須賀敦子が亡くなって20年になろうとしているが、静かな評判はなお続いている。彼女は生前に5冊のエッセイ集を上梓したが、本書はその最終篇にあたる。「ユルスナール」は人名で、敦子より26歳年長のフランス人作家マルグリット・ユルスナール(1903-1987)を指すが、敦子は逢ったことがない。写真で観る幼いユルスナールが左右逆さまに靴を履いているような印象から、ぴったり合う靴を履かせて貰えなかった自分の子供時分を思い出し、「完璧な靴に出会わなかったじぶんの不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする」と続く。敦子のエッセイは、常に居場所を求めてさ迷い続ける彼女の内的独白である。
「居場所」とは、地理的にはともかく、心理的には「たましい」の置き所と読める。彼女のいう「たましい」とは、「精神」の奥にあるもの、柄谷行人が「心」と呼んでいるものを指す。その「精神」とは、西欧3千年の哲学が追究してきた人間の理性の有り様だが、「たましい」はもっと原初的なのもの、人間の闇や孤独や哀しみを含むものだ。若い頃の敦子は、そこには「『精神』でなく、もっと総括的な『たましい』があると信じ」て、イタリアに来たが、その頃は「精神が、知性による判断の錬磨であり、その持続であ(り)……「たましい」に至るためには精神を排除してはなにもならない」と言うことを忘れていた、と記す。世の中には無学だが、「地の塩」とも呼ばれる人がいることを敦子は承知している筈だが、インテリの彼女は、“精神というベッドの上で”「たましい」を求めて、のたうち回るしかなかったのだろう。その真摯な悩みようが、世の同病の知識人たちの共感を呼ぶのだ。
敦子が本書で登場させたのは、前出のマルグリット・ユルスナールである。私は不幸にして存じ上げなかったが、公共図書館に全著作が揃っている程の有名作家だ。後書きで、「彼女が生きた軌跡と自分のそれとを、文章のなかで交差させ、ひとつの織物のように立ち上がらせることが出来たら」、と書いているが、この目論見は成功したと感じる。織物の縦糸に須賀敦子、色や模様を編み込むべき横糸でユルスナールを紡いで、フランス・アカデミー初の女性会員に推挙されたという大作家を浮び上がらせる。敦子が彼女に強く惹かれる理由は、彼女の心理的な「居場所」とそれ故の「たましい」のあり方だと思われる。
ユルスナールはフランス貴族の末裔に産まれ、幼くして母親と死別した後、浪費家で放浪癖のある父親について各地を旅しながら教育を受けた。父親の死とともに、破産状態となり、家も失って放浪する。1939年に恋人の勧めで短期間の予定でアメリカに渡るが、直後に故国がナチスドイツに占領されたため、帰国を断念して、84歳で亡くなるまでメイン州の小島で暮らした。戦後ホテルに預けておいた膨大な資料が届き、それを元に執筆したのが『ハドリアヌス帝の回顧』(1951年)で、これ一冊で大家となった。読んでいないが、ディアスポラとしての居心地の悪さが彼女の作風を決定したと思われる。「人生の放浪者」としての登場人物に託した、彼女の心の闇が書かれているのであろう。
敦子もまたフランスでは友人からnomad(遊牧民)というあだ名を貰っていたので、境遇は異なるが、世に対する「思い」について共鳴するところがあった。事実ユルスナールが描いた18世紀のイタリア建築家ピラネージについては、著作を読む以前に『幻想の牢獄』の図版集を観ていて、「美術史的な鑑賞よりも….石の量感を内に秘め、同時に惜しげもなくそれを四方に向けて発散する暗い大きさに」、自分が求めていたものを見いだして、戦慄したと記している。
それ以上に私にとって印象深かったのは、ジョルダーノ・ブルーノについて述べられた項である。ユルスナールの小説『黒の過程』の「覚え書き」のなかに見つけたブルーノについて、ユルスナール自身は著作に取り入れなかったにもかかわらず、敦子は異常なほど注目しているのだ。
イタリア南部ナポリ生まれのブルーノは、北部トスカーナ生まれのガリレオ・ガリレイと同じく「地動説」を唱えて異端裁判にかけられ、火刑に処された。その32年後に同じく異端裁判にかけられたガリレオは、地動説を否定した後、「それでも地球は動く」と述べたと言われる。科学者ガリレオにとっては、地球が動いているという事実の前で、自分の認否などはどうでもよいことである。しかし哲学者ブルーノにとって、それは違った。ブルーノは一度信じた信念を自ら否定したら、自分は存在しないと考えたに違いない。敦子が鋭く反応したのは、そこに「精神」と「たましい」の違いの、ひとつの具体例を見つけたからだと思う。
