イランのテヘランで大学を追われた女性教授が若い生徒を集めて読書会を開いていたという回想録。
読んでいたのが発禁になっていた、ナボコフやフィッツジェラルド等高踏とされる作品ですが、良心の自由を信じ、敢えて発禁になっていたそれらの小説を一生懸命読んでいた、当時の閉鎖的なイランの状況が克明に描かれております。
卑小な事で恐縮ですが、私も学生時代、学校で嫌な事があると、家に帰って音楽を聴いたり、小説を読んで現実逃避をしておりました。その性で死なないで今も生きている様に思えます。逃避というのはあまり良くはありませんが、天災で避難しないといけないばあいがある様に人災でも避難しないといけない場合は避難しないといけませんよね。
私の場合はここで取り上げられている高踏的な作品ではなく、ミステリ、ホラー、SF、ファンタジー、等娯楽作品でしたが、読む事が本当に楽しくて救われた気がします。ここに出てくる人達もフィクションの力を信じて楽しんだので、弾圧や戦争で死なないで済んだと思います。
最近若い人の自殺が増えていると聞きますが、嫌な事があっても形而上でも形而下でも逃げ場がなくなってしまったのかと思い、残念です。
イランの作家の作品を読むのは今回が初めてかもしれませんが、翻訳で読んでも人種や文化や宗教が違っても同じ様な価値観の方がいらっしゃるのが判って共感しました。この著者の作品はもっと読みたいです。
過酷な現状の中、読書を続けた果敢な女性達の記録。是非ご一読を。

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
テヘランでロリータを読む(新装版) 単行本 – 2017/1/7
アーザル・ナフィーシー
(著),
市川 恵里
(翻訳)
イスラーム革命後のイラン、弾圧のため職を失った女性教授は、密かに禁じられた小説を読む読書会をひらく。衝撃の回想録。
- 本の長さ486ページ
- 言語日本語
- 出版社白水社
- 発売日2017/1/7
- ISBN-10456009537X
- ISBN-13978-4560095379
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 白水社 (2017/1/7)
- 発売日 : 2017/1/7
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 486ページ
- ISBN-10 : 456009537X
- ISBN-13 : 978-4560095379
- Amazon 売れ筋ランキング: - 529,161位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 181位その他の外国文学作品
- - 74,267位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2022年2月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2011年7月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
面白い小説。
西洋から見たイスラーム世界が異様に見えるように、また日本も異様に見えるのだろう。
自由が制限される中で、いかにして自由と人間性を獲得するのか、小説や芸術はそのために何の役に立つのか、そういう事を考えたけど、別にそんなこと考えなくても楽しめる作品だと思います。
西洋から見たイスラーム世界が異様に見えるように、また日本も異様に見えるのだろう。
自由が制限される中で、いかにして自由と人間性を獲得するのか、小説や芸術はそのために何の役に立つのか、そういう事を考えたけど、別にそんなこと考えなくても楽しめる作品だと思います。
2021年11月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
イラン革命直後からイラクとの戦争という危険で抑圧的な雰囲気の中で、著者は教え子の女子達と読書会を開きました。著者自身も少しクセの強い人物ではありますが、女性の人権制限のみならず文学や芸術を禁止する当局と戦っていく事になります。
紹介される本は聞いた事はあっても読んだ事はないのでどうという事は言えないのですが、内容を聞く限りはイランのホメイニでなくとも多少抑圧的で封建的な権力者であれば誰もが嫌いそうで折あらば規制しようとする作品ばかりです。
紹介される本は聞いた事はあっても読んだ事はないのでどうという事は言えないのですが、内容を聞く限りはイランのホメイニでなくとも多少抑圧的で封建的な権力者であれば誰もが嫌いそうで折あらば規制しようとする作品ばかりです。
2007年12月22日に日本でレビュー済み
アメリカのベストセラー。2006年末にいろいろな書評で絶賛されていたので(若島正、巽孝之、小池昌代、、、)読んでみた。
