形を読む。
見る、ではなく、読む。
目から入ってきたものを頭でこなす、ということか。
上手く説明できないのだけど、本書は「形」の話と「読む」話で構成されている。
裏表紙の紹介に「ものの見方を変える一冊」とあるが、もの=形、読む=見方とすると、まさにそうである。
見方によってモノを考える、という言い方もできるかもしれない。
変える、と言っても、そう奇抜なことではなく、固定観念や過去からのしがらみをうっちゃって、素で見て考えればそうなるでしょう、といった感じに読める。
これは養老さんの、一瞬飛躍かとも思える言い切り系の文体によるところもあるのだが、赤瀬川原平さんの宇宙の缶詰のような、発想ではなくて目線からの導出に似たものを感じる。
裏表紙の紹介に「スリリングな形態学総論」ともある。
もの=形態、読む=学とすると、これもまた、まさにそうである。
科学とはどういうものかを考える機会にもなる。
自明のこと、論理的に導き出されること、不明・不確定のことを切り分けた上で、あり得ることや明らかになったその先を語る。
スリリング、とはこのことかどうかわからないが、ワクワクしながら読んでしまうことには間違いない。
わかりやすく書かれているが決してカンタンな書物ではない。
それはある分野の学問的なムズカシさというより、生物とは?、科学とは?、人間とは?を考えているからかなと考える。
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形を読む 新装版: 生物の形態をめぐって 単行本 – 2004/2/1
養老 孟司
(著)
- 本の長さ226ページ
- 言語日本語
- 出版社培風館
- 発売日2004/2/1
- ISBN-104563019089
- ISBN-13978-4563019082
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
解剖学を専攻する著者が、生物の形態を一般にヒトがどう考え、どう取り扱うかについて考察する。1986年刊の新装版。
登録情報
- 出版社 : 培風館 (2004/2/1)
- 発売日 : 2004/2/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 226ページ
- ISBN-10 : 4563019089
- ISBN-13 : 978-4563019082
- Amazon 売れ筋ランキング: - 127,165位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 169位医学
- - 13,874位科学・テクノロジー (本)
- カスタマーレビュー:
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2024年4月23日に日本でレビュー済み
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大学を引退した教員(工博)です。ちょうどダーシー・トムソンのOn Growth and Formを読んでいる途中なので、生物の形の著作では避けて通れない資料だと思いました。原書は簡単にネットで拾えますが、この英語はいかめしくて難儀します。
さて「形を読む」で最初に目をとめたのは、その巻末の「参照文献」です。13種のうち11種が英語で書かれたもので、うち4種は和訳されている。日本人の書いた2種は解剖の和書古典ですから、私の興味を引く内容は残りの13種の中にあります。解剖学ばかりか生物学もまともに学ばなかった私は、1から3章を読んで解剖学とはこのようなものと、分野を初めて理解しました。私が医大生なら選択しない分野だなあ。でも仮に臨床に配属されたら人生がどうなることか。解剖学教師はともかく検視官は米英仏ではドラマになります(死因を特定する科学が面白い)が、日本では問題外です。
「形を読む」4章以降の英文書籍のすべてが、オープンソースまたは海外図書館からネットで手に入ります。1848年のものから1981年までの文献ですから驚異でしょう。
脱線したので「形を読む」に話題を戻すと、「発生と形」「進化と形」など私的に少しムズムズする部分は、最終章に僅かの解説でした。さらなる知識を得るには今後「embryology発生学」や、「molecular biology分子生物学」の専門書に首を突っ込まないとわからないのでしょう。しかし専門分野の人は、研究論文競争に熱心で、一般読者向けに教科書のようなものは書きません。
