの酷いものである。
近代というものが自由を極大化すべく、コミュニティを次々と解体した結果世は資本主義が覆った。しかも、権力はパノプティコン型(介入する=保護する)から、撤退する権力(人ではなく事物で管理する)へと変質しつつあり、誰がコミュニティの代替システム(セーフティーネット)を提供するのかという部分で空洞が広がりつつある。
かといってコミュニティを再建できるかという点で、ゲーテッドコミュニティとゲットーという裏表の関係にある例をあげているがそこで見て取れる姿は決して希望ではない。もしかしたら自由(欲望)をある程度制限するという思考錯誤の中には「安全」への欲望をもある程度制限するということが含まれているのかもしれないとそんなことを考えさせられる。
当著では明確な答えは与えられていないが、それでも多文化主義が単に「貧困」問題を看過するだけの知的怠惰のようなものだと舌鋒鋭く批判を展開するなど迫力ある論考が展開されている。