ホメイニ革命が起こった後、イランでは自由に小説を読むことも難しくなり、どのような作品も、イスラムの教理にあわせて教条的に読むことを求められることになった。ジェイ・ギャッツビーは堕落した文明が生み出したろくでなしである、とか、デイジー・ミラーは男をみだりに誘惑する悪魔である、とかね。そういう空気に侵されたテヘラン大学で英米文学を教えるナフィーシーさんは、そういう風潮に反発を覚えて自由に小説を読むための読書会を毎週ひらくようになる。そこで、『ロリータ』、『グレート・ギャッツビー』、『デイジー・ミラー』、『高慢と偏見』なんかを読んで、みんなであれやこれや話をする。「やっぱり文学っていいよね」って。そりゃそのとおりで、イスラム教的な解釈を強制されながらギャッツビーを読むくらいなら、交通標語でも朗読してた方がよっぽどましである。解釈を強制されるとのはある意味楽ちんなんだけどね。日本人でも「国語は決まった答えがないから嫌いだった」というような人もいると思うし。しかし、文学テキストを解釈するという訓練は、答えがないことに耐える訓練でもある。そして、その忍耐力は、実は世の中では大変実用的なのである。
さて。
と、いうことで、文学の力強さのようなものを描いているということで、文学関係者には評判がいいのだな、と合点がいった。また、舞台がイランだから、アメリカ人は「やっぱりイスラム原理主義ってだめよね」っていう感じでおもしろく読むのだろうね。しかし日本人の一般読者向けにはアピールがちと弱い気はする。
あんまり関係ないけど、アメリカでこの間イラン人と仕事をした。とても合理的で素晴らしいビジネスマンだったよ。
ホメイニ革命が起こった後、イランでは自由に小説を読むことも難しくなり、どのような作品も、イスラムの教理にあわせて教条的に読むことを求められることになった。ジェイ・ギャッツビーは堕落した文明が生み出したろくでなしである、とか、デイジー・ミラーは男をみだりに誘惑する悪魔である、とかね。そういう空気に侵されたテヘラン大学で英米文学を教えるナフィーシーさんは、そういう風潮に反発を覚えて自由に小説を読むための読書会を毎週ひらくようになる。そこで、『ロリータ』、『グレート・ギャッツビー』、『デイジー・ミラー』、『高慢と偏見』なんかを読んで、みんなであれやこれや話をする。「やっぱり文学っていいよね」って。そりゃそのとおりで、イスラム教的な解釈を強制されながらギャッツビーを読むくらいなら、交通標語でも朗読してた方がよっぽどましである。解釈を強制されるとのはある意味楽ちんなんだけどね。日本人でも「国語は決まった答えがないから嫌いだった」というような人もいると思うし。しかし、文学テキストを解釈するという訓練は、答えがないことに耐える訓練でもある。そして、その忍耐力は、実は世の中では大変実用的なのである。
さて。
と、いうことで、文学の力強さのようなものを描いているということで、文学関係者には評判がいいのだな、と合点がいった。また、舞台がイランだから、アメリカ人は「やっぱりイスラム原理主義ってだめよね」っていう感じでおもしろく読むのだろうね。しかし日本人の一般読者向けにはアピールがちと弱い気はする。
あんまり関係ないけど、アメリカでこの間イラン人と仕事をした。とても合理的で素晴らしいビジネスマンだったよ。
2019年6月11日に日本でレビュー済み
"私たちの姿を想像できるだろうか。(中略)私とあと二人ほどが膝に『ロリータ』をのせ、それ以外の学生は重いコピーの束を持っている。この種の本を手に入れるのは難しい"イランの女性英文学者の回顧録である本書は、単なる娯楽や学問としてだけではなく、より切実さと結びついた文学の力を教えてくれる。
個人的には、読書会の主宰者もしている立場から2003年に発刊され、米でベストセラー(イランでは発売禁止)となった本書の存在を知り、手にとったわけですが。
1995年に抑圧的な大学に嫌気がさして辞職し、毎週木曜日に自宅でイランでは禁じられた【西洋文学の秘密の読書会】を開いていた著者が振り返る革命前後のイランにおける【女性たちへの抑圧と恐怖と屈辱の日常】は重く、深く、知的自由への飽くなき渇望と、その大切さを伝えてくれます。
また章ごとに『ロリータ』『グレート・ギャッビー』『高慢と偏見』などを題材にしつつ、それらの作品世界とはおよそかけ離れた【イスラーム共和国における自分たちの状況】を重ね合わせて憤りと共に語られる、著者と読者会参加者たちの文学や芸術には一片の価値も認めない体制への抵抗の言葉からは、遠く離れた場所に住む私からは想像も出来ない独自の作品解釈があって驚かされます。
文学や読書会を愛する全ての人へ、またイランにおけるムスリム女性が置かれた状況をイメージしたい誰かにオススメ。
個人的には、読書会の主宰者もしている立場から2003年に発刊され、米でベストセラー(イランでは発売禁止)となった本書の存在を知り、手にとったわけですが。
1995年に抑圧的な大学に嫌気がさして辞職し、毎週木曜日に自宅でイランでは禁じられた【西洋文学の秘密の読書会】を開いていた著者が振り返る革命前後のイランにおける【女性たちへの抑圧と恐怖と屈辱の日常】は重く、深く、知的自由への飽くなき渇望と、その大切さを伝えてくれます。
また章ごとに『ロリータ』『グレート・ギャッビー』『高慢と偏見』などを題材にしつつ、それらの作品世界とはおよそかけ離れた【イスラーム共和国における自分たちの状況】を重ね合わせて憤りと共に語られる、著者と読者会参加者たちの文学や芸術には一片の価値も認めない体制への抵抗の言葉からは、遠く離れた場所に住む私からは想像も出来ない独自の作品解釈があって驚かされます。
文学や読書会を愛する全ての人へ、またイランにおけるムスリム女性が置かれた状況をイメージしたい誰かにオススメ。
2007年3月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