あるとすれば生物無生物の形に拘るフィリップ・ボールの複数の著作(和訳・英文)は読む価値がありました。サダヴァの「大学生物学の教科書」あたりも、和訳が出たので役立つのでしょうか。うーん但しこれ、高度で最先端ですが無味乾燥なんですよね。 ーー工学者のたわごとでした
さて「形を読む」で最初に目をとめたのは、その巻末の「参照文献」です。13種のうち11種が英語で書かれたもので、うち4種は和訳されている。日本人の書いた2種は解剖の和書古典ですから、私の興味を引く内容は残りの13種の中にあります。解剖学ばかりか生物学もまともに学ばなかった私は、1から3章を読んで解剖学とはこのようなものと、分野を初めて理解しました。私が医大生なら選択しない分野だなあ。でも仮に臨床に配属されたら人生がどうなることか。解剖学教師はともかく検視官は米英仏ではドラマになります(死因を特定する科学が面白い)が、日本では問題外です。
「形を読む」4章以降の英文書籍のすべてが、オープンソースまたは海外図書館からネットで手に入ります。1848年のものから1981年までの文献ですから驚異でしょう。
脱線したので「形を読む」に話題を戻すと、「発生と形」「進化と形」など私的に少しムズムズする部分は、最終章に僅かの解説でした。さらなる知識を得るには今後「embryology発生学」や、「molecular biology分子生物学」の専門書に首を突っ込まないとわからないのでしょう。しかし専門分野の人は、研究論文競争に熱心で、一般読者向けに教科書のようなものは書きません。
あるとすれば生物無生物の形に拘るフィリップ・ボールの複数の著作(和訳・英文)は読む価値がありました。サダヴァの「大学生物学の教科書」あたりも、和訳が出たので役立つのでしょうか。うーん但しこれ、高度で最先端ですが無味乾燥なんですよね。 ーー工学者のたわごとでした
2015年8月11日に日本でレビュー済み
養老先生といえば、視点が多様でものごとを思わぬ面から切り取って、目からウロコの批評を展開しつつ、そのまま思考が滑っていって、どこかはぐらかされるような、落語的なオチのある評論&エセーを思い浮かべますが、この本はご専門の解剖学・形態学に対してそれをされているわけです。形は網膜に映るようにしか映らないはずなのですが、それをどのように解釈するかでまったく別の意味合いが「見えてくる」。ヒトの形はそう変わらない中で解剖学が連綿と続く意味は、そこにある、と述べているのです。
養老先生のご専門分野で、独特の養老節を味わえる、貴重な本。私の読んだ先生の本のなかではベストの一冊です。
養老先生のご専門分野で、独特の養老節を味わえる、貴重な本。私の読んだ先生の本のなかではベストの一冊です。
2020年2月20日に日本でレビュー済み
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本書の著者は『◎□の壁』シリーズ?で有名のようだが、私が著者の書籍を読むのは本書が初めてである。このページの「商品の説明」には、「この本では、生物の形態を、一般にヒトがどう考え、どう取り扱うかについて、私の考えを述べた…形態そのものを扱った本は多いが、こういう視点の本はないと思う」との著者の意思表現があり、また「生物の形に含まれる『意味』… 形を読むことは、人間の思考パターンを読むこと…解剖学、生理学、哲学から日常まで…スリリングな形態学総論」とあるも、著者の専門である「解剖学」から「形態学」の何たるか?については抽象的・観念論に及ぶところも少なくあって、私の読解には些か難物であった。比喩や解説はそれほど難度の高い論旨が多いわけではないが、私の拙さ故に思うほど自身の脳内で咀嚼できていない印象ー別言すると理解の平面上に節穴が所々に開いた印象に近い。従って節穴のない部分の連結連関(認識)は甚だ心許ない。なお本書は1986年の培風館刊行本から「加筆修正」を行ったとあり(巻末)、恐らく『
形を読む―生物の形態をめぐって
』と推察される。構成・内容は前記「商品の説明」譲り、以下私の理解のうち“節穴”の開いていない印象的トピックを幾つか紹介する。
