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「ブレードランナー」論序説 (リュミエール叢書 34) 単行本 – 2004/9/28
加藤 幹郎
(著)
- 本の長さ243ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2004/9/28
- ISBN-104480873155
- ISBN-13978-4480873156
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2004/9/28)
- 発売日 : 2004/9/28
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 243ページ
- ISBN-10 : 4480873155
- ISBN-13 : 978-4480873156
- Amazon 売れ筋ランキング: - 852,158位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2011年8月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自分にとって『ブレードランナー』という映画は、一人称の視点で見て、人間としての自分の存在意識の揺らぎを感じるところに意味があると思っている。従ってほかの商品のレビューにも(本書が出る前にも)書いたように、モノローグ(本書ではヴォイスオーヴァ)は必要であり、自分と同じ人間であるデッカードが描かれていることが重要である。これらはいずれも監督の意図にも反する少数意見のようだが、本書はまず、これらの思いと同義のことを精緻な理論で展開しているところに、自分としては信頼を覚える。著者によって解析される各シーンの細部は、互いに同調し合った深い意味を持っている。作者(監督)らの意図をも越えて、映画が(テクストが)それ自体として自己発生的に存在しているかのようだ。著者はそれを、「テクストをつくるのはテクストそれ自身だからであり、テクストの自己展開に対しては、(中略)作者も読者もただ伴走することしかできない」 (175ページ)と言っている。本書を読んだら、監督の意向など無視して、もう一度劇場版を楽しもう。
2021年5月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
多義性の事実として『ブレードランナー』はこういう映画なのです。以下では「ただしくは」というのは「より読み取りづらい意味は」と等しい。一種の謎解きですが、「謎」を観客が自分で発見しなければなりません。この手の作品は映画にかぎらず、すくなくありません。
> Roy: Not very sporting to fire on an unarmed opponent. I thought you were supposed to be good. Aren't you the good man? Come on Deckard. Show me what you're made of.「無防備の者を撃つのか?」「キミは腕がいいと思ってた」「腕利きなんだろ?」「来いよ デッカード」「鍛えた腕前を見せてくれ」
ただしく訳すとこうなのです。
> ロイ: 丸腰の相手を撃つのは卑怯だぞ。あんたはいいやつにされたはずだと思ったが、違うのか?来いよ、デッカード。あんたがなんでできてるか教えてくれ
人間は卑怯badなのです。バッティはここではじめてデッカードの名前を呼ぶが、接触もないのに知っているはずがないのです。でも知っているということは、彼がthe good manレプリカントであり、バッティとは知り合いだったということなのです。だから「なんでできてるのか」教えろと言っているのです。
> Gaff: It's too bad she won't live. But then again, who does?「彼女も惜しいですな」「短い命とは」
こちらもただしくは
> ガフ: 彼女も長くないとは残念ですな。でも、だれが長生きできましょう?
長生きできないことをbadだと言っているのだから、the good manは長生きできるのです。つまりデッカードは寿命の長いネクサス8型レプリカントなのです(バッティら6型の寿命が短いのは技術の限界であり、反乱防止のためそう設定されているわけではありません)。ガフはそれを知っていて「だれが長生きできましょう?」とデッカードに言うのです。
> Bryant: Body identified with Tyrell a twenty-five year old male caucasian named Sebastian. J. F. Sebastian. 「タイレルと一緒の死体は25歳の白人男性」「名はJF・セバスチャン」
(Body identified) with Tyrellなら字幕のとおりですが、Body (identified with Tyrell)なら「タイレルと同一人物の死体」という意味なのです。セバスチャンはタイレルのクローンなのです。
