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議論の技法 単行本 – 2011/5/13

2.2 5つ星のうち2.2 6個の評価

スティーヴン・トゥールミン著The Uses of Argumentアップデート版の全訳。著者はクリティカル・シンキングにおける「トゥールミンモデル」の生みの親として名高い。データと結論を論拠(warrant)が結び、論拠にさらに裏づけがなされる、という例のヤツである。しかし、本書の射程はクリティカル・シンキングの理論的基礎を与えることにとどまらない。むしろ、トゥールミンモデルは、彼の目指すよりスケールの大きな哲学的作業のための「道具」になっている。
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商品の説明

著者について

● 著者スティーヴン・トゥールミン Stephen Edelston Toulmin (1922.3.25ー2009.12.4) イギリス、ロンドン出身の、哲学者、教育者。1942年にCambridge大学のKing's Collegeから学号を取得。 1997年には、アメリカ連邦政府が人文科学における最高の栄誉としているJefferson LectureにToulminを選出している。   著書にThe Philosophy of Science:an Introduction (1953), The Abuse of Casuistry:A History of Moral Reasoning (1988), The Hidden Agenda of Modernity(1990), Return to Reason (2002)がある。理性への回帰Retern to Reason (叢書・ウニベルシ タス) は 藤村龍雄訳がある。● 訳者紹介戸田山和久(とだやま かずひさ)1958年、東京都生まれ。89年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。89年より、名古屋大学教養部、現在、名古屋大学情報科学研究科教授専門 科学哲学、認知科学・生物学・脳神経科学の哲学、技術者倫理学著作 科学を考える(共編著) 北大路書店、論文の教室、科学哲学の冒険 NHKブックス、知識の哲学 産業図書、   論理学をつくる、誇り高い技術者になろう?工学倫理のススメ 名古屋大学出版会、   ウィトゲンシュタイン?知識の社会理論(D. ブルア)、 科学と価値(L. ラウダン) 勁草書房福澤一吉(ふくざわ かずよし)1950年、東京都生まれ。78年、早稲田大学文学部大学院文学研究科心理学修士課程修了。82年、ノースウエスタン大学コミュニケーション学部言語病理学科、大学院博士課程修了、Ph.D.82年~90年 東京都老人総合研究所リハビリテーション医学部言語聴覚研究室研究員、90年 早稲田大学文学部心理学専修講師、98年より文学学術院心理学コース教授専門 言語病理学、神経心理学、認知神経心理学著作 現代心理学入門(共編著) 川島書店、議論のレッスン、論理表現のレッスン、NHK生活人新書、   議論のルール NHKブックス、分かりあう対話10のルール 筑摩新書、科学的に説明する技術、   サイエンス・アイ新書 論理的に説明する技術、サイエンス・アイ新書他。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 東京図書 (2011/5/13)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2011/5/13
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 384ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4489020945
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4489020940
  • カスタマーレビュー:
    2.2 5つ星のうち2.2 6個の評価

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上位レビュー、対象国: 日本

2017年5月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私の読解力不足の為か、それとも翻訳が悪いのか、通読してもほとんど頭に残らなかった。
博士課程の知り合いにも紹介し通読してもらったがやはり私と同じように読みにくいと言っていました。
言葉の使い回しが
~でなく、~でなく、~である。
否定が数回続き、肯定とか
確かに、確かに、である。
譲歩構文のように見えてそうでない文とか
文法そのものに問題がある。
難しい表現ばかり並べたり、言い換えの接続詞を連発したりと
結局、何が言いたいのかわからなくなるだけである。
7人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2015年2月4日に日本でレビュー済み
最初に述べたいのは、訳書の書名を受け入れられないことである。
特に、「トゥールミンモデルの原点」というサブタイトルは、トゥールミンの意図に反していると思える。
「序文」には、次のように書かれているではないか。
すなわち、「わたしはレトリックや議論の理論を詳細に論じるつもりはなく、取り扱いたいのは非形式的な論理というよりも、20世紀の認識論である。そもそも、コミュニケーションの研究者が『トゥールミン・モデル』と呼ぶような分析的モデルを考えようとしたのでもない」とある。

そのような名前で呼ぶべきかどうかは迷うのだが、「トゥールミン・モデル」は日常的な議論を分析、評価する図式モデルである。
それは普遍的に正当化が可能な論理学の演繹的議論とは異なり、議論が状況的に正当化され、個性的に成立することを示している。
それを明確に示すのが、「裏付けBacking of Warrant」である。
それは、ある範囲でしか議論は正当化できないとの言明であり、正当化できる範囲を狭く限定する。
そのため、限定された範囲での正当化の程度を高めるものとなっている。

