シカゴに育った記憶の断片をベースにして、そこに幻想や創作を織り重ねるように書かれたいくつかの短編をつなぐスタイルといえばいいのか、本著「僕はマゼランと旅した」は短編連作の形をとっていることによって通常の長編小説とはちがう複合的なイマジネーションが呼び起こされる新鮮なおどろきがある。つまり、記憶に基づく短編のブリコラージュによってこそ成立する統合的なシカゴという街、そこに生活する者のリアルな感覚が否応なく現在を突きつけてくるところがある。それゆえに作者自身の物語として普遍的な問いとともにアメリカの自由で多様性に富んだ社会の現実そのものが透けてみえてくるように思える。
冒頭の「歌」にはじまり、個人的には「ブルーボーイ」「欄」「僕たちはしなかった」「ケ・キエレス」「ジュ・ルヴィアン」等々の作品が印象的だったのだがどういうことだろう。また、この本を読んでいるとダイベック自身の原体験として音楽が常に身近にあったこともよくわかる。それがシカゴという街の影響なのか、それとも母の弟で朝鮮戦争から復員し精神を患ったレフティ叔父さんの影響が随所にみられることを思えば、やはり叔父さんの影響によるものが大きいとも考えられる。
「歳の割にずいぶん太い声だねえ」と誰かがかならず評した。曲の終わりまで来て、最後の一音を、それを拾いに暗い川の底へ飛び込むみたいに思い切り引き延ばして歌う僕に、みんなは拍手喝采し、小銭を雨あられと降らせた。時には1ドル札をくれる人もいた。「小さな紳士は何を召し上がるかな?」とみんなはレフティ叔父さんに訊いた。「何にする、大将?」とレフティは僕にメッセージを伝えた。「ルートビア」と僕が叫ぶ。よしきた、ルートビア。(p12)
このルートビアのエピソードが他の作品にもみられるけれど、最後の「ジュ・ルビアン」にもあって奇妙なつながりを感じさせる。また、「ブルーボーイ」のように単独で成立するすばらしい作品もある。だが、やはり根底にはシカゴのもつダイベック自身のイメージで繋がっているように思える。
「ブルーボーイ」はラルフィーの死を背景にして書かれたものだが、シカゴ南部の移民の多い下町の生活感覚とエネルギーに満ちあふれた人びとの暮らしぶりがいくつかのエピソードとともに書かれている。たとえば、僕とミック、ラルフィーとチェスターの兄弟間のふるまい、親父のこと、戦争で負傷した人や工場その他の事故による犠牲者、世捨て人とともにある日常とお祭りなど、混沌とした下町の強かな生活の営みが生き生きと書かれている。
僕にしても、街へ出れば弟のミックがいじめられないよう目を光らせていたが、家に帰ると僕らの関係は、たえまないからかいとたちの悪いいたずらに貫かれていて、それが時おり殴りあいの喧嘩にまでエスカレートした。(p167)
「喧嘩だ!」と叫び声が上がると、子供たちは目を輝かせて群がってくる。特にアル中同士が取っ組みあうと、彼らのポケットから決まって小銭が飛び交ったからだ。五セント玉、十セント玉を奪いあって、僕たちのあいだで第二の喧嘩が生じる。(p170)
ステッキ、松葉杖、車椅子を携えた彼らの姿は、パレードというより、聖地ルルド(諸病を癒すと言われる泉がある)へ向かう巡礼のように見えた。(p174)
ラルフィーはクリスマスイヴに死んだ。春になったら受けるはずだった初聖体のためにすでに買ってあったネイビーブルーのスーツを着せられてラルフィーは埋葬された。
「可哀想に、聖体拝領まで持たなかったんだねえ」と誰かが言った。するとたいてい誰かが、「例外を設けて、もっと早く受けさせてやればよかったのに」と応えた。「いやいや、あの子は例外とかになるのは嫌だったんだよ。そういう子だったんだ。クラスの仲間と一緒にやりたかったのさ」「うん、タフな子だった。特別扱いなんていっぺんも望まなかったし、いっぺんも弱音を吐かなかった」「そうとも。頑張っていこう、いつだってそういう気でいた。」「神様も意地が悪いよなあ、聖体拝領まで持たせてくれないなんて」「おいおい!そういうこと言い出すと、きりがなくなっちまうぞ」(p176)