> Sebastian: What generation are you?「世代は?」
> Roy: Nexus six. (字幕なし)
> Sebastian: Ah, I knew it. 'Cause I do genetic design work for the Tyrell Corporation. There's some of me in you. Show me something.「やっぱりね」「僕はタイレル社で働いている」「君らの一部も作った」「見せてくれ」
> Roy: Like what?「何を?」
> Sebastian: Like anything.「機能を」
バッティの中にはセバスチャン=タイレルの遺伝子が入っているのです。セバスチャンはお兄チャンなのです。Show me somethingは直前のsomeを受けるのです。字幕は大間違いなのです。
> Definition of -some (Entry 6 of 6)
> 1: body
> chromosome染色体
バッティの最後のセリフ:
> All those moments will be lost in time like tears in rain. Time to die. 「そういうできごとも、いままさに消える。雨の中の涙のように。死ぬときがきた」
in timeには「ちょうど」「間に合う」という意味があります。バッティは泣いているのを見られたくないので、雨が降っているうちに死ねると言っています。
in (time like tears in rain)と解釈するとall those momentsが雨の中の涙となって降ることになります。ロサンジェルスの雨にはレプリカントのmomentsが混じっているのです。
バッティが女の子みたいにかわいい感じなのもわかると思います。
バッティとガフはデッカードに、殺しではなく、女を守る戦いを教えたのです。それが男がaliveだということなのです。獰猛で処女好きのユニコーンはその象徴なのです。贈り物を受け取るのが主人公だとすると、間違いなくデッカードが主人公なのです。
この本はいい本ですが、加藤氏は結論を出して満足したのか、映画を見るのを途中でやめてしまいました。能力がある人だけに残念なのです。でもこれで犬っちが世界一なのです。
> Roy: Not very sporting to fire on an unarmed opponent. I thought you were supposed to be good. Aren't you the good man? Come on Deckard. Show me what you're made of.「無防備の者を撃つのか?」「キミは腕がいいと思ってた」「腕利きなんだろ?」「来いよ デッカード」「鍛えた腕前を見せてくれ」
ただしく訳すとこうなのです。
> ロイ: 丸腰の相手を撃つのは卑怯だぞ。あんたはいいやつにされたはずだと思ったが、違うのか?来いよ、デッカード。あんたがなんでできてるか教えてくれ
人間は卑怯badなのです。バッティはここではじめてデッカードの名前を呼ぶが、接触もないのに知っているはずがないのです。でも知っているということは、彼がthe good manレプリカントであり、バッティとは知り合いだったということなのです。だから「なんでできてるのか」教えろと言っているのです。
> Gaff: It's too bad she won't live. But then again, who does?「彼女も惜しいですな」「短い命とは」
こちらもただしくは
> ガフ: 彼女も長くないとは残念ですな。でも、だれが長生きできましょう?
長生きできないことをbadだと言っているのだから、the good manは長生きできるのです。つまりデッカードは寿命の長いネクサス8型レプリカントなのです(バッティら6型の寿命が短いのは技術の限界であり、反乱防止のためそう設定されているわけではありません)。ガフはそれを知っていて「だれが長生きできましょう?」とデッカードに言うのです。
> Bryant: Body identified with Tyrell a twenty-five year old male caucasian named Sebastian. J. F. Sebastian. 「タイレルと一緒の死体は25歳の白人男性」「名はJF・セバスチャン」
(Body identified) with Tyrellなら字幕のとおりですが、Body (identified with Tyrell)なら「タイレルと同一人物の死体」という意味なのです。セバスチャンはタイレルのクローンなのです。
> Sebastian: What generation are you?「世代は?」
> Roy: Nexus six. (字幕なし)