イラン革命後、イスラム原理主義が支配するテヘランで、英文学者の著者は優秀な女子学生だった教え子を集めて、ナボコフ『ロリータ』やオースティン『高慢と偏見』などの秘密の読書会を行う。倒錯的な中年男が12歳の少女を陵辱する不愉快な物語を、なぜ若い女性たちが必死の思いで真剣に読むのか? それは、実は『ロリータ』が奥行きの深い文学の傑作であり、「他人を自分の夢や欲望の型にはめようとする」(p52)我々人間の深い病理を告発しているからである。そして『高慢と偏見』は、「他者を〈見る〉能力の欠如」「他者への盲目性」が、ヒロインのリジーのような最良の人間にさえありうることを示し、平凡な日常生活の中にこそ「生きることの本当の難しさ」があることを教えるからである(p432)。
文学の本当の力は、それが「複雑なものや規則からはずれたものを読み解き、理解する能力」を養い、「自分たちの白黒の世界に合わせて、世界のもつ多様な色彩を消し去ろうとする傾向」に強く抵抗する点にある(p378)。「私たちがフィクションに求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である」(p13)という著者の悲痛な言葉は、過酷な現実にあえぐイランだけのものではなく、普遍性のあるメッセージとして我々の心に響く。
文学の本当の力は、それが「複雑なものや規則からはずれたものを読み解き、理解する能力」を養い、「自分たちの白黒の世界に合わせて、世界のもつ多様な色彩を消し去ろうとする傾向」に強く抵抗する点にある(p378)。「私たちがフィクションに求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である」(p13)という著者の悲痛な言葉は、過酷な現実にあえぐイランだけのものではなく、普遍性のあるメッセージとして我々の心に響く。
2021年2月3日に日本でレビュー済み
きれいな状態で、無事に届きました。ありがとうございます!
注文してから今日届くまで本当に待ち遠しいほど、この本を読むのが楽しみでした。
じっくり読ませていただきます。
ありがとうございます。
注文してから今日届くまで本当に待ち遠しいほど、この本を読むのが楽しみでした。
じっくり読ませていただきます。
ありがとうございます。
2007年2月11日に日本でレビュー済み
この本をどうジャンル分けすればいいんだろう?
『英文学者である著者、アーザル・ナフィーシーが教え子と共に過ごしたイラン革命記。』
こういってしまえば不正解ではないが、その表現ではこの本の事は何も伝わらない気がする。
強い、政治批判の顔をもった本。
激しくフェミニズムをうたった本。
それは確かだけど、激情を駆り立てる本ではない。激しい言葉なく、常に冷静で抑えられた言葉ばかりが選択されている。
自分の体験記である。
それでいながら、その体験はあまりにも普遍的である。イラン女性の体験記、といいながらそれはどの国にいる女性でも、女性でなくて男性でも、
共感せずにはいられない。
自分なら、この本を『想像力の物語』と言いたい。
『人は事実と言うが、事実は感情、思考、感覚によって追体験され、再創造されなければ、不完全なものでしかない』
この本を読んで、イラン革命に暮らす人々を想像する。全体主義に抑圧された女性、戦争で無下に命を奪われた若者を想う。共感する。そこには、どんな人間でも分かちあえるものがある。
その想像と共感を喚起するものこそ文学だと、筆者はこの本を通して強くいっているようだ。
過酷な体験をした著者を救ったのは、いつも文学を読むという行為を共有できる人々。
そして未来のどこかで出会うべき、文学を通して想像を分かち合える人々。
そして、この本の読者にも作者は想像力と共有する事を求めているように感じた。
このように重く、長く、やさしくはない本が全米で150万部も売れたというのは、筆者の想いが届いたのではないか?
うれしく感じるベストセラーだ。
『英文学者である著者、アーザル・ナフィーシーが教え子と共に過ごしたイラン革命記。』
こういってしまえば不正解ではないが、その表現ではこの本の事は何も伝わらない気がする。
強い、政治批判の顔をもった本。
激しくフェミニズムをうたった本。
それは確かだけど、激情を駆り立てる本ではない。激しい言葉なく、常に冷静で抑えられた言葉ばかりが選択されている。
自分の体験記である。
それでいながら、その体験はあまりにも普遍的である。イラン女性の体験記、といいながらそれはどの国にいる女性でも、女性でなくて男性でも、
共感せずにはいられない。
自分なら、この本を『想像力の物語』と言いたい。
『人は事実と言うが、事実は感情、思考、感覚によって追体験され、再創造されなければ、不完全なものでしかない』
この本を読んで、イラン革命に暮らす人々を想像する。全体主義に抑圧された女性、戦争で無下に命を奪われた若者を想う。共感する。そこには、どんな人間でも分かちあえるものがある。
その想像と共感を喚起するものこそ文学だと、筆者はこの本を通して強くいっているようだ。
過酷な体験をした著者を救ったのは、いつも文学を読むという行為を共有できる人々。
そして未来のどこかで出会うべき、文学を通して想像を分かち合える人々。
そして、この本の読者にも作者は想像力と共有する事を求めているように感じた。
このように重く、長く、やさしくはない本が全米で150万部も売れたというのは、筆者の想いが届いたのではないか?
うれしく感じるベストセラーだ。