終戦前の国のあり方を否定し、東京裁判は問題は多いが受け入れ、国による神道サポートも望まないが、国家が直接的に命令した職務遂行に伴い死亡した人々(主に軍人)を、国が遂行した戦争に伴い死亡した戦没者とは別に、終戦前の約束(戦死すれば靖国に祀られるという)のようなものに現憲法下でなるべく忠実な方法で公的に追悼することは不当ではないという意味で、靖国派のはしくれに位置する者にとっては、靖国問題が、「靖国派」対「反靖国派」の二つに単純化されて、本当に議論したいことが議論できない状況は残念であった。国家による戦死者及び戦没者の公的追悼の必要性、必要ならその態様を話し合い、コンセンサスを形成していくべきだと思う。本書はよくある単純二分化が適当でないことを丁寧に論理的に示しており、非常に意義深い本であると思う。
また、政教分離裁判について、当事者が本当に争いたいのは法律的な政教分離解釈ではないこと、裁判という形にすることで出る矛盾も解き明かしていることも参考になった。
ただ、研究者向けに書かれた本ではないとはいえ、引用文献が逐次付けられておらず、参考文献を見る限り、GHQなどに関する関する資料も日本語文献しかあたっていないところが残念。研究資料としての価値が高いとは言えない。
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靖国問題の原点 単行本 – 2005/8/1
三土 修平
(著)
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- 本の長さ284ページ
- 言語日本語
- 出版社日本評論社
- 発売日2005/8/1
- ISBN-104535584532
- ISBN-13978-4535584532
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商品の説明
著者からのコメント
靖国問題については、憲法の解釈問題、国民感情の問題、現時点での外交政策の問題などとして論じられることが多いが、発端となった靖国神社の戦後改革そのものが駆け引きと妥協の産物であったという歴史的事実をきちんと踏まえた議論が意外なほど少ない。2005年8月13日のNHKスペシャル「靖国神社」はこの点に光を当てた画期的放送だったが、著者もまた同じことを前々から考えていて、そのことをメインのアピールとする形で今回この本を書いた。国家施設から私法人へという靖国神社の改革は、従来国家護持派が唱えてきたように「GHQに一方的に押し付けられた不当な改革」でもなければ、逆に護憲派が唱えてきたように「政教分離というすばらしい理想を貫いた画期的改革」だったわけでもなく、信教の自由を逆手に取ってその反対物である国家神道思想をなるべく無傷で延命させようとした、目的と手段のねじれを含む改革だったのだ。昨今の靖国問題は、何よりもまず、同神社の改革が当初から含んでいたこうした矛盾の顕在化なのである。
登録情報
- 出版社 : 日本評論社 (2005/8/1)
- 発売日 : 2005/8/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 284ページ
- ISBN-10 : 4535584532
- ISBN-13 : 978-4535584532
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,343,008位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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2006年11月3日に日本でレビュー済み
三土氏のいう「靖国問題の原点」とは何か。それは、靖国神社が、日本の近代化の中で生み出された国家神道という「宗教であってないようなもの」の矛盾をそのまま体現したような存在である、ということに尽きる。