ところが、法学や倫理学、修辞学、教育学、コミュニケーション論等の多くの領域において、「トゥールミン・モデル」は広く活用されるものの、誤解されてきた。
演繹的議論に代わる、普遍的な議論のモデルとして取り扱われてきたのである。
そのため、多様な分野における引用のほとんどの場合であるが、「裏付けBacking of Warrant」が消えるのである。

注目しなければならないことは、議論と認識とを等しいとするトゥールミンは近代の普遍的合理主義を批判し、新たな認識論を構築しようと試みていることである。
そこでは、近代科学の誕生とともに失われたルネサンス人文主義の懐疑主義の回復を求めている。
近代合理主義や近代科学だけではなく、ルネサンスの懐疑主義の回復をも加えてこそ、近代を実現できると考えているのである。

このような認識論を文脈として「トゥールミン・モデル」を解釈するならば、議論の普遍的な正当化を拒絶し、特定の状況における正当化を当然とする懐疑主義へと移行する道具として使用することが求められる。
たとえば、ディベート教育や国語教育、社会科教育では、討論を行わせるあたって、「トゥールミン・モデル」を活用する場合がある。
最も典型的なのはディベート教育の場合だが、「トゥールミン・モデル」を普遍的な論証の道具とし、討論の相手を論破できると考えている。
トゥールミンの言にしたがい、「裏付けBacking of Warrant」を活用して、論証は限定されると述べる謙虚な議論(むしろ、限定された範囲での強い議論)を展開するべきである。

教育一般においては、学校における教師による授業構成も議論として、その正当化を図る行為とみることができる。
なぜなら、「正しい内容」を指導することが当然とされるからである。
しかし、懐疑主義の立場からは、授業の内容を普遍的に正当化することはできない。
そのため、授業の目標となる教育内容の構成については限定的な正当化による場合、あるいは対立的な複数の内容を選択することなく、ともにある程度は正当化する場合などが求められる。
教師も謙虚に授業を行い、複数の結論や考え方が可能であるとの立場を採用するべきである。

多様な議論を認め、懐疑的に限定してそれらを受け入れる認識の習慣を確立するべきである。
このことこそ、トゥールミンがわたしたちに求めていることなのである。
20世紀の認識論を問い直すとは、そういうことであろう。

トゥールミンは、デカルトを嚆矢とする近代合理主義思想を疑い、批判する。
悲惨な殺戮を招く宗教的な対立を解消するために、立場や宗派に左右されない普遍的な真理を求めたのが、デカルトたちである。
しかし、近代合理主義へと歩んだ彼らは、普遍的な真理を求めるとともに、ルネサンスの懐疑主義を捨ててしまった。

ルネサンスの懐疑主義では、たとえばモンテーニュが忘れられない。
彼は、デカルトとは異なり、普遍的な真理は求めない。
なぜなら、神ではない人間は不完全なので、普遍的な真理など得ることはできないと考えるからである。
それでも、宗教的対立が激化し、殺戮が繰り返される当時のフランスにおいて、カトリックとプロテスタントとの調停を行った。
そこでは、宗教的な主張のどちらかが真理なのかと問うのではなく、長期的に対立して争うことの実際的な不利益が大きいことを論じたのであろう。
「いつでも、どこでも、だれでも」という普遍的な視点ではなく、「今、ここでの、わたしたち」という限定された状況的な視点を重視したのである。

トゥールミンは、近代合理主義の不備を補うように、モンテーニュのような懐疑主義を回復することが、「理性への回帰」だと考えている(トゥールミン『理性への回帰』(訳・藤村龍雄)法政大学出版局、2009年)。
テロや紛争、あるいは国際的な対立が続く今日の世界情勢からすれば、トゥールミンの理論的な重要性は高まるばかりではないか。
ここに、トゥールミンの今日性を強く感じるのは、筆者だけではないだろう。
30人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2020年1月29日に日本でレビュー済み
 全称命題(全てのAはBである)が実践的な議論に現れることは、少ない。と指摘し、新たな議論のパターンを提示している。

 データ(D)、Pはスウェーデン人である。
 根拠(W)、スウェーデン人はカソリックではない。
 結論(C)、Pはカソリックではない。
 これが従来の三段論法である。

 データ(D)、Pはスウェーデン人である。
 根拠(W)、スウェーデン人のカソリックの割合は2%以下。
  裏付け(B)、アンケート結果
 限定詞(Q)、ほぼ確実に
 結論(C)、Pはカソリックではない。
 がトゥールミンの議論の技法の考え方である。