最終章はユルスナールの墓に詣でる敦子の旅で終わる。脳出血で唐突に死んだ彼女について、「ことばで生きるものにとって、それによって生かされていることばが、身の回りに聞こえないところで死ぬのが、なによりもさびしいのではないか」と問うている。幸いユルスナールには最後まで付き添った友人がいたようだが。
敦子もまた「ことばに生きるもの」である。複数の人が、須賀敦子はこの後小説を書きたかったはずだと語っている。ユルスナールよりはるかに若い69歳で彼女はみまかってしまったが、もし長らえていたら、「ユルスナールの後について歩くような文章を書いてみたい」という願い通りに、どんなにか素晴らしい作をものにしただろうか。惜しまれてならない。
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ユルスナールの靴 (白水Uブックス 1056 エッセイの小径 須賀敦子コレクション) 新書 – 2001/11/1
須賀 敦子
(著)
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購入オプションとあわせ買い
ユルスナールというフランスを代表する女性作家の生涯と類いまれな才能をもった日本人作家である著者自身の生の軌跡とが、一冊の本の中で幾重にも交錯し、みごとに織りなされた作品。
【本文より】
ユルスナールのあとについて歩くような文章を書いてみたい、そんな意識が、すこしずつ私のなかに芽ばえ、かたちをとりはじめた。彼女が生きた軌跡と私のそれとを、文章のなかで交錯させ、ひとつの織物のように立ちあがらせることができれば、そんな煙みたいな希いがこの本を書かせた。
【本文より】
ユルスナールのあとについて歩くような文章を書いてみたい、そんな意識が、すこしずつ私のなかに芽ばえ、かたちをとりはじめた。彼女が生きた軌跡と私のそれとを、文章のなかで交錯させ、ひとつの織物のように立ちあがらせることができれば、そんな煙みたいな希いがこの本を書かせた。
- 本の長さ254ページ
- 言語日本語
- 出版社白水社
- 発売日2001/11/1
- ISBN-104560073562
- ISBN-13978-4560073568
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」 との思いにとらわれていた著者は、やがてユルスナール巡礼の旅に出る。河出書房新社96年刊の再刊。
登録情報
- 出版社 : 白水社 (2001/11/1)
- 発売日 : 2001/11/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 254ページ
- ISBN-10 : 4560073562
- ISBN-13 : 978-4560073568
- Amazon 売れ筋ランキング: - 51,263位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 15位白水Uブックス
- - 61位フランス文学研究
- - 1,813位エッセー・随筆 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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(1929-1998)1929年生まれ。聖心女子大学卒業。
24歳で初めてイタリアを訪れ、29歳からの13年をイタリアで過ごす。1961年、ジュゼッペ・リッカと結婚、谷崎潤一郎をはじめとする日本文学の伊訳を多数出版。6年後に夫が急逝。1971年帰国。1972~1984年慶応義塾大学外国語学校で講師を務める。1973年上智大学国際部比較文化学科非常勤講師、同部大学院現代日本文学科兼任講師(後に比較文化学部教授)。
56歳でイタリア体験をもとにした文筆活動を開始。1991年『ミラノ 霧の風景』(白水社)で女流文学賞、講談社エッセイ賞を受賞。1998年心不全で他界。主な著書に『コルシア書店の仲間たち』『ヴェネツィアの宿』(ともに文藝春秋)、『トリエステの坂道』『地図のない道』(ともに新潮文庫)ほか。主な訳書にナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』、アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』(ともに白水社)ほかがある。