日本社会では、社会的な権力者にとっての「私」的な領域が、下々のものにとってはそのまま「公」として認識される傾向が強い。その究極のものが、天皇こそが日本全体を包み込む「おおやけ」であり、天皇家の存在は「私」にして国民の「公」になるというフィクションである。そのフィクションの下、戦前の日本では明治神宮や伊勢神宮などの神道施設が、天皇家が帰依する「私」的な宗教施設であると同時に、庶民にとっての「公」として、すなわち国民を道徳的・心情的に束ねる国民動員装置として機能してきた。
もちろんGHQによる占領体制は、このような国民動員装置としての靖国神社の存続を許さなかった。すなわち靖国を民間の宗教施設として他のキリスト教・仏教などの施設と全く同列におき、その代わり公的施設としての活動に制限を加える―政教分離規定を厳密に適用する―、という道がとられたのだった。しかし、なまじ民間の一宗教法人となったために、遊就館の設置やA級戦犯の合祀など、ポツダム宣言を受け入れた戦後日本の歩みを真っ向から否定するような行いをとることもまた許されてしまったのだった。
これに対し日本の護憲・左派は、GHQによる戦後改革の趣旨を活かした現実的戦略として、もっぱら政教分離規定の厳格化の観点から首相の靖国公式参拝に反対してきた。しかし、その一方で国家による戦没者追悼のあり方を改めて問うような本質的な議論が提起されることはなかった、と三土さんは指摘する。このように宗教と国家の関係に鋭く切り込んだ本書は、靖国問題に関心を持つ全ての人にとっての必読書だろう。
日本社会では、社会的な権力者にとっての「私」的な領域が、下々のものにとってはそのまま「公」として認識される傾向が強い。その究極のものが、天皇こそが日本全体を包み込む「おおやけ」であり、天皇家の存在は「私」にして国民の「公」になるというフィクションである。そのフィクションの下、戦前の日本では明治神宮や伊勢神宮などの神道施設が、天皇家が帰依する「私」的な宗教施設であると同時に、庶民にとっての「公」として、すなわち国民を道徳的・心情的に束ねる国民動員装置として機能してきた。
もちろんGHQによる占領体制は、このような国民動員装置としての靖国神社の存続を許さなかった。すなわち靖国を民間の宗教施設として他のキリスト教・仏教などの施設と全く同列におき、その代わり公的施設としての活動に制限を加える―政教分離規定を厳密に適用する―、という道がとられたのだった。しかし、なまじ民間の一宗教法人となったために、遊就館の設置やA級戦犯の合祀など、ポツダム宣言を受け入れた戦後日本の歩みを真っ向から否定するような行いをとることもまた許されてしまったのだった。
これに対し日本の護憲・左派は、GHQによる戦後改革の趣旨を活かした現実的戦略として、もっぱら政教分離規定の厳格化の観点から首相の靖国公式参拝に反対してきた。しかし、その一方で国家による戦没者追悼のあり方を改めて問うような本質的な議論が提起されることはなかった、と三土さんは指摘する。このように宗教と国家の関係に鋭く切り込んだ本書は、靖国問題に関心を持つ全ての人にとっての必読書だろう。
2006年1月11日に日本でレビュー済み
「原点」と題しているだけあって、靖国神社の設立前後までさかのぼり、丁寧に時系列に従って分析を加えている。特に、巻末の年表はよく整理されていると思う。
靖国神社もその設立時においては当時の思想、社会等を適切に反映したものだったのだと思う。もちろん、当時「靖国問題」などというものは存在しなかった。一方で、あらゆる施設や制度は、その設立時においてすでに将来の問題の原点をはらんでいる。どのような施設や制度も、思想や社会や風俗習慣の変化に完璧に対処することはできない。
そうしていくつかの歴史的なマイルストーンを通過して、靖国神社も常に「問題」という二文字とほとんど常にセットで用いられることとなってしまった。このような現状は個人的には残念なことではあると思うが、著者の述べる通り、「八十年をかけて育成され、その絶頂期へと登りつめた靖国神社であってみれば、ほとぼりが冷めるにもあと八十年くらいの歳月が必要」なのかもしれない。設立という原点を出発したあとは、いかなる施設であっても、長い時間枠の中でさまざまな「問題」に対処していくしかないのだと思う。そういえば、人生もそのようなものかもしれない。
