「ドイツ文学は、第二次大戦にドイツが被った空襲体験を表現しておらず、また次世代に継承してもいない」
20世紀末、著者ゼーバルトがチューリヒ大学で行った講義は、ドイツ文学界を巻き込んで「空襲と文学」論争を引き起こす火種となった。
この講義の内容をまとめ、書物の形で再編集した論考集が本書。他に3人の戦後ドイツ作家への論考も付き、論旨への保管になっているのがうれしい。
本書が繰り返し主張するのは、想像もつかない破壊や暴力に遭遇した人間は、それについて完全に沈黙するか、ステレオタイプで表現するようになるということである。
戦後ドイツ文学作家たちの多くは、審美的な文学効果によって戦争本来の残酷を脱臼し、いわばインテリのアリバイとしてのみ戦争を表現してきたとして、その姿勢を痛烈に批判しながら、戦争の圧倒的なまでに無意味な残酷さを真に描き得た数少ない文章を紹介する。
小説散文作品に見られるような破壊と暴力が残した瓦礫の陰影をコツコツと連ねていくスタイルではなく、より苛烈に声を荒げるゼーバルトの姿が文中に浮かび上がり、興味深い。
この著者の温度を、これまで誤解してきたかもしれないと思う。
読み終わった後、もう一度『アウステルリッツ』を読み直したくなった。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
空襲と文学 (ゼーバルト・コレクション) 単行本 – 2008/9/29
ドイツが第二次大戦で被った惨禍はタブー化され、文学によって取り上げられことはほとんどなかった。ノサック、アメリー、ヴァイスなどの作品分析を通し、「破壊の記憶」を検証する。
- 本の長さ195ページ
- 言語日本語
- 出版社白水社
- 発売日2008/9/29
- ISBN-104560027323
- ISBN-13978-4560027325
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
出版社からのコメント
破壊の記憶を凝視する渾身の評論
ドイツは、第二次大戦末期に主要都市のほとんどが壊滅し、多数の犠牲者を出すという惨禍を経験した。それにもかかわらず、この経験を正面から描いた文学作品はきわめて少ない。こうした精神的打撃は、ドイツ戦後社会の要請によってタブー化され、沈黙のなかで目を背けられ、国民の記憶から消し去られてしまったのだ。
これを検証するにあたって、ゼーバルトは、ノサック、アメリー、ヴァイスなどの文学作品を徹底分析する。たとえば、ヴァイスに関しては、作家の個人史を掘り下げることから始め、そのトラウマを刻まれた来歴が、犠牲者と加害者双方を捉え得た過程を丹念に追いかける。
ゼーバルトの関心は、ドイツとユダヤ人を問わず、惨禍を経験した人間存在そのものに向けられる。その姿は、目を見開いて廃墟を見つめ、風に逆らってとどまりたいと願う、ベンヤミンの「歴史の天使」が重なる。解説=細見和之
ドイツは、第二次大戦末期に主要都市のほとんどが壊滅し、多数の犠牲者を出すという惨禍を経験した。それにもかかわらず、この経験を正面から描いた文学作品はきわめて少ない。こうした精神的打撃は、ドイツ戦後社会の要請によってタブー化され、沈黙のなかで目を背けられ、国民の記憶から消し去られてしまったのだ。
これを検証するにあたって、ゼーバルトは、ノサック、アメリー、ヴァイスなどの文学作品を徹底分析する。たとえば、ヴァイスに関しては、作家の個人史を掘り下げることから始め、そのトラウマを刻まれた来歴が、犠牲者と加害者双方を捉え得た過程を丹念に追いかける。
ゼーバルトの関心は、ドイツとユダヤ人を問わず、惨禍を経験した人間存在そのものに向けられる。その姿は、目を見開いて廃墟を見つめ、風に逆らってとどまりたいと願う、ベンヤミンの「歴史の天使」が重なる。解説=細見和之
レビュー
《破壊の記憶を凝視する渾身の評論》
ドイツは、第二次大戦末期に主要都市のほとんどが壊滅し、多数の犠牲者を出すという惨禍を経験した。それにもかかわらず、この経験を正面から描いた文学作品はきわめて少ない。こうした精神的打撃は、ドイツ戦後社会の要請によってタブー化され、沈黙のなかで目を背けられ、国民の記憶から消し去られてしまったのだ。
これを検証するにあたって、ゼーバルトは、ノサック、アメリー、ヴァイスなどの文学作品を徹底分析する。たとえば、ヴァイスに関しては、作家の個人史を掘り下げることから始め、そのトラウマを刻まれた来歴が、犠牲者と加害者双方を捉え得た過程を丹念に追いかける。
ゼーバルトの関心は、ドイツとユダヤ人を問わず、惨禍を経験した人間存在そのものに向けられる。その姿は、目を見開いて廃墟を見つめ、風に逆らってとどまりたいと願う、ベンヤミンの「歴史の天使」が重なる。解説=細見和之 --出版社からのコメント
ドイツは、第二次大戦末期に主要都市のほとんどが壊滅し、多数の犠牲者を出すという惨禍を経験した。それにもかかわらず、この経験を正面から描いた文学作品はきわめて少ない。こうした精神的打撃は、ドイツ戦後社会の要請によってタブー化され、沈黙のなかで目を背けられ、国民の記憶から消し去られてしまったのだ。
