会社のロンドン事務所は、商業区シティのど真ん中にあったが、少し外れにローマ時代のものという崩れた石壁の遺跡があった。「へエー、こんなところにまで、ローマが・・・」と思った。しばらくしてYorkという北部の町に出張した。車で少しドライブすればハドリアヌスが築かせた長城が見れると聞かされ、いってみた。なるほど荒涼とした原野に古びた石垣が延々と続いているのが見えた。
「旅する皇帝」、ギリシャかぶれ、美少年愛、ローマ郊外ティボリにある広大なヴィラ遺跡。ハドリアヌスについては断片的にいろいろ耳にするが、意外にきちんとまとまった伝記がない。有名なユルスナール女史の「ハドリアヌス帝の回想」があり、これはこれで優れた作品であるけれど、重厚な心理小説・文学作品で万人向きとはいえない。
A・エヴァリットによる伝記は、最新の学術研究情報を豊富に盛り込み、ハドリアヌスの生涯を詳しくたどった好読み物である。ハドリアヌスの成長過程を記述する傍ら、随時背景となるローマの社会事情（教育・祝祭・結婚など）の解説も織り込まれ有益だ。
著者は、学界に身を置き論文を書くという意味での学者ではないが、参照・引用を一覧する限り、本著は専門研究者が書いたものに近い。
最大の特徴は英国人特有の軽妙な語り口（彼らはドイツのT・モムゼンのように深刻ぶら無い）と作中人物に対する公平でバランスの取れた評価であろう。
以前、同じ著者による「キケロ」
キケロ―もうひとつのローマ史
を読んだときにも同じ印象を持った。
本書は歴史小説ではないから、ハドリアヌスの心理を推しはかるでなく、思い入れも感情移入もない。ひたすら資料に基ずきその生涯を淡々と語っていく。読者が感動をうけることはない。ハドリアヌスの肉声を聞きたい、もっと生身のハドリアヌスを感じたいと願う読者にとっては、多分もどかしい思いがつのるだろう。そんなときユルスナールの作品がそれを満たしてくれる。
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