靖国神社もその設立時においては当時の思想、社会等を適切に反映したものだったのだと思う。もちろん、当時「靖国問題」などというものは存在しなかった。一方で、あらゆる施設や制度は、その設立時においてすでに将来の問題の原点をはらんでいる。どのような施設や制度も、思想や社会や風俗習慣の変化に完璧に対処することはできない。
そうしていくつかの歴史的なマイルストーンを通過して、靖国神社も常に「問題」という二文字とほとんど常にセットで用いられることとなってしまった。このような現状は個人的には残念なことではあると思うが、著者の述べる通り、「八十年をかけて育成され、その絶頂期へと登りつめた靖国神社であってみれば、ほとぼりが冷めるにもあと八十年くらいの歳月が必要」なのかもしれない。設立という原点を出発したあとは、いかなる施設であっても、長い時間枠の中でさまざまな「問題」に対処していくしかないのだと思う。そういえば、人生もそのようなものかもしれない。
2005年8月28日に日本でレビュー済み
書籍・メディアで、食傷気味な程取り上げられている「靖国問題」。まず結論ありきの二項対立的な議論から離れて、題名の通りその問題点の「原点」はどこにあるのかを、一見畑違いにも思える経済学者が、社会科学の徒らしくロジックとファクトで解析した著作である。
著者がこの問題について本腰を入れて考え出してから20余年とのこと、議論は非常に深耕されている。詳細な論考は本文を参照していただくしかないが、「謀略史観」や「せっかく史観」のいずれにも組せず、また、雰囲気や感情に飲まれず、何が問題点なのか、事実関係はどうなのか、丁寧に明らかにしていく。上述の「畑違い」などというのは的外れなコメントであることがわかるだろう。
この本は靖国問題の「原点」はどこにあるのかという点に絞っているため、最終章において、著者は「国家が公的に戦没者追悼施設を設けること自体の是非、および、かりに今後新たに設けるとした場合どのようなものであるべきかについては、これからの国民が議論を尽くすべき課題だと思うので、現在の段階で決まった意見を述べることは差し控えたい」としている。しかし、別の機会に是非、その「意見」を展開していただきたいと思う。
あとがきにおいて、昭和21年1月、靖国法人の宗教法人化が最終的に閣議決定したときの内務大臣・三土忠造が、著者・三土修平の祖父であり、かかる家系の元に生まれた者としての責務もあって靖国問題に取り組んできたことが明らかにされる。本文は、ロジックとファクトで非常に説得性のある記述となっているが、実は強いパッションに支えられていたのであろう。
どのような立場・思想傾向であろうが、靖国問題について考えようという人には一読の価値ありだ。
著者がこの問題について本腰を入れて考え出してから20余年とのこと、議論は非常に深耕されている。詳細な論考は本文を参照していただくしかないが、「謀略史観」や「せっかく史観」のいずれにも組せず、また、雰囲気や感情に飲まれず、何が問題点なのか、事実関係はどうなのか、丁寧に明らかにしていく。上述の「畑違い」などというのは的外れなコメントであることがわかるだろう。
この本は靖国問題の「原点」はどこにあるのかという点に絞っているため、最終章において、著者は「国家が公的に戦没者追悼施設を設けること自体の是非、および、かりに今後新たに設けるとした場合どのようなものであるべきかについては、これからの国民が議論を尽くすべき課題だと思うので、現在の段階で決まった意見を述べることは差し控えたい」としている。しかし、別の機会に是非、その「意見」を展開していただきたいと思う。
あとがきにおいて、昭和21年1月、靖国法人の宗教法人化が最終的に閣議決定したときの内務大臣・三土忠造が、著者・三土修平の祖父であり、かかる家系の元に生まれた者としての責務もあって靖国問題に取り組んできたことが明らかにされる。本文は、ロジックとファクトで非常に説得性のある記述となっているが、実は強いパッションに支えられていたのであろう。