これを検証するにあたって、ゼーバルトは、ノサック、アメリー、ヴァイスなどの文学作品を徹底分析する。たとえば、ヴァイスに関しては、作家の個人史を掘り下げることから始め、そのトラウマを刻まれた来歴が、犠牲者と加害者双方を捉え得た過程を丹念に追いかける。
ゼーバルトの関心は、ドイツとユダヤ人を問わず、惨禍を経験した人間存在そのものに向けられる。その姿は、目を見開いて廃墟を見つめ、風に逆らってとどまりたいと願う、ベンヤミンの「歴史の天使」が重なる。解説=細見和之 --出版社からのコメント
著者について
W・G(ヴィンフリート・ゲオルク)・ゼーバルト W.G.(Winfried Georg) SEBALD
1944年、ドイツ・アルゴイ地方ヴェルタッハ生まれ。フライブルク大学、マンチェスター大学などでドイツ文学を修めた後、各地で教鞭をとった。やがてイギリスを定住の地とし、70年にイースト・アングリア大学の講師、88年にドイツ近現代文学の教授となった。散文作品『目眩まし』(90年)、『移民たち 四つの長い物語』(92年)、『土星の環』(95年)を発表し、ベルリン文学賞、ハイネ賞など数多くの賞に輝いた。遺作となった散文作品『アウステルリッツ』(01 年)も、全米批評家協会賞、ブレーメン文学賞を受賞し、将来のノーベル文学賞候補と目された。2001年、住まいのあるイギリス・ノリッジで自動車事故に遭い、他界した。ほかに、文学評論『空襲と文学』(99年)、散文・評論・エッセイ『カンポ・サント』(03年)が編まれた。
(訳)鈴木仁子(すずき ひとこ)
1956年生まれ。名古屋大学大学院博士課程前期中退。椙山女学園大学准教授。翻訳家。
主要訳書:クリューガー『生きつづける─ホロコーストの記憶を問う』(みすず書房)、カイザー『インゲへの手紙』(白水社)、ケルナー『ブループリント』(講談社)、ハントケ『私たちがたがいをなにも知らなかった時』(論創社)、トゥルコウスキィ『まっくら、奇妙にしずか』(河出書房新社)、ゼーバルト『アウステルリッツ』(レッシング翻訳賞受賞)、『移民たち』、『目眩まし』、『土星の環』(以上、白水社)
1944年、ドイツ・アルゴイ地方ヴェルタッハ生まれ。フライブルク大学、マンチェスター大学などでドイツ文学を修めた後、各地で教鞭をとった。やがてイギリスを定住の地とし、70年にイースト・アングリア大学の講師、88年にドイツ近現代文学の教授となった。散文作品『目眩まし』(90年)、『移民たち 四つの長い物語』(92年)、『土星の環』(95年)を発表し、ベルリン文学賞、ハイネ賞など数多くの賞に輝いた。遺作となった散文作品『アウステルリッツ』(01 年)も、全米批評家協会賞、ブレーメン文学賞を受賞し、将来のノーベル文学賞候補と目された。2001年、住まいのあるイギリス・ノリッジで自動車事故に遭い、他界した。ほかに、文学評論『空襲と文学』(99年)、散文・評論・エッセイ『カンポ・サント』(03年)が編まれた。
(訳)鈴木仁子(すずき ひとこ)
1956年生まれ。名古屋大学大学院博士課程前期中退。椙山女学園大学准教授。翻訳家。
主要訳書:クリューガー『生きつづける─ホロコーストの記憶を問う』(みすず書房)、カイザー『インゲへの手紙』(白水社)、ケルナー『ブループリント』(講談社)、ハントケ『私たちがたがいをなにも知らなかった時』(論創社)、トゥルコウスキィ『まっくら、奇妙にしずか』(河出書房新社)、ゼーバルト『アウステルリッツ』(レッシング翻訳賞受賞)、『移民たち』、『目眩まし』、『土星の環』(以上、白水社)
登録情報
- 出版社 : 白水社 (2008/9/29)
- 発売日 : 2008/9/29
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 195ページ
- ISBN-10 : 4560027323
- ISBN-13 : 978-4560027325
- Amazon 売れ筋ランキング: - 981,403位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,153位ドイツ文学研究
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
星5つ中5つ
5つのうち5つ
6グローバルレーティング
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2008年12月20日に日本でレビュー済み
第二次世界大戦末期のドイツ本土に起こった空襲の惨劇は、戦後のドイツの文学の中で語られてこなかった、と、大学で行った講義をまとめられています。