と、通夜の席では友だちみんながラルフィーを偲んでこのようにくり返した。
ラルフィーの一周忌が近づくとセントローマン校の年中行事でクリスマス作文を書くことになっているが、僕たち八年生クラスの担任シスター・ルーシーもクリスマスの意義について作文をみんなに書かせてそれをラルフィーの思い出に捧げることにした。このクリスマス作文をめぐるエピソードはきわめて印象的だ。
ここでは校内一の作文の名手カミール・エストラーダの物語をめぐって、ラルフィーの記憶のみならず真実への希求、感情と形式、さらには祈りについて言及されている。カミールと僕、二人の作文をめぐる印象的な場面がある。
「あなたはどうやってアリのことを思いついたの?」「わからない。虫とかそういう話読むのが好きなんだよ」と僕は言ったが、毎年夏に線路を伝ってこっそり衛生運河まで出かけて蝶をつかまえる手作りの罠を置いていることは話さなかった。「私はじめから作る気で書いたりはしないの」とカミールは、急に優等生っぽい、いつも教室で話すときの口調になって言った。「自然に湧いてくるのよ。そもそも作ることが問題じゃないわ、大事なのは感情よ」(p184)
だが、虫をとる体験を端緒とする感覚と表現にこそ観念的な作りものの表現には見られない真実があるのではないだろうか。さらに、親父の死とともにクリスマスツリーやバッテリーのエピソードを重ねながらそのことを強調しているように思える。
「いますぐカーディガンを脱ぎなさい」とシスターは言って、カミールの方に向かって通路を一歩踏み出した。カミールは小声で、スペイン語で答えた。「いま何て言ったの?」とシスターは問いつめた。ひょっとしてカミールに汚い言葉を浴びせられたのか、そういう前代未聞の可能性に行きあたって、シスターの歩みは凍りついていた。(p211)
ブルーボーイとは何か。ここではその言葉によって逆に失われていく現実、言葉と現実との乖離が問題となっている。いうなれば観念と形式、感情と真実についての相対的な問いかけがあるように思える。カミールが浴びせた汚い言葉とシカゴの移民の多い下町の生活感覚がクロスしているように・・・。
ほかに、僕たちはしなかったというエピソードがくり返されるだけのシンプルな作品「僕たちはしなかった」というのもあるが、「ケ・キエレス」「ジュ・ルヴィアン」という作品も印象に残っている。
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僕はマゼランと旅した 単行本 – 2006/2/28
スチュアート・ダイベック
(著),
柴田 元幸
(翻訳)
- 本の長さ400ページ
- 言語日本語
- 出版社白水社
- 発売日2006/2/28
- ISBN-104560027412
- ISBN-13978-4560027417
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商品の説明
出版社からのコメント
シカゴの下町を舞台に叙情とユーモア、それに乾いたノスタルジーを織りまぜて描かれたダイベックの連作短篇集『シカゴ育ち』は、訳者柴田元幸氏がかねがね「これまで訳した中でいちばん素晴らしい本」と自ら評してきた。柴田氏は、本書『僕はマゼランと旅した』の「訳者あとがき」冒頭で『シカゴ育ち』について、「次作がこれ以上素晴らしいものになりうるか不安を感じさせるほどだった」と書いている。だが続けて訳者は、本書が「そうした不安がまったくの杞憂だったことを証明する」出来栄えだと記す。
前作から実に14年を経て発表された本書は、まさに質量共に『シカゴ育ち』をはるかに凌駕した、息をのむ傑作である。前作と同じくシカゴの裏町を舞台に、「歌」に始まり「ジユ・ルヴィアン」で締めくくられる11の短篇からなるが、これはもう連作短篇という枠を超えたひとつの神話的小宇宙と言っていいだろう。
いくつかの作品では著者自身を思わせる語り手の「僕」と弟のミックが重要な役割を果たすが、2人を取り巻く登場人物たちの個性が実に魅力的である。彼らはある短篇では脇役として現れ、別の短篇では主役として登場する。たとえば「歌」に出てくるレフティ叔父さんは、幼い「僕」を酒場から酒場へ連れ回して歌を歌わせるアル中気味の元ジャズマンとして簡単に紹介されるだけだが、「マイナームード」という短篇では彼の少年時代が回想され、最後の短篇では高校生になった「僕」は彼の葬儀から帰る途中だ。このように、人も物(ルートビア、開かれた消火栓etc.)も、そして町も、すべてが様々な状況で繰り返し登場し、その幾たびもの出現によって深い意味を帯びる。ダイベックの語りの技は冴えわたり、読む者は時に可笑しく、時に辛く、そして言いようもなく懐かしい世界に激しく引き込まれる。
前作から実に14年を経て発表された本書は、まさに質量共に『シカゴ育ち』をはるかに凌駕した、息をのむ傑作である。前作と同じくシカゴの裏町を舞台に、「歌」に始まり「ジユ・ルヴィアン」で締めくくられる11の短篇からなるが、これはもう連作短篇という枠を超えたひとつの神話的小宇宙と言っていいだろう。
いくつかの作品では著者自身を思わせる語り手の「僕」と弟のミックが重要な役割を果たすが、2人を取り巻く登場人物たちの個性が実に魅力的である。彼らはある短篇では脇役として現れ、別の短篇では主役として登場する。たとえば「歌」に出てくるレフティ叔父さんは、幼い「僕」を酒場から酒場へ連れ回して歌を歌わせるアル中気味の元ジャズマンとして簡単に紹介されるだけだが、「マイナームード」という短篇では彼の少年時代が回想され、最後の短篇では高校生になった「僕」は彼の葬儀から帰る途中だ。このように、人も物(ルートビア、開かれた消火栓etc.)も、そして町も、すべてが様々な状況で繰り返し登場し、その幾たびもの出現によって深い意味を帯びる。ダイベックの語りの技は冴えわたり、読む者は時に可笑しく、時に辛く、そして言いようもなく懐かしい世界に激しく引き込まれる。
登録情報
- 出版社 : 白水社 (2006/2/28)
- 発売日 : 2006/2/28
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 400ページ
- ISBN-10 : 4560027412
- ISBN-13 : 978-4560027417
- Amazon 売れ筋ランキング: - 464,108位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2006年6月27日に日本でレビュー済み
こんな話大好きだ。
移民(とその子どもたち)のアメリカングラフィティ。
シカゴという街の空気が、この本から立ちのぼって来るようだった。
恋愛、差別、賭博、殺人、アメリカンドリーム。
そういう、シカゴの表と裏の何もかも。
『シカゴ育ち』が翻訳出版されてから十四年。
柴田さんの訳はすっかりこなれて、登場人物が日本語で喋ってたら
ほんとにこんなふうな会話をしてるんじゃないかと感じる。
自分が親や兄弟の話を思い出すとき話すとき、これほど鮮やかには物語れないだろうな。
悔しいけど。
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悔しいけど。
2007年10月19日に日本でレビュー済み
久々に地元に帰った。荒涼とした眺めに、涙が出た。
けばけばしいゴシック体の電光掲示板だけが、
夕闇の歩道のない国道に光っていた。
過去を蓄積させた現在に、
積もり積もった物語は、どこで語られていくのだろうか。
旅を続ける僕らにとって、マゼランは誰だろう。
いつも、誰かとともにいるからこそ、僕らは孤独なのだ。
マゼランとともに、世界を駆け巡る。
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夕闇の歩道のない国道に光っていた。
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