まず著者の巷間(実験科学者ら)に対する(脳内)「逆襲」が面白い(22~8頁など)。実験科学者の立場からは「科学的な事実というのは、厳密に規定された条件下で、くり返しが可能なもの…観察などという、いい加減かつ適当な方法〔解剖学の方法を指す〕では、自然の真相には迫れない…形態学は、科学ではない」との指摘に対し、著者は猛然と(脳内で)「逆襲」する。曰く「くり返し可能な客観的事実というのは…あるのか…どのような出来事も、歴史の上では、一回しか起こっていない…太陽は東から出て西に沈む…しかし昨日の太陽と、今日の太陽は同じものか…実験科学と解剖学は…別に異なるところはない。科学者が実験するか、自然が実験するか、その違いにすぎない」(23~4頁)と言う。なるほど著者の「逆襲」にも“一理”ある、がその“一理”は私には論点の齟齬又は論理の無意味性を感じる。何故なら実験科学者らが求める「くり返し」可能性は、本質部分以外を捨象しての意義(「科学」)であることは論を俟つまでもなく、右言質の表層部分を取り上げて歴史的現象の再現性(=くり返し)を評価するのは筋違いだろう。この点、著者も「実験科学では、くり返し可能とするために、細部は余分なものとして省略…ある前提条件のもとで…限られた骨格のみを、くり返し起こさせる…それが実験科学」(24頁)と後述している。係る意外な論旨に“振り上げた拳(逆襲)”の趣旨不明・自家撞着の印象が残る。
次が論理的思考実験と言えば良いだろうか、「構造の定義」(68~77頁ほか)である。「ニワトリの胎児を…すり潰せば…バラバラになった溶液を得る…ここでは失われた物質なにもない…分子の空間的配置を主とした『関係』が、構造の基本…のみならず、あらゆる『機能』が消失している」(69~70頁)とあって、物理的物質と構造・機能との単純でありながら奥の深い論旨、端的には「構造」が同一であるだけでなく、「機能」との不可分性を指摘したものと理解する。また(細部の)動脈と神経の位置関係(構造)が人間においては同一ではない旨の解説があるが(101~7頁)、偶然にも先日に脳内動脈が脳神経の一部に触れることに起因した障害を持つ患者の外科手術のドキュメント番組があり、脳内動脈の構造(配置)が個人に依り異なる(ため幾つかの障害を引き起こす可能性がある)とのことである。テレビもたまに?実証性があると言えようか。
また「剰余性」のトピック(117~124頁)で、ヒトの「前肢」につき「四肢動物は基本的に二対の肢をもつが…前肢の剰余性は、あきらかに後肢より高い」として、ヒトの「直立二足歩行」を要因とした「前肢の剰余性」を「前肢の分化の多様性」と観る(122~3頁)のは共感できる。他方「イッカク」の牙の螺旋構造について(2本ある場合でも)、その螺旋方向は一方向の「左巻きのラセン」になると言う(142頁)。これの要因として、トムソンの言う「牙のラセンを、水中でのイルカの運動という、機械的な外因によって説明する…この説明は、きわめて有力と考えて良い」(144頁)等と評価する。しかしながらこれを認めても、イッカクの牙における「左巻きのラセン」に偏ることの説明にはならない。蓋し「水中でのイルカの運動」を外的因子と観るならば、“右巻きのラセン”が見えない(142頁後ろから4~2行目参照)のはそれ以外の因子の可能性も排除できないからである。この理は2本(1本)牙のラセン構造の統一性を説明しても、その「ラセン」方向が「左巻き」に偏る(=“右巻き”が見えない?)理由を何ら説明していない。
著者は生物諸器官の1つ「尻尾の機能」では、「構造を固定したばあい、その機能の枠組みを発見するのは、実際にはいかに困難か」(178~9頁)と吐露しているが、この事は“耳の進化”に関するトピック(206~214頁ほか)で、「なぜ、耳の部分に、哺乳類で変異が生じやすいのか…進化と形発生的な解釈が…ほとんど…つかめていない」(213頁)との論旨と通低するところがあるように思える(「耳の部分に、哺乳類で変異が生じやすい」ことの当否は別論である) 。末章で「ヒトは何種類の主観を持つのか…何種類の異なった意味を見るのか」等を「分類し、数えること」が本書の目的であると述べている(218~9頁)。右に言う「主観」とは、(ハンソンの意味付ける)「論理負荷性」を否定しつつ「形態の意味を認めること」(216頁)であり、そして「主観の『形式』は、しばしばくり返す…主題を扱う『形式』は…多くの種類はない」(218頁)とあって、“形態の意味付け・認識→形式→くり返し→抽象化(客観視)”?と言うことなのか、私の理解能力では係る論旨の連関につき甚だ心許ない。本書は初段で示した趣旨のもとで4個の視点から概説するが、専門・学術用語等が予告なく頻出するので私など(一般的読者)には(ネット)辞書は必須と思う。
