読書中、読んでいるそれが「本」であることを、ふと意識する。
と、夢のなかで「これは夢だ」と意識するような、奇妙な感覚になると思う。
スティーブン・ミルハウザーの著作は「ああ、私は今『本』を読んでいるな」と、実感できる本である。
ミルハウザーは、おそろしく魅力的な作家、なのに、どう魅力的なのか説明しようとすると骨が折れる。
まずは、現・愛読者たちは、それを互いに語り合う必要性がない。
彼らは、ミルハウザーの著作を、書店で手に取る前から、それがどういう物語なのか、既に察している。
短篇でも長篇でも、同じテーマであることが多い。箱庭的架空世界を、子供じみて全身全霊かけて創造する男と、彼がつくった架空世界に酔いしれる観客のストーリーだ。
それらは、いつも懐古的で、少しだけ禍々しい。自動人形、ショーウインドウの飾り、手品、絵画、小説、アニメーション、遊園地、ホテル。時には高い空から見下ろした本物の町や、そこで起きている戦争まで箱庭的架空世界にしてしまう。
内容は読むまでもなくわかっているのに、なぜ新刊が出ると読まずにはいられないのか?
本書あとがき、そして単行本の帯にもある、訳者柴田元幸氏の言葉は、私たち愛読者の気持ちを見事に代弁している。
「ミルハウザーを好きになることは、吸血鬼に噛まれることに似ていて、いったんその魔法に感染してしまったら、健康を取り戻すことは不可能に近い」
箱庭に、過剰なまでに生命力を与え、その代償として、現実を青白く貧血気味にするミルハウザー。
箱庭に執着する男の物語を執拗に描くことによって、読者に「今読んでいるのは本である。これも一つの『箱庭』である」ということを気付かせる。
ならば現実も「箱庭」のように扱うことが出来そうだぞと、一瞬、読者は人形を握る子供に戻って、万能の神じみた、不思議なパワーを得る。この感覚が癖になる。
どちらかというと幻想的な作家、なのに、小説の舞台はほとんどが実際の歴史の一部だ。そこに、けっして歴史を変えない極小のサイズの、だけどそこに押し込むにはあまりにも桁外れな想像力を、ずいぶんスマートに入れこんでしまうのだ。
文章はあんがい、詩的ではない。間違いなく美しい文章ではあるがひどく乾いた印象が強くて、いっそ役所に提出する報告書か何かのようだ。流れる血にすら現実味が希薄、懐古的なアニメのワンシーンに流れる二次元の赤い雫のようだ。
柴田氏は雑誌『英語青年』にミルハウザーの訳し方について、「受験英語の正攻法的に、まず主語を訳してあとはうしろから順々に訳していくという方法はまったく通用しない」と語っている。
ミルハウザーの文章の順序を崩したくない柴田氏は、仕方なく、文章を重複させて補うという。
つまり、原文の方が日本語訳より流麗かつ怒濤であるらしい。それを知って、雑誌に掲載されている原文と訳文をじっと見比べていると、自分の英語力のなさを棚にあげ、ミルハウザーの文章そのものに触れてみたい……という強い、抗いがたい誘惑を感じる。
「彼の作品にあっては、訳されるべきもの、読み取るべきことは、行間などという曖昧な場にではなく、すべて文章自体に、この上なくはっきりと提示されている」(『英語青年』より抜粋)
似た題材を繰り返し使うミルハウザー、短篇集『ナイフ投げ師』には、ニュルンベルグという地名が何度もでてくる。
ミルハウザーの著作にぴったりな、世界でも指折りの人形と玩具の街。
短篇「カスパー・ハウザーは語る」は、見世物になることによって自身の生活費を稼いでいたという謎の野生児カスパー・ハウザーが「ニュルンベルグの紳士淑女のみなさん」と話しかけるスタイルで語られている。作中のカスパー・ハウザーは、丁寧な言葉遣い、憐れみを誘うほどへりくだって、それでいてどこか皮肉な口調で一方的に語り続ける。作中の観衆たちは、見世物であるカスパー・ハウザーを憐れみながらも、居心地悪く、不安になるにちがいない。
映画『カスパー・ハウザーの謎』(ヴェルナー・ヘルツォーク監督)によると、暗い部屋に閉じ込められて大人になったカスパー・ハウザー、無からの飛躍的な情報過多のため、太陽の光を眩しがり、食べ物の複雑な匂いに嘔吐し、最後まで神を理解できなかった。
ミルハウザーの目線は、まさに、初めて文化を知った野生児の目。
その文章に触れた読者は、存在するのがあたりまえすぎて注意しなくなっていた現実にこそ、目が眩む。
「昼間」の光が眩しくなる。
これが「ミルハウザー的吸血鬼」に噛まれた状態か?