 更に、反駁(R)、Pは最近改宗した。があれば、結論(C)が阻止され、(D)に(R)を加えて新たな(D’)で議論が始まる。

 限定詞(Q)が必然性、蓋然性、可能性のような「様相」であるか?全称、特称、単称のような「量化」?であるのかはっきりしないのが問題点と思われる。が、三段論法より優れていると私は思う。
5人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2011年9月25日に日本でレビュー済み
せっかくの良書の翻訳だけれど、訳文の見直しは必要。 訳語の統一等を監修者は行ったそうだが、不備が目立つ。 目立つ例では、外国人名など姓名の間の中点がなく半角空欄があいているだけだったり、空欄も中点もないものあるなど、統一性がない。 またセンテンスが長い文では、意味のとれない日本語もある。センテンスの長い文の翻訳は文章をまとまり毎に分けて訳せばいいのに。原著に敬意をはらい、校正をもう一度見直してほしい。
37人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2017年5月20日に日本でレビュー済み
大学院の学生などが訳したものを名前の出ている二名の翻訳者がまとめたものだそうです。

第一章は上手な訳だと思いました。その部分を訳した学生さんが英語と日本語を良く知っていたためか、まとめる時に第一章から始め、第一章だけ検討しただけで出版されたのか、理由はわかりませんが。

第二章から、分かり難くなります。たとえば、ある節は「蓋然性と期待」と訳されていますが、普通に「確率と予想」ではいけなかったんでしょうか。英語のprobabilityは哲学用語では蓋然性ですが、数学や物理では確率と言います。こちらのほうが日常語として馴染みがあるでしょう。大きな問題はexpectationを期待と訳してしまったことです。この節の内容は何かの期待ではありません。確率を予想することです。そう訳してしまったため、節全体が分かり難くなっています。

野内良三さんが著書の『
レトリック入門―修辞と論証 (SEKAISHISO SEMINAR) 』で「トゥールミンの議論分析は、実は代表的な論法である三段論法の巧妙な書き換えである」と述べています。さらに、それが何か重要な発見であるかのように他の本のレビューに書かれています。ですが、それは違います。三段論法は形式論理学で正しさが保証されたものです。次のような形です。

大前提 大阪育ちの人は全員お好み焼きが好きだ。
小前提 太郎は大阪育ちである。
結論 太郎はお好み焼きが好きだ。

三段論法の大前提は「すべて」についての言明です。必ずそうなるという言明です。「ほぼ」や「十中八九」ではありません。Toulminのモデルの特徴は第二章で準備され、第三章で詳述されるように、そこに結論が真である確率を持ち込んだことにあります。ここが古典的な三段論法と大きく違う点です。

データ 太郎は大阪育ちである。
結論 太郎はたぶんお好み焼きが好きだ。
発言されない理由 大阪育ちの人はたいていお好み焼きが好きだ。
発言されない裏付け 大阪育ちの人○○○人を対象とする調査で○○%の人がお好み焼きが好きと回答した。

もちろん上の理由が「大阪育ちの人は全員・・・」となれば、結論から確率を表わす「たぶん」がとれ、古典的な三段論法と同じになります。確率が100%のとき古典的な三段論法と同じにならないとしたら形式論理学が間違っていることになります。このことは巧妙でも何でもありません。そうなるのが当然なのです。

Toulminのモデルのもう一つの特徴は「理由」を省略する場合を示した点です。三段論法の大前提にあたる理由を言わないことは私たちが日常の言語生活の中で常に経験することです。Toulminのモデルはそのような日常の推論を忠実にモデル化したたけのものです。そこから何か凄いものが現われる魔法のような方法ではありません。

この翻訳ではDataを根拠、Claim or Conclusionを主張、Warrantを論拠、Qualifierを限定詞、Backingを裏づけ、Rebuttalを反証と訳しています。根拠と論拠がどう違うか。そういう訳語も翻訳が分かり難い原因です。

Dataは事実に限られるので、根拠ではなく「事実」あるいは「データ」とすべきです。Claim or Conclusionは「結論」で代表させたほうが三段論法と同じですし、日常的に使う語なので分かりやすいと思います。WarrantはDataからClaim or Conclusionを導く保証ですが、根拠と紛らわしい論拠とするより日常語的な「理由」が良いと思います。Qualifierはその意味をとって「確率副詞」ではだめでしょうか。Rebutalは「但し書き」が日常語的です。

この本の翻訳は改良すべきです。この本の議論を正確に理解しようと思うなら、現在の翻訳ではなく、原著の
The Uses of Argument を読むべきです。
31人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2015年12月22日に日本でレビュー済み
評価が低かった所に、きちんとした擁護論が掲載されて、嬉しくて投稿します。みなさんには勝てそうにないので、真ん中を取って3つ星に♪難しくて理解できそうになさそうですが、また読んでみようと思います。ありがとう!
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート