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フランドルへの道 単行本 – 1990/7/1
- 本の長さ303ページ
- 言語日本語
- 出版社白水社
- 発売日1990/7/1
- ISBN-104560042667
- ISBN-13978-4560042663
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登録情報
- 出版社 : 白水社 (1990/7/1)
- 発売日 : 1990/7/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 303ページ
- ISBN-10 : 4560042667
- ISBN-13 : 978-4560042663
- Amazon 売れ筋ランキング: - 287,189位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 464位フランス文学 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年11月12日に日本でレビュー済み
20世紀のフランスを代表する作家といえば、プルースト、セリーヌ、カミュあたりを挙げるのが一般的であろうが、わたしがもっとも愛好する作家は実はクロード・シモンであり、最初に読んだ『フランドルへの道』で衝撃を受け、いっぺんに好きになってしまったのであるが、フランスといえばとかくパリばかりがもてはやされるわが国のイメージをくつがえす葡萄畑が広がる田園地帯を舞台に、土や草の匂いが濃密に立ちこめるなかで、男と女が性愛を営むありふれた姿を、一文が数ページにも及ぶ延々と長ったらしい文体を駆使して描いていく粘着力に驚嘆し、普通そんなに細かいことまでいちいち描写しないだろうというところまで五官を徹底活用して念入りに描きこむ偏執狂ぶりに笑いがこみ上げてきて、もうどこまでも付き合うから好きなだけ書きやがれと開き直った気持ちになると、不思議にも過去と現在が意識のなかで混じり合うこの破格の文体に官能的なおののきを感じるようになり、それからは翻訳の出ている作品群、『ペテン師』『草』『ル・パラス』『歴史』『三枚つづきの絵』『農耕詩』『アカシア』『路面電車』などを次々と読んでいくことになったのであるが、とにかく物語よりも言葉の積み重ねによる文学的リアリティ(文学作品内の時空間を自立的に構築した手応え)を重視する小説の読み手にとって、これほどまでに魅惑してくれる小説家はそうざらにはいないことは間違いがなく、彼の小説を読んだあとに残る自由と虚無のないまぜになった感覚こそは、生きて存ることの尊さを今更ながら呼び覚ましてくれることを認識させられるのだった。
2015年3月28日に日本でレビュー済み
アマゾンによるこの本の紹介を読んだ。
はてしなく降りつづく戦場の雨、あでやかな競馬大会、ずぶぬれにもつれあった情事…。
しかしこれは単に、ひどくこぎれいにまとめているな、という印象。
私は1回目を読了した。筋がよくつかめなかった。ただ「新しい小説」に違いないと思う。どいう点で? 描写が長く細かい。しばしば一文が1ページ以上続く、場面が長文の途中で切り替わったりする、( )による説明が多い、何通りもの言い換えが続く、そして何を言いたいのか結局よく分からなかった(これは優れた現代文学と言えるのではないか!)……、以上のような特徴がすばらしいと思う。つまり先入観にとらわれずに意識を丁寧に追っていけば結果的に過去に見られない精密で多彩そして分かりにくい作品になった、という印象。
どなたかあらすじを教えてください(どなたか、人助けを!)。そして平岡氏以外にもうひとり訳者がいればいいと思う(読み比べられるから)。とにかく途中で放り投げずに最後まで読めたので、今はものすごく自信がつきました。
はてしなく降りつづく戦場の雨、あでやかな競馬大会、ずぶぬれにもつれあった情事…。
しかしこれは単に、ひどくこぎれいにまとめているな、という印象。
私は1回目を読了した。筋がよくつかめなかった。ただ「新しい小説」に違いないと思う。どいう点で? 描写が長く細かい。しばしば一文が1ページ以上続く、場面が長文の途中で切り替わったりする、( )による説明が多い、何通りもの言い換えが続く、そして何を言いたいのか結局よく分からなかった(これは優れた現代文学と言えるのではないか!)……、以上のような特徴がすばらしいと思う。つまり先入観にとらわれずに意識を丁寧に追っていけば結果的に過去に見られない精密で多彩そして分かりにくい作品になった、という印象。
どなたかあらすじを教えてください(どなたか、人助けを!)。そして平岡氏以外にもうひとり訳者がいればいいと思う(読み比べられるから)。とにかく途中で放り投げずに最後まで読めたので、今はものすごく自信がつきました。
2011年9月11日に日本でレビュー済み
いやはや、じつに重い本である。
しかし、じつに濃密な読書時間をもつことができた。
いわゆる<ヌーヴォー・ロマン>(あるいは、アンチ・ロマン=反小説)なので、クロード・シモンの作品は、読むときかなり抵抗感がある。
句読点が少なく、ジョルジュという語り手の回想があちこちに飛ぶため、改行もほとんどない本書の300ページは、優にふつうの小説400ページに相当するはずだ。
第二次大戦、フランス軍の潰走、語り手の属する騎兵中隊を指揮していた大尉の謎の死、ドイツ軍の捕虜、貨車での移送、収容所暮らし、空腹と労働を紛らせるための戦友とのホラ話、戦後になってから一夜をともにする大尉の若い未亡人との性……そういった回想(描写)が、時間的順序にまったくかかわりなく、ジョルジュの頭に浮かぶまま語られ、場面が入れ替わり、また交錯する。
先に投稿された<遠遊>氏も指摘するように、「従来の小説を期待して本書を手にとる人は10ページも読み進まぬうちに諦めてしまうに相違ない」。
しかし、謎めいた大尉の死や、時に色彩あざやかな描写や、死んだ馬が大地に呑み込まれてゆくような哀れなシーンなどに魅かれて20ページも読んでいければ、そこはもうクロード・シモンの小説世界。
十分、浸りきることができよう。
場面転換も――空腹のせいで草を噛もうとした回想が、大尉の未亡人の下腹の草むらにつながったり、逆に、からみ合った身体が、ギュウ詰めの貨車での移送を思い出させたりと、<イメージ連合>によるケースが多いので、さほどとまどうこともなくなる。
雨、土、埃、暗闇、銃声、死、眩暈……といった戦争(歴史)に押し潰され、この世が解体しそうになりながらも、そのなかで、時に人間たちが見せる仲間意識、欲望、ばかげたふるまい、恐怖などがぎっしり詰まった、この小説世界はじつに魅力的だ。
最後にひと言。
きわめて手のこんだ本書を十分に読めるものに訳しあげた平岡氏の<力業>には、ただただ脱帽。
しかし、じつに濃密な読書時間をもつことができた。
いわゆる<ヌーヴォー・ロマン>(あるいは、アンチ・ロマン=反小説)なので、クロード・シモンの作品は、読むときかなり抵抗感がある。
句読点が少なく、ジョルジュという語り手の回想があちこちに飛ぶため、改行もほとんどない本書の300ページは、優にふつうの小説400ページに相当するはずだ。
第二次大戦、フランス軍の潰走、語り手の属する騎兵中隊を指揮していた大尉の謎の死、ドイツ軍の捕虜、貨車での移送、収容所暮らし、空腹と労働を紛らせるための戦友とのホラ話、戦後になってから一夜をともにする大尉の若い未亡人との性……そういった回想(描写)が、時間的順序にまったくかかわりなく、ジョルジュの頭に浮かぶまま語られ、場面が入れ替わり、また交錯する。
先に投稿された<遠遊>氏も指摘するように、「従来の小説を期待して本書を手にとる人は10ページも読み進まぬうちに諦めてしまうに相違ない」。
しかし、謎めいた大尉の死や、時に色彩あざやかな描写や、死んだ馬が大地に呑み込まれてゆくような哀れなシーンなどに魅かれて20ページも読んでいければ、そこはもうクロード・シモンの小説世界。
十分、浸りきることができよう。
場面転換も――空腹のせいで草を噛もうとした回想が、大尉の未亡人の下腹の草むらにつながったり、逆に、からみ合った身体が、ギュウ詰めの貨車での移送を思い出させたりと、<イメージ連合>によるケースが多いので、さほどとまどうこともなくなる。
雨、土、埃、暗闇、銃声、死、眩暈……といった戦争(歴史)に押し潰され、この世が解体しそうになりながらも、そのなかで、時に人間たちが見せる仲間意識、欲望、ばかげたふるまい、恐怖などがぎっしり詰まった、この小説世界はじつに魅力的だ。
最後にひと言。
きわめて手のこんだ本書を十分に読めるものに訳しあげた平岡氏の<力業>には、ただただ脱帽。
2011年11月20日に日本でレビュー済み
買ったまままともに読まずほっといた本だったが、あまり真面目につきあわなければ読めるだろうと思って開始。
まず文章が流暢である。この本の難しさは複数の時空が心のなかで絡まり合い、それぞれにちゃんとした説明が前もってなされない点である。だがこの文章の流れるようなリズミカルな調子は日本語として滞らない。この平岡篤頼訳は「フィネガン」の柳瀬尚紀氏も名訳とほめているところのものである。
本作は競馬場、戦場、性交、歴史といった複数時空を言語イメージのおもむくままに跳び越えてゆく。それは記憶なのか妄想なのかも定かではない。
ここから、たとえばウィリアム・バロウズまではあと一歩とも言える。
官能が数々の脈をつなげるので、その意味では難しくはないと言える。苦しげとも思える言葉の湧き上がり。そこで時に古風な言葉が現れ、一種呪術的とも思えることもある。
最後に至って、「もしかしたらおれは真昼間目を大きく見ひらいたまま眠ってしまっていたずっと目をさまさずに眠りつづけていたのかもしれないので」とも言うのだった。
まず文章が流暢である。この本の難しさは複数の時空が心のなかで絡まり合い、それぞれにちゃんとした説明が前もってなされない点である。だがこの文章の流れるようなリズミカルな調子は日本語として滞らない。この平岡篤頼訳は「フィネガン」の柳瀬尚紀氏も名訳とほめているところのものである。
本作は競馬場、戦場、性交、歴史といった複数時空を言語イメージのおもむくままに跳び越えてゆく。それは記憶なのか妄想なのかも定かではない。
ここから、たとえばウィリアム・バロウズまではあと一歩とも言える。
官能が数々の脈をつなげるので、その意味では難しくはないと言える。苦しげとも思える言葉の湧き上がり。そこで時に古風な言葉が現れ、一種呪術的とも思えることもある。
最後に至って、「もしかしたらおれは真昼間目を大きく見ひらいたまま眠ってしまっていたずっと目をさまさずに眠りつづけていたのかもしれないので」とも言うのだった。
2005年2月20日に日本でレビュー済み
ノーベル文学賞受賞作者クロード・シモンは本書の出版にさいし、《ル・モンド》紙におけるインタビューでこの作品について次のように述べている。
「すべては同じ舞台に登場し、対話、感動、視覚が共存する」
注意しなければばらないのは、この作品における共存は自然のものでは決してなく、抑制され得ぬ記憶の氾濫にもかかわらず精密に、そう、まるでフーガのようにオーケストラナイズされているということだ。凡百のエクリチュールの垂れ流し的作品と本書は、その点で明らかに一線を画する。その内在的ヴィジョンと外界とが混濁してゆくさまは、ときに読者に眩暈を起こさせることもあるだろう。
はっきり言ってこの作品は難解である。従来の「小説」とされるものを期待して本書を手にとる者は、おそらく10ページも読み進まぬうちに諦めてしまうに相違ない。しかしながら、一切の「既成の小説」の観念を捨て去ってこのテクストと対峙したとき、そこに拓けるのは実に豊穣な小説世界である。
本書がヌーヴォー・ロマン(新しい小説)の代表作と言われる所以を、どうかその眼で確かめていただきたい。
「すべては同じ舞台に登場し、対話、感動、視覚が共存する」
注意しなければばらないのは、この作品における共存は自然のものでは決してなく、抑制され得ぬ記憶の氾濫にもかかわらず精密に、そう、まるでフーガのようにオーケストラナイズされているということだ。凡百のエクリチュールの垂れ流し的作品と本書は、その点で明らかに一線を画する。その内在的ヴィジョンと外界とが混濁してゆくさまは、ときに読者に眩暈を起こさせることもあるだろう。
はっきり言ってこの作品は難解である。従来の「小説」とされるものを期待して本書を手にとる者は、おそらく10ページも読み進まぬうちに諦めてしまうに相違ない。しかしながら、一切の「既成の小説」の観念を捨て去ってこのテクストと対峙したとき、そこに拓けるのは実に豊穣な小説世界である。
本書がヌーヴォー・ロマン(新しい小説)の代表作と言われる所以を、どうかその眼で確かめていただきたい。