
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
100年企業の改革私と日立 単行本 – 2016/1/1
川村 隆
(著)
製造業最大の赤字から過去最高益へ。沈みかけた巨艦・日立を再生させた立役者が、経営改革の要諦と自身の半生を語る。いま振り返って日立の経営改革とは何だったのか、痛みを伴う改革の実践とは――。日本経済新聞の好評連載「私の履歴書」に、私の経営論等を大幅加筆。
「大企業でありながら繁栄を永続させるのは並大抵のことではない。節目で『痛みを伴う改革』を実施してこそ、新しい時代との適合が可能になり、新たな生命力が会社に吹き込まれる。それができた会社は、たとえば2008年に起こった世界金融危機のような外乱にも耐えられるが、そうでない会社は、劣化が進んだ事業を発端にして経営破綻に至ることがある。老舗企業が再び若々しさを取り戻すためには何が必要か――。これが、日立の経営者として私が取り組んだ課題である」(本文より)
「大企業でありながら繁栄を永続させるのは並大抵のことではない。節目で『痛みを伴う改革』を実施してこそ、新しい時代との適合が可能になり、新たな生命力が会社に吹き込まれる。それができた会社は、たとえば2008年に起こった世界金融危機のような外乱にも耐えられるが、そうでない会社は、劣化が進んだ事業を発端にして経営破綻に至ることがある。老舗企業が再び若々しさを取り戻すためには何が必要か――。これが、日立の経営者として私が取り組んだ課題である」(本文より)
- 本の長さ213ページ
- 言語日本語
- 出版社日経BPマーケティング(日本経済新聞出版
- 発売日2016/1/1
- 寸法13.5 x 2 x 19.6 cm
- ISBN-104532320534
- ISBN-13978-4532320539
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
著者について
川村 隆(かわむら・たかし)
日立製作所相談役。1939年、北海道生まれ。62年東京大学工学部電気工学科を卒業後、日立製作所に入社。電力事業部火力技術本部長、日立工場長を経て、99年副社長就任。2003年日立ソフトウェアエンジニアリング会長、07年日立マクセル会長などを務めるが、日立製作所が7,873億円の最終赤字を出した直後の09年、執行役会長兼社長に就任、同社再生を陣頭指揮する。黒字化の目途を立てた10年に社長を退任、14年には取締役会長を退任し、現職。2004~05年日本電気学会会長、10~14年日本経済団体連合会副会長、14年からみずほフィナンシャルグループ社外取締役、15年からカルビー株式会社社外取締役も務める。2014年毎日経済人賞受賞。著書に『ザ・ラストマン』(2015年、KADOKAWA)。
日立製作所相談役。1939年、北海道生まれ。62年東京大学工学部電気工学科を卒業後、日立製作所に入社。電力事業部火力技術本部長、日立工場長を経て、99年副社長就任。2003年日立ソフトウェアエンジニアリング会長、07年日立マクセル会長などを務めるが、日立製作所が7,873億円の最終赤字を出した直後の09年、執行役会長兼社長に就任、同社再生を陣頭指揮する。黒字化の目途を立てた10年に社長を退任、14年には取締役会長を退任し、現職。2004~05年日本電気学会会長、10~14年日本経済団体連合会副会長、14年からみずほフィナンシャルグループ社外取締役、15年からカルビー株式会社社外取締役も務める。2014年毎日経済人賞受賞。著書に『ザ・ラストマン』(2015年、KADOKAWA)。
登録情報
- 出版社 : 日経BPマーケティング(日本経済新聞出版; New版 (2016/1/1)
- 発売日 : 2016/1/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 213ページ
- ISBN-10 : 4532320534
- ISBN-13 : 978-4532320539
- 寸法 : 13.5 x 2 x 19.6 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 337,103位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,195位企業・経営
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2016年3月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
企業の経営の難しさを感じて読んでいます。内容は良いものです。
2021年3月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
大企業病って治療するが簡単ではないのは
本当ですね。
やられたことはモデリングしたいですね。
ただ会社愛がもっと大事です。
本当ですね。
やられたことはモデリングしたいですね。
ただ会社愛がもっと大事です。
2016年3月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
数千億円の赤字から僅か1年でいかにしてV字復活したのかを知りたくて、本書を購入。ドキュメンタリーのようで一気に読んだ。是非購読をお薦めします。
2016年3月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は青春のころ日立製作所に入社したいと思っていました。 一人前の技術者になるために.....