> Sebastian: Ah, I knew it. 'Cause I do genetic design work for the Tyrell Corporation. There's some of me in you. Show me something.「やっぱりね」「僕はタイレル社で働いている」「君らの一部も作った」「見せてくれ」
> Roy: Like what?「何を?」
> Sebastian: Like anything.「機能を」
バッティの中にはセバスチャン=タイレルの遺伝子が入っているのです。セバスチャンはお兄チャンなのです。Show me somethingは直前のsomeを受けるのです。字幕は大間違いなのです。
> Definition of -some (Entry 6 of 6)
> 1: body
> chromosome染色体
バッティの最後のセリフ:
> All those moments will be lost in time like tears in rain. Time to die. 「そういうできごとも、いままさに消える。雨の中の涙のように。死ぬときがきた」
in timeには「ちょうど」「間に合う」という意味があります。バッティは泣いているのを見られたくないので、雨が降っているうちに死ねると言っています。
in (time like tears in rain)と解釈するとall those momentsが雨の中の涙となって降ることになります。ロサンジェルスの雨にはレプリカントのmomentsが混じっているのです。
バッティが女の子みたいにかわいい感じなのもわかると思います。
バッティとガフはデッカードに、殺しではなく、女を守る戦いを教えたのです。それが男がaliveだということなのです。獰猛で処女好きのユニコーンはその象徴なのです。贈り物を受け取るのが主人公だとすると、間違いなくデッカードが主人公なのです。
この本はいい本ですが、加藤氏は結論を出して満足したのか、映画を見るのを途中でやめてしまいました。能力がある人だけに残念なのです。でもこれで犬っちが世界一なのです。
2013年2月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
色んな映画関連本、ブレードランナー関連を含めて和洋問わず読んできましたが、これほどまでに「明らかに」作者が自分一人の世界に陶酔し切っているだけで、何ら書物として意味を成さない、否、書物として体を成していない代物に出会った事はありません。 一言で言えば、作者本人が思うところの「学術的表現」、即ち一般の日本人に取って意味不明な言語の羅列でしかなく、作者が公の場にてマ〇ターベー〇ョンを行っているに等しい愚行である。 成績は落第の「D」(星ゼロ)。留年決定の作者は、また来年からやり直して下さい。
2017年7月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
冒頭の『碧い瞳』のクローズアップの解釈がおもしろいと思って読み始めたが、途中から、著者の偏見というか半強制的で強引な解釈が、あまりにも多く
読んでいて、うんざりしてしまった。また、小難しい注釈が多く、いちいち巻末で確認するが、専門用語というか、解説が長く、読む気になれなかった。
後半、著者は、デッカードを主人公として、全く認めておらず、バディこそが真の主人公であるという主張が多くなり、エンディングもハッピー・バージョンの
『プロデューサーズ・カット版』 こそがメロドラマ的(?)で非常にふさわしいという、解釈も全く納得できなかった。
そもそも、ヴァンゲリスが作曲したエンド・タイトルは、曲調が暗く、ダークな世界である以上、ハッピー・バージョンの『プロデューサーズ・カット版』など
ありえず、リドリースコットの『デイレクターズ・カット最終版』や『ファイナルカット版』のバット・エンディングこそが、本来のエンディングなのでは?と
改めて思った。とにかくこの映画は、さまざまなバージョンがあり、またいろんな謎解きや解釈があってもよいのだが、この本に関しては、あまりのも
独善というか、独自の解釈・断言が多く、ちょっと残念であった。
読んでいて、うんざりしてしまった。また、小難しい注釈が多く、いちいち巻末で確認するが、専門用語というか、解説が長く、読む気になれなかった。
後半、著者は、デッカードを主人公として、全く認めておらず、バディこそが真の主人公であるという主張が多くなり、エンディングもハッピー・バージョンの
『プロデューサーズ・カット版』 こそがメロドラマ的(?)で非常にふさわしいという、解釈も全く納得できなかった。
そもそも、ヴァンゲリスが作曲したエンド・タイトルは、曲調が暗く、ダークな世界である以上、ハッピー・バージョンの『プロデューサーズ・カット版』など
ありえず、リドリースコットの『デイレクターズ・カット最終版』や『ファイナルカット版』のバット・エンディングこそが、本来のエンディングなのでは?と
改めて思った。とにかくこの映画は、さまざまなバージョンがあり、またいろんな謎解きや解釈があってもよいのだが、この本に関しては、あまりのも