文章そのものを味わう楽しみを知っている読者、かつ自他の童心を大切にしつづけている大人でないと、魅力が読み取れない、非常に風変わりな作家、だが、風変わり、だからこそ、本気でこの作家を好きになってしまったら、二度と「以前の自分」には戻れない。なんとなく、永遠にミルハウザーの愛読者であり続けるしかない・・・などと感じてしまう。
が、興味のある読者はぜひ、仲間入りして頂きたい。
☆本書『ナイフ投げ師』は既に白水Uブックスにて、新書になっています。個人的にはこの装幀も好きですが。
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ナイフ投げ師 単行本 – 2008/1/1
- 本の長さ281ページ
- 言語日本語
- 出版社白水社
- 発売日2008/1/1
- ISBN-104560092036
- ISBN-13978-4560092033
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商品の説明
出版社からのコメント
「ナイフ投げ師」...ナイフ投げ師ヘンシュが町に公演にやってきた。その技は見事なものだったが、血の「しるし」を頂くための、より危険な雰囲気が観客に重くのしかかる。
「夜の姉妹団」...深夜、 少女たちが人目のつかない場所で、性的狂乱に満ちた集会を開いているという。その秘密結社を追いかけた、医師の驚くべき告白とは?
「新自動人形劇場」...自動人形の魔力に取り憑かれた、名匠ハインリッヒの物語。その神業ともいうべき、驚異の人形の数々を紹介する。
「協会の夢」...「協会」に買収された百貨店が新装開店する。店に施された素晴らしき趣向の魅力は尽きることなく、私たちを誘惑する。
「パラダイス・パーク」...1912年に開園した伝説の遊園地を回顧する。遊園地は度肝を抜くような、過剰な施設や出し物によって大いに人気を博すが、そこには意外な結末が待っていた。
「ミルハウザーを好きになることは、吸血鬼に噛まれることに似ている」と訳者が「あとがき」で述べるように、本書は<ミルハウザーの世界>を堪能できる、魔法のような12の短篇集だ。
「夜の姉妹団」...深夜、 少女たちが人目のつかない場所で、性的狂乱に満ちた集会を開いているという。その秘密結社を追いかけた、医師の驚くべき告白とは?
「新自動人形劇場」...自動人形の魔力に取り憑かれた、名匠ハインリッヒの物語。その神業ともいうべき、驚異の人形の数々を紹介する。
「協会の夢」...「協会」に買収された百貨店が新装開店する。店に施された素晴らしき趣向の魅力は尽きることなく、私たちを誘惑する。
「パラダイス・パーク」...1912年に開園した伝説の遊園地を回顧する。遊園地は度肝を抜くような、過剰な施設や出し物によって大いに人気を博すが、そこには意外な結末が待っていた。
「ミルハウザーを好きになることは、吸血鬼に噛まれることに似ている」と訳者が「あとがき」で述べるように、本書は<ミルハウザーの世界>を堪能できる、魔法のような12の短篇集だ。
登録情報
- 出版社 : 白水社 (2008/1/1)
- 発売日 : 2008/1/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 281ページ
- ISBN-10 : 4560092036
- ISBN-13 : 978-4560092033
- Amazon 売れ筋ランキング: - 651,587位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 6,258位英米文学研究
- カスタマーレビュー:
著者について
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2008年2月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
一つの物事に対する物語方が、とても緻密でまるでムービーを観ているようです。それは決して回りくどくなく嫌味でもありません。頭の中にひろがる、地下迷路や遊戯施設などの疑似体験ができます。最初はストーリーが無限に広がっていくのを楽しんで、次は、リアルな比喩の言葉の美しさを存分に味わってみてください。
2008年8月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
異様なシチュエーションの世界を魔法の如き妖しく優美な文章で語り尽くす幻想職人作家ミルハウザーの全12編収録の第三短篇集です。著者の特質は信じられないような設定の物語を構築し、読み手を独特な語りによって説得し尚且つ心中に先行きの見えない不安感を醸成させる所でしょう。『ある訪問』では蛙を妻に持つ友人との再会が『夜の姉妹団』では夜毎に集まる謎めいた秘密結社の暗躍が『私たちの町の地下室の下』では趣味で地下へと降りて行く一見無害な人々が描かれますが、果して大丈夫なんだろうか?という不安感が読後も漂って来ます。本短編集で最も著者のこだわりが感じられる職人シリーズとも言うべき四作を紹介致します。
『ナイフ投げ師』:旅芸人のナイフ投げ師ヘンシュが我が町にやって来た。助手の無表情な女と共に際どい芸が披露され、やがて客席からも参加が要請される。命を軽々しく扱う態度にこれまで多くの屍の山が築かれて来たのではと思わせられ、一座が向かう極端の末路に暗澹たる思いに駆られます。『新自動人形劇場』:自動人形の世界を極めた名匠グラウムは美の極致に到達した後に、新たな境地に立って不細工で醜悪な化け物を拵える。禁断の隠微な頽廃を知った精神の歪みは正常な感覚を駆逐します。『協会の夢』:百貨店が人々の夢を次々に再現し増殖して行き、正道のみでは満足せず堕落した怪しい地下方面へと向かう。我々の脳も次第に麻痺し白昼夢の世界を永遠に彷徨い続けます。『パラダイス・パーク』:究極の遊園地を目指して造られたパラダイス・パークは人々の夢を体現し、批判に晒されながら幾度も変転を繰り返す。全能を誇示し挑戦し続けた天才サラビーが最後に見せた大仕掛けは、意外だが深く肯ける悲壮な手段でした。
このまま著者が職人技を突き詰めて行けば早晩世界の終末が訪れそうですが、私は更に意想外な想像力が発揮されたミルハウザーの新たな世界を読みたいと思います。