夢はかないませんでしたが、なせだか、この会社が好きでした。
日立製作所関連の書籍を読むことはとても、自分自身、心が充実します。
夢はかないませんでしたが、なせだか、この会社が好きでした。
日立製作所関連の書籍を読むことはとても、自分自身、心が充実します。
2019年9月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ほかの方も書いてある通り、日々のこまごまとしたことの改善しか書いてありません。
大きく変えたほうがいいところなどは書いてないので、そういうのを期待している人は様子を見たほうがいいかもしれません。
大きく変えたほうがいいところなどは書いてないので、そういうのを期待している人は様子を見たほうがいいかもしれません。
2019年2月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
もっとダイナミックな事を書いてあるのかと思いきや、役員の日常の仕事の様子を書いてあるのに過ぎない。
2021年3月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
これは書評というよりは、自分自身の「私の履歴書」として自分語りさせてもらいます。
九州大学工学部応用原子核工学科を卒業した1990年春。当時はバブル景気で、学卒であるにもかかわらず、幸運なことに日立製作所エネルギー研究所に入所することができました。
僕の父方の祖父は戦前に北九州の明治専門学校(現在の九州工業大学)を卒業後、安川電機に入社して戦争に行くまで大学卒のエンジニアとして活躍していました。安川電機の創業者の安川敬一郎氏のご子息、安川第五郎氏は日立製作所の創設者、小平浪平氏の下で(今で言う)インターンシップの経験もあり、安川電機と日立製作所の繋がりもあったようです。
祖父は戦後、福岡県田川郡英彦山での弾薬爆発事件で英彦山が地元の野北家の危機のため、安川電機には復職せずに英彦山に戻って、実家の製材所を継ぐことになったと聞いています。僕の日立製作所への入所を一番喜んでくれたのは、そんな祖父でした。
僕自身は1990年4月に入所して、1997年9月に在職中に九大から論文博士として博士号を授与され、そして1999年3月にオーストラリアに移住のため退所(退職)しました。僕の10年間の日立時代の電力開発本部長、つまり部門の大ボスは川村隆さんでした。しかし、その10年間に川村隆さんには一度もお会いすることはかないませんでした。それだけ雲の上の存在だったと記憶しています。ちなみに、当時の社長の金井努さんには、博士号取得後のお祝いの会で、1997年末に御茶ノ水の日立製作所本社(当時)の隣の聚楽でお会いして、会話を交わしたことが一度だけあります。
日立工場、成沢の社宅アパート、工場内の「創業小屋」、日立市の生活など、川村隆さんとの時間のギャップは約30年(四半世紀以上!)ありますが、同じ場所でエンジニアとしてのスタートを切ったことを面白く、そして懐かしく、この「私の履歴書」を読むことができました。そして、いまでも日立製作所には感謝しているのですが、益々日立製作所での日々の感謝の度合いが高くなっています。実は、今でも工場で研修(発電所のタービン用の巨大インダクションモーターの据え付け)で使用した日立製作所のロゴの入ったヘルメットを大切に保管しています。工場内には大きな看板で「打ち込め魂、仕事の上に」とあるのを毎日眺めていたのも、懐かしい思い出です。
九州大学工学部応用原子核工学科を卒業した1990年春。当時はバブル景気で、学卒であるにもかかわらず、幸運なことに日立製作所エネルギー研究所に入所することができました。
僕の父方の祖父は戦前に北九州の明治専門学校(現在の九州工業大学)を卒業後、安川電機に入社して戦争に行くまで大学卒のエンジニアとして活躍していました。安川電機の創業者の安川敬一郎氏のご子息、安川第五郎氏は日立製作所の創設者、小平浪平氏の下で(今で言う)インターンシップの経験もあり、安川電機と日立製作所の繋がりもあったようです。
祖父は戦後、福岡県田川郡英彦山での弾薬爆発事件で英彦山が地元の野北家の危機のため、安川電機には復職せずに英彦山に戻って、実家の製材所を継ぐことになったと聞いています。僕の日立製作所への入所を一番喜んでくれたのは、そんな祖父でした。
僕自身は1990年4月に入所して、1997年9月に在職中に九大から論文博士として博士号を授与され、そして1999年3月にオーストラリアに移住のため退所(退職)しました。僕の10年間の日立時代の電力開発本部長、つまり部門の大ボスは川村隆さんでした。しかし、その10年間に川村隆さんには一度もお会いすることはかないませんでした。それだけ雲の上の存在だったと記憶しています。ちなみに、当時の社長の金井努さんには、博士号取得後のお祝いの会で、1997年末に御茶ノ水の日立製作所本社(当時)の隣の聚楽でお会いして、会話を交わしたことが一度だけあります。
日立工場、成沢の社宅アパート、工場内の「創業小屋」、日立市の生活など、川村隆さんとの時間のギャップは約30年(四半世紀以上!)ありますが、同じ場所でエンジニアとしてのスタートを切ったことを面白く、そして懐かしく、この「私の履歴書」を読むことができました。そして、いまでも日立製作所には感謝しているのですが、益々日立製作所での日々の感謝の度合いが高くなっています。実は、今でも工場で研修(発電所のタービン用の巨大インダクションモーターの据え付け)で使用した日立製作所のロゴの入ったヘルメットを大切に保管しています。工場内には大きな看板で「打ち込め魂、仕事の上に」とあるのを毎日眺めていたのも、懐かしい思い出です。