独善というか、独自の解釈・断言が多く、ちょっと残念であった。
2015年11月15日に日本でレビュー済み
著者の数多ある映画研究書のなかでも、本書はその議論の緻密さと濃密さにおいて突出している(それはすなわち、本書がこれまでに日本語で刊行された映画研究書籍のなかでもっとも充実したテクストの一つであるということでもある)。むろん、吉田秀和賞を受賞した『映画とは何か』(みすず書房、2001年)や、1933年から2007年までの膨大な日本映画作品を取り上げてそこに新たな意味とコンテクストを浮かび上がらせた『日本映画論 1933-2007 テクストとコンテクスト』(岩波書店、2011年)をはじめとする同著者の他の書籍群が同様に卓越しているのは言うまでもないことなのだが、本書の特異性は『ブレードランナー』(1982年)という一本の映画テクストをめぐって書かれている点に求められるだろう。
本書の持つ特異な革新性については、これまでに様々な論者が様々な機会に語ってきているし、このレヴュー欄を見ても多くの読者がその驚くべき内容から受けた感銘を詳細に報告していることがわかる。したがって、本書の具体的な内容についてはそうした論考やレヴューに譲るとして、ここでは本書のタイトルと副題に注目することで、その方面から本書の革新性と卓越性に迫ってみたいと思う。
さて、『「ブレードランナー」論序説――映画学特別講義』というのが本書の正式なタイトルである。じっさい、これは本書の内容をこれ以上なく正確に表現した完璧なタイトルである。なるほど、本書は映画『ブレードランナー』について論じた書物であり、著者は当代随一の映画研究者なのだから、副題に「映画学特別講義」とあるのもうなずける。しかし、ここで「特別」と言っているのは、言葉の正しい意味で、文字通り「特別」だからなのであり、人はそのことにまだ充分に自覚的であるとは言えないのではないかと思う。そして、唯一無二の徹底的な論考が繰り広がられているにも関わらず、メインタイトルに「序説」とあることの真意に――すなわちここに込められた著者の祈りに――人は触れるための努力をもっと払うべきではないかと思う。どういうことだろうか。
本書が「特別講義」と呼びうるものになっているのは、単に著者が並外れた学識と感性を備えた研究者=批評家であるということだけでなく、じっさいに本書の内容が「特別」なものだからである。本書では『ブレードランナー』という一本の映画を論じながら、同時に映画史と映画理論の枠組みの再検討を試みるというアクロバット(離れ業)を決めてみせている。著者の言葉を借りるならば、本書は「作品論であると同時に映画技法論であり、映画史論であると同時に映画理論」であり、それのみならず、本書で展開されていくテーマは「映画史と映画前史の縮図、映画後史の見取り図、あるいは映画館論と映画観客論、あるいは映像と音響のダイナミズム論、俳優身体のパフォーマンス論」などきわめて多岐にわたっており、さらにここに「古典的ハリウッド映画と実験映画、探偵小説とSF、メロドラマと悲劇、ヴィデオ・ゲームと写真と絵画といった各種パラミータ」が組み込まれてもいるのである(242頁)。しかもこれは大言壮語でも何でもなく、本書の実態そのものなのである。これほど多種多様な論点について、一冊の書物のなかで必要な議論を展開してしえているという事実は、誇張でも何でもなく、文字通り空前絶後の神業である。これが「特別講義」という副題がきわめて正確なものだと私が考える所以である。じっさい、このような離れ業を成し遂げた書物が他にあることを、私は寡聞にして知らない。
したがって、著者に「本書はいまのところ世界でもっとも網羅的な『ブレードランナー』論である」(241頁)という自負があるのはごく自然なことである。そしてそれは紛うかたなき事実である。刊行当時も事実だったし、それから10年以上が経過した今でも事実のままであり続けている。では、これだけ卓越したテクストの書名に「序説」とあるのはどうしてだろうか。本書以上に「本論」らしい「本論」はありえないのではないか。この「序説」というのは、あくまでも著者による謙遜でしかないということなのか。いや、そうではないだろう。
そもそも本書が序説であるというのは、これまでにふさわしい「序説」が書かれてこなかったということを意味している。三度著者の言葉に頼るならば「映画『ブレードランナー』についてはすでに多くのことが語られている。にもかかわらず、やはりなにごとも語られていない」のであり、「われわれ観客はある一本も映画を見たつもりでいながら、実際にはしばしばその映画を見損なっているということがあるのだということ」こそが本書の出発点にはあったのである(「まえがき」より)。
そして本書によって遂に相応しい「序説」を獲得した映画『ブレードランナー』は、ようやく「本論」へと開かれる可能性を得たことになる。本書に触発された一人ひとりの読者がその来るべき「本論」を執筆していけばいい。「序説」を書名に掲げた著者の深遠な心のうちには、未知の読者へと映画(学)の未来を託すそのような祈りにも似た美しい倫理感があったのではないのか。
本書を通して、私は単に映画『ブレードランナー』の見方を学んだのみならず、映画の見方と書物の読み方を、そしてテクストの書き方までをも教えてもらったのだと思っている。
著者に深い感謝を捧げたく思って、このような長文のレヴューを書かせていただいた次第である。
本書の持つ特異な革新性については、これまでに様々な論者が様々な機会に語ってきているし、このレヴュー欄を見ても多くの読者がその驚くべき内容から受けた感銘を詳細に報告していることがわかる。したがって、本書の具体的な内容についてはそうした論考やレヴューに譲るとして、ここでは本書のタイトルと副題に注目することで、その方面から本書の革新性と卓越性に迫ってみたいと思う。
さて、『「ブレードランナー」論序説――映画学特別講義』というのが本書の正式なタイトルである。じっさい、これは本書の内容をこれ以上なく正確に表現した完璧なタイトルである。なるほど、本書は映画『ブレードランナー』について論じた書物であり、著者は当代随一の映画研究者なのだから、副題に「映画学特別講義」とあるのもうなずける。しかし、ここで「特別」と言っているのは、言葉の正しい意味で、文字通り「特別」だからなのであり、人はそのことにまだ充分に自覚的であるとは言えないのではないかと思う。そして、唯一無二の徹底的な論考が繰り広がられているにも関わらず、メインタイトルに「序説」とあることの真意に――すなわちここに込められた著者の祈りに――人は触れるための努力をもっと払うべきではないかと思う。どういうことだろうか。
本書が「特別講義」と呼びうるものになっているのは、単に著者が並外れた学識と感性を備えた研究者=批評家であるということだけでなく、じっさいに本書の内容が「特別」なものだからである。本書では『ブレードランナー』という一本の映画を論じながら、同時に映画史と映画理論の枠組みの再検討を試みるというアクロバット(離れ業)を決めてみせている。著者の言葉を借りるならば、本書は「作品論であると同時に映画技法論であり、映画史論であると同時に映画理論」であり、それのみならず、本書で展開されていくテーマは「映画史と映画前史の縮図、映画後史の見取り図、あるいは映画館論と映画観客論、あるいは映像と音響のダイナミズム論、俳優身体のパフォーマンス論」などきわめて多岐にわたっており、さらにここに「古典的ハリウッド映画と実験映画、探偵小説とSF、メロドラマと悲劇、ヴィデオ・ゲームと写真と絵画といった各種パラミータ」が組み込まれてもいるのである(242頁)。しかもこれは大言壮語でも何でもなく、本書の実態そのものなのである。これほど多種多様な論点について、一冊の書物のなかで必要な議論を展開してしえているという事実は、誇張でも何でもなく、文字通り空前絶後の神業である。これが「特別講義」という副題がきわめて正確なものだと私が考える所以である。じっさい、このような離れ業を成し遂げた書物が他にあることを、私は寡聞にして知らない。
したがって、著者に「本書はいまのところ世界でもっとも網羅的な『ブレードランナー』論である」(241頁)という自負があるのはごく自然なことである。そしてそれは紛うかたなき事実である。刊行当時も事実だったし、それから10年以上が経過した今でも事実のままであり続けている。では、これだけ卓越したテクストの書名に「序説」とあるのはどうしてだろうか。本書以上に「本論」らしい「本論」はありえないのではないか。この「序説」というのは、あくまでも著者による謙遜でしかないということなのか。いや、そうではないだろう。
そもそも本書が序説であるというのは、これまでにふさわしい「序説」が書かれてこなかったということを意味している。三度著者の言葉に頼るならば「映画『ブレードランナー』についてはすでに多くのことが語られている。にもかかわらず、やはりなにごとも語られていない」のであり、「われわれ観客はある一本も映画を見たつもりでいながら、実際にはしばしばその映画を見損なっているということがあるのだということ」こそが本書の出発点にはあったのである(「まえがき」より)。
そして本書によって遂に相応しい「序説」を獲得した映画『ブレードランナー』は、ようやく「本論」へと開かれる可能性を得たことになる。本書に触発された一人ひとりの読者がその来るべき「本論」を執筆していけばいい。「序説」を書名に掲げた著者の深遠な心のうちには、未知の読者へと映画(学)の未来を託すそのような祈りにも似た美しい倫理感があったのではないのか。
本書を通して、私は単に映画『ブレードランナー』の見方を学んだのみならず、映画の見方と書物の読み方を、そしてテクストの書き方までをも教えてもらったのだと思っている。
著者に深い感謝を捧げたく思って、このような長文のレヴューを書かせていただいた次第である。
2012年2月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「ブレードランナー」は、様々な解釈ができる映画で、好きな映画のひとつです。この本を読み終えて、そういう解釈もあるのかと、新たな発見がありました。読み応えありです。