『ナイフ投げ師』:旅芸人のナイフ投げ師ヘンシュが我が町にやって来た。助手の無表情な女と共に際どい芸が披露され、やがて客席からも参加が要請される。命を軽々しく扱う態度にこれまで多くの屍の山が築かれて来たのではと思わせられ、一座が向かう極端の末路に暗澹たる思いに駆られます。『新自動人形劇場』:自動人形の世界を極めた名匠グラウムは美の極致に到達した後に、新たな境地に立って不細工で醜悪な化け物を拵える。禁断の隠微な頽廃を知った精神の歪みは正常な感覚を駆逐します。『協会の夢』:百貨店が人々の夢を次々に再現し増殖して行き、正道のみでは満足せず堕落した怪しい地下方面へと向かう。我々の脳も次第に麻痺し白昼夢の世界を永遠に彷徨い続けます。『パラダイス・パーク』:究極の遊園地を目指して造られたパラダイス・パークは人々の夢を体現し、批判に晒されながら幾度も変転を繰り返す。全能を誇示し挑戦し続けた天才サラビーが最後に見せた大仕掛けは、意外だが深く肯ける悲壮な手段でした。
このまま著者が職人技を突き詰めて行けば早晩世界の終末が訪れそうですが、私は更に意想外な想像力が発揮されたミルハウザーの新たな世界を読みたいと思います。
2014年11月25日に日本でレビュー済み
濃厚な描写で現実とはちょっとずれている出来事を精緻に、かつリアルに語るスタイルだ。レッテルを貼るなら幻想小説だろうが、例えれば朔太郎や中也の詩の世界が散文で描かれ、加えて、それと対峙している自分という存在が吟味されるという構造。
的を刺してしまうナイフ投げの舞台と自分(「ナイフ投げ師」)、巨大な蛙と結婚した古い友人と自分(「ある訪問」)という、非現実的な事態に直面した緊張関係が描かれている。
ありえない状況をスルッと現実に滑り込ませてリアルに描き、濃密な文体で分析を加えながら、人間存在の、あるいは真実の一断面を見せる(シュール・リアリズムということか)。その「スルッと」滑り込ませるテクニックの冴えが“言葉の魔術師”と呼ばれる所以ではないか。
「空飛ぶ絨毯」は、町のそこここで絨毯がふわふわ飛んでいる日常風景が詩情豊かに、かつリアルに描かれ、一人の男の子がお父さんに買ってもらった絨毯に乗って空高く昇っていく。少年の夏休みの冒険(と不安)が散文詩のレベルで美しく描写される。
「新自動人形」はドイツか東欧を舞台にしているようだが、伝統ある精巧なからくり人形による芸術表現の進化を、あたかもそれが歴史的に実在したかのように詳述し(人形製作師の徒弟制度がリアルに説明される)、芸術の本質を追究する。これは自動人形に託したミルハウザーの文学論、芸術論だろう。
「月の光」は、一人の少年と少女たちが夜中に月光のもとで野球に興じるという、実在し得ないシチュエーションをリアルに描いた散文詩的でシュールな味わいの美しい小品。
「協会の夢」は、昔風の百貨店が“協会”に買い取られ、まったく新しいコンセプトの展開を行って復活する。協会がどのような主体なのかはいっさい触れず、そこが打ち出すセールスプロモーションがどんどん発展し、ついには限界を越えてしまう異常なシチュエーションが描かれる。その魅力にとりつかれる「私たち」の心理状況を描くことで、寓話的に快楽の本質を追究している。「パラダイスパーク」も同様のモチーフだ。
「気球飛行1870年」ではミルハウザーが空に昇っていくことに大変な興味を抱いていることがわかる(ジブリと合作したらいいのに!)。ミニチュア趣味も、見方を変えれば、空から見下ろしたときに見えるものの再現として魅力を感じているのだろう。
的を刺してしまうナイフ投げの舞台と自分(「ナイフ投げ師」)、巨大な蛙と結婚した古い友人と自分(「ある訪問」)という、非現実的な事態に直面した緊張関係が描かれている。
ありえない状況をスルッと現実に滑り込ませてリアルに描き、濃密な文体で分析を加えながら、人間存在の、あるいは真実の一断面を見せる(シュール・リアリズムということか)。その「スルッと」滑り込ませるテクニックの冴えが“言葉の魔術師”と呼ばれる所以ではないか。
「空飛ぶ絨毯」は、町のそこここで絨毯がふわふわ飛んでいる日常風景が詩情豊かに、かつリアルに描かれ、一人の男の子がお父さんに買ってもらった絨毯に乗って空高く昇っていく。少年の夏休みの冒険(と不安)が散文詩のレベルで美しく描写される。