どのような立場・思想傾向であろうが、靖国問題について考えようという人には一読の価値ありだ。
2005年12月2日に日本でレビュー済み
1946年時の内務大臣三土忠造の孫に当たり、1949年に生まれ、1972年東大法学部を卒業した後、経済企画庁に勤め、神戸大学大学院で経済学博士号を取得した上、宗教問題にも取り組み、1986年東大寺(華厳宗)で得度し、秦野純一という筆名で文学をもものした(潮賞)、一応反靖国派で護憲派の著者が、邦語文献のみに依拠し、2005年に刊行した、「靖国問題」をその原点にまで遡って考える本。その場合の「靖国問題」とは、戦前に国家施設であった靖国神社が戦後に民間一宗教法人として存続することになった事実と、にもかかわらず同神社の公的復権を求める社会的勢力が存在する事実の結果として生じた諸問題の総体を指す。著者によれば、靖国問題は本来多面的な側面を持つにもかかわらず、大雑把に言えば、「謀略史観」(戦後改革=米国の陰謀)に基づく靖国派と「せっかく史観」(戦後改革=米国による好ましい民主化)に基づく反靖国派の対立に大きく二項対立化され、政教分離問題に論点が矮小化される中で、論点のねじれを生み出すことになり、それが現在に至る不毛な議論の原因となっている、という。そこで著者は靖国問題を原点に立ち返って考えようとする。すなわち、その原点は明治期の不自然な国家神道の「非宗教化」にあり、戦後改革でのこの点の詰めの甘さによる中途半端な「解決」(靖国神社を含む諸神社の一律民間宗教法人化)により、現在に至る三つ巴のジレンマと不毛な論争が生じた。その際、戦後改革の中途半端さの原因として、(おそらく日欧の近代化の歴史の違いを反映した)日米の公私観の差異と、日米の合作=妥協の産物としての戦後改革の性格(おそらくダワーを意識)とが論じられる。特に前者を扱う第五章は、本書の中で最も興味深い章と感じる。その上で、政教分離問題にこだわることの限界、国家による戦没者の公的追悼自体の必要性が結論づけられる。
2005年9月29日に日本でレビュー済み
靖国神社の現在を考えるにあたって、得るところの多い一冊である。
靖国をめぐって対立する立場を「謀略史観」「せっかく史観」とそれぞれに名づけ、その両者のロジックや成立事情に分け入って、靖国問題が抱えるねじれや割り切れなさを読み解いていく。双方の立場が抱える弱みは、それぞれに歴史の産物である。どちらの立場からも皮肉な、現状の靖国神社のあり方は、そうした過去の来歴から理解されるべきものであるのだ。
近代国民国家成立とともに創建され、その国家とともに発展してきた靖国神社にとって、国家から切り離されたことは痛恨事だったかもしれない。だが、いったん切り離されて歩むことを選んだ以上、そのままこの道を進んで神道の伝統の中に溶け込んでいったほうがいいのではないか、という指摘は、子安宣邦『国家と祭祀』とも通じるものがある。こうした展望は、神道家には不満を覚える向きが多いかもしれないが、個人的には妥当なものだと考える。
靖国をめぐって対立する立場を「謀略史観」「せっかく史観」とそれぞれに名づけ、その両者のロジックや成立事情に分け入って、靖国問題が抱えるねじれや割り切れなさを読み解いていく。双方の立場が抱える弱みは、それぞれに歴史の産物である。どちらの立場からも皮肉な、現状の靖国神社のあり方は、そうした過去の来歴から理解されるべきものであるのだ。
近代国民国家成立とともに創建され、その国家とともに発展してきた靖国神社にとって、国家から切り離されたことは痛恨事だったかもしれない。だが、いったん切り離されて歩むことを選んだ以上、そのままこの道を進んで神道の伝統の中に溶け込んでいったほうがいいのではないか、という指摘は、子安宣邦『国家と祭祀』とも通じるものがある。こうした展望は、神道家には不満を覚える向きが多いかもしれないが、個人的には妥当なものだと考える。
2005年10月19日に日本でレビュー済み
ミイラとりがミイラになる。「靖国問題」をめぐる論争をウォッチするたびにこんな感慨を抱く。「靖国問題」の内実を知ろうと各文献にあたるうちに、それぞれの書き手たちの属するイデオロギーの磁場に、半必然的に絡めとられてしまうのだ。「靖国神社」は純然たるイデオロギー装置であることは、実はどんなに無知な者でも直観的に把握していることである。しかし、そうであるがゆえに、本書で言う「靖国派」はイデオロギッシュに振舞うことが、むしろルーティンとなっているのであり、これの批判派である「反靖国派」はイデオロギー批判として機能するかと思いきや、「靖国派」の歴史認識を裏側からトレースするようなかたちでしかその史観を表明できず、また一連の政教分離訴訟における法廷戦術の問題も絡み、不徹底な批判装置としてしか機能し得なかった。本書はその事情をつぶさに、かつ分節化して叙述している。
本書は「靖国問題」論争におけるイデオロギー力学の抜本的批判を目指されたものだ。「国家神道」体制の戦後改革の紆余曲折、政教分離訴訟の推移など「靖国問題」史とでも言うべきトピックが平明に説かれ(とは言うもののA級戦犯合祀についてもう少し言及がほしかった)、この「問題」の真の問題というべき相対立する言論の「三つ巴」または「ねじれ」の構図が示される。とりわけ、戦後改革の事情を詳しく知るにおいて、「靖国」は宗教色を脱色して公共施設に生まれ変わるべきだったが、時六十年を経てすでに遅し、との感慨は禁じえない。私は、「将来は鎮霊社の祭神をこそ祭祀の中心にすえてゆくというような大きな変化」が起こるかもしれないという著者の観測を極めて的確なものだと思う。日中韓の落とし所はそこでしかないだろう。
著者は第七章で国家単位の戦死者追悼儀礼の役割が相対化される方向に向かっているとの認識に賛同を示しているが、しかし対テロ戦争後、「宗教戦争」的装いを纏う「武力」行使が氾濫する情況において、また「靖国」的なるものが血肉を持ったものとして回帰してこないと断言できないところに、未来に向けての困難が潜在している。
本書は「靖国問題」論争におけるイデオロギー力学の抜本的批判を目指されたものだ。「国家神道」体制の戦後改革の紆余曲折、政教分離訴訟の推移など「靖国問題」史とでも言うべきトピックが平明に説かれ(とは言うもののA級戦犯合祀についてもう少し言及がほしかった)、この「問題」の真の問題というべき相対立する言論の「三つ巴」または「ねじれ」の構図が示される。とりわけ、戦後改革の事情を詳しく知るにおいて、「靖国」は宗教色を脱色して公共施設に生まれ変わるべきだったが、時六十年を経てすでに遅し、との感慨は禁じえない。私は、「将来は鎮霊社の祭神をこそ祭祀の中心にすえてゆくというような大きな変化」が起こるかもしれないという著者の観測を極めて的確なものだと思う。日中韓の落とし所はそこでしかないだろう。
著者は第七章で国家単位の戦死者追悼儀礼の役割が相対化される方向に向かっているとの認識に賛同を示しているが、しかし対テロ戦争後、「宗教戦争」的装いを纏う「武力」行使が氾濫する情況において、また「靖国」的なるものが血肉を持ったものとして回帰してこないと断言できないところに、未来に向けての困難が潜在している。
2007年4月7日に日本でレビュー済み
靖国神社は軍国精神を国民に植え付けるために、明治政府が国家神道の総本山として作った、非常に政治的な施設として作られたものである。そのために戦死した軍人を英雄として顕彰し、国民が喜んで戦場に出かけるようにする装置として、日本の侵略主義のお先棒を担いだという過去の為に、戦後は国家から離れて宗教組織になった歴史を持つ。戦争犯罪の巣窟として断罪されたのだ。同時に戦死者を出した家族にとっては慰霊の場所であり、それを政治家が取り込んで集票組織として使ったが、首相になりたいという思惑で小泉純一郎が参拝を公約し、国際関係をこじらせる原因になってしまった。国際関係や歴史的な経過について小泉には理解力がなかったのに、人気しかなく見識のない人物を首相にしたことが、日本という国にどれだけ大きな損害を与えかを知る上で、著者の冷静で学問的な裏づけを持つ分析は、感情に駆られて興奮しやすい日本人にとって非常に役に立つ。付録としてついている参考年表は類例がないために、非常に役に立つものであり有難いと感じた。