まず著者の巷間(実験科学者ら)に対する(脳内)「逆襲」が面白い(22~8頁など)。実験科学者の立場からは「科学的な事実というのは、厳密に規定された条件下で、くり返しが可能なもの…観察などという、いい加減かつ適当な方法〔解剖学の方法を指す〕では、自然の真相には迫れない…形態学は、科学ではない」との指摘に対し、著者は猛然と(脳内で)「逆襲」する。曰く「くり返し可能な客観的事実というのは…あるのか…どのような出来事も、歴史の上では、一回しか起こっていない…太陽は東から出て西に沈む…しかし昨日の太陽と、今日の太陽は同じものか…実験科学と解剖学は…別に異なるところはない。科学者が実験するか、自然が実験するか、その違いにすぎない」(23~4頁)と言う。なるほど著者の「逆襲」にも“一理”ある、がその“一理”は私には論点の齟齬又は論理の無意味性を感じる。何故なら実験科学者らが求める「くり返し」可能性は、本質部分以外を捨象しての意義(「科学」)であることは論を俟つまでもなく、右言質の表層部分を取り上げて歴史的現象の再現性(=くり返し)を評価するのは筋違いだろう。この点、著者も「実験科学では、くり返し可能とするために、細部は余分なものとして省略…ある前提条件のもとで…限られた骨格のみを、くり返し起こさせる…それが実験科学」(24頁)と後述している。係る意外な論旨に“振り上げた拳(逆襲)”の趣旨不明・自家撞着の印象が残る。
次が論理的思考実験と言えば良いだろうか、「構造の定義」(68~77頁ほか)である。「ニワトリの胎児を…すり潰せば…バラバラになった溶液を得る…ここでは失われた物質なにもない…分子の空間的配置を主とした『関係』が、構造の基本…のみならず、あらゆる『機能』が消失している」(69~70頁)とあって、物理的物質と構造・機能との単純でありながら奥の深い論旨、端的には「構造」が同一であるだけでなく、「機能」との不可分性を指摘したものと理解する。また(細部の)動脈と神経の位置関係(構造)が人間においては同一ではない旨の解説があるが(101~7頁)、偶然にも先日に脳内動脈が脳神経の一部に触れることに起因した障害を持つ患者の外科手術のドキュメント番組があり、脳内動脈の構造(配置)が個人に依り異なる(ため幾つかの障害を引き起こす可能性がある)とのことである。テレビもたまに?実証性があると言えようか。
また「剰余性」のトピック(117~124頁)で、ヒトの「前肢」につき「四肢動物は基本的に二対の肢をもつが…前肢の剰余性は、あきらかに後肢より高い」として、ヒトの「直立二足歩行」を要因とした「前肢の剰余性」を「前肢の分化の多様性」と観る(122~3頁)のは共感できる。他方「イッカク」の牙の螺旋構造について(2本ある場合でも)、その螺旋方向は一方向の「左巻きのラセン」になると言う(142頁)。これの要因として、トムソンの言う「牙のラセンを、水中でのイルカの運動という、機械的な外因によって説明する…この説明は、きわめて有力と考えて良い」(144頁)等と評価する。しかしながらこれを認めても、イッカクの牙における「左巻きのラセン」に偏ることの説明にはならない。蓋し「水中でのイルカの運動」を外的因子と観るならば、“右巻きのラセン”が見えない(142頁後ろから4~2行目参照)のはそれ以外の因子の可能性も排除できないからである。この理は2本(1本)牙のラセン構造の統一性を説明しても、その「ラセン」方向が「左巻き」に偏る(=“右巻き”が見えない?)理由を何ら説明していない。
著者は生物諸器官の1つ「尻尾の機能」では、「構造を固定したばあい、その機能の枠組みを発見するのは、実際にはいかに困難か」(178~9頁)と吐露しているが、この事は“耳の進化”に関するトピック(206~214頁ほか)で、「なぜ、耳の部分に、哺乳類で変異が生じやすいのか…進化と形発生的な解釈が…ほとんど…つかめていない」(213頁)との論旨と通低するところがあるように思える(「耳の部分に、哺乳類で変異が生じやすい」ことの当否は別論である) 。末章で「ヒトは何種類の主観を持つのか…何種類の異なった意味を見るのか」等を「分類し、数えること」が本書の目的であると述べている(218~9頁)。右に言う「主観」とは、(ハンソンの意味付ける)「論理負荷性」を否定しつつ「形態の意味を認めること」(216頁)であり、そして「主観の『形式』は、しばしばくり返す…主題を扱う『形式』は…多くの種類はない」(218頁)とあって、“形態の意味付け・認識→形式→くり返し→抽象化(客観視)”?と言うことなのか、私の理解能力では係る論旨の連関につき甚だ心許ない。本書は初段で示した趣旨のもとで4個の視点から概説するが、専門・学術用語等が予告なく頻出するので私など(一般的読者)には(ネット)辞書は必須と思う。
2005年11月4日に日本でレビュー済み
「これは、わたしの形態学総論である」と<はじめに>で著者は書く。しかし、決して専門書ではなく、専門の解剖学を進めるにあたり「自分はいったいどう考え、どう扱うつもりなのか。・・・そういう学をどう続けたらいいのか。」と「ブツブツ考える始末になってしまった」ことをまとめた、ということである。