「新自動人形」はドイツか東欧を舞台にしているようだが、伝統ある精巧なからくり人形による芸術表現の進化を、あたかもそれが歴史的に実在したかのように詳述し(人形製作師の徒弟制度がリアルに説明される)、芸術の本質を追究する。これは自動人形に託したミルハウザーの文学論、芸術論だろう。
「月の光」は、一人の少年と少女たちが夜中に月光のもとで野球に興じるという、実在し得ないシチュエーションをリアルに描いた散文詩的でシュールな味わいの美しい小品。
「協会の夢」は、昔風の百貨店が“協会”に買い取られ、まったく新しいコンセプトの展開を行って復活する。協会がどのような主体なのかはいっさい触れず、そこが打ち出すセールスプロモーションがどんどん発展し、ついには限界を越えてしまう異常なシチュエーションが描かれる。その魅力にとりつかれる「私たち」の心理状況を描くことで、寓話的に快楽の本質を追究している。「パラダイスパーク」も同様のモチーフだ。
「気球飛行1870年」ではミルハウザーが空に昇っていくことに大変な興味を抱いていることがわかる(ジブリと合作したらいいのに!)。ミニチュア趣味も、見方を変えれば、空から見下ろしたときに見えるものの再現として魅力を感じているのだろう。
2009年1月21日に日本でレビュー済み
本昨所収の多くの短編が第二次世界大戦以前の過去を、
もしくは過去を想起させるように書かれ、
ほぼ全編がゴシック的ロマンに彩られている。
また舞台装置も自動人形・百貨店・気球・遊園地と
機械仕掛けの不安の夢に依拠している。
古いけれども、何処と無く新しい、
現実の確固たる世界に現れた一筋の裂け目
妄想の世界ここに極まれりという感じである。
本来であれば陳腐になりがちな題材ではあるが
それを救って/掬っているのが一部の隙も無い「語り」
の力だろう。和訳でもそれを余すところ無く
感じさせてくれる名訳にも拍手。
もしくは過去を想起させるように書かれ、
ほぼ全編がゴシック的ロマンに彩られている。
また舞台装置も自動人形・百貨店・気球・遊園地と
機械仕掛けの不安の夢に依拠している。
古いけれども、何処と無く新しい、
現実の確固たる世界に現れた一筋の裂け目
妄想の世界ここに極まれりという感じである。
本来であれば陳腐になりがちな題材ではあるが
それを救って/掬っているのが一部の隙も無い「語り」
の力だろう。和訳でもそれを余すところ無く
感じさせてくれる名訳にも拍手。
2008年4月29日に日本でレビュー済み
この本を読んでいると、何となく作者は読者に媚びを売っていない様に感じます。従って、私自身この短編集を完璧に読みこなしたとは、とても言えないと思っています。
そうした中で、最も解りやすいと言うか、典型的なパターンではないかと思えるのが、「新自動人形劇場」です。この作品では、人形作りの天才とも言えるハインリッヒ・グラウムが、究極まで自動人形を人間に近づける事に成功します。しかしながら、その後、休止期間をおいて彼が作ったのは、人間とはかけ離れた、しかし自動人形として特徴的な人形を作ります。
芸術は、物まねを突き詰めていっても限界があり、深淵を超えたところに、その極致を見つけると言うことでしょう。
これと同様な物語の展開は、表題作の「ナイフ投げ師」にも、「パラダイス・パーク」にも見られます。
芸術家の極地には、一般人とは深い深淵があると言うことでしょう。
時間をおいてもう一度読みたい、そんな作品です。
そうした中で、最も解りやすいと言うか、典型的なパターンではないかと思えるのが、「新自動人形劇場」です。この作品では、人形作りの天才とも言えるハインリッヒ・グラウムが、究極まで自動人形を人間に近づける事に成功します。しかしながら、その後、休止期間をおいて彼が作ったのは、人間とはかけ離れた、しかし自動人形として特徴的な人形を作ります。
芸術は、物まねを突き詰めていっても限界があり、深淵を超えたところに、その極致を見つけると言うことでしょう。
これと同様な物語の展開は、表題作の「ナイフ投げ師」にも、「パラダイス・パーク」にも見られます。
芸術家の極地には、一般人とは深い深淵があると言うことでしょう。
時間をおいてもう一度読みたい、そんな作品です。