果たしてそうだったのか?と、ドイツ文学などに疎い私などは、疑問に想う資格すらなく、そういった主題は譲るといたしまして、私には、著者のその他の散文作品の延長線上のような、散文作品の続きを読んでいるかのような印象を持つのでした。「そして奇妙なことに、すっかり非現実的になってしまった幼年期の牧歌的情景ではなく、むしろ破壊の光景の方が、胸裡に郷愁を呼びさます、」(69ページ)この一文、何かまさしくゼーバルト氏の著作群の核心、私が氏の著作に惹かれてやまない雰囲気の根源。・・・破壊の光景が胸裡に郷愁を呼びさます・・・この心境なのです。「このような破壊を目の当たりにしたとき、唯物論やそのたぐいの認識論はなお有効なのだろうか」(63ページ)悲惨な破壊の描写の後に続く、この著者の問いかけが重い。重い、のですが、全く戦争を知らない私には、実は実際的な問いかけとして受け止めきれない部分のあるのが、また残念でもありました。
続く作家論、残念ながら私には、批評される作家たちの名を始めて耳にしたのですが、その作家論すら、まるで散文小説のよう。「母国語がボロボロと崩れていく、または萎縮していく、体験について省察したアメリー」(147ページ)など、まるで私自身何度となく読み返した遺作・アウステルリッツ、をまた読み返しているかのような印象を受けました。「言語によって恐ろしい過去と対決しながら、退却戦を雄々しく戦っていた」(149ページ)、この何とも言えない悲愴感、寂しさ、にもかかわらず矛盾した安らぎすら感じる、アメリー氏の結論と、それを述べるゼーバルト氏に、まさに命がけの真剣さを憶えるのです。
果たしてそうだったのか?と、ドイツ文学などに疎い私などは、疑問に想う資格すらなく、そういった主題は譲るといたしまして、私には、著者のその他の散文作品の延長線上のような、散文作品の続きを読んでいるかのような印象を持つのでした。「そして奇妙なことに、すっかり非現実的になってしまった幼年期の牧歌的情景ではなく、むしろ破壊の光景の方が、胸裡に郷愁を呼びさます、」(69ページ)この一文、何かまさしくゼーバルト氏の著作群の核心、私が氏の著作に惹かれてやまない雰囲気の根源。・・・破壊の光景が胸裡に郷愁を呼びさます・・・この心境なのです。「このような破壊を目の当たりにしたとき、唯物論やそのたぐいの認識論はなお有効なのだろうか」(63ページ)悲惨な破壊の描写の後に続く、この著者の問いかけが重い。重い、のですが、全く戦争を知らない私には、実は実際的な問いかけとして受け止めきれない部分のあるのが、また残念でもありました。
続く作家論、残念ながら私には、批評される作家たちの名を始めて耳にしたのですが、その作家論すら、まるで散文小説のよう。「母国語がボロボロと崩れていく、または萎縮していく、体験について省察したアメリー」(147ページ)など、まるで私自身何度となく読み返した遺作・アウステルリッツ、をまた読み返しているかのような印象を受けました。「言語によって恐ろしい過去と対決しながら、退却戦を雄々しく戦っていた」(149ページ)、この何とも言えない悲愴感、寂しさ、にもかかわらず矛盾した安らぎすら感じる、アメリー氏の結論と、それを述べるゼーバルト氏に、まさに命がけの真剣さを憶えるのです。
2008年11月21日に日本でレビュー済み
第2次世界大戦中、ドイツは主にイギリスによる絨毯爆撃によって甚大な被害を受けた。しかし戦後ドイツにおいて、そのことが文学で真正面から取り上げられることはほとんどなかった、と著者は語り、文学作品として残された数少ない例外としてノサックの『没落』を取り上げ、1943年のハンブルク空爆がどのようなものだったかを検証する。
戦後50年を経て、ドイツは奇跡の経済復興を果たしたし、もはやナチズムという「過去」は克服した。「アウシュヴィッツ」についてはもういいじゃないか――。1980年代後半からドイツではそんな声が出始め、「歴史家論争」と呼ばれるものにまで発展した。1997年秋にチューリヒ大学における講演をまとめた本書は、一見こうした声に同調しているかのように見える。しかしむしろその風潮に危惧を覚え、「過去から何も学ばないままいって、また同じ過ちを犯しはしないか。」と訴えているのである。空襲という悲劇を誘発したのは自分たちだと、「自分たちの国家の礎には累々たる屍が塗り込められている」ことを忘れるな、と言っているのだ。戦争体験を普遍化し、共有化するためのツールとしての「文学」の重要性に気づかされる。
戦後50年を経て、ドイツは奇跡の経済復興を果たしたし、もはやナチズムという「過去」は克服した。「アウシュヴィッツ」についてはもういいじゃないか――。1980年代後半からドイツではそんな声が出始め、「歴史家論争」と呼ばれるものにまで発展した。1997年秋にチューリヒ大学における講演をまとめた本書は、一見こうした声に同調しているかのように見える。しかしむしろその風潮に危惧を覚え、「過去から何も学ばないままいって、また同じ過ちを犯しはしないか。」と訴えているのである。空襲という悲劇を誘発したのは自分たちだと、「自分たちの国家の礎には累々たる屍が塗り込められている」ことを忘れるな、と言っているのだ。戦争体験を普遍化し、共有化するためのツールとしての「文学」の重要性に気づかされる。