専門的な具体例を説明しながらの学問的な語り口はわかりやすいけれども論理的でもある。いや、論理的であるからわかりやすいのかもしれない。読者を想定してというよりは、著者がこの後の本に表した考え方を自分の中でまとめながら、ぐいぐいと書いていったのではないか、と感じさせる勢いがある。しかし、乱暴ではなく、粛々と丁寧な文章で綴られている。
「形態の意味や解釈をあつかう理由は一つである。それは、そうしたものが、けっきょく、自分の頭の中の現象だと考えるからである」「相手が馬鹿だと、本来伝達可能であるはずの情報が、伝達不能になる。これを、とりあえず「馬鹿の壁」と表現しよう。」といった文章があり、「唯脳論」「バカの壁」に表された著者の考えがまとまっていく過程が記されているかのようである。特に最終章(第十章)には、唯脳論に至った著者の考えがまとまって著されていると思う。
比較形態学、機能解剖学、発生、進化という、著者の専門に関わる事例を使って書かれているので、専門的な興味も充分満たしてくれるが、形態を考える、形態を研究する学者の考え方を書いた、という点では「形態学の考え方の総論」である。そういう意味では少しクロード・ベルナールの「実験医学序説」のような位置づけでができるかもしれない。研究者が論理を展開するときの、自分の頭の中の動きとして考えて読んでみて欲しい部分がたくさんある。
著者の比較的初期の著書であり、著者の主張の原点、生成過程をみるような本である。
専門的な具体例を説明しながらの学問的な語り口はわかりやすいけれども論理的でもある。いや、論理的であるからわかりやすいのかもしれない。読者を想定してというよりは、著者がこの後の本に表した考え方を自分の中でまとめながら、ぐいぐいと書いていったのではないか、と感じさせる勢いがある。しかし、乱暴ではなく、粛々と丁寧な文章で綴られている。
「形態の意味や解釈をあつかう理由は一つである。それは、そうしたものが、けっきょく、自分の頭の中の現象だと考えるからである」「相手が馬鹿だと、本来伝達可能であるはずの情報が、伝達不能になる。これを、とりあえず「馬鹿の壁」と表現しよう。」といった文章があり、「唯脳論」「バカの壁」に表された著者の考えがまとまっていく過程が記されているかのようである。特に最終章(第十章)には、唯脳論に至った著者の考えがまとまって著されていると思う。
比較形態学、機能解剖学、発生、進化という、著者の専門に関わる事例を使って書かれているので、専門的な興味も充分満たしてくれるが、形態を考える、形態を研究する学者の考え方を書いた、という点では「形態学の考え方の総論」である。そういう意味では少しクロード・ベルナールの「実験医学序説」のような位置づけでができるかもしれない。研究者が論理を展開するときの、自分の頭の中の動きとして考えて読んでみて欲しい部分がたくさんある。
著者の比較的初期の著書であり、著者の主張の原点、生成過程をみるような本である。
2024年3月24日に日本でレビュー済み
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著者は否定しているが、この本は哲学だ。
それでいて少々斜め視点なところが面白い。
ということは、やっぱり哲学じゃないのか(笑)
それでいて少々斜め視点なところが面白い。
ということは、やっぱり哲学じゃないのか(笑)
2004年2月22日に日本でレビュー済み
本書はもう一つの主著(唯脳論)に至る前の主著です。養老さんの著書はエッセイが多いのですが、これは学術的な内容となっています。養老さん自身がやっている解剖学の方法、つまり形態学についての斬新な総論です。養老さん独特の「漢文言い切り調」の文体で話がエキゾチックに進みます。その文体と相まって、内容も冷静で、他のどの研究者の肩を持つことなく過大評価も非難もせず、公正です(怜悧な印象という点は三木成夫さんとは対照的)。また、内容的には数学、物理、化学、生物学、哲学に対して怖ろしいほど鋭い洞察がなされています。形態学を学ぼうとしている人にとどまらず、形一般について考えたい人には必須の書です。
2020年9月13日に日本でレビュー済み
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動画や他の書籍を拝見すると、色々な深い知見をお持ちなので、専門外の私でも、そういう視点があったのか、と感心しています。わが国の博物学は、そろそろある程度統合されても良いはずで、知見を交換し合い、相互作用で、色々な知識を与えあっても良い時期に来ているような気がします。というか、自然を分割したのは人間で、もともと一つだったのですから、困難な道ではありますが、少しずつ先生の言葉が満ちてくるのをお待ちしております。