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監督小津安二郎 ペーパーバック – 1983/1/1

4.0 5つ星のうち4.0 9個の評価

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 筑摩書房 (1983/1/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 1983/1/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • ペーパーバック ‏ : ‎ 281ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 448087058X
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480870582
  • カスタマーレビュー:
    4.0 5つ星のうち4.0 9個の評価

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蓮実 重彦
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上位レビュー、対象国: 日本

2016年1月26日に日本でレビュー済み
1992年ちくま文庫から刊行。初版ハードカバーは83年に刊行されています。目次は、

序章 遊戯の規則
1. 否定すること
2. 食べること
3. 着換えること
4. 住むこと
5. 見ること
6. 立ち止まること
7. 晴れること
終章 快楽さと残酷さ

付録1 厚田雄春氏インタビュー
付録2 井上雪子氏インタビュー
付録3 「東京物語」「秋日和」撮影記録
監督作品目録、年譜、参考文献、あとがき 文庫版あとがき 索引

となります。80年代前半に始まった小津安二郎の再評価の大波は本書から始まったと言っても過言でない、小津評論の金字塔。的確すぎる用語、厳格すぎる論理、ユニークすぎる視点、そして恐るべき「映画鑑賞力」を駆使して、序章から終章まで一気に読ませます。さらには本書以前に定説化していた、佐藤忠男、ドナルド・リチーそしてポール・シュレイダー等の各氏による、所謂「もののあわれ」だの「わびさび」だのという、従来の小津観をことごとくひっくり返してしまう斬新かつスリリングな見解の連続に手に汗握ります。

個人的には本書は最初のハードカバー版から始まって10年に一度くらいのペースで読み返していますが、読むたびに新たな発見があるし、理解が深まっていると実感します。理由はもちろん、VHSに始まり、LD、DVDと小津作品のソフト化がドンドン進んで作品の鑑賞が30年前に比べてはるかに容易になったためです。ただし、この文庫版はハードカバー版に比べて写真が大幅に減っているので、ハードカバー版をすでにお持ちのかたは、あえてこの文庫版を入手する必要はないと思われます。

他の方のご指摘の通り、本書を熟読すると小津作品のみならず、映画そのものの鑑賞の仕方が変わらざるを得ない、最も強力な映画評論のひとつ。全ての映画ファン必読の書でしょう。
12人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2019年4月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
小津監督の映画は大好きですべて観ているのですが、この本を読んでいても、映画をまた見直したいという気持ちには一切ならないという事が、それはそれで凄いと思います。このような分析が映画を見る人、または作る人にどれほどの意義があるのか、疑問に思いながら読んでいました。自分としては付録として収録されている、カメラマンの厚田雄春氏へのインタビューのほうが、興味深く読む事ができました。
2016年5月1日に日本でレビュー済み
本書は日本を代表する映画監督、小津安二郎の作品の評論です。著者は、フランス文学者であり映画批評家である蓮實重彥氏。1983年に出版され、1992年に文庫化されました。

小津は過度なレトリックを抑えた映像技法を好み、一貫して似たようなテーマや物語を描いた、禁欲的な映画作家だと語られることが多い。したがって、わたしたちが想像する「小津的なもの」とは、多彩な技法を使わ「ない」、テーマや物語の多様性が「ない」、といった否定的な言辞で定義されやすいと言えるでしょう。
本書の狙いはそうした言説に抗い、小津作品のなかに過剰さや饒舌さをあぶりだし、「小津的なもの」とは異なる新たな価値を発見することです。

著者の批評スタイルは「表層批評」と言われます。スクリーンに映るもの、すなわち「表層」を観ることにより作品を批評することです。じつはこれがけっこう難しい。
たとえば、わたしたちが小津の代表作『東京物語』を語るさい、「近代化により変容していく家族の物語」というような言い回しを使いがちです。けれど、そうした「物語」はスクリーンの上に映像として焼きつけられたものではありません。2時間の映像のつらなりから具体的な細部を捨て去り、ある一定の型にあてはめることで、つくりあげられたにすぎません。
著者は「物語」に還元することなく、確実に眼に見えるスクリーン上の映像のつらなり(著者のことばによれば「説話論的な持続」)から、小津作品を読み解くことを試みます。

一例を挙げると、小津作品にしばしば指摘される、たがいに向きあうふたりの視線のズレ。このズレが単にイマジナリー・ラインの法則を守ら「ない」ことからくる結果だ、という否定的な言辞を著者は拒否します。それは映画の虚構ないし限界をあばくための演出だと述べます。
カメラはふたりの登場人物の瞳をそれぞれとらえることはできても、見つめあうふたつの瞳を結ぶ視線をとらえることはできない。そのため見つめあうふたりを映像で表現する場合、切り返しショットという映像技巧を使い、あたかもふたりが見つめあっているかのように編集せざるをえない。そもそも、わたしたちはふだん日常のなかで映画におけるように長く見つめあうこともない。
著者によれば、視線のズレはそのような映画の作為性をあらわにし、観客に映画の制約を意識させることで、説話論的な持続に緊迫感を与える小津の企みだというのです。

また個人的にもっとも説得されたのは、小津作品の文化的コンテクストに対する著者の考え。それによれば、外国の批評家により「小津的なもの」が「もののあわれ」や「幽玄」などの「日本的なもの」というコンテクストにおいて評価されているが、そうではなく、日本的な美意識とはかけはなれたユニヴァーサルなものが小津作品の重要な要素だといいます。

よく著者の批評について牽強付会だという批判もありますが、著者は明らかに確信犯的にやっています。しかもそのハッタリが有無を言わさぬ見事さであり、批評の強度が尋常ではありません。
むしろ評価の定まった作品に対して新たな価値づけをおこなう、という批評家として至極まっとうな姿勢が伝わる意欲作です(客観的かつ実証的に妥当な「分析」をするのは、あくまで「研究」の範疇であり、「批評」ではない、という考え方は芸術分野ではわりと一般的でしょう)。

たしかに著書の批評により、小津が日本の映画批評において「アンタッチャブル」として神格化されてしまったことは否定できません。ですが、それは著者の責任というよりも、後進たちが著者を越えるような批評を生み出しえなかったことの方に問題があるように思われます。

巻末には、『戸田家の兄妹』から小津組の撮影監督をつとめた厚田雄春氏、小津の初期作品『美人哀愁』(1931)『春は御婦人から』(1932)に出演した戦前のスター井上雪子氏のインタビューが掲載されています。戦前や戦中の映画界の一端がかいまみえて、とても興味深いものでした。
16人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2018年11月13日に日本でレビュー済み
小津安二郎について語る場合に、批判するにせよ、肯定するにせよ避けてとおるわけにはいかないという意味で、もはや今となってはレジェンダリーな一冊。

冒頭で著者が述べているように、一般的に流布されている「小津的なもの」というステレオタイプのイメージから自由になって、小津の映画をありがちな物語に還元せずに見ることに専心することが重視される。

一般に流布する小津神話に還元されないような仕方で小津の映画を見ること、たしかにそれが著者の目指すところだが、その評論がおもしろければおもしろいほど今度は逆に、著者の書く言葉が別の小津神話を形成することにはからずも貢献してしまうわけであって、著者はそのことに対して自覚的であるがゆえに自分が「どちらかといえば小津的なものの側に立って小津安二郎の映画について書こうとしている」のだと打ち明けている。

だからこそ「静的な原理に従属することなく、もっぱらフィルムの運動として見るものの映画的な感性に迫ってくる」小津の作品を体験せよと言うのだ。それは見ているこの私という主体が粉々に崩壊するような匿名の出来事として生きられることになるだろう、というのは蓮實が色々な著作でいつも語っていることである。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2008年1月1日に日本でレビュー済み
1981年、フィルムセンターでの小津作品の特集上映で、パンフレット
の冒頭に本書の原形が載ったときから、今日にいたるまで小津映画の極
上のガイドブックであり続けるこの著作にいまさらコメントするのは、
まったく不要と思います。

しかし、増補された部分について、一点だけ指摘させていただければ、
「憤ること」の章で、タオルやてぬぐいを「男性にふさわしい」小道具
として腰などにたらす戦後作品の例として、「ゴルフに興じる佐分利信
までが、腰のあたりにそれをたらしている」と引かれていますが、その
作品は、本書にあるような『お茶漬けの味』ではありません。
『お茶漬けの味』でもタオルを腰にぶらさげている例は出てきますが
「佐分利信がゴルフに興じる」ことは、『お茶漬けの味』における
佐分利信の「プリミティブ」で「インティメット」な嗜好から考えても
ありえません。
また類似作品ともいえる『淑女は何を忘れたか』では「雨が降る」ことで
斎藤達雄がゴルフにいかなかった事実が妻の栗島すみ子に露見することも
指摘しておくべきかもしれません。
戦前の『戸田家の兄妹』は当然除くとして、「興じる」という表現から、
あの、店でゴルフボールを買うシーンを思い出し、『秋日和』に誘導され
そうですが、正しくは、『彼岸花』です。
しかし、佐分利信はゴルフに「興じて」いる訳ではなく、むしろ娘の
有馬稲子の結婚を控えて、ゴルフに身が入らなかったように描かれています。

「振りはらうこと」では、『東京暮色』で有馬稲子がマフラーを脱ぎさる
バストショットとともに『非常線の女』の田中絹代が、マフラーを一瞬
振りはらう横から全身をとらえたショットについてもぜひ触れて欲しかった
です。
『東京暮色』と『非常線の女』には二十数年の歳月にかかわらず通底した
部分があることは「晴れること」の章でも紹介されていますが、同じ
アクションで通底している二人が、今度は、母と娘として『彼岸花』で
共演しているのは驚くべきことです。
著者も指摘されているように、娘の代弁者たる田中絹代が、バストショットで
夫の佐分利信に憤りをあらわにする直前、立ったまま抱えていた夫の上着を
畳の上にどさりと落とします(佐分利信のゴルフのシーンはこのシーンの
後に続きます)。

ところで、岩下志麻が卓袱台の下の空間を通してタオルを握りしめている
のが見えるローアングルで思い出しましたが、『生まれてはみたけれど』
のおにぎりの場面の最後に、吉川満子がにこにこしながら、朝食の準備を
して、伏せたお茶碗の中から卵が出てくるところがあります。
そこで吉川満子が、卓袱台の下でエプロンのポケットの中からなにかを
取り出してカードをシャッフルするようなショット、あれ一体なにをし
ているのでしょうか。
15人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2014年8月14日に日本でレビュー済み
本書は小津映画の表現そのものを直接的に捉え、その特徴や価値を明らかにしている点で画期的な映画批評だと思います。
この書によって私は初めてなぜ小津が偉大なのかが腑に落ちました。
小津は映画を手段として、家族の崩壊や社会の不条理などを伝えよう、あるいは告発しようとしたのではないと思います。
小津は映画というメディウムそのものの可能性を追求し、その結果世界の映画人が賞賛する高みに達したわけです。
これは音楽、絵画、文学、建築など他のあらゆる分野における偉大な芸術家に共通することです。
本書は映画に限定せず芸術を愛する全ての人にお勧めです。
9人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート